第9話 灰燼

 本能寺の伽藍がらんは燃え尽きていた。


(あっけないものだ)


 あの瓦礫がれきの下に、信長の遺体があるのだろう。首級は見つかっていない。だが、逃れたとは思えない。いや、絶対に逃してはいない。光秀は、その点は確信していた。


 過剰とも思える戦力で本能寺を十重二十重に囲み、逃れる女房衆に対しても一切躊躇せずに捕まえろと命令してある。仮に信長が女装して逃れようとしたとて、見逃すものではない。


 だが、それでも確信を得ようと、光秀は捕らえた女房衆のひとりを尋問することにして、連れてこさせた。


「上様は、逃げようとはなさいませんでした」


 ただの女房衆である。脅すまでもなく簡単に口を割ったのだが、その答えは光秀にとっては意外なものだった。


「ほう? 儂の知る信長公なら、いかなる手を使ってでも、何としても逃れようとすると思うのだがな」


 そういう命汚さが信長にはある。かつて浅井長政に裏切られた時は、盟友も部下も見捨てて己の身ひとつで逃げ帰ったことさえあるのだ。自分が生きてさえあれば、いくらでも挽回できると確信していたのだろう。


 だが、女房衆は信長が諦めた理由を簡潔に述べた。


「上様は、こうおっしゃっておりました。きんか……いえ、日向守様に手抜かりのあろうはずがない、と」


「ふむ」


 信長は光秀を金柑と呼んでいたのだろう。そこを慌てて修正した女房衆に苦笑した光秀だったが、改めて、信長の己への評価の高さを知らされて複雑な思いを抱く。


「さぞや怒り狂っておいでだったであろうな」


 そう言ったあとで、己が敬語を使ってしまったことに光秀は気付いた。既に主君ではない。それどころか、自らの手で殺した相手なのである。一応、高位の貴人であるから敬意を払って「信長公」とは呼んでいるが、それは敵であった武田信玄や上杉謙信であっても「信玄公」「謙信公」と呼んでいたのと同じであり、一般的な敬意である。別に敬語を使う必要はない。


(癖とは恐ろしいものだ)


 そう内心で苦笑する光秀だったが、女房衆の返答を聞いて意外の感にとらわれた。


「いえ、ただ一言『良いも悪いも無いわ』とおっしゃっただけでございました」


 信長は、好悪の情が激しかった。特に、信頼している者に裏切られたときの怒りは凄まじかった。


 浅井長政、荒木あらき村重むらしげのような同盟者や部下の裏切りはもとより、血のつながった叔母でさえ、己を裏切って武田家臣の秋山あきやま伯耆守ほうきのかみに通じたときは、捕らえた後に磔にかけたくらいである。


 その信長が、己を殺害するという最大級の裏切りをなした光秀に対して、怒りを露わにしなかったというのである。


順逆じゅんぎゃく二門にもんし…」


 光秀は、思わず心に浮かんだ言葉を口に上せていた。


(辞世の句に使えるかもしれんな。いや、漢詩にする方が良いか…)


 そんな事を考えたものの、次の瞬間には、その考え自体を否定する。


(馬鹿な! 縁起でもない!! 儂は今、天下に手をかけたのだぞ! なぜ辞世の句の事などを考えねばならんのだ!?)


 聞くべきことは聞いたとして女房衆を放免した光秀の元に、二条城に籠もった信忠を包囲していた別働隊からの使番つかいばんが駆け込んできた。


「三位中将様ご生害の模様!」


首級みしるしは?」


「それが、炎に巻かれ……」


 信長に続いて、信忠も炎の中に消えたという。


「これでは、首を晒せませんな」


 ちょうど光秀に報告に来ていた利三が忌々しげに言う。信長と信忠の首級を晒せれば、生存の可能性を否定できる。だが、それができない以上、「信長生存」の噂が流布することは防げないであろう。


「かまわぬ」


 言葉に出しては、それだけしか言わなかった光秀だったが、内心ではむしろ首級が取れなかった事に安堵していた。


 信長や信忠の首級を見たとき、何を感じ、何を口にしてしまうか、自分自身でも分からなかったからである。

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