第7話 連歌

「時は今、雨が下なる五月かな」


「なかなか良い発句ほっくですな」


 光秀が詠んだ発句を聞いた連歌師の里村さとむら紹巴じょうはが世辞を言った。予定通り、愛宕権現に参拝した後に、連歌の会を催しているのである。


「いやいや、何のひねりも面白みも無い発句で申し訳ござらぬ」


 光秀は謙遜しているわけではない。太陰暦の五月は梅雨時である。ただ、現在の季節を詠んだだけなのだ。


「それが良いのでござるよ。連歌は皆で作り上げるもの、奇をてらう必要などございませぬ」


「左様左様」


 紹巴や、その婿の里村紹叱しょうしつが口々に褒めそやすのを、光秀はただ微笑して受ける。世辞は好きではないが、連歌師も客商売なのだということは分かっているので、不快感を露わにして場の雰囲気を悪くする積もりはない。


 だが、紹巴の次の言葉には、僅かに眉をひそめた。


「それにしても、上様ならさしずめ『あめが下る五月かな』とでも詠まれるところでしょうなあ」


 信長は天下を治めているのだ、という織田家への追従ついしょうである。事実ではあるが、せっかく俗世のことを忘れて連歌を楽しみたいと思っていたのに、こうした世俗のことでも鼻につく追従をされては些か興醒めだと光秀は微かに不快を感じたのである。


「誠に。筑前様を日向様がお助けに行けば毛利ずれなど一溜まりもございますまい。四国は三七郎様や五郎左衛門様が御平らげになりましょうし、もはや西国で、いや日の本全体を見回しても織田家に、上様に逆らえる者などひとりもおりますまい」


 紹叱もそれに続いて追従を言う。光秀は織田家の重臣、信長の寵臣なのだから、織田家への追従を信長に伝えてもらいたいのだろう。


「だからとて、油断は禁物。このような折りにこそ、兜の緒を締める必要があり申す」


 光秀は、紹巴らに釘を刺す。


「今の畿内に上様に逆らえる者など……」


「紀州の雑賀衆のうち、上様に従わぬ者が在地を逃れたという。少人数でも鉄砲で上様を狙うことはできよう。杉谷すぎたに善住坊ぜんじゅぼうの例もあるでな」


 かつて信長を鉄砲で狙撃した男を例に楽観を戒める。もし、今信長が死ねば、天下は大混乱に陥るだろう。


 そう考えた光秀だったが、次の瞬間には、それは違うかもしれないと気付いた。


「いや、今、仮に上様が亡くなられても、三位中将さんみちゅうじょう様がおわす……」


「あら、もったいなや!!」


 光秀が思わず漏らした言葉を聞いた紹巴が、それを打ち消すように大声で叫んで誤魔化した。


「や、これは失礼。かたじけのうござる」


 自らの失言に赤面して謝り、紹巴の心遣いに感謝する光秀。仮の話であっても、信長の死などということを口に出すだけで大不敬である。他人に知られたら大事だ。信長の寵臣である光秀を妬み、失脚を狙う者は多い。失言のひとつやふたつで立場を失うほど光秀の地盤は弱くはないが、積み重なればどうなるか分かったものではない。佐久間信盛の例のように、追放の理由のひとつにはなるのである。


 だが、表面を取り繕いながらも、光秀の頭の中は、今思いついたことが渦巻いていた。従三位じゅさんみ左近衛中将さこのえちゅうじょう信忠のぶただ。信長の嫡男で、既に織田家の家督を譲られており、信長の後継者として確定している。


 元亀三年に初陣して以来、十年の戦場往来を経験し、武功を重ねてきた。光秀自身も信忠の指揮下で戦ったことがあり、その采配は無難だが特に隙も油断もなく、戦振りは父の信長に比べてもむしろ堅実と言ってよい。つい先日は、武田攻めの事実上の総指揮を取り、滝川一益や河尻かわじり秀隆ひでたからの補佐があったにせよ、短期間で武田家を壊滅させている。


