08 Pop is Dead

 へ……と口唇を突き出し、馬顔の捜査員はその体勢のまま一気に金縛り状態に陥った。

 警部補に至っては両の眼玉を限界までひん剥き、いつ泡を吹いてもおかしくない卒倒寸前の相貌に。


「そんなに驚くこともないでしょう。些か刺激が強すぎましたか? これでも表現には気を遣ったほうなのですがね。それに、行動の対症的観点から見た症例としては、女性の同性愛者のほうが男性の同性愛者よりも遥かに軽度であるのです。男性同性愛者が全的な精神的逸脱によって原初の愛の対象たる母親から離反するのに対し、女性同性愛者は単に原初の愛の対象に愛着し続けているだけなのですから」


 流暢な論弁の後には、下の階の二人に関する本格的な講釈が続く。


「とはいえ、彼女たちの場合は肉体交渉がどうのという前に、きっと精神的な、深い恋愛感情が根柢にはあったのでしょう。二人が日常から仲の良い姉妹のように懇意にしていた様子は、茅夜君や紗乃君に限らず、〈江奈〉の眼を介してこの僕自身も見知っていましたからね。

 醒めやらぬ恋愛感情が昂じてか、昨日の夜、玖珠君は那珂君が横になっていたベッドに自らも入り、同じ蒲団の中で睦み事に興じたのです。あちら側の寝室のベッドは、本当に誰も使わなかったというわけなんですよ。少々意地悪な言い方をさせてもらうと、ほかの人たちが寝静まったのに乗じて彼氏のマンションヘ向かった茅夜君同様、あの二人も友人宅への外泊という絶好の機会を自分たちのために利用したのだと、そう捉えることも可能ですけどね」


 暫しの沈黙。

 最初に息を吹き返したのは部下のほうであった。呪縛から解き放たれた捜査員の彼は、長い顔を己が手でしたたかに擦りやったのち、


「あの……差し出がましいようですが、こうは考えられませんか? その、一緒に寝ているところを偶然被害者に見つかってしまったので、羞恥の余り殺害してしまったと」


 そう言い、相手の出方を窺うように僅かに腰を屈めた。


「む……そ、そうだ。そうとも考えられるな」


 続いて我を取り戻した警部補も、捜査員の意見に賛同し、相手の出方を待つ。


「考え方としては、それも悪くないでしょう。ですが、そうすると応接室にいるあの二人の、友人に死なれたという心底からの悲嘆ぶりは、凡て悪質なお芝居ということになってしまいますね。ただまあ、その点は僕も無下には否定しませんよ。あなた方が思っている以上に、女性というのはですからね。しかし、紗乃さんの死体が発見された場所については疑問が残ります。被害者がリビングで殺害されたということは、ほかの場所に全く血痕が見られない点でも明らかです。もちろん、被害者がなんらかの方法で気絶させられたのち、リビングまで運ばれ、そこで首を刺されたのだとする解釈も、可能性としては皆無ではありませんがね。確かな物的証拠があればの話ですが」


 エンジンの低音を轟かせて敷地内に入ってきた車の音に、室内の三人は同時に窓へと視線を巡らせた。


「誰かのご両親が、到着したのでしょうかね」

「いや、あれはうちの車両だ」

「そうですか。では、そろそろ下に戻るとしましょう」

「何、もう終わりなのか?」


 掌中のピアスを改めて見せ、〈北西〉は最後にこう言った。


「僕はただ、玖珠君と那珂君がアリバイを強く主張できなかった理由を、眼に見える形で警部補さんたちに示したかったのです。検証は終わりました。もうここに用はありません」


 〈北西〉を先頭に、一行はゾロゾロと階段を降り、一階応接室に引き返した。余裕の表情を崩さぬ〈北西〉に引き換え、警察の二人は釈然としない心持ちを隠そうともしない。


「……すると、あの日記に書かれた出来事は、結局今回の事件とは何一つ、繋がりを持っていなかったということなのか」


 下り階段の途中で警部補は降参気味に頭を掻き、率先して足を進める二重人格者の、艶のある黒々とした頭髪を恨めしげに見やった。


「そうです。殺人事件に関しては、という但し書きを付けたほうが、より正確ですけどね。彼女たちには彼女たちなりの、本当のアリバイを告げることが出来ない切なる理由があったのです」

「フン、切なる理由とな。いや、しかしだな、殺すとまではいかなくとも、あの三人にはそれぞれ、被害者を恨むに足るだけの理由が立派に存在したんだぞ。被害者の遺した日記に、そのことはちゃんと記されていて」

