リーティア・クノーには好きなひとがいる

藤崎珠里

 リーティア・クノーには好きなひとがいる。とっても優しくて、とっても可愛くて、そして、とっても臆病なひとだ。

 からだは大きいのに、どうしてそんなに臆病なの。そうリーティアがむくれると、いつも彼は困ったように口を歪める。それが彼の笑顔なのだと、リーティアはもう随分前から知っていた。彼の口は、は笑みを形作ることができないのだ。


 狼のような耳、蜥蜴のような目、三角形の鼻、閉じていても牙が飛び出ている口。全身が真っ黒で、肌は冷たく硬かった。せめて明るい色の服を着ればいいのに、彼は頑なに黒いローブばかり着る。

 普段は二足で歩いているが、本当は四足のほうが歩きやすいのだと以前話してくれた。

 彼は世間一般で言う『異形』だった。ただそれだけで、『人間』は彼を恐れる。


「でもそれって、意味がわからないのよね」

「いきなりどうした」


 彼の大きな手に頬ずりをしながらつぶやくと、困惑気な声を返される。


「なんで皆チュニアを怖がるのかなぁって」

「……怖がらないおまえがおかしいんだ」

「ひっどーい、わたし泣いちゃうわよ! おかしいのは世界! 世界ですぅ!」


 唇を尖らせ、ぽかっと軽くチュニアの硬い胸板を叩く。いたた、とリーティアがわざとらしく手をさすると、彼は深いため息をついた。それきり何も言わないのは、きっと諦めたのだろう。

 だから彼女は調子に乗って、更に続けた。


「そりゃあ見た目は怖いけど、チュニアのことをちゃーんと知れば全然怖くないじゃない。もったいないわ、あー、もったいない。わたし以外の人間は損してる! だってあなたって優しいし、臆病だし、間抜けだし、可愛いし、怖がる要素がどこにもないのに」

「……黙っていれば何を好き勝手に」

「そのままそのお口を閉じてて! わたしは今、一人で悔しがってるだけなんだから」


 リーティアも、最初は彼のことが怖かった。けれど今は大好きなのだ。だからこそ、他の人間たちに「もったいない」と思ってしまう。


 リーティアがチュニアと出会ったのは三年前、近くの(といっても馬車で二日ほどかかる)大きな町での祭りに参加したときだ。大きな町には一部の『異形』も一応は住民として暮らしていると噂に聞いていたが、チュニアを見たとき、本当にいたのか! と当時十四歳だったリーティアは驚いてしまった。

 気にせずに祭りを楽しもうとしたのだが、その後また彼を目撃した。ローブの低い位置についたアイスのようなもの、周りからの恐怖の視線、冷ややかな囁き声。その人々を睨みながら立ち尽くすチュニア。このときには知らなかったが、チュニアは困っているとき、ただでさえ鋭い目つきが更に鋭くなる。


 そんな場面を見てしまって、きっと子どもにぶつかられでもして怒っているんだろう、怖いなぁ、とびくびくしていたのだが――むむ? と思ったのだ。なんか違う。何かが違う。これはもしや、困っているのでは?

 冴えすぎていたあのときの自分を思いきり褒め称えてやりたい。そして、人の少ない所でちょっとお話しませんか、とあの状況で彼を誘った自分、よくやった。

 その後路地裏で話し、リーティアはすっかり彼のことを好きになった。そのときは好きだったのだ。


 それからゆるゆると交流を続け。一月に一度、彼が「来ないほうがいい」と拒んでも会いにいき続けたリーティアに、俺が行けばすぐだから、とチュニアが音を上げた。馬車代のためのやりくりもそろそろ限界に近かったのもあって、リーティアは大いに喜んだ。


 そんなこんながあっての、現在である。

 あのときの好意の意味は少し変わって、今リーティアの胸に大事にしまってある。なお、しまってある“それ”は割と頻繁に取り出される。大事に大事にしまっておくだけでは何の意味もないのだ。


「チュニア、好きよ」


 彼のからだに後ろ向きに寄りかかって、顔を見上げる。鋭くなる目に、歪む口。


「そうか」

「……臆病ものめ」


 ぼそっと放った言葉は、絶対に彼に届いている。なのに彼は、言い返さずにリーティアの髪をそうっと優しくなでるだけだ。

 ――ぷちり、とリーティアの何かがいきなり切れた。否、いきなりではない。これは単に、積もりに積もったものが爆発しただけなのだから。


「臆病ものー!」


 もう一度、今度は叫ぶ。彼の大きな手を振り払って体を離し、下から睨みつける。


「わたしが怖がらないのはあなたのことが好きだから! 何度もはっきり言ってるのに、なんで流すの!? 本気で伝えようとしてこなかったわたしが悪いんだけど……悪いわね……。ごめんね、なんか急にぷちってきてキレちゃった」


