第12話 百姓

「そろそろ馬を休ませねばならん頃合いだが……ここは、どのあたりだ?」


「確か小栗栖おぐるす城がすぐ近くにあったかと」


 馬を止めて問う光秀に、庄兵衛が答えた。


「小栗栖城か……城兵が逃散して空城同然だったので捨て置いたが、こうなると危ういな。馬には悪いが、もう少し無理をさせて……」


「もし!」


 言葉を遮られて、ギョッとする光秀。近臣が慌てて周囲を見回すが、十三夜の月明かりに照らされた周囲には、こんもりした藪が生い茂るのみで、人の姿は見当たらない。


 と、その藪の中から、十数人の人影が姿を現した。


「あっしらは、このあたりの者ですだ。もしかして、お侍様方は明智のお殿様のお家来衆ですだか?」


 このあたりに住む百姓の代表らしき者が声を張り上げる。先ほど声をかけてきたのと同じ声だ。


「なぜ、そう思う?」


 庄兵衛が問い返すと、代表らしき男が答える。


「明智様の軍勢から逃げてきた雑兵が、たくさんこのあたりを通って逃げてっただよ。それに比べりゃ立派な馬や鎧持ってるだで、お家来衆かと思っただ」


 逃げ落ちる途中なので、光秀の鎧などは地味な物に替えてある。だが、それでも質の良い物なので、雑兵などと比べれば身分がある者だとは簡単に想像できる。


「いや、我らは羽柴筑前守の物見である。明智勢の名のある武将を探しているのだ」


 咄嗟に庄兵衛は偽った。落ち延びる途中で、一番恐ろしいのは落武者狩りである。百姓であっても雑兵として動員されることがあるので、それなりに戦の経験もある者も多いのだ。そうした者が数を頼みに襲ってくれば、名のある武者であっても簡単に討ち取られてしまうことが珍しくない。


 ところが、百姓たちの反応は意外なものだった。


「あんだと? そんなら敵だ!!」


 そう言って、竹槍を構えてくる百姓たち。


「待て、どういうことだ!?」


 慌てて問う庄兵衛に対して、百姓の代表が答える。


「あっしらは、明智の殿様には恩があるだ。明智の殿様は、都のまわりに住むあっしらの地子銭じしせんを免除してくれただ」


 地子銭とは土地にかかる税のことだ。光秀は経済活性化のための政策として、京の町と、その周辺の地子銭を免除する布告を出していたのだ。もちろん、経済面だけでなく、人気取り政策という意味もある。


(少しは効果があったらしい)


 内心で苦笑する光秀。これが丹念に統治してきた自領の坂本や丹波なら本気で光秀の善政を恩に着る百姓も居るだろうが、お座なりの人気取り政策で得た人心など、明日には消え去ってしまうだろうということは光秀にも分かっている。


 だが、それでも目の前で民百姓に「明智の殿様に助成する」と言われれば、やはり嬉しいものなのだ。特に、自分でも理の無い謀反を起こしたという自覚があり、信頼していた組下大名や縁戚にも見限られた身としては、例え土民百姓のたぐいが発したものであっても、味方するという言葉は千金にも勝るものに感じられた。


 だから、光秀は普段ならば絶対にしないような行動をしてしまった。


「そう言うな。実は儂が日向守じゃ」


「殿!?」


 百姓の代表に己の正体を明かした光秀に愕然とする庄兵衛。だが、光秀は完爾と笑って庄兵衛に言い聞かせる。


「よいではないか、庄兵衛。儂は武略を戦わせる武士や、方便を騙る生臭坊主が相手なら騙しもするが、民百姓に嘘はつきたくはないのだ」


 だが、そんな光秀に今度は随風が苦言を呈する。


「左様なことをされては、拙僧……もとい拙者は影のお役目を果たせませぬぞ」


「よいと言っている。お主には戦場いくさばまつりごとの場で働いてもらえば、それでよいのだ」


 それをいなした光秀に、百姓の代表が恐る恐る尋ねる。


「影ってことは、この人はお殿様の身代わりがお仕事だか? 確かによく似てるだが……ってことは、あんた……いや、あなた様は本物の明智のお殿様だか!?」


「そう言っているではないか。この男はな、元は坊主だが、今は儂の影武者よ」


「ふええ……おったまげただ! あ、いや、とんだご無礼をば……」


 本物の明智光秀と知った百姓の代表が慌てて土下座しようとするのを、光秀は止める。


「よいよい。今は儂も先を急ぐ身じゃ、礼儀作法をどうこう言っている場合ではないわ。それより、馬に水を飲ませたいので、水場へ案内してくれぬか?」


「へえ、分かりましただ。おい、みんな、お殿様方をお守りしながら水場へご案内するだ!」


 百姓の代表が、そう声をかけると、竹槍や簡単な具足を着けて武装した百姓が十数名、光秀の一行を護衛するように囲んで立つ。


「こちらですだ」


 百姓の代表が、先導するように藪の横に通っている畦道あぜみちの方に歩き出す。それを光秀が追おうと馬を進め始めたときだった。


 ザクリ!