 美濃、尾張おわり二カ国を無難に治めており、まだ二十代半ばではあるが、既に政戦両略の経験豊富で、信長の後継者として何の不足もない。


 仮に今、信長が鉄砲で暗殺されたとしても、信忠が後を継げば、織田家は存続する。いや、名目上は既に織田家の当主は信忠であり、信長は隠居にすぎない。これは、信長が朝廷の院政を真似して、自分を既存の権力体系の枠から外すために行ったことであるが、同時に後継者争いを未然に防ぐという効果もある。


 確かに、信長ほどの独裁者が急死すれば混乱は起きるだろう。だが、その混乱を信忠は最小限で収束させることができるであろう。それだけの力量が信忠にはあることを、光秀は知っている。


(既に頼りになる子がいる上様がうらやましい)


 ふと、すぐ隣に座す我が子、光慶に目をやりながら、光秀は思った。光慶はまだ十四歳で元服を済ませたばかり。初陣もまだである。素直に父の言いつけを守り、武芸にも馬術にも学問にも励んでいる自慢の息子ではあるが、何分にもまだ経験が足りない。


(もし儂に中将様ほどの子がおれば、すぐにでも隠居できようものを……)


 そう考えたところで愕然とした。


(隠居だと! この儂が!?)


 そんな考えが、自分から出てきたことに愕然としたのである。


(あり得ぬ! 多少馬齢は重ねたが、まだまだ儂は働ける!!)


 表面上は端然と座しながら、内心では激しく混乱する光秀の耳に、紹巴が漏らした言葉が入ってきたのは、その時だった。


「それにしても、上様と中将様が揃って京に入られるとは、何があるのでしょうなあ」


「揃って?」


「はい。上様が本能寺で茶会を開いて茶器をご披露になるのは予定にございましたが、中将様も同じ日に京にお入りになるとのことで…」


 問い返した光秀に、紹巴が首をひねりながら答える。


「あれか!」


 光秀には、その理由の推測がついた。かねてより信長が朝廷に要請していた三職推任について、朝廷から答えが出るのだろう。


 三職とは、関白、太政大臣、征夷大将軍の三つの職のことで、信長はこれらのいずれかに「信忠が」任命されることを望んでいたのである。


 信長自身は、もはや朝廷の官職を必要としていない。既に織田家でも隠居であり、既存の権力体系の外側から、「当主の父」としての権威をもって支配を行っているのである。


 むしろ、その「当主」である信忠に権威を与えるために、三職のいずれかに就任させるようにしたのだ。


 信長が王権簒奪を意図していることは、光秀はじめ極少数の者しか知らない。そして、信長は必要とあらばいくらでも下手に出られる男である。甲斐武田家が強勢だった頃は、辞を低くして同盟を乞い、養女を人質同然に武田勝頼の嫁に送ったこともある。それでいて、武田が弱ったならば、一気に攻め滅ぼし、己の義理の孫にあたる武田太郎たろう信勝のぶかつも首級にしてしまう。それが信長である。機会が来るまで、王権簒奪の意図などおくびにも出さずに、むしろ既存の権力の枠内で権威の確立を目指すような振りをすることなどお手のものである。


 光秀に続いて秀吉への援軍として高松に向かうはずの信忠が、その途中で予定を変更して京に入るとすれば、それ以外に用件は考えようがない。


「お心当たりでも?」


「うむ。恐らくは中将様のご昇進であろう」


「ああ、なるほど。中将様は東の方も征されましたからなあ」


 武田の討伐は、確かに「征夷大将軍」任命の理由付けにはなる。実は毛利家の庇護を受けている足利あしかが義昭よしあきは未だに将軍職に留まっているのだが、将軍解官げかんの前例もあるのだから問題はない。


「京は随分と立て込もうな」


 信忠の軍勢は尾張、美濃の両国の将兵を合わせれば二万に達する。先だっても武田攻めの主力になったばかりの精鋭部隊である。留守居として残る者もいるだろうが、大半は信忠に従って中国地方へ進軍するはずである。


