5. 白い傷
「私です」
俺が答える前に、隣室のドアが開いた。そしてひとりの女性が現れる。白いパーカーを着てフードを目深に被った奥田愛海だ。
彼女の姿を見ても野間さんは驚かない。
「奥田愛海さん、ですね?」
と、冷静に問う。愛海はすぐに頷いた。そして深く頭を下げる。
「ご迷惑をおかけしました……」
「なるほど。近くに彼女がいたから自殺の心配はないとあなたは言い切れたわけだ」
野間さんが俺を見て言った。今度は俺が頭を下げる。
「すみません。まだ、絵が描き終わってなかったから、待って欲しかったんです」
「いつから、彼女はここに?」
「最初から」
と、愛海が答えた。
「私、先輩にメールして……家を飛び出して、すぐここに逃げてきました。先輩は悪くありません。私が押しかけたんです」
「ずっと匿っていたんですね。私たちがここに来た時も、奥田さん、あなたはここにいた」
「はい。でも逃げ通せるとは思っていません。最後に先輩に会いたかった。それが終わったら警察に行くつもりでした。だけど」
「絵を描かせてくれと俺が頼んだんです」
絵を振り返って俺は言った。
白いフードを被って、悲しげな瞳でこちらをみつめる女性の肖像画がそこにある。
「俺は愛海の話しを聞いて、ベアトリーチェ・チェンチを思い出しました。あの儚げな女性そのものの愛海の姿を描きたいと思ったのです。今、この瞬間の、この表情の愛海を描きたかった。純粋な画家としての本能です」
「それだけじゃないでしょう?」
野間さんは静かに言った。
「奥田さんが父親を殴った経緯は、事故、あるいは正当防衛だったのではありませんか? あなたは彼女をベアトリーチェ・チェンチになぞらえることでそれも訴えたかったのでは?」
「……殺したかった」
低く恐ろしい声で愛海が呟いた。
俺と野間さんはぎくりとして彼女を見た。
「殺したかった! 私は……!」
「愛海、言うな!」
「殺したかった! あんな奴、殺したか……!」
俺は思わず愛海を強く引き寄せ、抱きしめていた。
「言うな、頼むから言うな」
愛海は俺に胸の中で、呻き声を上げて泣いた。苦しそうに、悲しそうに。
気が付くと、野間さんが沈痛な面持ちで愛海をみつめていた。彼の視線を追って、俺は得心する。
俺が無理に愛海の着ているパーカーを引っ張って抱き寄せたため、長袖がまくれ上がって彼女の細い腕が露わになっていたのだ。その腕には打撲により腫れあがったいくつもの痣があり、そして手首には深い自傷の跡がはっきりと見えた。そんな痣や傷は、腕だけではない。体中にあると愛海は言っていた。
愛海が季節に関係なく着続けていた長袖のパーカーは彼女の抱えた傷を隠す鎧だったのだ。
「愛海は」
俺は、少し落ち着いた愛海をその場に座らせると、野間さんに言った。
「俺にとってはただの後輩で、個展に必ず来てくれるいいお客さんというだけの存在でした。本当にそれ以上の関係はないんです。でも、愛海はずっと俺のことを想ってくれていたらしくて、最後に告白したいってここに来たんです。想いを告げたら警察に行くって。彼女の気持ちと、それから彼女の置かれた状況を聞いて、俺は……何も出来ない俺は……せめて絵を、愛海を描きたいと思いました」
「……判りました」
野間さんはそう言うと、あっさり俺たちに背を向けて玄関に向った。
「私は署でお待ちしています。奥田さんは出頭されるとのことなので」
「え。いいんですか」
「はい。お待ちしてます」
ふわりと笑うと、野間さんは、片手を上着のポケットに突っ込んで言った。
「もうここまで待ったんですから、ついでですよ」
「……ありがとうございます」
「あ」
「え。なんですか?」
何かに気が付いたように、野間さんはポケットから手を抜いて、自分の指先をまじまじと眺めはじめる。僕も愛海もぽかんと彼を見た。
「あの?」
「これ、ご存知ですか」
そう言って差し出されたのはひとかけらの青い石だった。
「……ラピスラズリ?」
小さな声で愛海が言った。あっと俺も声を上げる。
「フェルメール・ブルー……」
「はい、その通り」
野間さんは、それをそっと俺の手の平の上に乗せた。
「それ、偶然入った石屋さんで買ったんですよ。というか、買わされたんですけど。どうも、私にはこんなきれいな石、似合わないんで、あなた方に差し上げますよ。じゃあ」
片手を上げると、野間さんはこちらの言葉を待たずに、ドアを開けて外に出て行ってしまった。俺は、くたくたとその場に座り込み、愛海と共にその石をただみつめていた。
涙でくしゃくしゃになった顔で愛海は少しだけ笑って、きれい、と呟いた。
(海を渡る青 ◇ラピスラズリ◇ おわり)
輝石物語 〜迷える心を石が導きます〜 夏村響 @nh3987y6
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