第3話

桜が散り訪れた五月も終わる頃、会社での俺の立場は危ういものとなっていた。


「お前何やってんだよ!っていうか何なら出来んだよ!」


 俺の教育係となった三期上の先輩が廊下で怒鳴る。四月に入社した新入社員の中で一番出来の悪い奴を何とかしようと頑張ってたこの人も、もう我慢の限界だったんだろう。人気のない廊下の隅で殴られる回数はどんどん増えて、いまや一日一回は腹を殴られるザマだ。


「打ち合わせの時間をメールで知らせるだけってバカか?お前世間の常識もわかんねえのか?」

「だ…、それは先輩言ってくれないから…」

「口答えしてんじゃねえよ。つーか前も言ったよな俺、分かんなかったり不安なことがあったらすぐに訊きに来いって!」


 言ってたような言ってなかったような。また鳩尾に入った先輩の拳に体を折りながら考えても思い出せない。そんなことメモしてないし。


「いいか?今度の新入社員企画プレゼンで馬鹿みたいな失敗したらどうなるか……解ってんな?」


 悪役みたいなセリフを吐いて先輩がオフィスに帰って行く。小さい、気分の悪い咳をして俺は上体を起こす。先輩は顔は殴らない。いつも腹だ。昨日風呂で鏡を見たらエグイ痣がいくつかあった。もし、今度のプレゼンで下らない企画を発表したら痣が増えるどころじゃすまないかもしれない。

 同期はどんな企画を考えてるんだろう。訊くに訊けないし、俺の頭に何かすごい案があるかといえばそんなことは無い。むしろ何も浮かんで無い。空っぽだ。

 新入社員の柔軟な思考を活かすとか、早く会社に馴染むためとか、そんな理由で新入社員企画プレゼンなんてものを作ったこの会社のお偉いさんは頭がおかしいんじゃないのか。

 いつまでも廊下にいるわけにもいかず、渋々立ち上がる。人気のない廊下から出て来た俺を、他の部署の女が気味悪そうに見た。今日終わらせるべき仕事は何だった?企画なんか思いつかない。気が狂いそうだ。



 午後九時発の電車に乗り込み、座席に崩れるように座る。結局今日も何も思いつかなかった。プレゼンまで二週間弱なのに企画書もパソコンのデータも真っ白とは俺の無能具合も底が見えない。社会に出るまで思ったことはほとんどなかった、俺を無能に仕上げた両親への恨みがふつふつと湧いてくる。ちゃんと育ててくれなかったから、今俺はこんなに苦労をしてるんだ。なのに給料の少しは実家に入れろとか、あいつら馬鹿じゃねえの?


「あー、疲れた……」


 低く呟いたきり、俺の意識は途絶えた。


 ――目が覚めたとき、電車は俺の下りる予定だった駅をとっくに通り過ぎていた。寝ぼけた脳が一瞬で覚醒し、閉じるドアを走りぬける。デジャヴってやつはそこから始まっていた。


「駅近……?」


 人のいない寂れた構内。古臭い電灯が一つだけあって、それが構内にある唯一の光だけどそれさえも消えかけだ。じわりと冷や汗が背中に浮かぶ。夢じゃない。俺はこの駅を知っている。

 駅を出て、街を歩き出した。新しそうに見える住宅地のどこにも明かりは無い。街灯の白々しい光に照らされた看板が、俺の疑問を確信に変えた。


――国道㊧


 やっぱり俺はここを知っている。



「おやぁ、お久しぶりですねえお客さん」


 扉の開く音で、爺さんはテレビから顔をこちらに向けた。テレビにはまた誰かの映像が流れている。爺さんの人懐こい笑顔もいつだかと変わらない。


「あんた…何なんだ?」

「何、とはなんでしょう?」

「この町は変だ。駅名も存在しないし、人もいない。アンタしかいないんだよ。あんた一体、」

「お客さん、今日はそんなことを訊きに此処へいらしたんですかぃ?」


 爺さんは俺の現状を見透かしたように目を細めた。わずかな混乱で説明を求めた俺の言葉を真の目的を問う鋭さで遮る。確かに俺は爺さんやこの町のことを知りたくてこの汚い飲み屋に来たんじゃない。


