07 Burn the Witch
階下に引き返す捜査員には眼もくれず、警部補は勾配のきつい階段を昇り詰める。そして三枚ずつ左右に並んだ部屋扉の、右手側の中央のドアを半分ほど開けると、〈北西〉が首を伸ばして室内を覗き見ているのが眼に映った。
「あのドアは、鴇田玖珠が使ったという寝室のだな」
困ったように息を吐き、警部補は尚も歩を進めたが、一方の〈北西〉は早くもその場を離れ、続いて真向かいの部屋扉の前に立った。
「その部屋は」
「那珂君の寝室ですよ」
なんの躊躇もなくドアを引き、〈北西〉が室内に身を滑り込ませる。引き止めるつもりで後を追っていた警部補も、いつの間にか後手に回ってしまったと今更ながら悔やみつつ、仕方なく入室した。
〈北西〉が扉を開け放したままの向かいの部屋と同じく、昨夜那珂が寝室として使用したこの部屋も、今は全くの無人であった。警部補を筆頭とする捜査陣が乗り込んだのち、どの部屋も例外なく調査対象となったはずなのだが、調度の極端に少ない殺風景な室内一帯は見事なまでに整頓されており、眼に優しい淡いグリーンの床絨毯には一片の紙屑すら見当たらない。
「変ですね」
那珂の荷物袋が傍らに置かれた大型のシングルベッドにつかつかと歩み寄り、〈北西〉は眉を顰めて不可解そうな顔を警部補のいるほうへと向けた。
「掛け蒲団の状態が、僕が今朝見たときと違っています。那珂君に限らず、リビングでの事件が発覚したのち、紗乃君のクラスメイト一同は誰一人として二階に足を運んではいないというのに。ここを調査した人が、後で蒲団を敷き直してしまったんでしょうか」
「私に言われても困る。この部屋を調べたのは、私じゃないからな」
「先程の捜査員の方ですか？」
「そうだ」
白い掛け蒲団と警部補にはさっさと見切りを付け、〈北西〉は絨毯に片膝を突くと、毳の具合を確かめるかの如く、丹念にベッド周辺の床を調べ始めた。一階リビングでの殺人事件に於けるなんらかの手掛かりが、その近辺に残されていると、〈北西〉はそう考えているらしい。
「口調といい行動といい……君は何か？ 探偵にでもなったつもりなのかね」
「なったつもりはありません。僕は最初から探偵です」
「君はどうも、我々のことを信用していないと見えるな。事件に関わる証拠品は捜査員が凡て押収したはずだ。彼の持ってきた被害者の日記帳が、そのいい例だよ。有力な手掛かりがまだこの階の何処かに残っているとは、私には思えんのだが」
飽きもせず絨毯を這い回る〈北西〉の背中に、敢えて冷ややかな声を投げ掛ける。返答は即座にやって来た。
「事件に関係があるかどうかは、結局は捜査に立ち会った人間が判断するものでしょう。たとえ眼の前に証拠品がぶら下がっていたとしても、それを事件に関わりなしと判断してしまえば、元も子もありませんからね。それに僕だって本当はこんなカエルみたいに床に這いつくばるのは本意じゃないですよ。『中途の家』の名探偵に倣って厭々やってるんですから」
｢中途の家？｣
｢ハーフウェイ・ハウスです｣
｢意味が判らん｣
｢そうですか。ま、判らなくて結構です。ここには抜け目ない天使のビルもいませんし、僕が捜すしかない｣
実のないやり取りを打ち切り、自称探偵はベッド下の空間に躰ごと潜り込むと、捜査員が見逃したかも知れない証拠品捜しに専念した。
と、のっそりした動作で件の捜査員が扉脇に現れた。
「警部補。リビングに二人ほど、見張りの者を付けておきました」
「捜査員さん」
警部補が語を返すよりも先に、〈北西〉は朗々たる声でそう言い、身を
「あなたが初めてここに来たとき、この蒲団はこんなふうに、綺麗に敷かれていたのですか」
