或る旅行者の霊界通信

三色だんご

第1話

或る旅行者の霊界通信

 私が最後に旅した国について書こう。そこで私は逮捕され殺されてしまったのだが。しかし、断っておきたいのだが、ジャーナリズムのような正義感で書くのではない、ただこんな珍妙な国があったよということを笑い話として紹介したいと思って書くのである。

 その国(国の名前は現地の言葉で「大きな河の共和国」を意味する)では、男子と女子がきっぱりと分けて教育される。男子に対する教育は、二十世紀前半ぐらいの先進諸国とだいたい同じような内容だと言える。国を愛し、隣接した敵国を憎み、立派な軍人になるか、或いは世のため人のため国のために奉仕する立派な民間人になるように、男子を教育する。

 一方、女子への教育は毛色が異なっている。男子の進路の中でもっともヒエラルキーが高いのが軍人であるのに対し、女子の進路の最高峰は、セレモニーガールという特殊な職業である。セレモニーガールは、いわば国営のアイドルのようなものである。国や軍の式典で、或いは旗を持ち、或いは舞を踊り、或いは音楽を奏で、その他様々な式典の華を彩る少女たち、これがセレモニーガールである。彼女らはこの国できわめて重要な位置を占めている。セレモニーガールは、ほとんどの男子の性的関心の対象であり、ほとんどの女子のあこがれの対象でもある。しかるに、彼女らは、国家そのものを象徴している。というのも、政府当局からの重要な情報発信は、式典であれ、プロパガンダであれ、アジテーションであれ、全て彼女らを通して発表されるからである。従って、セレモニーガールたちの歌や踊りや華々しい衣装に熱狂する男女は、とりもなおさず政府当局の情報発信に熱狂していることになる。

 この熱狂を支えているのが、厳格な男女別の教育制度である。男子は、とくべつ変わった教育を受けるわけではない。自宅から学校に通い、学校で知徳体を鍛え、上級学校や職場へと進路を進めてゆく。十五歳まではほぼ一本道の学校制度だが、十五歳を過ぎるとそれぞれの適性や職能に応じて進路が分化していくのである。

 他方、女子は、厳然と男子から隔離される。四月に満六歳の女児は、親元から引き離され、全寮制の女子校に入学する。一旦女子校に入学すると、十五歳ないし三十歳になるまで、女子は一歩も女子校の外へ出ることを許されない。じっさい、街を歩いていると、男性市民の方は子どもから老人まで様々な年齢層を見かけるのに対して、女性市民はと言えば、なんだかくたびれきったぼろ雑巾のような中年以降のおばさんばかり見かける。このような事情があって、男性市民が若く美しい異性を目にする機会は、国営放送で流されるセレモニーガールの演技だけに限定される。自然と、ほとんどの男性市民が、セレモニーガールの映像によって性的関心をかきたてられ、彼女たちに熱狂するようになるのである。

 女子校の中でいかなる教育が行われているのか、詳しく述べることはできない。刑務所のような高い壁に囲まれていて、唯一の入り口にはごつい装備に身を固めた警備員が立っていて、私は近づくことさえできなかったからだ。だから、以下に述べる女子教育の有様は、女子校を卒業した幾人かの女性から聞いた話を私が繋ぎ合わせて推測したものである。

 女子校には、大きく分けて二つある。普通科と、芸能科である。普通科の女子校は、その厳重な隔離体制を除けば、べつだん変わった教育をするわけでもないようだ。十五歳までに国民としての基本的な能力や態度を身に着けさせる。ただし、そこから先が男子校の場合と大きく異なる。普通科の女子校を十五歳まで修了した生徒は、「職業女学校」という名の工場へ送られ、三十歳を超えるまで、その刑務所のような工場で国のために働かされるのだという。それで、普通科の女子校を「職業女学校」まで含めて卒業した女性は、くたびれたぼろ雑巾のようになって社会へ出る。学校が就職先と結婚先の斡旋をするのだという。くたびれたぼろ雑巾は、学校の指定するままに見知らぬ男性のもとへ赴き、そこで望んでもいないくたびれた家庭生活を営むことになる。