「……酒をくれ」

「うちにある酒は二種類だけですよ。しかも一つは『副作用』付きときたもんだ」

「何でもイイから、『馬鹿の飲み薬』ってやつ出してくれよ!」


 手垢まみれのカウンターが無かったら爺さんに掴みかかったかもしれない。自分の立場を守るために必死だった。


「へい、すぐご用意しますよ。ただねお客さん」

「なんだよ」

「前は特別に値引きしましたが、今回からはそうもいきません。あれは相当な銘酒ですから普段通りの値段に戻させて頂きますよ」

「……普通の値段は?」

「一杯五万円です」

「ごっ……!」


 ぼったくりじゃねえか! 叫ぼうとした俺より先に爺さんが声色を強くした。


「あの『薬』の伝説はお客さんもご存じですよねえ?」


 俺は何も言えなかった。

 五万円と俺の今後の立場。どっちが損得かなんて考えるまでもない。例え今『薬』を飲んで『副作用』が三つ起きようとも、会社をクビになるより不幸なことはないはずなんだ。


「払うから……『薬』をくれ」


 爺さんは笑った。





 どうやって帰って来たのか、あまり記憶ははっきりしていない。前に飲んだ時よりもアルコールが強いように感じたのは今の疲弊した体だからなのか。カウンターに伏せていると爺さんに起こされ、言われるがまま道を行った。駅にはやっぱり電車が来ていて、乗り込んでからまた眠った。そして気付いたらアパートのある駅に着いていた。本当に都合のいい電車だ。

 アパートまでの道中は千鳥足だったと思う。ただ、もう大丈夫だろうという根拠のない安心感が俺を満たしていた。

 そしてその通り、全てうまく事は運んだ。翌日の朝から急に企画のアイディアが浮かび、自分でも驚くくらいあっという間に企画書が出来てプレゼン用のスライドショーも完成した。『薬』の効果だと薄々解っていながらも俺はどこかで、これが俺の実力だと自画自賛していた。『副作用』があることも一応頭の隅に張り付いてはいたが、所詮女に振られたりバイクが盗まれたり靴ひもが切れたりする程度のことだ。それにこれは幸か不幸か分からないけど、今の俺には振られる女も盗まれるバイクもない。会社をクビになる以上に不幸なことなんて俺には無い――そう思っていた。



 親父が死んだと携帯に電話があったのは、プレゼンが成功した夜のことだった。母親の抑えた声が携帯に澱む。会社で倒れて、そのまま目を覚まさなかった。そう言ったきり、母親は嗚咽を漏らすだけだった。

 会社に休みを貰い、実家に帰ると既に通夜の準備が整っていた。狭いなりに用意された座敷の真ん中、親父は寝ている。顔に白い布を被って、寝ている。大学に入ってから数えるくらいしか帰省しなかった俺の記憶の中にいた親父よりも、そこにいる親父は小さく細かった。親父の傍らで泣いてる母親も同じように年老いている。もう歳だから仕方ないんだ。誰に言い訳をするわけでもなく口内で呟いた。

 葬式屋と話をして、喪主は俺になった。葬式は明日の朝からに決まり、葬式屋が帰ってからは弔問客の相手に忙しく、親父が死んだことを悲しむ暇は無かった。それにかこつけて『薬』の『副作用』について考えることもしなかった。




 

 『馬鹿の飲み薬』という酒の味には中毒性があるんじゃないかと、俺は思う。一度は忘れていた味も思い出してからは溺れるのが早かった。別に強い願いがあるわけでも無い、ただあの『薬』が飲みたいと思った時呼び寄せられるように電車は『駅近』に止まってくれる。小さい飲み屋はいつだって開いていて顔面皺だらけの爺さんが他人のドキュメンタリー番組を観ている。客はいつも俺以外いない。『薬』はぼったくりも甚だしい料金でカウンターに置かれて静寂を守った。『薬』の味に溺れてからはもう、この町は何なのかとか爺さんは何者なのか金のこととか『薬』の『副作用』とかそんなものはどうでも良くなった。ただ『薬』を飲みたい。それだけだった。



 そんな折、母親が交通事故にあったと連絡を受けた。頭を強く打って意識不明だという。命が助かっても、今後は植物人間になるのがオチと医者は言った。

 自分の母親が植物人間なんて何かの漫画やドラマのようだ。ショックを受けると同時に俺は喜んだ。母親の事故の相手からたんまり慰謝料をとれる。医療費だって俺が持つ必要はない。母親の生命保険の受取人も俺なんだからしばらくは金に困らないだろう。

 そうだよな。植物人間の世話は親戚にさせればいい。新しい金でまた『薬』が飲めるじゃないか。


 どれが『薬』の効果でどれが『副作用』なのか、もう俺には判断がつかなくなっていた。

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馬鹿の飲み薬 @18samansa

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