第30話 10年後
やっとたどり着いた白い扉。
「えっと、ここかな」
教務課でもらった構内案内図を見る限り、ここであっているはずだ。
ドアノブに鍵を差し込むと、ちゃんと鍵は回った。
壁の両側には天井まで届く本棚、窓際には机が一つ置かれている。窓は大きく、とても明るい。窓際まで歩いて、窓から外を見てみる。5階からは森に囲まれたキャンパスと、遠くには街並みが見える。キャンパスのどの建物もよく整備されて、とても綺麗だと佐々木は思った。
机のそばの足元には、先に送っておいた段ボール箱が5箱置いてある。院生時代から使い続けている教科書やノート、いつでも参照できるようにしておきたい印刷した論文などが入っている。とりあえず一つ目の段ボールを開き、何も入っていない壁の本棚に10冊ほど本を置いてみた。
椅子に座って、本棚を眺める。10冊くらいではスカスカだ。
今、佐々木がいる場所は、ある地方の国立大学のある建物の5階だ。最寄り駅からは少し遠く、小高いところにキャンパスがあるため、自然の溢れる周辺環境が良く見える。
椅子に座ったままリュックからノートPCを取り出し、何もない机の上に置く。そして開いて電源を入れる。
学位を取ってから10年。K大学をはじめ様々なところでポスドクをやってきた。今年で38歳になる。学生時代、特に大学院生時代には、自分は一生独身で過ごすのだろうなと漠然と思っていたけれども、気がつけば一家の大黒柱になっていた。京都での最初のポスドクの頃に妻と知り合い、京都での任期切れと同時にプロポーズ、次のポスドク先のヨーロッパのある国で新生活を始めた。子宝に恵まれ、三人の子の父親となった。長男は今年で6歳になる。来年の春からは小学生だ。長女は3歳、次女は1歳。二人ともそれぞれ別の意味で手のかかる年頃だ。任期切れのたびに2、3年ごとに別の土地に引っ越す生活は、妻と子らにとても迷惑をかけている、と佐々木はいつも思っていた。
トントン。
「どうぞ」
ドアを開けて入ってきたのは、学科共通の秘書の女性だ。歳は40代くらいだろうか。
「失礼します。佐々木先生、いくつかの書類にサインが必要なのですが...」
「わかりました。どれですか?」
秘書の方に指示されるままに、書類にサインをしていく。赴任にあたって条件などの書かれた書類はよく読み込んであるので、この段階でする書類にはそれほど重要なものはないことはわかっていた。軽く目を通しながら、10数枚の書類にサインをしていく。
最後の数枚は、「テニュアトラック条件同意書」なるものだった。
着任して5年以内に、ここに書かれている評価項目のポイントを特定のポイント以上にすること。その特定ポイントを超えた場合にさらに任期が5年延長される。そして、この与えられた10年の間に、外部資金を一定金額以上集めることで、この大学の定年制の准教授や教授になれる。テニュアトラックポジションの間は、身分は特任講師とする。特別に優秀な場合は、5年を過ぎた時点で特任准教授になることができる、等々。評価項目は瀬田の時のテニュアトラックと似ている。自分が第一著者の論文、指導学生の論文、新聞紹介、一般向け講演会、著書、細かな条件と獲得ポイントがA4数枚の両面にびっしりと書かれている。テニュアの必須条件である外部資金の最低獲得金額は10年間で5000万円。T大で猪俣が達成できず研究室解散に追い込まれた金額と全く同じだ。
この書類と同じものを、事前の着任前ミーティングでもらっている。すでにこの条件を満たすしかここに残れないことはよくわかっている。瀬田は、5年前にNS大学のテニュアトラックの審査をくぐり抜け、NS大の定年制の准教授になっている。
同意書にサインをする。
「ありがとうございました。佐々木先生。ではまた何かありましたらお伺いします。もし何かわからないことがありましたらメールでも電話でも直接でもいいので私のところへ連絡をください。それでは」
一礼して秘書は去っていった。秘書がドアを閉めた後も、佐々木は白い扉を見ていた。
博士号を取ってから10年間、がむしゃらにやってきて、これこれなら日本の佐々木が詳しい、と世界中から言われるようになってきた。そして、ついに任期のない安定した職に就ける可能性を手に入れた。最近は前の日の疲れが翌日に残っていたり、徹夜で無理やり仕事をすると二日間は使い物にならない状態になったり、30代後半の体力の低下が見えてきている。しかし、あと10年間、がむしゃらでなくてもいいのでなんとかして目に見える結果を出さなければならない。
10年目の2月に「申し訳ない、この研究室はこの春で解散します」と院生たちの前で宣言するような事態にはなりたくない。
物性理論の研究は楽しい。その楽しさを学生に教えたい。自分の講義を聞いて、少しでも物性の面白さを感じてくれれば嬉しい。研究職に進まない学生にも何か得るものがあるような講義がしたい。10年間、妻や子らに迷惑をかけながら好きなだけ好きなように研究をやってきた。テニュアトラック審査を通って定年制のポジションをとったとしてもこの大学に骨を埋めるかどうかはわからないが、ともかく10年間は、この大学の学生とともに一生懸命やっていきたいと佐々木は思っている。
トントン。
ノックの音が聞こえた。
腕時計を見ると、10時半。
「どうぞ」
素朴そうな、真面目そうな学生がドアを開けて入ってきた。
「失礼します。4回生の三村匠です。今日はお時間を割いていただきありがとうございました」
「どうぞ中へ。まだ何もない部屋だけど、そこに椅子がもう一つあるから、座ってください」
「はい」
三村は佐々木が着任するという話を聞いて、すぐにメールで面会を希望した学生だった。三村は超伝導が気になっており、特に理論をやりたいと思っていたらしい。しかし、この大学には超伝導の理論の研究をする研究室は全くなく、どうしたものかと思っていたそうだ。そしてちょうど超伝導の理論を専門とする佐々木が特任講師として着任するという話を聞いて、卒業研究の研究室として佐々木研究室を希望しているのだった。
「まず、どんなことが気になっているか、詳しく教えてもらえますか?」
佐々木が促すと、三村は話し始めた。若者特有の情熱と、少しだけ的外れな理解。懐かしいなあと思いながら佐々木は三村に向かって言う。
「理論の研究とはどんなものか? 三村さんはどう考えている? 何をすれば、理論の新しい研究になると思う?」
(完)
物性理論大学院生の日常〜研究室は解散しました 新井パグナス @pugnus
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