 普段滅多に怒らないリーティアは、すぐに冷静になった。

 しかし冷静になっても、怒りは収まらない。


「一回くらいは、チュニアの本心が聞きたいわ。わたしのこと好きって言う気ないかしら?」

「あるわけがないだろう」


 そう言いながら、彼は非常に動揺していた。表情にあまり変化はないが、三年の付き合いだ、そのくらいはわかる。


「一回くらいは、チュニアの本心が聞きたいわ。わたしのこと好きって言う気ないかしら?」

「ないと言っている」

「せっかく二回言ったのに! いいわ、三回目言ってやるんだから」

「言わないでいい」


 彼の耳がしょんぼりと垂れてくる。そんな可愛いことをしたって、今のリーティアにはやめてやる気などまったくなかった。

 だが可愛かったので、手加減はすることにする。


「チュニアの気持ちはひとまず置いておくわ。でも、わたしはあなたを愛してるのよ」


 ――その瞬間、どういう仕組みなのか、彼の真っ黒なからだが一気に赤くなった。すぐに黒く戻ってしまったため、きっと彼自身も気づかなかっただろう。

 手加減を間違えたらしい。初めての反応だが、これが彼の『照れ』であることはわかる。しかし、好きだとは毎回会うたびに言っていたのだが、なぜこんな反応を。

 そこで、あ、と思った。


「そっか、愛してるって言ったことなかった? それじゃあ、わたしに怒る権利なんてなかったわね」


 困った、と頬に手を当てる。今のリーティアは、勝手にキレて、勝手に落ち着いて、勝手に困っている面倒な女である。困った。


「うん、よし。あらためて言います。わたしはチュニア、あなたのことが好きよ。大好き、好き好き、愛してる!」


 チュニアのからだは、今度は赤くならなかった。


「……嫌いなら嫌いって言っていいのよ?」

「嫌いではない」

「好きでもないのね?」


 いや、と言ったきりまた黙り込む彼に、リーティアは子どもっぽく頬を膨らませた。

 彼女の気持ちが困るというなら、完全に拒絶すればいいのだ。さすがのリーティアだって、嫌いだと言われればしつこくするつもりはない。嘘だとわかっていても、臆病な彼がということが大事だから。


「……まず、おまえは俺より先に死ぬだろう」


 おもむろに口を開く彼に、リーティアは頬から空気を抜いた。――どうやらようやく、色々と言ってくれるつもりになったようだ。


「置いていかれるのは、嫌なんだ。お前がいなくなった後もずっと生き続けるなんて、考えるだけで恐ろしい」

「……チュニア」


 意外とちゃんと考えてくれてたのね、という言葉は飲み込んだ。

 自分がいなくなった後の想像なんて、リーティアはしていなかった。せいぜい、村の人たちをどう説得しよう、くらいである。今でさえ、『異形』であるチュニアと会うことをよく思われていないのだ。母と父に至っては、リーティアを軟禁しようとしてきたり、隣村からの縁談を持ってきたり。

 それらすべてを逃れ、突っぱね、だからこうしてチュニアと一緒にお喋りをする日々を続けられている。リーティアは“今”を考えることに精一杯で、自分が死んだ“未来”のことなど考えたこともなかった。

 まず、と話し始めたということは、彼はそれ以外にも色々と考えているということだ。何を言われても反論してやろうと思っていたが、初っ端からつまずきそうだった。


「チュニアって、寿命は何歳くらいなの?」

「そこからか」


 呆れたように言って、「三百くらいだろうな」と答えてくれる。

 三百。――頑張っても無理そうね、とリーティアはすぐに諦めた。


「……でも結局、あなたがわたしの気持ちを受け入れても、受け入れてくれなくても、わたしと一緒にいられる時間は限られてるのよ? わたしたぶん、すっごく頑張ってもあと九十年くらいしか生きられないわ。その前に呆けちゃうかもしれないし、あなたとまともに話せるのはあと三十年? 四十年?」


 短いな、と思った。長寿である彼にしてみれば、もっと短く感じるのだろう。


「そのくらいしかないなら、わたしはあなたと一緒にいたい。短い時間のなかでも、できるだけ長く。あと、えっと……子ども作りも、頑張る。あなたに何か残したいもの」


 彼にそういう機能があるのかもわからないが、またも瞬間的に赤くなったところをみるに、きっとなんとかなるのだろう。


「……あ、でもわたしたちのハーフだと、どうなるのかしら」

「……どちらの性質も受け継ぐだろうな」

「あら、じゃあやめたほうがいいかも。わたしは他人に何を言われても平気だけど、子どもにそんな苦労はさせられないわ。さすがに数十年で『異形』への偏見を世の中からなくすのは無理だし……。