 普通科の女生徒達には灰色の未来が確定している。それで、彼女たちは、芸能科への転学をたえず願っている。芸能科は、毎年多数の転学希望者の中から選抜試験をくぐり抜けた者だけが入れる狭き門である。満六歳の入学時選抜で、初等部の最初から芸能科に入学できる女児もいる。その後、毎年度の転学選抜によって、少しずつ普通科から芸能科へ転学してくる女子児童がいる。もっとも、初等一年のころから芸能科のエリート教育を受けてきた女の子と、初等六年になってようやく転学が叶って入ってきた女の子とでは、積み重ねてきた時間が全然違う。たいていは、転学の時期が遅ければ遅いほど、その後のセレモニーガールとしてのキャリアには不利になる。ごくまれに、初等五年や六年といった遅い時期の転学からみるみるうちに才能を開花させる子もいるらしいが。

 芸能科の教育は、体育を非常に重視している。授業時間の大半は、体育に費やされる。その目的は、立派なセレモニーガールになることである。少女たちは、毎日の大半を、体操やダンスのレッスンに費やす。残りの時間で、音楽やその他の技芸を稽古する。読み書きそろばんといった知的な教育は、ほんのわずかな空き時間に申し訳程度に施されるのみである。少女たちは毎日朝早くから夜遅くまで身体を酷使し、へとへとになって寮に帰っては泥のように眠り、次の早朝にはばね仕掛けのように飛び起きて身支度をしレッスンへ向かうのだという。

 こうして少女たちの肉体は式典を華やかに彩ることに特化して成長する。十五歳で芸能科を卒業する頃には、鋼よりも頑丈で竹よりもしなやかな体幹を持つ美しい踊り手になる。美しく舞い踊るためのありとあらゆる訓練を積んだ少女たちは、平素の立ち居振る舞いの一挙手一投足でさえ優美である。彼女たちがさり気なく立っているだけのときでさえ、その重心はきわめて安定している。まるで鉄骨をコンクリートに垂直に埋めて固めたかのように微動だにしない彼女らの立ち姿は、見る者に畏敬の念を抱かせるほどである。

 地獄のような鍛錬の日々を乗り越えて、晴れて芸能科を卒業した少女たちは、十五歳でセレモニーガールとしてデビューする。セレモニーガールとしてデビューしたあとの彼女たちの生活は、メディアでしか伺い知ることができない。式典の際には、セレモニーガールの中でのヒエラルキーに応じて、重要な位置には一番人気の子が、重要度の低い位置には人気の低い子が、それぞれ配置される。半年に一度、セレモニーガールに対する人気投票が実施され、その結果によってガール内での地位の変化が起こるようである。

 しかし、芸能科に転学した少女たちが全員セレモニーガールになれるわけではない。十五歳になった三月の時点で芸能科の卒業基準を満たしていない女生徒は、芸能科を卒業できず、中途退学という扱いになるという。芸能科の卒業基準は、一つは身体能力であり、一つは身体のプロポーションであり、また一つは、顔立ちが整っているかどうかである。どれほど努力しても、どれほど立派な身体能力を備えていても、顔が不細工になってしまった少女は芸能科を卒業できず、従ってセレモニーガールになることはできない。もちろん、芸能科に転学する際にも器量のよしあしの選抜基準はある、が、六歳の時点で美少女であっても思春期になって顔面偏差値ががくんと下がる個体は、いる。そういう不運な少女を含め、基準に達していない者はここで弾かれ、普通科の女子校の卒業生とともに、「職業女学校」こと工場勤務に送られることになる。

 また、十五歳になる前に芸能科女子校を退学させられる者もいる。過酷な鍛錬に身体が耐えきれなかった者、怪我によって鍛錬を続けられなくなった者、「素行不良」の者(これは我々が想像するような飲酒喫煙や万引きといった素行不良を指すのではない。寮において衣服や毛布の畳み方が不正確だったり、疲労に耐えきれずに座学で居眠りをしたり、寝坊して朝のレッスンに遅刻したりするような者をいうのである)、進級に値するだけの技能を身に付けていない者、などが、毎年、何人か、芸能科を退学させられ普通科に送られる。

