第11話 山崎

 崩れていく、目の前で自慢の軍勢が崩れていく。


「引くな、ここで持ちこたえれば、筑前にも後は無いのだ!!」


 声を枯らして督戦する光秀だったが、既に退勢は否めない。


 最初は、互角だった。敵、羽柴筑前守秀吉の軍勢約四万に対して光秀の軍勢は一万六千。倍以上の兵力差がありながらも、山崎の隘路という地の利を生かして迎撃したため、ほぼ互角の戦いを演じることができた。


 だが、敵がいくらでも予備兵力を投入できるのに対して、味方の予備兵力は余りに少ない。その上、羽柴軍は有り余る兵力の一部を迂回渡河させて光秀が率いる本隊の側面を突いた。


 前線で互角に戦っていた状態のところで、本隊が側面を突かれたのだ。前線の士気が落ちると同時に均衡が崩れ、一気に押され始める。


 そして、ついに後備え、つまり本隊後方の予備部隊が士気崩壊して雑兵が勝手に逃走を始めた。裏崩うらくずれである。


「もはや持ちませぬ。某が殿しんがりつかまつりますれば、殿は勝竜寺までお引きくだされ!!」


「無念じゃ」


 御牧みまき兼顕かねあきの進言に従い、光秀は勝竜寺城目指して退却する。殿として羽柴軍の追撃の前に立ちはだかった御牧兼顕の軍勢は、その役割を見事に果たし、玉砕しながらも光秀が退却する時間を稼いだ。


「せめて左馬助が居れば……」


 敗走する馬上で光秀は呟いた。繰り言だと分かってはいても、後詰め、つまり戦略予備兵力として安土の守備に留め置いた秀満の軍勢がいれば、もう少し何とかなったのではないかという思いが拭えないのだ。


 そう、繰り言だとは、光秀にも分かってはいるのだ。長浜に利三、安土に秀満を置いたのは、ひとえに北国街道を南下してくるであろう柴田勝家の迎撃が最優先と考えたからである。ところが、勝家よりも先に秀吉が中国筋から戻ってきたのだ。


 もともと光秀の組下大名が多く、帰趨きすうを明らかにしていなかった河内、和泉、摂津の大小名だったが、秀吉が二万の大軍を率いて中国筋から帰還すると、一気にそちらになびいた。おまけに、一度は味方についた大和の筒井順慶までもが兵を引いてしまったのである。


 四国遠征軍の残党七千も合わせ、一気に四万の大軍にふくれあがった羽柴軍に対して、光秀が動員できたのは一万六千しかない。これに秀満の手勢一千を加えても焼け石に水だったかもしれないが、秀満の武勇と采配の腕は、利三と並び明智家でも最強である。長浜から呼び戻して先鋒を任せた利三と同じように、秀満も安土から呼び寄せて手元に置いておけば、側面を突かれた時に持ちこたえられたのではないか、などと考えてしまうのだ。


 山崎に布陣する直前にもたらされた忍からの報告では、秀吉は姫路城には後詰めどころか守備のための兵もほんの僅かしか残さなかったという。


 ここが切所せっしょなのだから、持てる手駒は全部注ぎ込むというのだろう。秀吉らしい豪快さと思い切りである。負ければ再戦はなく、敗死するのみ。その覚悟で挑んできたのだ。


 それが分かったとき、光秀は己の不覚悟に気付かされてしまった。天下を取ったならば後のことなど何とでもなるのだから、後詰めなど考えるべきではなかったのだ。


 だが、それでも光秀は負ける気は無かった。確かに秀吉軍は四万の大軍だが、そのうち二万は中国から強行軍で戻ってきたばかりで、少し休んだとはいえ疲労困憊した軍勢なのである。残り二万は、秀吉の軍の勢威を見て靡いたばかりの軍勢である。信長の息子である信孝や同格の軍団長だった丹羽長秀あたりはともかく、元々は光秀の組下だった高山たかやま右近うこん中川なかがわ清秀きよひであたりは、大して士気も高くないであろうし、秀吉の本軍が劣勢になったら寝返らせることもできるだろう。


 そう考えれば、四万対一万六千ではなく、せいぜい二万七千対一万六千、兵力差は六割増し程度で、充分に休養した軍勢で疲労した軍勢を相手に、それも隘路での迎撃戦ならば勝機は充分にある。そう見通しを立てていたのだ。


 それが甘かったと分かったのは、最前線で中川清秀や高山右近の手勢が勇戦しているのを見たときである。軍勢の士気は高かった。光秀を完全に敵と見なしているのだ。そして、河内、摂津の諸衆の軍勢は、秀吉の軍勢とは異なり、疲労しているわけではない。


 結果として、光秀は僅かな手勢と共に敗走している。甘かった。何もかも甘かったのだ。


 勝竜寺城に入った光秀の元に戻ってきた兵は、僅かに七百ばかりであった。一万五千以上の兵が雲散霧消したのである。合戦に参加した家老のうち、利三と藤田伝五は戻らず、かろうじて溝尾庄兵衛のみが戻ってきていた。


「殿、この手勢では勝竜寺城で籠城もできませぬ。ここは、少数精鋭で坂本城へ戻り、左馬助殿と合流して再起を期すべきかと」


 庄兵衛の進言に頷き、数名の側近と庄兵衛、それに、このような時にこそ役に立つであろう影武者の随風を伴って、秘かに勝竜寺城を出立する光秀。


(まだだ、まだ終わってはおらぬ。この儂が健在な限り必ずや再起はできる。信長公なら、絶対にそう考えたであろうよ)


 そう思った光秀は、この期に及んでもなお信長の思考を基準にしていた自分に気付いて苦く笑う。


(儂は、所詮は信長公の天下を支える一家臣の器に過ぎなかったのか? 己の力量で天下の権を争える器ではなかったのか?)


 そうだ、という答えは、余りにも苦すぎる。だが、それ以上に自分自身の内から湧き出してくるひとつの疑問が、光秀を責めさいなむのだ。即ち……


(儂は、本当に天下が欲しかったのだろうか? 千載一遇の機会と見て信長公を討ったのは、本当に天下取りの野望のためだったのだろうか? それとも……)


 絶対に認め難い、しかし、どうしても突きつけられる、己の心の中の真実。


(儂が、自分が老い、衰えてきていることを認めたくなかったからなのだろうか。気力がえ、智恵が衰え、体の無理が利かなくなってきていることを、認めたくなかっただけなのだろうか……)


 既に暗くなった中で馬を駆りながら、光秀の目は夜道ではなく己の心の中にある闇を見つめ続けていた。

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