 わたしもあなたも、もっと遅くに生まれてたらよかったのにね」


 数百年、数千年後に生まれていれば、きっと今よりはマシだった。――だってチュニアは、こんなに“人”のようだから。他の異形だって、そういうひとが多いのだろうから。


「うん、それは結婚してから考えましょう」

「結婚!?」

「ええ、結婚」

「……俺は『異形』だぞ」

「それが何か? と言えるほどの図太さは、残念ながら持ってないんだけどね。でも、今更だわ」

「怖くないのか」

「あなたのことは怖くないけど、そうね、あなたとの未来は怖いかも。でも怖くない未来なんてないし、それなら怖くないって言ってもいいのかもしれないわ」


 単純に考えましょう、と微笑む。


「結婚したら、今よりもっと長く一緒にいられるし、いっぱいお喋りできるし、いちゃいちゃだってできるようになるのよ?」

「っ……」

「ね? ほら、結婚しましょうよ。なんの遠慮もなく言っちゃえば、わたしと会った時点であなたが置いてかれることは決まってるの。だったら長く一緒にいられたほうがいいわ」

「そう簡単に考えられれば苦労はしない!」


 珍しい大声に、瞬きを一つ。

 わかっている。長く一緒にいればいるほど、別れのときは悲しくなる。その後、リーティアがいない世界で二百年以上生きる彼が、どれほど辛いか。

 けれど彼には、わかっていないことがある。


「置いていかれるのは辛いけど、置いていくほうだって辛いのよ。そういうのを想像したの、わたしは今日が初めてだけど……その覚悟をしたうえで、言うわ。あなたが好き。好きになっちゃったんだもの。残酷なことを言ってるのはわかっているけど、諦めて結婚してくれないかしら」


 リーティアの思いがどれだけ強いか、彼はわかっていない。

 覚悟と呼ぶには、まだ脆いのかもしれない。いつか結婚しなければよかった、出会わなければよかったと思う日が来てしまうのだろう。

 それでも、きっと。

 出会えてよかったと、結婚してよかったと、そう思える日のほうが多いから。

 リーティアは言うのだ。


「結婚しましょう、チュニア」

「……恋人を飛び越えて、夫婦なのか」

「別に恋人でもいいわよ。というより、ずっとあなたと一緒にいられるのならそれだけでいいわ。ねえ、あなたはわたしを好き?」


 もう一押しだ、と期待の眼差しを向ける。


「……おまえの親はどう説得するつもりだ。今度こそ監禁されるんじゃないか」

「お母さんたちには、あなたの間抜けなところをいっぱい言うわ」

「おい」


 思わず、といったふうに突っ込みを入れる彼に、くすくす笑ってみせる。


「そうねぇ、あ、わたしにたんぽぽの綿毛をくれようとしたときのこととか! 風でチュニアの鼻に綿毛が入っちゃって、くちゅんって可愛いくしゃみしたじゃない? ふ、ふふ、今思い出しても笑えるわ」


 垂れきった耳で、彼は「笑いすぎだ」と少し拗ねたようにそっぽを向く。

 そういう話をしたって、おそらく両親は結婚を許してくれない。それでもリーティアには、諦めるつもりはなかった。泣かれたって怒られたって、親不孝だと言われようと、彼の話をいっぱいしてみせる。

 優しいところ、間抜けなところ、可愛いところ、ちょっぴり嫌いなところ。

 全部全部、話すのだ。


「わたしのこと、好き?」


 辛抱強く、チュニアの答えを待つ。本当は答えなんてわかっているのだ。わかっているのだけど、彼が言ってくれないと意味がない。だから、好きでしょ? と決め付けた言い方はしなかった。

 長い長い沈黙の後。


 彼は、口を開いた。



「しゅ……す、好きに、決まっているだろう」



 ――どうしようどうしよう、可愛いわ、どうしよう。

 うつむきがちに呟かれた言葉に、きゅう、と胸が締め付けられた。これが好きなひとから「好き」と言ってもらえる喜びなのか。それとも、噛んだチュニアが可愛すぎたせいか。こういうときに格好がつかない彼が愛おしい。

 ようやく言ってくれたわね、と余裕満々に笑うつもりだったのに、とんだ想定違いだ。悔しくなって、何かを言いたくて、口をはくはくと動かす。駄目だ、声が出ない。


「リーティア?」


 おまけに、滅多に呼んでくれない名前を、彼が呼んでくれたものだから。

 ああああもう、と熱くなった頭の中で叫ぶ。色々言うのは後回しだ。今はとにかく、この気持ちをぶつけたい。


「ちょ、ちょっとしゃがんで!」


 戸惑いながらも従ってくれる彼に、またきゅう、となる。

 次の瞬間、リーティアはチュニアのからだに思いきり抱きついた。そしてびくりと身を引こうとする彼の口元に、ちゅ、と軽く口付けて。

 途端に真っ赤になった彼のからだに、ようやく声を上げて笑うことができたのだった。


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リーティア・クノーには好きなひとがいる 藤崎珠里 @shuri_sakihata

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