奇跡の代償

阿井上夫

奇跡の代償

 トマトが赤い。


 出荷を前提としなかった取り置きのものは、太陽の成分がその中に充満している。もいでみると掌の中にくっきりとした重量を感じる。露地物特有の青臭い香りも強い。弾けそうに張りつめたなめらかな肌の上を、朝露が玉となって流れてゆく。

 私は満面に笑みを浮かべた。

 農場には他にも、多少曲がってはいるけれども味の濃い胡瓜が、隣の畝で幅を利かせており、その向こう側には欲張りすぎてとうとう割れてしまった西瓜が、大儀そうに転がっていた。いずれも収穫の途中で、今晩の食卓に並ぶ予定である。

 小道の向こうからは牛の世話を終えた同志が歩いてきた。

 西瓜を抱えて往生していた同志に気が付くと、自然に足がそちらに向いて、助けに行く。笑いあいながら詰まって重い西瓜を二人で抱える。

 それを『家』に向かって運んでいく途中で、あちらこちらから「おはよう、随分育ったね」と声がかかるらしく、その都度、苦笑しながらも止まって挨拶をしていた。

 私はその光景を眺めて、一人満足していた。

 ここは、私の考えに共鳴して、自ら生活の軸足を移してくれた同志たちが暮らす世界である。世界観を共有し、お互いを尊重しあう世界である。相互不信や脅かされる恐れがないので、気軽に話しかけあうし、助け合う。それでいて慎み深い。


 我々は農業を主体とした共同生活を営んでいる。

 『農業共同体』というと、狂信的な宗教団体ではないかと疑われることが多い。実際にそのような団体があることを否定はできないが、我々はそのような如何わしい団体ではない。

 お布施はない。お勤めもない。階級制もなければ、儀式もない。

 作業はあり、商品作物からの収入もある。働き者は崇拝されるし、要領の悪い人は慰められる。

 宗教的な雰囲気は確かにあるが、強要されている訳ではない。あくまでも、現代生活の人工的で硬直的な枠組みから離脱したいと考えた人々が、自らの手で作り上げた理想境である。

 同志の殆どは極めて高い知能を持ち、一般社会の中でも恵まれた生活を送ることができたはずの人々だった。それにもかかわらず、強制された訳でもなく、洗脳された訳でもなく、自らの意思に従って、このような原始的かつ素朴な自給自足生活を選択しているのだ。

 そこには私という存在も関与している。

 自分の役割に自覚的であることは、とても重要なことだ。特に私のような『目覚めた者』にとっては、それは傲慢ではなく『高貴であるがゆえに架せられた重い責任』であると考えてよい。

 私は”聖なる力”を持っている。

 そしてその活用の仕方も十分に心得ている。

 この世界に留まる限り、彼らは何物も恐れる必要はない。病気を治癒することも、自然災害を避けることも、私には可能である。

 もちろん、これまで私はそのような力を同志の前で明らかにしたことはないし、彼らがその力を崇拝してここに参集してきたわけでもない。彼らは、ここに厳然として存在している、彼らが望んだ『共通認識』を縁としているのだ。

 それが私である。


 *


 夜、簡単な無言の祈りの後で、我々は全員で食事をした。

 この農場で作れないものは多々あるが、それはインターネットを通じて同じ思想を共有した世界中の『共同体』との物々交換や、場合によっては無償の援助によって補填されている。実生活は驚くほど豊穣だった。

 十三人の同志の顔は輝いている。

 残念ながら今日はパンがなかったが、野菜と牛乳のスープはそれを補ってあまりある奥の深い味だった。

 裏の小川から汲み上げてきた水は、まだ冷たく、コップに張り付いた結露がランプの光を反射して輝いている。

 それを満ち足りた気分で眺めながら、私はおもむろに立ち上がった。

「同志の皆さんには常々感謝している」

 何事が始まったのかと全員の瞳が興味深く輝いている。

「我々は強く結びついた家族である。それはこれからも変わることはないだろう。しかしながら、私は時に考える」

 いったん間を置く。

 話の見えない同志には困惑の色が広がったが、私はそれを穏やかな微笑みで受け止めた。ほっとした空気が流れる。

「私は我々のこの豊かな共同体を、外に向かって発信しなければいけないのではないかと思う。外の世界では相互不信に傷つき、脅かされて倒れていく同胞たちがいる。世界はそれだけでできている訳ではないことを示すべきではないだろうか。ささやかではあっても心に希望を灯すためにも」