 余談になるが、芸能科から普通科に送り戻された女生徒が周りの普通科の女生徒たちから受ける扱いはアンビヴァレントであるらしい。雲の上から舞い降りてきた天女のごとくにちやほやされることもあれば、ルサンチマンの捌け口として陰湿ないじめに遭うこともある。いずれにせよ、今までの生活と全く異なる地上に転落した駄天使は、まっとうな生活を送ることは困難だという。この話を私は、泊まっていたホテルのメイドさんから聞いた。彼女はひざを悪くして十二歳で芸能科を中退し、そこから三十歳で職業女学校を卒業するまで、何かにつけて周囲から嫌がらせを受けてきたのだという。私が話を聞いたときにはすでに小太りのおばさんになってしまっていたが、それでも若い頃には美人だったのだろうという面影は少し残っていた。

 このような事情で、この国の女子教育は、美しい少女をセレモニーガールとして輩出し、セレモニーガール以外の女性を「職業女学校」に閉じ込めて、くたびれたぼろ雑巾にしてから市場へ放流するという機能を果たしている。結果、この国の男性市民が若くて美しい少女を見ようと思ったら、国営放送を見るしかない。政府は週に一、二回の頻度で大小さまざまの規模の何がしかの式典を開いていて、そのたびごとにセレモニーガールが国営放送のテレビに映る。男性市民は誰も彼も、国営放送が式典を映す日にはテレビに釘付けになった。もっとも、おおっぴらにセレモニーガールファンを自任する男もいれば、そんなものは軟派だというそぶりでテレビをチラチラ見ている男もいるのではあるが。一方、成人女性はまた別の角度からセレモニーガールに熱い視線を送っている。彼女らは幼い頃から、変身ヒロインアニメを見る視線の延長でセレモニーガールを見てきた。すなわち、自分もいつかああなりたいという憧れを持ってセレモニーガールを見てきた。それで、現実にくたびれ果ててその年齢をずっと過ぎてもなお、自分の代わりに夢の舞台に立っている美しい少女たちに対して、敬愛や崇拝に近い感情を抱く女性は多い。例えるならば、甲子園の決勝戦を応援する元高校球児のおじさんと類比的な関係にあるといってよいだろう。ただ、成人女性たちは、男性がセレモニーガールを性的な目で見るのを快くは思っていない。やきもちとかそういうことではなくて、彼女らは彼女らでセレモニーガールを神聖視していて、それが男性の野卑な欲望の対象になることが不愉快なのだろうと思う。

 男性の職業のうちで最も尊ばれるものは軍人である(次いで医師や代議士など高給取りの職業が並ぶが、こちらはその高給ゆえである。軍人は薄給でありながら最も尊敬される職業である)。このこともセレモニーガールと無関係ではない。共和国政府が主催する式典は数多くあるが、その中でも重要度の高い式典には必ずと言っていいほど共和国軍がかかわっている。そして、独立記念式典や平和祈念式典のような重要な式典の舞台に上がる将校は、高い人気を誇るセレモニーガールと握手ができる。この映像は多くの男性市民に興奮を与える。男性は夢想する、自分がその将校の場所にいて、あの娘と握手ができたなら、と。