「あの日記は、何もかもが所有者の、被害者側の視点によって書かれています。犯人自身の告白でもない記述から、犯人の心理を窺うことなど出来ませんよ。あなたがそう主張したいのならば、眼に見える確かな証拠を捜し出すことですね」

「君はそう言うがな……要するに、永野紗乃が日記を書くのをやめたのは、別れた男性が三浦茅夜と付き合っているということに、ただならぬショックを受けたからなのだろう。昨日の晩、相当ヒステリックになっていた永野紗乃にざまののしられ、発作的に茅夜さんは」

「そんなに慌てて捲し立てると舌噛みますよ。警部補さんは女性という生き物を、一面的にしか捉えていないのです。蛇のように執念深い女性もいるにはいるでしょうが、反面、非常にドライな感性を持った、さほど物事を深刻に考えない女性だっているのですから。あなたの女性理解は、偏見の域を脱していません。水準以下もいいところです」


 あしらうように言い、〈北西〉は気取った足取りで応接室の戸口を潜った。

 舌こそ噛まなかったものの、戸口向こうに消えた弁舌巧みな若者に旨く丸め込まれたようで、警部補は身中の虫に器官を蝕まれるライオンの如き苦い面持ちである。加えて彼は〈北西〉の語った玖珠・那珂両人の事件当時のアリバイを、茅夜や捜査員のいる前で直接本人らに問い質すべきか否か、かなり真剣に悩んでいた。余人の立ち会わぬ何処かほかの部屋でなら、両者のいずれかが白状するかも知れないし、それでも双方共に頑として口を割らないかも知れない。

 足早に後を追った警官二人は、廊下に背を向けたまま〈北西〉が戸口の先に突っ立っているのを確認した。応接室に入って間もなく、なんの故あってか〈北西〉は自らの歩みを止めてしまったらしい。


「なんだ、どうした?」


 返事を寄越さぬ〈北西〉を怪しみながらも、警部補はその背を押し退けるように室内に入り、落ち着かない様子で椅子に座っている三名の少女らとリビングの扉脇に立つ二名の見張りのほかに、新たに二人ほど人員が増えているのを知った。

 事情聴取が始まった頃、現場で見つかった証拠品を鑑識に回すよう命じられた背の低い警官と、今一人は紺色の作業着を着た若い男であった。どちらも警部補の部下である。


「警部補。南側の庭の草むらに、これが」


 まず最初に作業着姿の男が、白手袋を嵌めた手で提げ持った透明のビニール袋を、僅かに掲げて言った。

 密閉された袋の内部に、十センチにも満たない高さの、茶色い硝子壜ガラスびんが収まっている。筒状のどの面にもラベルは貼られておらず、蓋のない壜の中身は空っぽであった。


「表面は布か何かで拭き取られていまして、残念ながら指紋は検出できなかったのですが」


 室内の見張りを任せた部下たちを現場に戻すと、警部補は男に手渡されたビニール袋をためつすがめつ覗きやり、


「ふむ……庭土か何かで少し汚れてはいるか、そう古いものでもなさそうだな。蓋は見つからなかったのか? これが落ちていた周辺の様子は?」

「庭一帯や、念のため屋内のゴミ箱も調べてみたんですが、蓋と思われる物体は見つかってませんね。壜が見つかった現場周辺にも、特に異状はありません。壜の中身とおぼしい物も、液体が零れたような跡も発見できませんでした」

「そうか……あの錠剤!」


 警部補の眼が、すかさず小柄な警官のほうへと向けられる。

 我が意を得たとばかりに、警官は口を切った。


「はい、リビングで見つかった例の錠剤の件なんですが、つい先程、本庁の科研から正式な結果が出ました……パシフラミンだったそうです。比較的入手の容易な催眠鎮静剤だとか」

「睡眠薬か……」


 その鑑識結果に、警部補は睡眠不足を訴えるかの如く両眼をギラギラ輝かせ、


「被害者は生前に、犯人の手で睡眠薬を飲まされていたんだな。してこの壜は、犯人が睡眠薬の錠剤を入れるために利用したものだ。これで私の考えた通りに事実も繋がるぞ。犯人は睡眠薬によって意識を失った被害者をリビングにて殺害し、然るのち、空になった用済みの壜を庭に捨てたんだ」


 捜査員の推理をも自分の手柄のように語り、警部補は殆ど浮かれ顔で、戸口に立ち尽くす〈北西〉を勢い良く振り返る。

 見るからに顔色の優れぬ〈北西〉は、こめかみに手を当て、しかしロ調だけは平素と変わらず、


「それは違います。被害者は……紗乃君は、睡眠薬など飲んでいないはずなんです」


 と呟くと、そのまま下を向いてしまった。


「警部補、この方は?」


 〈北西〉を指差しての警官の問いに、警部補は〈彼女〉も事件の関係者であるという最大公約数的な物言いで、適当にお茶を濁すことにした。人格障害云々という説明は、口にした自分がその解釈を認めてしまったのだと誤解されそうな気がして、たとえ信頼の置ける部下に対しても明かすことは出来なかった。


