最終話 無意味さの表れ


              


 夜の街道を三台のワゴンが走っている。その上、建物の屋根から屋根を渡り小野崎加恋は移動していた。

 竜胆を殺しきることができなかった今そうする他ない。何の準備のない状態で当たっていい相手ではなかった。

『大錆寺に着き次第、プランBを実行します。悲恋と哀歌の準備はできています。介山さまも今のうちに』

 持たされたトランシーバーから善光の焦った声が聞こえた。わかってる、と答え、思わず吹き出す。善光と同じく小野崎加恋にも焦りはあったが、同時に愉快も感じている。

 後方、振り返ると、夜空に人影が見える。髙崎竜胆だ。こちらを見逃すつもりはないらしい。

「来てるぞ」

 竜胆ははっきりと小野崎加恋の姿を見つけていた。市街を走行中の三台を見つけるのも時間の問題だろう。いや、すでに見つけているのかもしれない。

『やつは今なにをしていますか』

 小野崎加恋は住宅からバスへ着地した。

「浮いてる。運がいいな、待っていてくれるみたいだぞ」

『古き霊能者ってのはみんなそうなのか?』

 呆れ声の悲恋に小野崎加恋は再び笑いを零した。

 ともかく、これで逃げている間にやられるということは、恐らく、なくなった。後は大錆寺まで一直線、遠慮なく迎撃の準備をさせてもらおう。

 

「第一斑は敵が来次第結界を張って閉じ込めろ。第二班は魔法陣の調整だ!哀歌!こっちに来い!」

 大錆寺の境内に車を止めたエルロイ・カンタルロイの一団はコンバットスーツの男、悲恋の支持をもとに行動を開始した。善光はすでに本殿にて攻撃の準備をし、小野崎加恋もまた悲恋と哀歌の援護の態勢に入る。おい、と悲恋の声。

「あの女の流派や、信仰について教えろ」

「ああ、お前たちが最初に聞かなかった奴だな」

 小野崎加恋はくつくつと笑った。その額に銃口がつきつけられる。

「基準がお前だったからだよ、恒久の霊能術師」

「まあ、いいだろ」


                  ▽



「まず霊能力者なら髙崎という苗字に聞き覚えはあるよな。燕野、大弐に並ぶ旧家三門の一つだ。お前らの言う古き霊能者たちの中でも代表的な奴だな…早い話、竜胆はそこの元統主だ」

「元?女の統主だったのか?」

 小野崎加恋は苦笑した。

「あいつは女じゃない。男だ。あの服装はただ自分に一番合っていると思ってるからそうしてるだけ…今は関係ない。話を戻すとだな、髙崎の家は元々占星術から発展した宗派だ。星の力を借りて霊能術を行う。あいつは力は強いが、星とは無縁の存在だ。わけもわからないが、強い。元になっているのがもし星ならバイパスを遮断して霊能力を無効化できるんだがな…あいつにはそれができない」

「つまり正攻法なんてない…ってわけだ」

「ああ。あいつを殺そうと思うならまず時間をかけて力の根源を調べなきゃいけない。さっきも言ったが、普通にやっても勝てん、やらなくても負ける。そんなやつだ。あとは大いなる自然や生物の避けえない摂理にどうにかしてもらう他ない」

「…それじゃあ、どうしようってんだ」

「一つだけ、手段がある」

 小野崎加恋が言う。

「あいつは見たことがないものに初見で対応することができない。あいつは何でもできるが、何でも知ってるわけじゃない。現に俺を切ることはできなかった」

 だが、二度目はない。

「あいつにとっては一度見れば十分だ。一度切ることができなかったなら、切ることのできる攻撃を繰り出す。たとえ理論を知らなくても」

「お前のそれがどこまで真実かは知らないが、虚仮おどしであることを祈ってるよ。お前みたいにな」

「同じ防御を施した叨がやられた。冗談にならないよ」

 だから一つだけだ。と小野崎加恋が言う。

「あいつの知らない攻撃を繰り出せば、通用する可能性もあると」

「無論あいつだってただでは受けてくれない。さっきの爆破の時も地面ごと崩して避けた。初見殺しだろうと、受けなければ一緒だ」

「受ければ変わる」

「攻撃を受けても、恐らくあいつは死なないだろう。俺のように血縁の誰かに入り込むか、ただ攻撃を受けた瞬間にどこかへ逃げるか。どちらにしてもここからはいなくなってくれる」