 奇妙なことはこれである。多くの男性が独立記念式典のテレビ中継に夢中になって、一番人気のエレナと握手する陸軍大将を羨んで鼻息を荒くしているが、これは、エレナが美しいからとかそういう理由だけでは説明できない。エレナぐらい美しい・或いは主観によってはエレナよりも美しいセレモニーガールは他にもごろごろいて、もっと重要度の低い様々な式典でどこぞの地方議員と握手したりしているが、多くの男性市民はそちらには目もくれず、ただただエレナと握手した陸軍大将を羨んでいるのである。このことから、次のことがわかる。一番人気のエレナを特別たらしめているものは、エレナの美しさではなくて、エレナの人気そのものである、ということである。紙幣を、紙幣それ自身の有用性のためにではなく、万人がその紙幣を価値あるものとして認めているがゆえに人々が追い求めるのと同じように、男性市民は、そして女性市民もまた、エレナが万人に敬愛されているがゆえにエレナを敬愛し、エレナと握手する自分を夢想していた。エレナはいわばトロフィーであった。しかし、エレナがただの紙幣やトロフィーと異なる点は、エレナが若くて美しい少女・その姿を見ているだけで胸の高鳴りが抑えられなくなるほどの美少女である、という点である。この点において、エレナに対する男性市民の思いは女性市民と大きく異なる。男性市民の胸中で渦巻く、トロフィーに対する欲求と、美しい少女に恋い焦がれる衝動と、性的リビドーとが、渾然一体となって、エレナに向けられる――共和国と共和国軍とを象徴する偶像としてのセレモニーガール、その頂点に立つエレナに。

 性衝動と綯い交ぜになった愛国心を行動に換えるだけの行動力のある男子は、十五歳の中等教育修了の年に、軍へと進路を向ける。共和国軍に入隊する方法は二つある。中等教育修了後に兵士として入隊するか、士官学校へ進学して士官候補生として入隊するかである。後者の場合には入隊試験による選抜があるが、士官候補生入隊式という大きな式典に参加することができる(式典に参加するということはすなわち、セレモニーガールを間近で目にする機会ということである)。

 毎年四月になると、入隊式の様子が国営放送でテレビに映し出される。入隊式では、まだ少年の面影の残る新士官候補生たちが、真新しい制服に身を包み、緊張で体を硬くして、縦横にきっちり整列している。新士官候補生たちは一人ずつ名前を呼ばれ、叫ぶように返事をする。その後、セレモニーガールが各縦列に一人ずつ、前から順番に、士官候補生たちに紙を手渡す。紙には、宣誓文が印刷されている。士官候補生たちは、やはり叫ぶような大声で、その宣誓文を読み上げる。傍から見ているとよくある入隊式の光景のようだが、経験者から話を聞いたところによると、女気のない生活をしていた思春期真っ盛りの十五歳の少年にとっては、衝撃的な体験であったらしい。普段テレビ越しか、ナマで見るとしてもスタジアムの観客席から双眼鏡越しぐらいでしか見ることのできなかった憧れのセレモニーガールが、手の届く距離にいて、宣誓文の紙を直接手渡してくれるのだから。このようにして、毎年多くの愛国的な若者が、共和国軍へと身を投じる。

 隊員たちの間では、セレモニーガールのファンを公言するのが当たり前のような雰囲気になっているという。宿舎の二段ベッドの隅に私物を置く小さなスペースがあり、そこに推しのセレモニーガールの写真やグッズを誰でも少なくとも一つは置いている。セレモニーガールのファンなんて軟派なことは軍人には似つかわしくないと思われるかもしれないが、逆である。セレモニーガールに熱を上げていない者は、ホモを疑われる。それで、皆一様に、あの子が好きだ、この子がかわいいなどと主張するようにしているのだそうだ。

 セレモニーガールも、年をとる。いつまでも若く美しいセレモニーガールではいられない。大人になったセレモニーガールはどうなるか。引退するのである。

 人気ランクの高い有名なセレモニーガールの引退は、そのほとんどが結婚による引退であり、国営放送がトップニュースで報じる。結婚相手の男性は、大抵は、若くして高い階級へ昇りつめたエリート将校である。カメラのフラッシュが一斉に焚かれる中で、美しく成熟した元セレモニーガールと、自身に満ちた凛々しい青年将校が、幸せそうな笑顔で記者会見に臨む。その映像を、繰り返し繰り返し、国営放送がテレビに垂れ流す。これがこの国における男女の理想の結婚の在り方である。少年少女は、こういった報道を見て、いつか自分も立派な軍人に・立派なセレモニーガールに、なりたいと願う。すでにその可能性を失った成人の男女は、自分の境遇とその理想的な幸福とを引き比べて、溜息を吐く。

