第29話 3月の物理学会

 三月末。

 新幹線を降りると、少し湿っぽい空気を感じる。

 佐々木がいるのは、岡山駅の新幹線のホーム。

 日本物理学会の春の年次大会が、岡山駅近くにあるO大学で開催されるため、佐々木は新幹線で東京から岡山までやってきたのだった。

 結局佐々木は、京都の国立大学のK大学でポスドクをすることになった。K大の城教授が、少し大きめの科研費を持っており、その科研費で雇われるポスドクという身分だった。任期は2年。城は学会等でよく顔を合わせており、佐々木のことをよく知っていた。3月初め、ポスドク募集を聞きつけた佐々木が問い合わせてみたところ、そのままとんとん拍子に決まった。もともと4月からインド人のポスドクが来る予定だったが、そのインド人が急遽来日を取りやめたらしい。予算はポスドクを雇うための予算として確保していたので、4月1日から来てくれる人材を探していたそうだ。

 岡山駅を出て、宿泊予定のビジネスホテルを探しながら歩く。大きなボストンバックを肩にかけ、スーツケースをガラガラと引く。

 佐々木はすでに東京のアパートを引き払い、学会の帰りに京都に行き、そのまま新生活を始める予定だった。

 卒業式には、行けない。

 ちょうど物理学会の開催中に卒業式があり、参加できなかった。本当は四角い帽子とアカデミックガウンをレンタルして長かった学生生活の最後としてきちんと参加したかった。しかし、今後のことを考えると、物理学会でちゃんと発表をして存在感をアピールすることの方が重要だった。学位記は郵送で送ってもらうことにした。

 小学校から数えると、21年間もの間教育機関に通ったことになる。その最後は、卒業式に参加せず、ふわっとした形で終わることになった。

 路面電車が走っていく。その横の歩道をひたすらにまっすぐ歩く。

 今回の物理学会で、学生としての発表は最後になる。物理学会ももう何度も参加していて、大分慣れた。最近は他の人の発表に自然に質問を出せるようになった。知り合いも増え、会場の教室に入った時に挨拶をする人も多い。年の上の人にとっては年に二回の同窓会のようなものだと、昔猪俣から聞いたことがある。確かにこのまま年に2回ずつ、何年も何年も参加していれば、お互いに近況報告をしたり裏話を聞いたり酒を飲んだり、定期的な飲み会のような状態になるのかもしれない。

 あと何回、物理学会に参加できるだろう。

 4月からの佐々木の職の任期は2年。任期のない職の倍率は非常に高く、大抵は数回以上のポスドクを経験することになる。佐々木は今28歳。2年任期の職を3回すると、その3回目の任期の終わりには34歳になっている。自分が本当に任期のない職に就けるのか、確かなことは何もわからないまま、気がつけば30代なかばになってしまう。いつまでアカデミックの職を目指すのか、民間の企業に就職するのか、何も考えないままではいられなくなっていく。

 日が沈み、少しずつ暗くなってきた岡山の街を歩いていく。物理学者参加者と思われるそれっぽい雰囲気を持つグループを、ちらほらと見かける。

 ビルの上に大きく名前の入ったネオンのあるホテルを見つける。ここだ。

 フロントでチェックインを滞りなく行い、そのまま部屋へ。

 ドアを開け、カードキーを壁のホルダーに差し、部屋の電気をつける。

 セミダブルのベッドが部屋のほとんどを占め、壁には大きめの液晶テレビが備え付けられている。すぐに靴を脱ぎ、佐々木はベッドに体を投げだした。



 次の日。佐々木はO大学へ歩いて向かっていた。

 今回の佐々木の発表は初日の朝一番だった。O大学は岡山駅から少し離れているが歩いていけない距離ではなかったので、歩くことにした。バスも出ているそうだが、何度も物理学会に参加した佐々木は、バスは大量の物理学会関係者が詰め込まれた東京の満員電車並みのギチギチ空間であることをよく知っている。バスがやってこなかったり車の渋滞に巻き込まれたりしても困るので、足を動かしてさえいればたどり着く徒歩を選んだ。

 学生と思われるたくさんの人たちが、自転車に乗って佐々木を追い抜かしていく。

 天気は良く、晴れている。岡山だからなのか晴れているからなのか、3月なのに暖かい。佐々木と同じようにO大学へと歩いて向っている人たちもちらほらいる。

 将来のことを考えていてもしょうがない。

 先のことなんて誰もわからない。それは、どんな職を選んでも変わらない。確かにアカデミックでの研究職は他の職よりは不安定かもしれないけれど、今の時代、どんな仕事をしたってずっと同じ会社で同じことができるなんて保証はない。昔のおおらかな時代が終わっただけだ。

