第8話「フェルマータ」
***
x,y,zを0でない整数とする。この時、
x^3+y^3=z^3
が成り立つならば、x,y,zのうち少なくとも1つは3の倍数であることを示せ。
***
分からない。僕は期末試験の数学の時間、ずっと頭を抱えていた。
鉛筆の音しかしない静かな教室。
周りのクラスメイトを見ると、スラスラと問題を解いている。
やはり、僕がここにいること自体が間違っていたのかもしれない。
𝄐𝄐𝄐
小6の冬。僕は東京の中学校を受験した。
当時、僕は学年で一番、いや地元で一番の秀才だった。
と言っても北関東の田舎では中学受験をするような人ですら少数で学力の平均がそもそも低かった。
小学校のテストはもちろん常に100点、中学の数学だって予習していた僕は、バカしかいない環境にうんざりしていた。
このまま地元の中学校に行っても退屈なだけだと思い、父さんと母さんを説得して東京の中学校を受験した。
自分で希望したことでもあったし、何よりこのつまらない田舎から抜け出した思いで、平日は6時間、休日は8時間は受験対策をした。
そのおかげもあり見事無事合格して、僕は東京での新生活を始めることになった。
しかし、父さんの仕事の都合で、僕だけが東京に行き、親戚のおじさんの家から中学校に通うことになった。
母さんは反対していたが、僕はせっかく手につかんだ希望を手放すまいと、半ば強引にそれを押し切った。
父さんは、まあすぐに会える距離だからと母さんをなだめていた。
中学に入学した僕に待ち構えていたのは、さらに激しい競争だった。
当たり前だが、同じクラスの友達はみんな受験を勝ち抜いて来ている。
もっと言えば幼稚園から受験してエスカレータ式に上がって来ている奴もいる。
地元では一番優秀だった僕もここでは平均的な平凡な生徒だった。
𝄐𝄐𝄐
テスト終了まで残り10分。
進学校であるこの学校は、授業で1年内容を先取りやるのは当たり前で、時には中学校なのに大学入試問題を試験に出してくる。
それも驚きなのだが、もっと驚くのはそれを普通に解いてくる奴がこのクラスにはゴロゴロいるのだ。
僕だって数学には自信があったが、結局僕が身につけていた能力は、今まで見てきた問題のパターンを覚えて単純に当てはめるだけの力だった。
やめたい。正直、こんな生活はもうやめたいと思っている。
今日までなんとか頑張ってきたが、成績はもう下から数える方が早いし、何より勉強量をどんなに増やしても成績は上がらない。
そもそもできる奴は、勉強しなくてもできるのだ。
僕の唯一のクラスで話す友達、中村は僕より勉強時間が半分くらいなのに僕よりはるかに成績が良い。
この前の昼休み、勉強のコツを中村に聞いてみたら思いもしない答えが返ってきた。
「勉強のコツ?そんなものないよ。ただやればいいだけじゃん。」
勉強のコツを人に聞くことだけでもすごく恥ずかしいことなのに、その答えすら得られなかった僕は、この時人生で一番耳を真っ赤にした。
中村は天才だ。いや、この学校ではよくいる天才だ。
東京に生まれ普通に頭がよくて普通にこの中学校に合格した。
田舎で育ち死にものぐるいで勉強した僕とは対照的に。
「え?フェルマーの最終定理を知らないのかい?」
試験時間残り5分で、答えが何1つ思い浮かばない僕は、中村とのどうでもいい会話を思い出していた。
中村は数学オタクで、数学者についての伝記を読んだりマニアックな定理を調べたりするのが好きだ。
そういう学校の成績に関係のない趣味を持っていて成績がいいのだから、僕はこの上惨めなものはない。
中村はいつも僕に一方的に数学の話をするのだが、ある時「フェルマーの最終定理」についての話をした。
フェルマーのフェの字も知らなかった僕は当然聞き返した。
中村は半ば驚き半ば呆れた様子で、僕にフェルマーの最終定理について教えてくれた。