「ホント、虚仮おどしならいいんだけどな」

 悲恋は刀に手を当てた。そしてトランシーバーを手に取った。

「刀にあらゆる呪いをかける。あらゆる因果を越える斬撃をうてるように。善光、できる限りサポートしてくれ」

『わかった。やってみよう』

「いくぞ。やつを倒す」


 最後の戦いの時が迫っていた。

 悲恋と哀歌は拘束と遅効の呪いが込められた魔法陣の際に陣取っている。悲恋はその手に真っ黒な刀身の刀と、小ぶりなサブマシンガン。哀歌は巫女服にプロテクターを装着し、手には錫杖。二人とも首から下げているのは、エルロイ・カンタルロイの主神ハーヴェストの加護を賜った災難除けの首飾りである。

 幹部級、善光は座禅を組み、本殿から遠見で竜胆の力を分析しようとした。

 小野崎加恋は、はるかに後方、境内の神木の前を陣取り、三方、エルロイ・カンタルロイの巫女と方陣を形成し、蓄えられた力を悲恋と哀歌へ流している。

 残りの手下たちもまた各々特別製のライフルや携行型ロケットランチャーを構え、本殿や社務所の屋根に待機している。

 周囲に緊張が走る――敵は、こちらの最大火力をあっさりと生き残った強者だ。理論上の策はあるが、いかんせん時間が短い。

 上空を警戒していた一人が、足音を聞き、ふと下を向く。

 竜胆の姿があった。髪型は複雑に結び、白蓮の着物には一つの乱れもない。今から結婚式にでも出向こうかという軽やかな足取りで、しかし品高く、一つずつ段差をこえていく。髙崎竜胆は、律儀にも境内まで階段を上ってきた。

 火器を持った何人かが竜胆に狙いを定めた。

『いつでも撃てます。指示を』

「撃っていいぞ。できるだけ時間は稼げ」

 

 放たれた一斉射撃を竜胆は全て西洋剣で叩き落す。そこまでは同じだったが、銃弾が効かないとあっても撃ち続けるを見ると、竜胆は手をくっと握りしめた。ライフルや携行式ロケットランチャーがその手を巻き込み、丸くつぶれた。


 部下の悲鳴を聞きながら、しかし悲恋は冷静に時を待った。

 刀の準備はできている。こちらの攻撃する用意は整った。あとは髙崎竜胆を切るだけだ。

 髙崎竜胆は神木の前に座る小野崎加恋を見ると、あなたが相手ではないのですか、と云う。

「ああ、そいつじゃ力不足だからな。俺が相手するぜ」

「その割に、随分数が多いようですけど」

 竜胆が魔法陣の中に入る。瞬間、悲恋と哀歌が走った。ライフルの弾をぶちまける。竜胆は剣を振り、自分が思うほど速くないことに気付いた。だがそれでもなお、銃弾は遅い。竜胆は上空に跳んだ。同時に哀歌の持つ錫杖が鳴らされる。悲恋が竜胆の背後に出現した。一瞬、それだけ竜胆は悲恋に気付かない。

 悲恋からすればその一瞬で十分だ。竜胆の位置まで跳び、神速の抜刀術が竜胆の首を跳ね…ない。気づかなかったはずの竜胆は、しかし空中で回転して悲恋の攻撃を防いだ。

 ここまでは予想の範囲内。

 悲恋の刀にかかった呪いが発動した。西洋剣に切れ込みが入る。その刃と刃を通して電撃が流される。竜胆は西洋剣を手放すことでその攻撃を回避しようとする。西洋剣を両断し、空振りしようとする悲恋の刀。