 光秀の脇腹を、背後から竹槍が貫いた。護衛のように周囲を囲んでいた百姓のうち、光秀の背後に居た者が突いたのだ。


「ぐがっ」


 吐血しながら落馬する光秀。


「な、貴様ら!?」


 慌てて抜刀しようとした庄兵衛や近習の武者だったが、次の瞬間には周囲を囲んだ百姓たちの竹槍に四方八方から串刺しにされていた。無傷で立っているのは、まったく武器に手を触れていなかった随風だけである。


「な、何故じゃ?」


 既に虫の息になりながらも、最後の力を振り絞って問う光秀。それに対して、畦道の方から戻ってきた百姓の代表はあっさりと答えた。


「明智のお殿様、あんたが約束してくれた地子銭の免除は、あんたが負けたら無くなっちまうだろ。その代わりに、少しでも恩賞が欲しいだよ。あんたの首なら、羽柴のお殿様は高く買ってくださるべえ」


(最初から騙されていたというわけか……)


 光秀は、深く自嘲した。そして、正にその瞬間に、本能寺で信長が言ったという言葉の意味が、身に染みて分かったのだ。


「そうか……良いも悪いも無いな」


 そう、良いも悪いも無いのだ。善だろうが悪だろうが、大義だろうが欲だろうが、恩だろうが恨みだろうが、そんなもの、死に逝く身には、何の意味も無い。


「順逆、二門……無し……」


 信長の言葉を聞いたときに思いついた言葉が、再び光秀の口から漏れる。そして、それが途切れたとき、惟任日向守明智光秀の魂は、既に幽明の堺を踏み越えていた。


「あんたの首も頂くだよ」


 百姓の代表は、そう言って随風にも竹槍を突きつける。だが、馬上の随風は悠揚迫らぬ態度で答える。


「やめておいた方がよいぞ。拙僧は日向守様の要望で影を勤めるために髪は伸ばしていたが、まだ還俗はしておらぬ。坊主を殺すと仏罰が当たるぞ」


「仏罰なんて信用できねえぞ。比叡山は焼かれっぱなしじゃねえか!」


 随風の脅しに対して、そう叫んだ百姓の代表だったが、随風は慌てずに言い返す。


「どうかな? 現に、比叡山を焼かせた信長公は日向守様に討たれ、焼いた日向守様も、この有様だぞ」


「う……」


 詰まった百姓の代表。そこに、突然風切り音と共に飛来した物体が、何名かの百姓の盆の窪に刺さり、その命を奪う。


「仏罰覿面てきめん!!」


「ひえぇぇぇ!!」


 どこからともなく聞こえてきた大音声に、百姓たちは怖気を振るって、我先に逃げ出した。


 残された随風と、光秀一行の死体の所に、藪の中から数名の影が姿を現した。その影に対して、問いかける随風。


半蔵はんぞう殿の手の者かな?」


「いかにも。このたび、新たに徳川家の家臣に加わり、服部はっとり半蔵はんぞうの配下に入った伊賀衆にござる。殿は先日無事岡崎城に帰着されましたぞ。これも随風殿が茶屋殿を通じて殿に本能寺のことを知らせたからこそ。ゆえに、殿は我らに日向守の動静を探りながら随風殿の護衛をするよう命じられたのでござる」


「ご苦労でしたな」


 倒れ伏した百姓の盆の窪から、棒手裏剣を回収する伊賀忍者たちをねぎらう随風。


「それで、これからどうなさるか?」


「三河に帰って殿に今回の件を報告せねばなりますまい。だが、その前にせめて日向守様たちの首くらいは、藪の脇の溝にでも隠してくれませぬか。このまま捨て置くには忍びませぬゆえ」


「承知」


 すぐに作業にかかる伊賀忍者たち。その様子を見ながら、随風は独りごちた。


「日向守様、あなた様はふたつ間違っておいででしたなあ。まず、仏は嘘をつきませぬよ。嘘をつくのは坊主でござる。まあ、確かに坊主の嘘は方便と申しますがな」


 そして、倒れ伏している百姓の死体に向けて法華経ほけきょうの一節を唱えて供養してから、さらに続ける。


「それに、百姓だって生きるため欲のために嘘はつくのですよ。武家や坊主のように武略だ方便だと飾らないだけでございましてな。武士の嘘を武略と言い、坊主の嘘を方便と言うのなら、百姓の嘘はただの嘘と言うだけなのですよ」


 そこに、伊賀忍者の頭が声をかける。


「日向守ほかの首級を取り申した。このまま布に包んで溝に隠せばよろしゅうござるか?」


「はい。ですが、その前に少しでも供養いたしましょう」


 光秀の首に向けて合掌して法華経を唱えて供養しながら、随風は内心で光秀に語りかけていた。


(成仏なさいませ、日向守様。あなた様は、叡山再興の最大の障害だった信長公を討ってくださった。それに、叶わなかったとはいえ、叡山再興も約束してくださった。その御恩は決して忘れませんでな。もし、叡山の再興がなった暁には、あなた様の名前で石灯籠のひとつも建てましょうほどに)


 そんな随風、すなわち後の世において徳川幕府の黒衣の宰相とうたわれた南光坊なんこうぼう天海てんかいに、光秀の首は何も答えようとはしなかったのであった。

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百姓ハ可愛キ事也 結城藍人 @aito-yu-ki

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