「フェルマーの最終定理っていうのは、17世紀にフランスの数学者ピエール・ド・フェルマーが残した整数の問題なんだ。その主張は『3 以上の自然数 n について、x^n + y^n = z^n となる自然数の組 (x, y, z) は存在しない』というものなんだけど、この予想を360年もの間、どの天才数学者も解くことができなかった。で、この問題を考えたフェルマー当人は解けてたかというと、その問題の下に
『この定理に関して、私は真に驚くべき証明を見つけたが、この余白はそれを書くには狭すぎる。』
と書いたきりで証明をしていなかったんだ。フェルマーが本当に解いていたかどうかは今でも謎のままさ。」
中村の話を半ばヤケになって聞いていた僕は、なんだデカイこと言っておいて何もしていない言い訳じみた出来損ないの数学者じゃないかと、心の中でフェルマーを罵倒していた。
「後、1分で試験終了だ。各自名前を確認するように。」
教卓の先生が無駄なまでに大きな声で、そう注意をする。
このまま白紙で出してもいいが、この時の僕は何か癪に触っていた。
こういうのを魔が差したというのだろうか。
そして、そうかそうだ、と、例の文言を解答欄に書くことに決めた。
『この問題に関して、私は真に驚くべき証明を見つけたが、この余白はそれを書くには狭すぎる。』
この夜、僕は布団の中で後悔をしていた。
白紙のままで出すべきだった。
いくらなんでもあんなふざけた答えを書いていたら、職員室に呼ばれて怒られるに決まっている。
場合によっては親に連絡がいくかもしれない。
それだけは避けたい。
おじさんが家に返ってくる前に、夕食と風呂を済ませ、僕は無理やり眠りについた。
一週間後、テストが返された。
出席番号順に名前が呼ばれる。
僕はクラスの前で怒られるんじゃないかと、内心ヒヤヒヤしていた。
右の脇腹がチクチクと痛みを出している。
僕の前の奴が呼ばれ、いよいよ僕の番となった時、覚悟を決めた。
「今回はいつもよりできていたな。」
教卓の前、答案を僕に手渡す先生は確かにそう言った。
訳の分からぬまま、席に戻り答案を確認した。
テスト中分からず、『この問題に関して、私は真に驚くべき証明を見つけたが、この余白はそれを書くには狭すぎる。』と書いた整数の問題には丸がついていた。
なんで???
僕は当然意味が分からなかった。
注意を受けずバツが付いているだけならまだ分かる。
でも、この答案用紙には丸が付いているのだ。
絶対に間違っている、少なくとも答えではないこの回答に。
この理由を先生に問いただしたかったが、聞けるはずもない。
間違えで丸を付けたかもしれないし、聞いたことで逆にバツにされるかもしれないからだ。
なんとも腑に落ちない心のままその日は授業を受けた。
この効果が分かったのは次のテストだった。
またしても問題が分からず、出来心で同じく『この問題に関して、私は真に驚くべき証明を見つけたが、この余白はそれを書くには狭すぎる。』と書いてみた。
どうせ何も書かなくてもバツになるんだからと半ば自暴自棄だった。
そして、同様に丸が来た。
偶然ではない。この時、僕はそう確信した。
その2回目以降、僕は安心したのか数学以外の他の教科でも同じようなことを書いてみた。
『この傍線部に関して、私は真に驚くべき要約を見つけたが、この余白はそれを書くには狭すぎる。』
『この和文に関して、私は真に驚くべき英訳を見つけたが、この余白はそれを書くには狭すぎる。』
『この化学反応に関して、私は真に驚くべき化学式を見つけたが、この余白はそれを書くには狭すぎる。』
『この史実に関して、私は真に驚くべき歴史的背景を見つけたが、この余白はそれを書くには狭すぎる。』
どれもどれも満点だった。
何かがおかしい。確かにそう感じていたが、別におかしくてもどうでもよかった。
勉強もせず楽に点が取れるんだし、特に困ることなんてない。
僕はクラスどころか学年トップの成績になっていた。
ある日の昼休み。
僕は中村といつものように昼食を食べていた。
と言っても僕は以前のような卑屈な態度ではなく、余裕を持って中村に接していた。
