02 Knives Out

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 ――頭が痛い。


 頭の何処か奥のほうが、イガだらけの物体を埋め込まれたかのように厭らしく痛む。執拗に頭蓋の内側をさいなんでいる。

 咽喉の辺りに少し鉄の味がする。血の味だろうか。長距離走の授業の後で、これと良く似た症状をあえかすれた咽喉が訴えたことがあった。地獄の血の池は、きっとこんな味をしている。飲んでも飲んでも癒されぬ永劫の渇き。なんて気分の悪い……。

 数限りない寝覚めの中でも、今回のは何か賞でも与えたくなるくらいに、ずば抜けて不愉快だった。

 全身をやんわりと押し上げる蒲団の感触が、妙に心地好く感じられる。寝間着の肌触りはいつもと同じだが、クッション性に富んだ広いベッドで横になるのはえらく新鮮な気がして、四肢に残された気怠けだるさを要領良く吸い取っていくかのよう。


 ……そっか。ここ、自分の家じゃないんだ。


 絶え間ない頭痛の苦痛に混じり、おぼろな意識を掻き乱す何かがある。騒音。音声以前の、形にならぬ音色の響きだけを抽出したようなその騒音が、自分を呼ぶ誰か人の声なのだと判るまで、一体どれだけの時間を必要としたろうか。


 誰かがわたしを起こしに来た……でも、この声は……?


 寝顔を見られている恥ずかしさに拙い動作で両眼を擦りつつ、江奈は一刻も早く睡眠の暗闇から這い上がるよう、懸命に思いを現実へと追い立てた。気道の入り口に鉄っぽい変な臭気が滞っているようで、声を出すのも躊躇ためらわれた。


 誰だろう……。


 単なる音響が電気変調された声色に変化し、更に輪郭を整えて若い女の肉声として耳に入ってきた頃には、意識のほうも大分はっきりしていた。

 がしかし、繰り返し江奈の名を口にする玖珠の声は、やはり何かおかしかった。歯切れの良いハイトーンの声音が、切迫した感情を言葉の節々ににじませている。

 頭痛を堪え、声のする方向に漸く薄目を開けると見慣れぬベッドの傍らには思った通りの玖珠が立っていて、焦燥した様子でこちらを見つめていた。眼尻にこびり付いたやにも凡て取り払ったといいうのに、勝ち気な玖珠の表情は心なしかぼやけて見えた。


「……おはよ……」


 吸い込んだ息を吐くのに合わせ、挨拶の言葉を短く絞り出すように呟いた。けれども相手は何も言ってこない。江奈を起こそうとほんの数十秒前まで必死に声を掛けていた玖珠は、しかし今やこちらが目覚めたのを悔いるかのような複雑な感情をその顔に浮かべている。

 返事がないのは、寝起きで自分の発音が不明瞭だったせいだろうか。感覚のすっかり回復した上半身をゆっくりと起こし、今一度声を掛けてみる。

 それでも玖珠は無言のまま、怯えた眼差しを大きな寝台の上に注いでいた。


「どうしたの」


 声に出す度に、ヒリヒリと咽喉が痛んだ。唾を飲む。血の味が熱く食道に沁みた。

 内容までは判らないが、玖珠が何か言いにくいことを言わんとしていることは、彼女の思い詰めた様子からそれとなく察することが可能だった。ベッドの片隅に置かれた指が、白く変色するほどシーツの端を強く握り締めていた。

 江奈を見つめ返す均整の取れた眼許が、かすかに揺らいだ。


「江奈……驚かないで聞いて」


 と、青い寝衣にベストを羽織った己が胸に一方の手を当て、玖珠は自らを落ち着けるように深く呼吸した。彼女愛用の真珠状の小さなピアスは、何故か片方の耳にのみ柔らかく閃いていた。

 玖珠が何を言おうとしているのか、未だ判然としなかった。やや短めに刈り込まれた相手の髪をぼんやり視界に収めつつ、次の台詞を待つ。


「紗乃が……死んだの」


 起き抜けの耳腔の更にその奥に、玖珠の低い声が異世界の出来事を告げるかの如く空虚に鳴り響いた。


 紗乃が……死んだ?

 紗乃が?


「な……何言ってるの?」


 どういうつもりで、玖珠はそんな冗談を口にするのだろう。だが彼女の強張こわばった形相には、故意に虚言を吐くような不真面目な感じは見受けられなかった。

 江奈の反応を待つ間もなく、玖珠は切れ切れな口調で続けて、


「殺されたの……下の、リビングに、紗乃の……死体が」


 殺された……紗乃が……死体?


 状況説明が詳しくなるにつれ、玖珠の言葉もある程度真実味を帯びてきたような気がしたが、かと言って証言をすんなり鵜呑みにも出来ない。


「嘘……でしょ」


 そう言い返すのが精一杯だった。

 江奈には真偽の程がどうにも測りかねた。玖珠の説明を聞いても、心拍数はいささかも変わらず、感情の起伏すらない。昨日までごく普通に会話を交わしていた同級生が、突然死んだのだという。しかも玖珠は、紗乃が〈殺された〉と、確かにそう言った。


 どうして、紗乃が……?


