第8話 出陣

「準備、整いましてございます」


 秀満の報告に軽く頷くと、光秀は采配を振るって宣言した。


「かねてよりの遺恨、耐え難き故に、これより摂津せっつへ向かい、徳川三河守を討つ! 出陣じゃ!!」


 ウォォォォッ!!


 明智軍一万三千がときの声を上げる。亀山城下に勢揃いした軍勢は、光秀の命を受け、順次、老ノ坂峠に向かって進軍を開始する。そのまま、山崎を経由して摂津に向かう、と物頭など小部隊の指揮官には告げてある。


 時に、天正十年六月朔日ついたち。太陰暦ゆえに朔日は常に新月である。夕方、申の刻に進軍を開始したのだから、月無き夜道を夜間行軍することになる。


 何人かは、なぜ夜間行軍の必要があるのかと不審に思った。家康が滞在しているのは摂津、河内かわち和泉いずみの国境にある堺の町である。夜間行軍したところで、到着するのは真昼である。いや、夜討ち朝駆けを狙うのではなく、家康を逃がさないために真昼に到着することを計算しているのかもしれない、と思った者もいる。


 だが、僅か一刻の後、酉の刻には全軍に一時停止が命じられ、主要五家老が軍議に呼ばれた。


 秀満、利三のほか、一門の明智光忠みつただ藤田ふじた伝五でんご溝尾みぞお庄兵衛しょうべえが慌ただしく設置された陣幕に集う。


「上様からの密使が参った。全軍を京に向け、本能寺前で馬揃えを行う」


 光秀は淡々と予定変更を告げた。


「はて、なぜ急に?」


 光忠が疑問を呈するが、それに光秀は明快に答える。


「上様が京に入られたのは、中将様のご昇進の返事が来るからだと思っていたのだが、この分だと長袖ちょうしゅう共の返事がお気に召さなかったのであろうよ。兵を連れずに京に入ったのが裏目に出たとお考えになり、我が軍の武威で圧力をかけるお積もりなのであろう。昨年の馬揃えと違って、今の我らは戦支度をしているからな」


 長袖とは公家のことである。また、昨年(天正九年)に行った馬揃えは、武装こそしてはいたものの、むしろ華やかに装い、織田家の軍事力だけでなく経済力も見せつけることを目的としていた。その分、派手で鮮やかではあったが、軍事的な圧力という点では少し弱かった。それに比べれば、完全に臨戦態勢を整えている明智軍は、武力を持たない公家や朝廷に対しての大きな圧力になるであろう。筋は通っている。光忠はもとより、残りの四人も納得した。


 だが、光秀の言葉はそこでは終わらなかった。


「……と、兵共には言っておけ」


「は?」


 光秀の言葉の意味を理解しかねた光忠が問い返す。そんな光忠を眼光鋭く見返し、光秀は一気に思いの丈を吐き出した。


「儂は、今この時より天下を目指す! 上様……否、信長公を討ち、我が水色桔梗の旗を京師に立てるのだ!!」


「と、殿っ!?」


 慌てる五人に対して、光秀はむしろ冷静に語りかける。


「乱心などしてはおらぬぞ。考えても見よ、今、京には信長公と信忠公が僅か千そこそこの兵しか率いずに居る。攻めやすく守りにくい京の町に、だ。我が一万三千の兵で攻めれば、討ち漏らすことは万一にも無い」


「ですが、その後はどうなります!?」


 秀満の問いにも、光秀は明晰に答える。


「最大の兵を持つ羽柴筑前は、毛利の本軍と対陣中だ。信長公が討たれたと分かった途端に士気崩壊して毛利に攻め滅ぼされるであろう。もっとも筑前ほどの男だ、あるいは兵をまとめて毛利と互角に戦うかもしれん。だが、兵を返して我々を討つことなどはできぬ」


「北陸で上杉と対陣中の柴田修理はいかがです? 今の上杉に修理を抑えるだけの力が残っておりますかな?」


「既に謙信けんしん亡きとはいえ、上杉は強兵。一時の足止めくらいは期待できよう。その間に安土から美濃、尾張、伊勢を押さえて兵を増やし、修理に決戦を挑む。これが最初の大戦おおいくさになるであろうよ。何、修理ごとき猪武者、戦のやりようはいくらでもある」


「関東管領に就任した滝川左近将監は? 彼奴は柴田修理とは違って調略や謀略も得手としておりますぞ」


「左近将監は占領したばかりの地におる。まだ民はなついておらず、直参の兵は家族を残した故郷を思って気が気では無い。そして、同盟関係にあるとは言え、北条は油断のならぬ相手。関八州の大半を押さえ、その治世は良好で民は信服しており、地力では毛利にも勝る。信長公が死んだと分かった途端に牙をむくであろうよ。さしもの左近将監も、手痛い目に合うことは必定じゃな」


「最も手近な所で四国征伐の軍を率いている三七郎と丹羽五郎左は……」


「相手になると思うか? 五郎左はともかく、三七など兵を四散させるのが関の山よ。それに、あちらには信澄のぶずみもおる。最初はがえんじえぬかもしれんが、いずれ内応させることはできよう。それに、儂が信長公を討ったと知れば宮内少輔殿は必ずや我らに味方するであろう」