溝のない敷居を跨いだ捜査員がたじろいだように眼を
「いや、横のところが捲れてました」
「では、あなたが蒲団を直したんですね」
「はあ……直したというより元に戻したといいますか。蒲団の下が気になりまして」
「気になったというのは？」
「いえ、ただなんとなく気になったんです。何か証拠品でもあるかなと。で、こう持ち上げて下のシーツに何もないのを確認した後、元に戻したんです」
悪気はなかった、そういう性分なのだというふうに、捜査員は多少ビクビクしながらも、努めて正直に答えた。
「でもですね、それ以外は一切、部屋の物を動かしたりなどしてませんよ。第一犯行現場からは距離もありますし、このくらいのことなら問題ないかと……」
という取って付けたような弁明は、矢庭に表情を険しくした警部補に対してのものか。
捜査員が戻したという掛け蒲団を捲り上げ、シーツの全面にも〈北西〉は
「さっきから何を捜してるんだ、君は」
焦れったそうに警部補が問い質す。今度は全くの無回答。
やがて〈北西〉の手は、大小様々な正三角形の図形がカバー表面にプリントされた、一抱えほどもあるクッションじみた枕に向かった。ベッド上部を覆っていた蒲団を完全に剥いだために、頭側の蒲団の下に埋もれていた枕の全貌も露になる。
「やっぱり……ここだったのかな？」
意味深な台詞を口にし、〈北西〉は右手でそっと枕を持ち上げた。シーツに深く刻まれた一本の縦皺。
「捜査員さんの着眼点、決して悪くなかったと思うんですよ」
「えっ？」
両手を乗せ重心をかけ、シーツの皺を伸ばす〈北西〉。
不意にその動きが止まった。
一呼吸置いたのち、不安げに様子を見守る警部補らのほうへゆっくり振り返り、〈北西〉は機械仕掛けを思わせる緩慢な動作で、口の端を無理に吊り上げてみせた。
「ありましたよ。遺留品」
大きな枕を脇に抱え、スッとベッドから身を引く〈北西〉。
警部補は捜査員共々寝具に近付き、枕の下に隠れていたシーツ上の死角に眼をやった。
丁度その中心部辺りに、鈍い光沢を帯びた小さな粒のようなものが見えた。留め金の撓んだ、小指の爪よりも小さい真珠型の……。
「これは……ピアスだな」
「ピアスですね……」
呆然と言葉を吐く二人の横で、〈北西〉が説明を加える。
「しかもそれは、玖珠君が耳に着用していたものですよ。下にいた彼女、右の耳のピアスがなかったでしょう」
「……おい、君はこんな物を捜していたのか？」
そう言う警部補の声には、明らかに怒気が交じっていた。
「ええ。そう言えば、〈江奈〉の奴も最近になって、耳にピアス穴を開けようかと本気で考え始めていたんですよ。僕にはどうにも理解できない心理なのですが」
「ええ、じゃないだろう！ 一体これの何処が、殺人事件の手掛かりになるというんだ？ 大体、そんなピアス如きを捜すつもりでここに来たのなら、最初から枕の近くを調べれば良かったんだ。こんな益体もない紛失物捜しに貴重な時間を費やして、何処まで我々を虚仮にすれば気が済むというんだ、ったく……」
爆発した不満が鎮火するのを待ち、〈北西〉は論すように言う。
「調査の手際に関してですが、このピアスが枕の付近にあったとすれば、玖珠君も自分で気付いたのではないか、彼女が気付かなかったということは、もしや違う場所に落ちているのではないか……と、僕はそう考えて先にベッドの下や周辺を見て回ったのです。結局のところ警部補さんの言う通り、一番怪しいと思われる箇所で、これを発見することが出来たのですが。ともあれ、捜査員さんの名誉はこれにより全的に回復されました。あなたは眼に留めたピアスを事件に無関係なものと見倣して除外したのではなく、単にピアスを見つけることが出来なかっただけなのですからね」