 それだけの軍勢が京の都に入れば、それなりに広い京の町とはいえ、かなりの混雑が予想される。前年の天正九年に京で行った馬揃えには光秀も参加したが、あの折もかなり混雑したものだ。


 ところが、紹巴の返答は意外なものだった。


「中将様も上様もお馬廻うままわりだけ連れられて入京なさるそうですぞ。合わせても千か千五百程度でないかと」


 少数の親衛隊だけを引き連れて京に入るというのである。信長にはそうした腰の軽さがあり、近習や馬廻だけを連れての移動も珍しくないが、万事堅実な信忠にしては珍しい。


(朝廷を刺激せぬためだな)


 光秀はすぐにその理由に気付いた。力を誇示しての脅しは、すでに前年の馬揃えで行っている。ここはむしろへりくだった方がよいと考え、大軍を引き連れての入京は避けたのだろう。


「いささか不用心ではないか? 本能寺は一応城郭仕立てになってはいるが、堀の深さはいかばかりであったか……」


 理由は分かっていても、その人数の少なさに対する懸念が光秀の口から思わず漏れる。信長の京での常宿にしている本能寺は、周囲に堀が巡らされ、壁には矢狭間が開けられており、簡易とはいえ城郭のような作りになっている。だが、あくまでも寺を改装しただけであり、本格の城郭に比べれば防御力は低い。特に、堀はただ巡らせてあるだけで、盗賊避けには充分でも軍勢を防ぐには浅い。


「私も、それは気になっておりましたので、この話をうかがった森様に、もう少し人数を引き連れた方がよろしいのでは、と聞いてみたのですよ。そうすると、森様も上様には同じ進言をされたとおっしゃっておりましてな」


「蘭丸殿が? それで、なぜ人数が増えておらぬのだ?」


 信長の近習、森蘭丸も人数を増やすように進言していたのだという。信長の信頼の厚い森蘭丸の進言ならば、普通は聞き入れるだろう。それなのに、なぜ護衛の人数が増えていないのか。


「上様が、こうおっしゃったのだそうですよ。『金柑の軍勢が近くに居るのだ。心配無用』と」


 確かに、光秀が軍勢を率いて堺に滞在中の家康一行を脅す予定の日は、信長が本能寺に泊まる翌日である。完全に戦支度を整えた一万三千の軍勢が、強行軍すれば数刻の距離に居るのだ。信長や信忠を狙って奇襲的に軍勢を動かす勢力がいたとしても、今の畿内で数千の大軍を動かすことは困難である。数百の軍勢が相手ならば、早馬で光秀に急を知らせれば、馬廻が持ちこたえているうちに光秀の軍が到着できる。そう信長は計算しているのだ。


「なんと忝いお言葉か!」


 光秀は感動した。あの猜疑心の強い信長が、光秀のことは完全に信頼していると言っているのだ。信長、信忠という織田政権の心臓部を、光秀だけが守れるのである。これ以上の信頼の表明は無いだろう。


「さすがは日向守様……しかし、責任重大にございますな」


 紹巴は追従すると同時に、光秀を気遣った。信長や信忠の安全に責任を持つというのは胃の弱い武将には勤まらないだろう。


「何の、どこの誰が攻めてこようと、儂が居る限り、上様にも中将様にも、指一本触れさせるものではござらぬ」


 光秀は言い切った。それだけの力量と軍勢を持っていると自負しているのだ。それでも信長を狙うことができるのは少人数の鉄砲放ちによる狙撃ぐらいなものだろう。仮に大坂に集結してる三七郎信孝や丹羽長秀の軍勢が叛意を持って攻めてきたとしても、防ぎ切る自信はある。信長と信忠の命を奪えるような軍勢は、この世に無い……ただひとつ、光秀自身の軍勢を除いては。


(儂自身!?)


 そのことに思い至った時、光秀は慄然とした。今、光秀はのぞき込んではいけない深淵を覗いてしまったのだ。


 作り笑いを浮かべながら、半ば機械的に連歌を続ける光秀だったが、その心の内には巨大な嵐が吹き荒れていた。

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