 信澄とは、光秀の女婿にあたる津田つだ信澄のことである。四国征伐軍には丹羽長秀と並ぶ副将格で従軍している。津田は織田一門に与えられる別姓であり、実は信長の甥にあたる。しかし、その父である織田信勝のぶかつ(一般的には信行のぶゆきとして知られる)は信長と家督を争って殺されている。それにも関わらず信長に重用されているので、あるいは婿であっても最初は味方しないかもしれないが、実父の事を持ち出せば最終的には味方に付けられると光秀は考えていた。


 それ以上に、海の向こう、四国には強い味方が居る。長宗我部元親は、まず間違いなく光秀に同心する。


「では、徳川三河守は?」


「手元に兵がおらぬ。堺から三河は遠いぞ。果たして無事に三河に帰り着けるかな? また、無事帰り着いたところで、儂に敵対するとは限らぬだろう。なあ、随風よ?」


 そこで、光秀は後ろを振り返り、主君と寸分違わぬ鎧兜をまとった影武者を見やる。随風は、軽く頷きながら答える。


「先に知らせを送らせていただければ……恩を仇で返す三河守ではございませぬ」


「三河殿は律儀だからな、良かろう。三河殿の京での草は茶屋ちゃや四郎次郎しろうじろうであったか?」


 京に呉服の店を持つ豪商、茶屋四郎次郎は、都の情報を家康に伝える密偵の役を果たしていた。光秀はそれを知っていたのである。


「御意」


「京に着いたら真っ先に茶屋に知らせるがよい」


「ありがたき幸せ」


「あと、叡山は儂が建て直してやろう。信長公とは違う所を見せねばな」


 その言葉に目を見張る随風。


「誠でございますか!?」


「二言は無い。その代わり、叡山の影響力、儂に貸して貰うぞ」


「必ずや!」


 歓喜して叩頭する随風。それを尻目に、五家老に向き直ると、光秀はさらに今後の見通しを説く。


「この通り、我が軍と直接対抗できるのは、せいぜい五郎左くらいなものだ。彼奴も戦下手ではないが、筑前ほどの智恵も、修理ほどの武勇も、左近将監ほどの調略の才も無い。兵の数も少なく、まず負ける相手ではない。信長公と信忠公を討てば、近江、美濃、尾張の軍勢は統率者を失い烏合の衆と化す。戦下手の信雄の言うことなど、誰も聞くまい。これら三国を征し、我が指揮下に組み入れる。丹後たんご兵部ひょうぶ大和やまと順慶じゅんけいは儂に付くであろう。それらの兵を束ね、修理を打ち破れば、越前も我が物になる。修理共は加賀に押し込めておき、伊勢と摂津、河内、和泉を征して五畿内を押さえれば、もはや天下に敵は無いだろう」


 信雄は信長の次男であるが、伊賀攻めの際に大失敗をして戦下手ぶりを天下に晒しており、織田家の家臣であっても積極的に推戴したがる者は少ないであろう。


 丹後半国の領主である長岡ながおか兵部大輔ひょうぶだゆう藤孝ふじたかは光秀とはつきあいが古く、光秀の組下大名として苦労を共にしており、丹後平定の際にも光秀は多大な支援をしてきた。またその嫡子与一郎よいちろう忠興ただおきが光秀の女婿であることから、まず間違いなく光秀に味方するであろう。


 同じく、大和一国の旗頭である筒井つつい順慶じゅんけいも光秀の女婿で組下大名であることから、味方に付くはずである。


「……成算があることは分かりました。ですが、ひとつお尋ねしたきことが……」


「何だ? おおよそ予想はつくがな」


 光秀の説明を聞いていた秀満が問う。その問いが何であるか、光秀は予想がついている。他の四人も同じ疑問を持っているであろう。


「何故でございますか?」


 今まで、信長の家臣として、多少の不都合はあっても、大過なく過ごしてきたのだ。いくら目の前に千載一遇の好機が転がっていたとはいえ、それだけで大恩有る主君に謀反を起こすというのは、今までの光秀の言動に著しくそぐわないのだ。


 しかし、その問いを予想していた光秀は、答えに詰まることはなかった。


黥布げいふは知っているな。からの国のいにしえの英雄だ。漢の高祖の配下として勇猛に戦ったが、高祖が天下を取って後に背いた。その時、なぜ謀反したのかと問うた高祖に、何と答えたか知っているか?」


「『ただ帝たらんと欲するのみ』……」


「儂も、それよ」


 つまり、ただ天下が欲しかっただけのことだ、というのが光秀の答えである。だが、光秀をよく知る秀満は、さらに問い返した。


「それは本心にございますか?」


「……当然ではないか!」


 光秀は即答した。その場にいた者には、そう思えた。だが、光秀だけは分かっていた。


 刹那せつな、とは仏教の用語で、時間の最小単位を表す言葉である。指をひと弾きする間が65刹那という極小の時間を表す言葉なのだ。


 その、刹那ほどの時間、己が返答を躊躇したことを、光秀自身だけは分かっていたのである。


 そのことを振り払うために、そして己を鼓舞するために、光秀は改めて、高らかに宣言した。


「敵は、本能寺にあり!!」

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