 街のバーで知り合った陸軍中尉に、ああいう結婚はどこで知り合うのか、と訊いてみたことがある。彼は、「あれは特別なケース」と教えてくれた。セレモニーガールの運営部に、お見合いおばさんのような部門があって、その部門がエリートセレモニーガールとエリート将校とを引き合わせるのだという。いわば仕組まれた結婚である。結婚会見のときの幸せそうな笑顔が、その後どの程度維持されうるのか、定かではない。ただ、離婚したとか破局したというような報道は一切なされないから、少なくとも国民たちの幻想の中では、彼らは永遠に幸せに暮らすのだろう。

 では、引退を報道されるほどではない低ランクのセレモニーガールたちは、誰と結婚するのか。答えは、誰とも結婚しない、である。二十代半ばを過ぎて、これ以上人気が伸びないと判断されたセレモニーガールたちは、運営部の判断により、人知れず引退する。そして、彼女らは、今度は、セレモニーガールを育成する側の職、すなわち女子校の教員になるのである。その話を聞いて私はううむと唸ってしまった。何とも残酷な制度ではないか。まず、男の視点にしてみれば、小さいころからセレモニーガールを唯一の異性として見て育ち、思春期を迎えてからもセレモニーガールだけが唯一のセックスシンボルであり、いつか自分もセレモニーガールと結婚するのだと夢見て軍に入隊してみても、じっさいに結婚できるのはほんの一握りのエリートだけで、他の大多数は決してつかむことのできない偶像をただただ崇め奉るのみ。他方、女の視点にしてみれば、やはり、いつか自分も華やかな舞台に立ち、立派な軍人さんと幸せな結婚をするのだと夢見てその世界に飛び込んでみれば、どこまで行っても人気投票の序列に振り回され、あげく幸せな引退結婚ができるのは人気ランク上位のほんの一握りだけで、残りの大多数は自分と同じような女を再生産するために働くことになる。


 さて、これでこの国の珍妙なところはだいたい語り終えたと思う。最後に、ポルノの話をしよう。どんなに取り締まりが厳しい国でも、酒とポルノを根絶することはできない。この国では、男性市民がセレモニーガールに欲情するように全てが調整されているから、当然、ポルノ作品の制作・売買・所持・観賞を法律で禁じている。セレモニーガール以外に性欲の捌け口があってはならないし、セレモニーガールは国家を象徴する汚すべからざる存在であるからセレモニーガールを模したポルノがあってもいけないからだ。しかし、ペニスに忠実な男たちの不撓不屈の精神を見よ。いくら法が禁じようとも、いくら官憲が厳しく取り締まろうとも、決してポルノの制作と流通を止めようとはしない、その高邁な魂を! 人けの少ない立体交差のガード下に行くと、ごくたまに、新作ポルノの闇市が出店している。どこで撮るのか、彼らの間にいかなるネットワークがあるのか、ついぞ追いきれなかったのではあるが、毎月、何本か、新作のエロビデオがそこで売られている。

 その内容が、ことごとく、何一つの例外なく、全て、セレモニーガールを題材にしている。考えてみれば当たり前の話である。ポルノの題材は、男性の性欲の対象に限られるのだから。

 例えば、私の生まれた国では、様々な若くて美しい女がそこらへんを歩いている。そこら辺を歩いているのを見て、世の男性は、様々なイケナイ想像をし、欲望を抱く。ポルノの題材も、それに応じて幅広い。学校の女子生徒や女教師、ナースやビジネスウーマンといった様々な職業であったり、街中でのナンパやマジックミラー号であったり、はたまたアニメのキャラクターであったりと、世の中の男性が一度でもイケナイ妄想を抱いたことのあるシチュエーションであれば、いくらでもポルノのバリエーションが広がってゆく。