 ここもまだ、予想の範疇。

 三つ目の呪いが発動した。因果を捻じ曲げ、悲恋の刀が竜胆に迫る。

 竜胆が目を見開いた。驚きからではない。力を込め、視線に霊能力を注ぐことで黒目が大きくなった、それだけに過ぎない。ここだ。竜胆の視線が赤く輝き、光線となって刀に命中、悲恋の体ごと焼き切り、悲恋の防御を担当していた善光もまた光線によって霊能力を根こそぎ持っていかれ、衰弱死した。

 小野崎加恋はこの攻撃を強制回避させなければならなかった。西洋剣に刀が沈み込んだところで、悲恋と哀歌に注ぎ込み、哀歌の錫杖が再び悲恋を竜胆の背後に移動させた。

 方陣を利用した限定的な未来予知。それこそが計画の要であった。

 電撃は流れない。西洋剣の中頃で斬撃を止め、背中のライフルを竜胆の前に出した。銃撃、竜胆は銃弾を息吹で腐らせる。悲恋はこの攻撃に耐えた。善光は先ほどの光線を防ぐことはできなかったが、この攻撃には耐えさせた。しかし武器がない。溶けかけのコンバットスーツのまま、拳で竜胆の左胸を叩こうとした。拳が着物に飲み込まれる。入る先、痛みと喪失感が襲う。竜胆のそれは普通の着物ではない。呪いをかけられた人食いの衣服だった。強制回避。西洋剣が刀に当たる寸前で悲恋を背後に移動させる。

 悲恋の攻撃。刀が胸を貫く。着物に食べられる。食べられたところで刀を離し、悲恋は竜胆の顔面に拳を届かせる。避けられ、そのまま首筋を食いちぎられる。訂正。悲恋の攻撃は竜胆の首元を狙う。竜胆が小さく放った息吹が竜胆と悲恋の距離を離す。

 訂正。悲恋の刀は竜胆の喉を狙う。竜胆が袖で受け、刀は食われる。訂正。左手で竜胆の首を攻撃し、右手に持ったライフルが竜胆の顔と首を狙う。竜胆は喉から音波を発生させ、刀を砕く。物理や呪い、ほぼすべての攻撃を無効化する呪いをかけた刀は、超音波という方法で砕かれる。ライフルの弾は竜胆が食う。悲恋と哀歌の鼓膜は破ける。

 訂正。

 訂正。

 訂正。

 訂正。

 訂正。

 ていせ「面白いことをやっていますね」

悲恋の始めの攻撃まで予知が戻されたところで、竜胆が言う。竜胆は顔の前に着物の袖をかざし、地面に西洋剣を突き刺した。ライフル弾は全て着物に食われた。西洋剣から膨大な霊能力が流れ、地面を通して方陣を築く四人に流れ着いた。

 人には人の器があるという。

 小野崎加恋とともに方陣を構成していた巫女三人は霊能力の飽和によって体を結晶に変えられた。

 これが現実になった。なってしまった。

 時間の超越。知らないことは知らないまま、であるならば、悲恋は何度でも竜胆に攻撃を行える。しかし竜胆はあっさりと時間の枠を超え、自らも同じ未来予知を行うことによって可能性を収束させた。

 悲恋は止まらなかった。結晶化した巫女を見やり、納刀されたままの刀に手を添え、竜胆に特攻を仕掛けた。悲恋の突きが竜胆の首を狙う。ここまでの未来予知の記憶が悲恋に最善の攻撃を思いつかせる。

 竜胆は首をひねって、ただ切っ先を避けた。竜胆の掌底が悲恋の胸に衝突し、防御の許容を超え吹き飛ばされる。悲恋の体は境内を回転しながら社務所に突き刺さらんとする。哀歌の錫杖が回転の位置を変え、悲恋は哀歌に激突し、小野崎加恋のすぐ傍で停止した。

 善光の吐血が本殿の床を汚す。

 竜胆は善光の咳き込んだ先に目をやった。

「これで…終わりですか」

 悲恋と哀歌はもはや十全に動くことはできない。善光は霊能力が枯渇し、瀕死に追い込まれた。構成員たちもまた、腕をつぶされ、ずたずたにされた血管から流れ出た血によって出血多量、死は近い。