「みんなは……?」


 那珂と茅夜は、双方とも階下に降りているという話だった。横手のカーテンの隙間から覗く陽の輝きは、何処か優しげで初々しい。時間的にはまだ朝の始まりといったところだが、紗乃の家に泊まりに来た四人の中で、一番遅い目覚めを迎えたのがどうも自分であるらしい。

 後ろ暗い思いに囚われながら、江奈は胸許のボタンを付け直してベッドを離れた。いつになく頭は重かったものの、そんな愚痴を言っている場合ではない。

 気丈に歩を進める玖珠に続き、部屋を出る。


 真向かいの、紗乃が寝ていたはずの部屋扉は冷たくとざされていた。左手の壁にぽっかり穿たれた嵌め殺しの小窓も、縄模様のあしらわれた絹のカーテンに前面を覆われたままだ。

 右手側に全長十メートル余りの広い廊下が延びており、左右の壁には計四つの部屋扉が間を置いて規則正しく並んでいた。その先には階下へ通じる唯一の経路の階段がある。最も北側に階段があり、廊下を隔てた東西両側に各三部屋――階段に近い北東の部屋はトイレだが――というのが、二階の大まかな構造となっていた。

 見ると、この二階空間にある六部屋のうち、中央に位置する二部屋のドアが開いたままであった。昨日の部屋決めで、北西・西・南西及び東・南東の部屋を寝室として利用するのは、それぞれ茅夜・玖珠・実際にこの家で生活している紗乃、それから那珂・江奈という具合になっていた。

 開かれた扉は、西と東……つまり玖珠と那珂の部屋だ。

 断続的に咽喉に出かかる欠伸を抑え、廊下の中心に差し掛かる。

 江奈はなんの気なしに、扉が開きっ放しの両部屋に交互に眼を走らせた。耳朶みみたぶのピアス孔に手を添えて消沈した足取りで前を行く玖珠に、こちらの所作は全く気づかれなかった。

 左の玖珠の部屋は、元々が空き部屋だったためか、江奈の使っている部屋と同様、インテリアや家具の類いに乏しく、見栄えも質素なものだった。大柄な寝台のシーツは皺一つなく整えられ、結構がさつなところのある玖珠の意外な一面を垣間見た気がした。

 ドアの角度の関係上、那珂の部屋はチラッとその一部を眼に留めただけだったけれども、向かいの部屋に比べて掛け布団が大きく捲れているのが見え、寝ぼけ眼の彼女がガバリと跳ね起きる様が容易に想像できた。

 トイレ前を通り過ぎ、下り階段に足を掛けたところで、啜り泣きの声が下方から聞こえた。階段を下りる玖珠の脚が、ほんの少し速くなった。


 那珂が、泣いてる……?


 階段の一番下に背を曲げて腰掛け、那珂が上半身を幾度となく震わせて泣いていた。両の手の甲を眼の辺りに当てたまま、顔を上げようともしないで。


「那珂」


 先に階下に下り立った玖珠の指が、くしゃくしゃに乱れた那珂の頭髪を梳くように包み撫でる。那珂の嗚咽は止まない。

 リビングへの通行口は両開きの豪奢ごうしゃな木扉だ。その横で白壁に凭れ、ぐったりした様子の茅夜が静かに顔を上げた。肌荒れ予防の余念のなさには定評のある彼女だが、顔貌には疲労の色が顕著で、特に両眼の下は哀れなほど不健康にくろずんでいた。日頃の努力も、一夜の悪夢で水泡に帰してしまったのか。


「見ないほうがいいわよ」


 リビングの方向へぽつぽつ歩き出すと、普段は自信か自尊の塊然とした茅夜が、いやに微弱な声で横合いからそう忠告した。


「でも……」

「酷すぎるわ。無茶苦茶よ……誰があんなことを」


 と、込み上げる嫌悪に眉をひそめ、茅夜は長く息を吐いた。

 彼女たちの疲れきった様子は、どれも玖珠の言葉を裏付けるかのようだ。が、リビングを実際に見るまでは、紗乃を襲ったという不幸を事実と受け止めるわけには絶対にいかない。いや眼にしたとしても、即信じてしまうとは全く思われないのだが。

 背後では那珂のか細く泣く声。その中に、時折紗乃の名が混じって聞こえる。


 江奈は木扉を静かに引き開けた。

 そこには。


 ……リビングの絨毯を自ら流した大量の血液で染め、紗乃はこれもまた返り血で汚れた長椅子の傍らに、横向きに転がっていた。


「……紗乃!」


 心で思うより早く、声が口を衝いて出た。


 そんな……こんな……なんで、こんなことに?


 紺に近いブルーの七分袖のパジャマは、何処も彼処も不自然な黒色に塗られ、他人が羨むほど白かった首の周りは、救いようのない血飛沫の名残で赤黒く汚れていた。今となっては助かる見込みなどあろうはずもなかった。自分の首を掻き切った包丁を一方の手に握り締め、紗乃は……血だらけになって死んでいた。

 おぞましい色に濡れた死体の顔に、自然と眼が行った。

 江奈は反射的に扉を閉めた。


 玖珠の言った通りだった。

 事故でも自殺でもない。あの眼は――恐怖の瞬間を永遠に凝固させた、恐怖の根源を他者に見て取った、紗乃のあの眼は――自殺者のする眼つきじゃない。


「警察……呼ばなきゃ」


 ドアの把手に手を掛けたまま、江奈は固く瞳を閉じ、そして言った。リビングでの惨劇の跡は、悲しみという気持ちを胸にみ込ませるには血の気配が強烈すぎ、あまりに暴力的すぎた。


「玖珠がさっき電話したわ。もうすぐ……」


 茅夜の声が途切れる。代わりに聞く者の神経を張り詰めさせるサイレンの音が、遥かのほうより聞こえてきた。那珂の泣き声が一層大きくなった。


 連絡を受けた管轄の刑事らが永野邸に続々と姿を見せたのは、それからおよそ一分後のことだった――


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