4. 彼女の肖像
★
けたたましい、と思ったのは俺の不安定な心がそう思わせるのだろう、インターフォンの音はいつものように部屋に静かにこだましているだけだ。
俺は筆を置いた。
ようやく完成したその絵を、少し離れたところからみつめた。本物をしのぐ、とまでは言わないがなかなかの出来ではあると思う。
『河合さん? 開けてください!』
ぼんやりと絵に見惚れているとドアの向こうから声が響いてきた。俺は、はっとしてそちらに目を向ける。
インターフォンが鳴っていたことを思い出した。
「あ、はい」
慌てて受話器を取ると、ドアの向こうの人は少し安堵したようだ。小さく息を吐くと言った。
『夜分に失礼します。夕方にそちらに伺った野間です』
「……あ、刑事さんですか?」
『そうです。もう一度、お話し、というか確認したいことがあるので、ドアを開けて貰えませんか?』
「確認、とは?」
『ああ、あなたがお描きになっていた絵です。裏返したあの絵、あれをもう一度、見たいのですが』
一瞬、俺は黙り込んだ。
『河合さん? 大丈夫ですか?』
「どうして、あの絵を?」
『習作って言ってましたよね? オリジナルではなくて、既にある絵を真似して描いていると』
「……それが?」
『私は絵心なんてありませんし、絵画に詳しくないのでよく判りませんけど、でも、普通、真似して描くのなら、その真似して描いている対象の絵が近くにあるものですよね? ですが、あの時、そんな絵はありませんでした。あなたは何を見てあの絵を描いていたのですか?』
「……そこが気になる、と」
『はい。気になります。白瀬……私と一緒にいた刑事ですが、彼が、あなたが描いていた習作をフェルメールの『青いターバンの少女』の模写ではないかと言っていました。まだ描いている途中で色を付けていないから青ではなく白いんじゃないかと。その時は、ああ、そうか、と思っただけでしたが……思い起こせば、あなたの部屋には、複製でしょうが、何枚か有名な絵が飾ってありました。その中にフェルメールの絵は……フェルメール・ブルーはどこにもなかった』
「はい、ありませんね」
『ある人から聞きました。フェルメールの『青いターバンの少女』には元になる絵があると。『ベアトリーチェ・チェンチの肖像』がそれです。尊属殺人を犯した彼女を処刑される前に描いたという絵です。白い布をまとった女性の、あの悲しげな絵は……あなたが描いている習作とよく似ていた。似ているけれど、でもあれはベアトリーチェ・チェンチの模写ではない、ですね?』
「ええ。模写ではありません。ただ、影響は受けています。あえて、受けているんです。それこそが、絵に込められたメッセージですから」
「それは誰を描いたのですか? 模写ではないのなら、誰を見て描いたのでしょう? そのモデルは今、どこにいますか?』
「ああ、なるほど」
俺は思わず、笑ってしまった。さすがに刑事さんは鋭いな、と思ったのだ。
『河合さん?』
「その絵……丁度、今描きあがったところなんです。なのでもう少し……」
『はい。お待ちしますよ』
驚くほど、優しい声で野間さんは言った。
野間さんは、もう何もかも判っているのだな。
俺は、一呼吸置いてからドアを開けた。目の前に立つ野間さんは俺を見ると、微笑んで丁寧に頭を下げた。
「夜分にすみません」
「いえ。……あの、おひとりですか」
「ええ」
困ったように彼は言った。
「慌ててやってきたもので、ひとりなんです。本当は単独はだめなので、ご内密に」
「判りました」
俺は頷くと、ドアを大きく開けた。
「どうぞ」
「いいですか。入っても」
「ええ。あなたにも描き上げた絵を見て欲しいので」
野間さんは黙って部屋に入ると、イーゼルに乗っているキャンバスを真っ直ぐに見た。
「これは……悲しいけれど、なんとも美しい絵だ」
「そう思いますか」
「はい。奥田愛海さんは……ベアトリーチェ・チェンチと同じ、だったのですね?」
「……ベアトリーチェ・チェンチはイタリア貴族の令嬢でした。父親は自分の権力をかさにきたひどい男で、妻や息子を虐待し、娘のベアトリーチェには近親相姦の関係を強いていたんです。父親の暴力に耐えかねた家族は使用人たちと相談し、父親殺害の計画を……」
「それは成功したが、ベアトリーチェは捕まって、裁判にかけられ死罪」
「ええ、でも、彼女は裁判で殺人ではなく事故だと主張していました。それは聞き入れられませんでしたが、でも本当に事故、あるいは正当防衛だった可能性は大いにあると思いませんか、野間さん」
「そうですね。チェンチ家の莫大な財産を狙った当時の教皇の企みという説もありますから」
ふと息を継いで、野間さんは言った。
「きちんと彼女の意見は聞きます。奥田さんをベアトリーチェ・チェンチのようにはしません」
「そう、ですか」
「改めて伺います。この絵のモデルは誰ですか」
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