「実はですね……錠剤の正体が判明した後、警察病院の検視の者に問い合わせてみたんです、被害者の状態について。ところが、薬を服用した跡は当のホトケさんには見られなかったというんですよ」

「なんだと。そりゃ本当か」

「はい。その問題のパシフラミンというのが、生薬配合で一粒の効き目がクロロホルムの数十分の一という実効性の薄い薬でして、薬物に免疫のない人でも大量に摂取しないと睡気を催さない、弱い錠剤らしいんですね。で、ホトケさんの体内にそれらしい痕跡は少しも見られなかったと」

「じゃあ、その睡眠薬は一体何処で使われたんだ。誰が誰に飲ませたというんだ、その錠剤を」


 〈北西〉が登場してからというもの、常に明晰でなければならぬ思考の調子が図らずも狂いっ放しであることを、警部補は改めて自覚せずにはいられなかった。今話したばかりの犯行説を一瞬にして覆され、彼は苦々しげに頭を抱える。

 そして……何故か〈北西〉も頭を抱えた。


「そ、そうだ、彼女らのアリバイを、質さなくては」


 頭を押さえたまま、警部補はふと中央の黒テーブルに眼をやった。厚手の装丁が施された日記帳と、それを取り囲むように坐す三人の少女たち。

 彼女らの純粋な驚きの眼差しを一身に浴し、警部補はますます訳が判らなくなった。何か言おうと開きかけた口を慌ててつぐみ、唸るように声を絞り出す。


「駄目だ……単なる物盗りでもないとすると、一体誰が……駄目だ……何も判らん」


 己が苦悩の世界に没入せんとする警部補を、間延びした相貌の捜査員が辛うじて引き止める。


「警部補。用途について考えるよりも、錠剤の所有者が誰なのかを突き止めたほうが早いのでは? 錠剤そのものは、犯行現場で見つかったのですから」

「そ、そうか、そうだな、それがいい……いや、それしかない」


 警部補は希望の光を爛々と眼に灯して身をもたげ、これまでの会話を顔面を蒼白にして聞いていた席上の三人に向き合うと、尊厳には程遠い掠れた声で、


「えー、どなたかこの中に、パシフラミンという睡眠薬を所有していた方はいませんか」


 ストレート過ぎるそんな質問に、答える者は誰一人いない。


「ああ、今の訊き方はちとまずかったですな。皆さんの中で、例えばこう、寝不足で悩んでいたとかいう方を、誰かご存じではありませんか」


 しんと静まり返る室内。少女たち各々の記憶が、視線が、問いに対する答えを指し示した。

 彼女たちの眼が一様に向けられた先――それらの視線を辿るように視界を巡らせた警部補の眼の先に――〈北西〉がいた。


「〈北西〉、いや……江奈さんが?」


 頭痛を訴えるように頭を両手で抱え、何処となく滑稽な動作でグラリと前方にのめった〈北西〉は、警部補にも劣らぬ掠れ声を咽喉から洩らし、小さく、低く呟いた。


鹿…………」


 警部補の背筋を、何か冷たいものが走った。〈北西〉の口調でもなければ、元々の人格である〈江奈〉の口調でもない。

 同じ江奈の肉体から発せられた、それは全く聞き憶えのない言葉遣いだった。


「……ったくよー、世話ねえぜ。てめえでよその連中のアリバイなんぞ証明しやがって。何やってんだ、阿呆がよ」


 と、ぶつくさ文句を吐きつつ、自分を見る周囲の眼を怯むことなく睨み返す。


「き、君は、〈北西〉じゃないのか?」


 逸早く問い質す警部補。状況が呑み込めない新参者の警察関係者二人も、突然の変化を遂げた場の異様な空気に互いの眼を白黒させている。

 未だかつて一度も警部補らに見せたことのない悽愴せいそうたる気配をその眼許に浮かべ、先刻まで〈北西〉と呼ばれていた少女は開き直ったように言い放った。


「あんな能書き垂れの間抜けと一緒にするんじゃねえ。俺は〈イーストウッド〉だ。〈イーストウッド〉、カタカナ書きでな。なんか寡黙で強そうだろ? よぉーく憶えとけってんだ。そういやあの勝気な顔した嬢ちゃん、もう隣の部屋にはいねえみてえだな。確か紗乃とかいう」

「なんだお前は! 警部補に向かってなんという口を」

……ハハハ……

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