「先生――」

 同志の一人、自然に私を先生と呼び、その第一の弟子と自他認める男が口を開く。

「我々にはそんな大それたことを成し遂げるだけの力があるのでしょうか」

「ある」

「とても信じられません」

「私とともに歩めば大丈夫」

「それは――先生を疑うつもりはないのですが、外の世界には目に見えぬ汚れや化学的に生み出された毒が実際に存在しています。それに立ち向かえるほどの力は、我々は強くは――」

「大丈夫、私にはその力がある」

 ランプの灯が揺れる中、私は断言した。同志の中に、さきほどと同じ戸惑いが広がり、それが期待に変わってゆくのが手に取るように分かった。

「同志のみんなの心が整うまで、そのことは隠しておこうと心に誓っていた。すまなかった」

「そんな、謝られることは何も」

 第一弟子の男が、落ち着いた中にも熱のこもった声で答える。

「しかし、もういいだろう。今日、ここでやっと同志のみんなに明かすことができる。私の力を――」

 そう言いながら私は、外に落ちていたただの石をテーブルの上に置いた。そして、傍らにあった水差しを隣に寄せた。同志の顔はこれから起きることへの真摯な期待と、人として自然な不安とで一杯になっている。

 私は息を吐くと、石の上に両手を置いた。

 掌から光が溢れる。

 ふわりとした温かい風が吹く。

 それを石の上に押し込めるように、力を入れる。

 一層の光が満ち溢れて――机の上の石はパンとなる。

 その余波を借りて、私は水に向かって手を振る。

 内側から染み出すように――清水はワインとなる。

 驚きに目を丸くし、声もない同志たちを前にして、私は口を開く。

「これが私の力だ。これから毎日でもパンを私の肉、ワインを私の血として提供――」

「ちょっと待って頂けませんか」

 第一弟子が声をあげた。まあ、これだけの奇跡を目前で見せられたのだから、混乱するのも無理はない。私は鷹揚に頷く。

 彼は次のように言った。


「これ、合成食品ですよね」


 声に非難の色が混じっている。

 続いて、

「加熱しましたし」

「圧力もかかっていました」

「化学合成ですよね」

 という声が続く。

「え!?」

 私は間の抜けた声しか出せない。

 同志たちの言葉が続く。

「私、過剰な残留農薬や薬品づけの野菜が食べたくないから、ここの自然な自給自足生活に飛び込んだのに」

「え!?」

「俺だってアレルギーで大変だったから、ここならば得体のしれない化学物質を口にいれなくてすむと思ったのに」

「え!?」

「水まで変質させて。波動のエネルギーがなくなってしまうじゃないですか」

「え!?」

「しかもそんな得体のしれないものを毎日だなんて、気持ち悪い」

「え!?」

「先生を見損ないました」

 もう明らかな不信しかない二十六の瞳が、私を睨んでいる。

「え!? その、気にするところはそこではなくて――」

「ここは私の理想境ではありませんでした」

 第一弟子だった男は、一礼するとそのまま踵を返して扉から出ていく。その後を追うようにして、次々と同志は姿を消していき――最終的に、私だけが残された。

 寒々と冷たく凍え切った部屋の中。

 奇跡をなした私の体は、実は抜け殻のようになっていた。彼らの前では虚勢を張っていたものの、ことここに至って脱力する。椅子に座り込んでだらしなく机にもたれかかる。

(でも――)

 私は、最後にこう呟いた。


「でも――これ、天然素材百パーセントだよ」


( 終わり )

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