捜査員への弁護と洞察力のなさの指摘を同時に済ませた探偵〈北西〉は、堂々たる仕種でベッドの縁に腰掛け、それまで手にしていた枕をシーツの上に置いた。
ただ眼をぱちくりさせるだけの捜査員の傍らで、警部補は疲れたように長い溜め息を洩らし、
「単なるピアス一個が、下の事件とどう繋がるというんだ」
と、矢折れ刀尽きといった風情で呟いた。
用心深く
「確かにこれは、結合部に緩みが生じただけの、ただのピアスに過ぎません。しかし警部補さん、おかしいと思いませんか？ そもそもこの部屋を利用していたのは、那珂君なんですよ」
「……ああ、そうか！」
突如、警部補の顔に異様な赤みが射した。豹変と言ってもおかしくないほどの、それはなんとも急激な顔色と心境の変化であった。
体内から沸き出る興奮を抑えようともせず、警部補は心のままに口を開いた。
「彼女たちは、やはり嘘を吐いていた。鴇田玖珠は昨夜、西側の自分の部屋でなく、この部屋で眠ったんだな。零時半過ぎに二階へ上がった彼女は、寝室を間違えた但馬那珂が自分の部屋で眠っているのを見つけた。気持ち良く寝ている彼女を無理矢理起こすのは
だが、自信に満ちた怪気炎もここまでであった。俄かにその太い首を捻り、警部補は弱り果てたように、
「いや、しかし……それが一体どうしたというんだ？ 自分に宛がわれた部屋で寝たという彼女らの証言は嘘と判ったが、それより先の事実は……つまり鴇田玖珠と但馬那珂の二人が、それぞれ違う部屋のベッドで寝ていたというだけのことじゃないか」
「ええ。彼女たちのアリバイ証言には、確かに虚偽も含まれていました」
「だから、それがなんだというんだ。え？ その事実が、肝心の事件にどう影響するというんだ」
「影響がないからこそ、彼女たちは潔白なのですよ。ただ、どうも警部補さんの推理は要所要所を外しているようですね。あれを見て下さい」
そう言い、〈北西〉はドアの開け放たれた廊下を指で示した。
西側の部屋扉も少し前に〈北西〉が開けたままだったので、警部補と捜査員が立っている場所からでも、同じ形状のベッドが置かれた向かい部屋の、室内正面部分を眼にすることが出来た。
「あちら側のベッドも、きちんと整頓されていますよね」
〈北西〉の言う通りである。あれもお前がやったのか、と、警部補が鋭い眼で捜査員に無言の詰問をぶつける。
「とんでもない！ あの部屋の蒲団は、最初からあのままでした。無論、全く手は付けてません」
顔の前に立てた手と首を交互に振りつつ、捜査員は何も失態はしていないと懸命に抗弁した。
「今朝僕が見たときも、玖珠君のベッドはああなっていました。手入れがされたというより、まるで誰もあのベッドを、一度として利用などしなかったかのように、ね」
腕白坊主のように大袈裟に身を揺すり、心得顔の〈北西〉は弾力を楽しむように厚いベッドの発条を幾度となく
「彼女たち二人が昨夜はこの部屋で
「なな、何？」
今度ばかりは相手のペースに乗せられまいと、警部補は出口に歩を向ける〈北西〉の前に慌てて立ちはだかり、頼りない千鳥足の如き口調で、
「待て、君……なんだと？ 同衾？ 彼女たちが？ ここで？ ………何故だ……言ってることは判るが、その……君の言いたいことが、私にはさっぱりだ。何故あの二人は、同じベッドで、一緒に寝なくてはならなかったんだ？ どんな理由があって……」
「二人は愛し合っていたのです。それ以外の理由など、彼女たちには必要ありません」
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