 一方、この国の男性市民は、生まれてから性の目覚めを経験するまでの間に、若くて美しい女としては、セレモニーガールしか見たことがない。性欲の対象の幅が、広がりようがないのである。他に女といっては、くたびれた・化粧っ気のない・工場の油のニオイの染みついた、母親や近所のオバチャンぐらいである(そういった女性を題材にしたニッチも、ひょっとしたらよく探せばどこかにあったのかもしれないが、ついぞお目にかからなかった)。そういう事情があって、ガード下の闇市で売られている新作ポルノビデオは、どれもこれも、セレモニーガールばかりが並んでいる。もっとも、そのプレイ内容は多様である。イチャラブセックスをしているものもあれば、ひたすらに凌辱しているものもあるし、逆に男優をセレモニーガールがイジメ倒しているものもある。セレモニーガール同士のレズプレイの動画もあった。ビデオの裏表紙には、動画の中の一場面と思われる小さいキャプ画がいくつも並んでいる。たいていの作品は、すぐに脱がして全裸にして、後はプレイをしているようである。ごくまれに、最後までセレモニーガールの衣装を着用したまま事をいたす動画作品があって、こだわりを感じる。しかし、どこで脱がすかのタイミングの差異はあっても、どの作品にも共通して、必ず最初の場面は、セレモニーガールの衣装(を模して作られたもの)を女優が着て登場するのであった。

 一度、売人のおじさんに、出演している女優さんはどういう境遇の人なんですかと訊いてみたことがある。おじさんは、「お前なあ、そういう夢のないことを訊くもんじゃないよ」と言いながらも、教えてくれた。たいていは、職業女学校を三十歳まで勤め上げた女性で、生活が苦しい家庭に入ってしまった人が、何らかのネットワークによってそういう裏稼業を紹介されて出演しているのだという。ジャケット写真はどうにか美人に仕上がっているが、動画の中身は残念な感じなのかもしれない、と思った。「でもね、これだけは特別だよ、」とおじさんが言う、「この女優さん、芸能科の女子校を中退して脱走してるの。ピッチピチの十七歳! 今注目の裏セレモニーガール!」 おじさんが取り出して見せてきたジャケット写真は確かに若く見えた、が、首筋のあたりの皺の寄り方が、どう見ても十代には見えなかった。


 私は何も買わずにガード下を離れ、深夜の寂れた路地をホテルへ向かって歩きながら考えた。

 ひょっとしたら、政府は、こういうポルノの流通を或る程度黙認しているのかもしれない。セレモニーガールが国家権力を象徴している限り、たとえ偽物のポルノ映像であろうとも、セレモニーガールに向かってマスをかく男性市民たちは、自ら国家権力のくびきに従っているようなものだ。そして、このような偽物のポルノ映像は、本物のセレモニーガールの容姿・姿勢・しぐさ・演技の本物の美しさには到底かなわない。セレモニーガールの映像は、公共の場で、公共の電波で放映されるが、一度でも偽物のポルノでヌいたことのある男性市民は、ある種の負い目を感じながらそれを見ることになる。いずれにしたって、ポルノが地下で流通していることがセレモニーガールの価値を下げることは決してなく、それどころかその支配力をますます強める結果になっているのではないだろうか。だから、政府は、法律で禁じてはいるものの、ポルノの流通を本気で取り締まろうなどとは考えていないのではないだろうか。


 ここまで考えたとき、脇道の暗がりから、急に強い光を当てられた。まぶしくて何が何だかわからないうちに、「ポルノ不法所持、およびスパイ容疑で逮捕する」という声を聞いた。警察がライトを私の目に直接向けたのだと理解する前に、強い力に腕をつかまれ、手錠をかけられた。何が何だかわからないうちに、私は闇の中を歩かされ、車に乗せられた。

 そのあとは、度重なる尋問、拷問、薬物投与によって、記憶があやふやになってしまって憶えていないし、仮に憶えていたとしてもとうてい愉快な内容にはなるまいと思う。私は拷問の途中で死んだか、銃殺刑か何かになったのだろうと思う。

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