「いやははは。また学年1位を獲っちゃったよ。いやあ、対して勉強してないんだけど。いや本当に(笑)」
僕はこれでもないくらい満面の笑みで中村の方を向いた。
中村は、何やら本を読んでいるようだった。
「あ、ごめん。夢中になって聞いてなかった。何の話?」
僕は肩透かしを食らった気分だったが、そこは勝者の余裕で我慢した。
僕は、中村に話返す。
「いやあ、大した話じゃなかったからいんだよ。」
「そっか。了解。」
「それで?何の本読んでいるの?今度の試験の範囲の参考書?それとも大学入試の赤本?」
まあどちらでも『この問題に関して、私は真に驚くべき証明を見つけたが、この余白はそれを書くには狭すぎる。』を使えば僕には解けるんだけど。
中村の答えはそうではなかった。
「いや、これ大学の数学の教科書なんだ。」
「え?」
僕は思いも寄らぬ答えに食べていたウインナーを落とした。
中村はそれも気に留めず再び本に集中している。
「え、ちょ、ちょっと待って。大学の教科書って僕らまだ中学生だぜ?それに大学に入るまでが受験なんだから大学に入った後にやること先にやっても意味ねえじゃん。」
中村は本に目を向けたまま、少し恥ずかしいそうに俺の問いに答えた。
「いや、この前から、本格的に大学数学の勉強を始めたんだ。そしたらすごく面白くって、ほら集合と写像って概念があるんだけど、数学の色々な対象はそれらの言葉を使って表現できるんだ。もちろん厳密にはZFCとか公理系があるんだけど、なんていうかなそういうきちんとした構造があって数学ってできてるんだって知ったらとっても面白くなったんだ。それで、今度東大生の自主ゼミに参加するんだけど、そこではガロア理論っていう体の拡大と群の部分群を結びつけるような理論をやっていてそれで……」
僕は中村の話を途中から上の空で聞いていた。
言っていることの9割はまったく分からない。
『この問題に関して、私は真に驚くべき証明を見つけたが、この余白はそれを書くには狭すぎる。』で成績を上げてきた僕に分からないのは当然なのだが。
いや、それ以上に、成績では中村に勝っているのに、なぜか今負けたような気分を味わっているのが、どうにも腑に落ちなかった。
「そ、それで?東大生は何て言ってるの?」
僕は動揺を最大限に隠しながら、中村の話を遮るように聞く。
「え、ああ。そんなに急いで勉強する必要はないって言われたんだ。将来数学者になりたいんだったら、今は好きなことを好きなだけ自分のペースで勉強すればいいって。数学で大事なのは急いで解くことじゃなくて、時間をかけて、一時間でも一時間でも一週間でもじっくりと考えることだから。それにどのくらい時間がかかるかは人それぞれだし、どんなに延長したって、自分が納得できるまで理解することが重要だて。」
中村の言葉は1つ1つが大人びたものに感じた。
同時に僕は中村に対し、今まで感じたことのないような嫌悪感を抱いていた。
そして、気がついたら僕は初めて中村に対して声を荒げていた。
「そうかなあ!?世の中、いかに誰よりも早く解くかが大事でしょ?いい大学に入るためには早い段階から受験競争に勝つことが大事じゃないか。僕の地元の高校じゃ東大に合格できる人なんて2年に1人いるかいないかだ。ここの中高一貫じゃ毎年50人近くいるのにね。つまり、早い段階で受験競争に参加してないとどう頑張ってもダメってことさ。それにいい会社に入って高収入を得るためにも高学歴は重要なファクターだし、要は人生は18才くらいまでの努力で決まるんだ。人生に延長なんてない早く勝って勝って勝つのが人生なんだ!」
僕は勢いよく立ち上がりその場を去る。
中学高校生活の中で、中村と会話したのはこれが最後だった。
『この問題に関して、私は真に驚くべき証明を見つけたが、この余白はそれを書くには狭すぎる。』により、その後の人生はイージーモードだった。