 終わりだ。

「連れてくると思ったんだがな、お前が気にかけていた娘、あれは死んだのか?」

 巫女たちが死んだことでそこに居続ける意味がなくなったのだろう、小野崎加恋が神木の前から腰を上げ、満身創痍の悲恋の隣に立った。

「いえ、生きてますよ。連れてくるつもりだったのですが彼女にはフラれてしまいまして…今は傷心中です」

「つけ込んでほしい?」

「ええ、今なら少しは妥協しますよ…そう、そこの子とか」竜胆が哀歌を指さす。「貴女、どれだけ離れているかはわかりませんが、私の血縁みたいですし」

「へえー…そうか」

 小野崎加恋が哀歌を意味ありげに見る。

「おい、お前ら何を勝手なことを抜かしてやがる。妹が怯えてるじゃねえか」

 悲恋のライフル弾が竜胆によってはじかれる。

「妹?ですが貴女とその子には…」

「うるせえ!」悲恋が竜胆に切りかかる。竜胆は切っ先をサイドステップで避け、ライフルの銃身をつかみ、明後日の方向に向けた。銃撃の振動をものともせず竜胆は悲恋の斬撃を西洋剣で受け、ライフルの弾が切れたところで悲恋を突き飛ばした。

「悲恋、落ち着いて」

「……」

「あなた方が私の友人を殺したりしなければ、こんなことしなくて済むのですが」

 小野崎加恋がさっと顔色を変える。

「お前が言うな。先にこの子の家族を殺したのはお前だろうが」

「煉獄からでもこの世界に干渉ぐらいはできたでしょうに。死者が現世に帰ろうなどとするのがいけないのです」

「そうか。だがお前は調整者でも裁断者でもない。ただ強いだけの霊能者だろう。神にでもなったつもりか?」

 竜胆はいっそ慈愛すら感じるほど、やわらかに笑みを浮かべた。

「それは違いますよ、介山。強いことには責任が伴うのです。大いなる力には大いなる責任が伴う。かの有名なベンもそう言っていたでしょう」

「…ふざけたやつだ」と悲恋が零す。哀歌が後ずさり、ぐっと身を抱きしめる。

「ああ、そいつはふざけたやつだよ」小野崎加恋は疲れたように言う。「問答は無意味だな」

「別に続けてもいいのですよ?」

 竜胆が西洋剣を小野崎加恋に向ける。その意味を全員が理解している。

「いや、いい」

 小野崎加恋が亀骨の短剣を構えた。

 悲恋はライフルを地面に捨てた。刀を鞘に戻し、再度抜刀の態勢に戻った。

「やめて」哀歌が悲恋の袖を引く。

「お前は下がってろ。邪魔だ」

「勝てない。やめて」

 悲恋は苦々しく呻いた。それは彼自身が一番わかっていることだった。小野崎加恋が言っていたとおり、これは教育なのだ。自分が無力なゴミだと、徹底的に教え込まれている。

 あるいは小野崎加恋が逃げていたならば、彼もまたそれに従ったのかもしれない。竜胆もまた、逃げる小野崎加恋と悲恋を追わないかもしれない。竜胆の今の目的は哀歌だ。それさえ解消してしまえば竜胆は能動的な行動をやめるだろう。

 だが小野崎加恋は覚悟を決めた。悲恋もまた覚悟を決めた。悲恋は柄に手を当てた。哀歌のためだけではない。プライドのためでもあった。

 哀歌もまた、兄のそうした感情を理解していた。だが彼女はプライドをかけてまで命を捨てる気もない。逆に、命のために兄が死ぬことを看過できなかった。

「わたしが行く、死ぬことと同じじゃない。だから…」

 次の瞬間、小野崎加恋が動いた。

 小野崎加恋の攻撃は至極単純だった。亀骨の短剣を投げ、悲恋の背後に強力な追い風を吹かせた。追い風を推進力に、悲恋は先ほどよりも遥かに速い抜刀術で竜胆の首を落としにかかる。