 佐々木は、歩きながら考える。

 採用してくれた城教授は超伝導の理論の専門家で、一緒に仕事ができるのは嬉しい。K大の文化も興味がある。これを機に関西の他の大学の人たちとも交流を深められるかもしれない。京都での生活は初めてで、東京とは違った文化があって面白そうだ。東京では研究室に入り浸っていたけれど、京都では色々なお店に行って美味しいものを食べたりお酒を飲んだりしてみたい。瀬田のおかげで女性と話す時に挙動不審になる癖は随分と減ったので、楽しくお酒を飲む女友達ができたら、なお良い。

 楽しく仕事ができて楽しく生活できれば、きっと将来もうまくいくはずだ。アカデミックの安定した職はとても競争率が高い。自分の何かを犠牲にしたからといって、犠牲にした分何かが得られるわけじゃない。犠牲は報われるとは限らない。自分のコントロールできないところで、何か自分の境遇を変える事はよく起きる。所属している研究室がある日突然解散になったりする事もある。

 それなら、いつも最大限楽しんで、最大限出来る限りの事をやって、あとは運に任せる。

 暖かな陽気もあり、足取りが軽くなってきた。

 佐々木はそのままずんずんと歩いていった。



 発表30分前。少し早く着きすぎた。

 学会発表をする予定の教室には、まだ誰もいなかった。

 プロジェクターの青い光が、スクリーンに投影されている。

 佐々木は適当に前の方の席にリュックを置き、ノートパソコンを取り出してから一番前へと向かう。

 スクリーン近くにある長テーブルにノートパソコンを置き、プロジェクターとケーブルでつなぐ。佐々木のスライドの一枚目、タイトルと所属と名前の入ったスライドがスクリーンに大きく映し出される。T大学の所属での最後の発表だ。

 ケーブルをパソコンから抜き、そのままスクリーン近くの席に座る。

「あ、佐々木さん!」

「あ、瀬田さん、おはようございます」

 後ろのドアから瀬田が入ってきた。今日は黒縁メガネのようだ。赤いパーカーを着ている。

「初日の朝一は大変だねえ」

 そう言いながら、瀬田は前から二番目のテーブルの席にリュックを置いた。そして佐々木の方へ向かってくる。そして、手を差し出してきた。

「博士号取得、おめでとう!」

 佐々木は握手をした。

「ありがとうございます」

 瀬田がブンブンと握手をする。

「そして、就職もおめでとう!城さんのところだって?」

「はい、そうです。拾ってくれました」

「城さんはいい拾い物をしたと思うよ」

「だといいんですけど」

 そしてそのまま、佐々木と瀬田は近況について話をした。



 発表10分前。ぞろぞろと人が集まってくる。しかし、初日の朝一番なので、それほど多いわけでもない。

「佐々木さん、おはようございます」

 振り向くと猪俣がいた。スーツを着てネクタイをしている。きっちりとした格好で、一般の人が思い浮かぶ『教授』という印象を受ける。物理分野の服さえ着ていれば良いという教授の格好ではなかった。

「おはようございます。猪俣先生。今日はスーツを着てとてもビシッとした格好ですね」

「今日の午後、一度大学に戻って会議に出ないといけないので。その会議に出たらすぐに新幹線に乗って岡山へ戻ってきます。それまではこの格好でいなければならないのです」

 猪俣は少し困った顔をしながら言った。

「そうなんですか。この会場に来ていただきありがとうございます」

「いえいえ。発表楽しみにしています。あ、あと、博士号取得、おめでとうございます」

「あ、ありがとうございます」

「4月からはどうするのですか?」

「K大の城さんのところで、ポスドクをすることになっています」

「ああ、城さんの科研費の」

「はい」

「城さんはとても良い先生だし着眼点も面白いので、きっといい仕事ができますよ」

「ありがとうございます」



 発表1分前。この会場の座長を務める方が教室の前に立ち、腕時計を見ている。

 スクリーンには佐々木のスライドが映し出されている。佐々木はスクリーンの隣に立って、始まるのを待っている。

 ジリジリジリジリ。

 座長がベルを鳴らした。

「えっと、皆様、おはようございます。本日の朝のセッションの座長を務めさせていただきます、TH大の水戸部です。このセッションは『超伝導理論』のセッションです。最初のご講演は、T大理、佐々木さん、鵜堂さん、NS大理工、瀬田さん、発表者は佐々木さんで、タイトルは...」

 佐々木の発表が始まった。

 そして、10分ちょうどで話し終わり、5分の質疑応答時間中にいくつか出た質問にも丁寧に答え、佐々木の大学院生活最後の学会発表は終わった。

 



(続く)


 



 


 

 

 


 

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