第10話 蹉跌

「馬鹿な!」


 長岡兵部大輔藤孝へ送った使者が持ち帰った返事を聞いて、光秀は己の足元が崩れ落ちたように感じた。


 もとどりを切って信長親子への弔意を表すと同時に、嫡子忠興の妻、すなわち光秀の娘である珠を幽閉する。離縁こそしないものの、明らかに光秀に味方することを断るという意思表示である。


 京で信長親子を討ってこのかた、ほぼ順調に予想通りに山城やましろ、近江を制圧していた光秀にとって、初の大きな蹉跌さてつであった。


 それまでにも、山岡やまおか景隆かげたかが同心せずに瀬田の大橋を焼き落としたために安土城への進軍が少し遅れるということはあったが、それでも安土をほぼ無血開城させ、信長のため込んだ軍資金を入手できたのは大きい。


 また、近江では旧守護家である京極きょうごく高次たかつぐが、若狭わかさでも旧守護家である武田たけだ元明もとあきが味方として馳せ参じて、羽柴秀吉の長浜城や、丹羽長秀の佐和山城を攻めている。美濃では信長に追放された旧美濃三人衆のひとり、安藤あんどう伊賀守いがのかみ守就もりなりが旧臣を率いて元の居城である北方城を奪い味方になると連絡してきている。


 京の朝廷への工作も順調であり、吉田よしだ兼見かねみが使者として安土を接収した光秀の元にやって来て京の守護を依頼している。京の守護とは、すなわち朝廷を守護することに他ならない。


 これまでは、ほぼ予定通りに進んでいたのだ。


 それなのに、よりにもよって一番確実に味方になると思っていた藤孝が、それを蹴ったというのだ。


「何故だ、兵部は目端の利く男のはず……」


 そう呟いて、光秀は慄然りつぜんとした。今、己が呟いた言葉の中に、理由がはっきりと示されているではないか。


 


 今まで、一度たりとも進退を誤ったことが無い男なのである。その男が、今までの深い付き合いと、縁戚関係をも無視して、味方することを避けたのだ。


 そもそも、丹後たんごの南半分を所領とする藤孝の周囲は、光秀の与党で囲まれているのである。丹後の北半分を領有する一色いっしき義定よしさだは元々から光秀の組下大名だったが、本能寺以降も忠実に光秀に従っている。隣国の若狭では武田元明が光秀に味方して立ち、近江は光秀が制圧した。


 それにも関わらず、味方しないというのである。


(兵部は儂が滅ぶと見ているのか……)


 不思議だった。そこまで侮られたなら、憤激するのが当然であろう。だが、光秀の心は、そのことに気付いた瞬間に、むしろ平静に戻ったのだ。


(兵部は道義で物事を判断するような男ではない。儂が謀反を起こしたからといって道義的に非難して儂に味方しないなどということは、あり得ぬ。儂が滅ぶという、何らかの確信を得ているのだ……だが、それは何だ?)


 悩む光秀の元に、さらに凶報が届いたのは、その時だった。


「津田七兵衛様、お討死に!」


「何だと!?」


 女婿である津田信澄が戦で死んだというのである。だが、理由が分からない。信澄は別に光秀に味方してはいないのである。光秀自身も、女婿ではあるが織田家の一門である信澄への接触は慎重に行うべきだと考え、味方につけるための使者を出してはいなかった。それなのに、誰と戦ったというのか?


「織田三七郎、丹羽五郎左衛門に攻められ、あえなく……」


「三七めがか!」


 織田信孝と丹羽長秀を中心とする四国攻略軍は、信長の死を聞いたとたんに雑兵が逃げ出し、二万を数えた軍勢が七千ほどに減ってしまったという。それを聞いた光秀は河内、摂津方面は放置して山城、近江、美濃の制圧を優先することにしたのだが、それが裏目に出たのである。


 まさか、いくら光秀の女婿とはいえ、光秀に味方しているわけでもない織田一門の信澄を、そう簡単には攻めたりはしないだろうと考えていた光秀の方が甘かったのだ。


 いや、丹羽長秀だけなら攻められなかっただろう。主筋なのである。しかし、織田家の序列で言えば信澄より上になる信孝が総司令官であったことが、信澄にとっての不幸であった。


(三七にしては、思い切ったことをしたものだ。……いや、むしろ儂の婿であることを口実に、競争相手になりそうな信澄を排除したのか)


 信澄の織田一門での序列は第五位で、第三位の信孝にかなり近い。能力も高いため、父親が信長と家督を争ったにもかかわらず、信長に重用されていたのである。信長、信忠が横死して、織田一門の序列が大きく変動する可能性が高い今、競争相手の排除にかかったのは不思議ではない。


「ともかく京に戻る。河内、摂津方面に出していた忍びに現状を報告させよ。更に増員して河内方面の情勢を探れ」


 予想よりも早く信孝や長秀が動き出したので、安土を秀満に、長浜を利三に任せて、光秀は京に戻ることにした。同時に、今まで手をつけていなかった河内方面の情報収集を強化することを命令する。


 京に戻った光秀は、朝廷に金を献上するなどの工作を進める一方で京の治安や行政活動の維持を行っていたが、それと並行して再度、長岡藤孝を味方に付けるべく、右筆ゆうひつに書状を書かせていた。


「よいか、味方すれば国は望み次第と書け。丹後一国のほか、摂津、若狭、但馬たじま…好きに選んでよいとな。それに、あと百日……いや五十日もあれば近隣諸国の平定は済むから、その後は儂は隠居するので、天下のまつりごとは十五郎と与一郎に……いや待て、与一郎を前に出せ。天下の権を与一郎と十五郎に譲ってもよいとな。そう書け」


「また、随分と大盤振る舞いですな」


 光秀の側には、影武者である随風も常に付き従っている。右筆への指示を聞いた随風は、あまりに光秀の気前がよいので、少し驚いていた。所領はよいとして、天下の権を自分の息子の光慶に譲るのはともかく、半分は藤孝の子の忠興に譲り渡してもよいというのは尋常ではない。それでは、何のために信長を討ったのか分からないではないか。


 だが、そんな随風の言葉を鼻で笑うと、光秀はうそぶいた。


「これも武略だ」


 書状での約束とはいえ、実行するかどうかは、また別の問題だ。書状の上でなら天下の権を餌にしたところでどうという事はない。実際に天下を握ってしまえば反故にできる。天下を握り損なった時は……ただ死ぬだけのことだ。


 乱世の奸雄らしく振る舞う光秀を、じっと見つめていた随風だったが、ぽつりと一言呟いた。


「隠居したいというのは、実は本音なのではございませぬか?」


 その言葉は小さかったが、光秀の肺腑を貫いた。


「……馬鹿を申せ」


 僅かに間を置いて答えた光秀の言葉には、力が無かった。

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