 竜胆は西洋剣を振り上げた。一秒に満たない刹那、悲恋の刀はその左半身とともに、地面への落下を始める。勝負は一瞬で終わった。悲恋は速い。しかし竜胆はその上を行った。

「腕だけ切り落としたつもりだったのですが、思ったより速かったみたいだ」

 竜胆は悲恋を見下ろし、静かに呟いた。

 哀歌は悲恋の死体に近づいた。三分の一になった悲恋にうつむき、さめざめと涙を流す。

「はっは」小野崎加恋の笑い声が聞こえた。「ははっはっはっはははははっ」

 竜胆は西洋剣についた血を掃った。

「…みんな、お前ぐらい強ければよかったのにな」

 小野崎加恋は地面に膝をついた。

「もうわかってるんだろう?竜胆」

「君に協力者はいなかった…君が協力者のほうだった、そういうことですか?」

「いや、もっとひどい」小野崎加恋は顔を上げた。笑顔が顔に張り付いていた。「俺はこいつらに殺された。あっさりと、抵抗する暇もなく」

「殺されたこと自体は知っていましたが。彼らが相手でしたか」

「俺はお前が嫌いだ、竜胆。全能面して俺たちと話すところが。お前とて女の股から生まれたことに違いはないというのに。だが同時に、それを納得してしまう、自分のことが嫌いだ。俺は喜びを抱えている。俺を殺したこいつらを、お前は簡単に倒して見せたことに。最悪だ。そうだろ。だが誇りに思っているよ。お前が強いことを」

「ありがとうございます」

「そういうところは嫌いだ」

 西洋剣が小野崎加恋の頭部を貫いた。


                  ▽


 こうして事件は終息した。大錆町連続爆破事件は、三件、犯人は不明、目的は不明、すべて不明のまま、迷宮入りすることになる。エルロイ・カンタルロイの幹部級および構成員の死は内密に処理された。この件について真相を知っているものは、この世にいないとされている。

 

 古子は残骸の前にいた。数週間前に爆破された安アパート。大錆町連続爆破事件の最初の事件現場だ。古子は以前の個々の住民であり、現在は大学近くのボロアパートに居を置いている。

 あの事件は古子の知らないところで終わった。あの後、病院の前で警察に保護された後、いろいろな人に話を聞かれたが、古子は決めた通りすべてを知らないで通した。

 最後に一度だけ、竜胆と顔を合わせた。竜胆は変わらず白蓮の着物を着て、以前と同じ、古子の以前の住居を模した部屋に現れた。

 違ったのは、近くに巫女服の少女を置いていたことだ。彼女は何なのだろうか、少しだけ気になったが、古子は何も言わなかった。


「一応、報告しておこうと思いましてね。貴女にかかっていた呪いは、善光が死んだ時点で解除されました。安心していいでしょう。そして貴女が今住んでいるのは大錆神社の北東。そちらにはこれといった特殊性はありません」


「全てあなたの望みどおりです」

「望みも何も、これが元から正しい姿だよ」

「そうでしょうね」と竜胆が言う。

「ですが、それは幸運なことです。大切に生きてくださいね」

 いろいろな犠牲がありましたから、と竜胆が言う。

 古子は一言、うるさい、と返した。


 古子は半壊したアパートを見上げたが、そこにはなにもなかった。


 得たものはなかった。失ったものもまた、なかったと言って構わなかった。結局のところ、破壊された部屋も、看護師や警備員も、小野崎姉妹も、グスク・ニエも、古子の大切なものではなかったからだ。

                

 古子はしばらくして、大学の近くのマンションに引っ越した。爆破されてしまったため、必要なものすらない。殺風景そのもので、しかしすぐ近くに小さな公園のある、眺めの良い部屋だった。


「つってもまあ、ずっと見てると飽きるよね…こういうの」

 もったいない、と零してベランダから部屋に戻る。

 古子は壁に寄り掛かった。

 暇で仕方ない。

 漫画を買いに行こう、と思い立った。それは無意味で、また不必要なことだったが、古子はそういうものが好きだった。

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流されるまま、枯木のごとく 柏木祥子 @shoko_kashiwagi_penname

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