大学受験は余裕だし企業の面接だって『この御社に関して、私は真に驚くべきイノベーションを見つけたが、この面接はそれを言うには短すぎる。』と言っておけば内定だってすぐに出た。
プロポーズだって、『この告白に関して、私は真に驚くべきサプライズを見つけたが、このレストランはそれをするには狭すぎる。』と言えば泣いて喜んでくれた。
やがて子供が生まれ、『この出産に関して、私は真に驚くべき名前を見つけたが、この出生届はそれを書くには狭すぎる。』という名前を子供につけた。
『この借り入れに関して、私は真に驚くべき担保を見つけたが、この銀行はそれを預けるには狭すぎる。』と言えばいくらでもお金を借りられたし、『このマンションに関して、私は真に驚くべき購入方法を見つけたが、この部屋はそれを提案するには狭すぎる。』と言えば、どんな一等地でも住むことができた。
ありとあらゆる問題を回避し、ありとあらゆるものを手に入れた僕には、なぜか虚しさだけが残っていた。
おそらくそれは、中学時代の中村の言葉が、中村への劣等感が原因だった。
しかし、それも今日で終わる。
僕は盛大な拍手の中、壇上に立った。
「それでは、映えあるフィールズ賞のメダルが氏に贈れらます。」
フィールズ賞、それは数学のノーベル賞とも呼ばれる数学界で最も権威のある賞だ。
僕は、解くと1億円もらえるミレニアム問題をすべてを証明した数学者として今日この場に立っていた。
もちろん、論文には『この問題に関して、私は真に驚くべき証明を見つけたが、この余白はそれを書くには狭すぎる。』と書いただけだ。査読には5年かかった。
無数のフラッシュが僕に浴びせられる。
多くの偉大な数学者たちが笑顔で僕を讃えてくれている。
その中には中村の姿もいた。
マイクスタンドが僕の前に運ばれた。
僕は予め準備しておいてスピーチを話し始める。
「えー『この受賞に関して、私は真に驚くべきコメントを見つけたが、このスピーチはそれを言うには短すぎる。』」
スタンディングオベーションで無事に式は終わろうとしていた。
後は合図が出た後壇上から降りるだけだと安心していた時、司会者に何やら急な連絡が入った。
司会者は何やら怪訝そうな顔でそれを聞いている。
そうして深呼吸したのち、重い口を開いた。
「えー氏の査読の結果ですが、完全に誤っていたことが判明しました。それも氏が出したすべての論文に対してです。さらに氏の経歴に対しても疑念の声が上がっています。大学を不正入学で合格しており、不正な金融取引、不正な不動産所有など、その数は多すぎてここで説明するにはとても……」
僕は明るい光の中、何も見えなくなっていた。
体がふらつきそのまま立つことができない。
ダメだ。正気を保つにはこの場は広すぎる。
僕は急いで壇上の階段を降りる。
その時、階段の幅が狭すぎたためか足を滑らせた。
𝄐𝄐𝄐
ガラガラガラと大きな音が聞こえる。
どうやら僕は運ばれているようだ。
口には酸素マスクのようなものがつけられている。
病院だろうか。
「先生、目を覚ましました。」
ストレッチャーを動かしているナースの1人が医師のような男に報告する。
医師は意識レベルを確認するように指示する。
「先生、彼は助かるんでしょうか。」
別の誰かが医師に質問をしている。
よく見るとそれは中村だった。
医師は質問に答えず代わりにナースが返事をした。
「安心してください。先生は世界一の名医です。数多くの患者を救ってきました。私たちは全力を尽くしてこの方を助けます。」
中村はよろしくお願いしますと言って、ストレッチャーから離れていった。
僕はそのまま手術室に運ばれた。
麻酔が効いてきたのか、呼吸が難しくなってくる。
消えていく意識の中で、僕は最期の言葉を聞いた。
『この患者に関して、私は真に驚くべき処置を見つけたが、この寿命はそれをやるには短すぎる。』
偶数奇譚 グレブナー基底大好きbot @groebner_basis
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