第28話 博士論文審査

 1月9日。13時5分。

 佐々木は修士論文審査をした同じ教室で、自分の博士論文審査会の準備をしていた。

 教室の前の黒板の左にある壁のボタンを押し、スクリーンを降ろす。

 教室の天井に固定されているプロジェクターの電源をリモコンで入れ、スクリーンに青い光を満たす。

 教卓の上部に伸びているケーブルをノートPCに差す。

 レーザーポインターの赤い光がちゃんとスクリーンに当たって見えるかを確認する。

 教室の黒板の隅に、チョークの箱があることを確認する。発表中に何かを説明する必要が生じたときに、慌てずに黒板を使えるように、2、3本の白いチョークを箱から取り出し、ノートパソコンの隣に置いておく。

 発表は13時30分からだ。

 スクリーンに自分の博士論文のタイトルが映る。

 博士論文の内容は佐々木が書いた論文の内容をまとめたものになっている。修士時代に瀬田と共同で開発した理論をさらに進展させたものや、副査のTK大の津村が手計算で行った理論のもととなった論文に対して数値計算でアプローチしたもの、ジョンとの共同研究での佐々木が寄与した部分である、ジョンが注目していた超伝導体に対して佐々木-瀬田理論を拡張する方法、副査のTK大の丸井の研究室が測定している比熱の温度依存性に関して大胆な仮説を用いて説明した理論など、超伝導に関する様々なトピックスが入っている。修士課程やD1の初めの頃には手計算にこだわった時期があったが、今の佐々木は目的のために道具を限定することはなく、手計算も数値計算もバランス良く扱って研究をするスタイルを確立していた。

 自然を理解するのに縛りプレイなどいらない。

 佐々木は一枚一枚スライドを確認する。

 博士論文審査会では博士論文のすべての内容を説明することはできないため、一つのトピックスに絞っている。博士論文の内容のほぼ7割が瀬田との共同研究なので、佐々木-瀬田理論(と密かに佐々木は言っている。瀬田はそれは公の場で言わないでねと言っている)をメインにして話す予定だった。

 前を向いて、教室を眺める。白くて長い三人が座れる長机が左右に二つ。それが後ろに向かって7列ほどある。

 13時10分。20分前だ。



 まだ、誰もいない。

 佐々木は一度深呼吸をして、教室の前へとむきなおりスクリーンに映った自分のスライドを眺めた。

 ガララ。

 教室の一番後ろのドアが開く音がした。

 佐々木がドアを見ると、とても見覚えのある人物が入ってきた。

「え、瀬田さん?」

 佐々木は後ろへと向かう。

 黒かった長髪はほんのり茶色に染まっている。

 赤いメガネのフレームは相変わらず下だけがない。

 紺色の落ち着いた配色のコートを着ている。

 瀬田はドア側の一番後ろの席に座った。

「瀬田さん、どうしてここにいるんですか?」

「あれ、この審査って公開じゃなかったのかしら?」

「はい、そうです。いや、そういう意味ではなくて…」

 瀬田は手を横に振りながら笑う。

「ごめん、冗談だよ。ちょうどこっちに出張する用事があって、昨日から東京に来てたんだ。用事はもう午前中に終わって、さあ帰ろうと思ったところで、ああ、そういえば佐々木さんの博士論文審査会が今日の午後だったなあと気がついて。まだ帰る時間に余裕もあるし、見に来ようかなーって」

「そうだったんですか」

 佐々木は瀬田が来るなんて全く予想していなかった。瀬田は今関西の国立大学に勤務しているので、来るはずがない、と思っていた。何度も何度も議論してくれた共同研究相手であり、同じくらいファミリーレストランで会話した。佐々木の女性への苦手意識が大分改善されたのも瀬田のおかげだったし、研究生活で深刻に悩んでいた時に道筋を示してくれたのも瀬田だった。瀬田がどう思っているかは佐々木は知らないが、佐々木にとっては毎週楽しかった。

「佐々木さん、今回は私、何も助けないからね」

「そ、それはもちろんですよ。これは学会の発表じゃないですし。私がちゃんとアカデミックでやれるかを見る試験なんですから、瀬田さんに手助けしていただくわけにはいきません」

「大丈夫そうだね」

「大丈夫です」

 瀬田は腕時計を見た。

「ほら、佐々木さん、もう10分前だよ。ちゃんと準備しなくちゃ」

「あ、本当ですね」

 慌てて佐々木は前へ戻る。そして、スライドのチェックをもう一度行う。



 5分前。ぞろぞろと見物人が入ってきた。

 鵜堂研の後輩の他にも、多くの学生が入ってくる。多分、佐々木の博士論文の主査である浜田教授が主査としてどのような人物なのかを調べに来ているのだろう。

 あっという間に後ろの席の半分はほぼ埋まってしまった。



 3分前。審査委員の先生方が入ってくる。

 全員が、一番前の長机に座った。



 13時30分。

「では、佐々木透さんの博士論文審査会を開始します。前半の一時間半は公開審査です。後半の一時間半は非公開審査になりますので、公開審査が終わり次第、審査員の方以外の方には退出していただきます。あ、私は主査の浜田です。佐々木さんの博士論文のタイトルは…」

 こうして、佐々木の博士論文審査会は始まった。




 それは佐々木にとってとても大変な発表だった。

 通常の学会やセミナーなどと違い、審査員たちには内容の詳細の書かれた博士論文を読み込んできている。つまり、小手先だけのテクニックは全く通用しない。議論として少しでも不自然な場所などがあれば、二週間博士論文を読み込んだ先生方が容赦なくツッコミをしてくる。

 TK大の津村は、隙あらば切れ味鋭い刀で一刀両断するように攻めてくる。佐々木は、受け切れるところは受け、受けるとそのまま真っ二つになってしまうようなものは紙一重でかわしつつ、彼の問いに答えた。

 TK大の丸井は、実験家の観点から、細かな数式の羅列の中から本質を拾おうとして、的確に理論家が答えにくい弾丸を放ってくる。弾丸は時々佐々木の理論のほとんど急所を突いてくるが、実験家対策で事前に自分の理論を俯瞰で見るように気をつけていたので、致命傷にはならなかった。

 神田は、豊富な超伝導の知識から、基本的な超伝導の理論と佐々木達が扱う理論の違いについて、一太刀一太刀が重い攻撃を行ってくる。質問に答えるたびに佐々木は本当にうまく答えられているか不安になっていったが、どうやらなんとか守り切れているようだ。

 栗島は、超伝導が専門ではないが、専門ではないが故に本質に迫るような質問をする。それは遠くから狙うスナイパーのようで、他の人たちの質問に答えて安心しきっていると撃ち抜かれてやられかねなかった。佐々木は時折放たれるその攻撃をきちんと受けて守り切った。

 主査の浜田は、戦車のようだった。佐々木が最初の担当の主査だったからか、佐々木の論文を徹底的に読み込んでいた。一つ一つの式を自分で導出していなければ思いつかないであろう質問を佐々木に浴びせかけた。一つ一つの質問がとても重く、佐々木はスクリーン横の黒板で説明しながら、守りに徹した。

 そうして、一時間半丸々を使った、公開審査が終わった。



 残りの一時間半は非公開審査なので、見学者たちはぞろぞろと退場していく。

 瀬田は、佐々木の方を見て、にこやかに親指を立てつつドアから出て行った。

 そして、非公開審査という第二ラウンドが始まった。



 非公開審査では、スライドには載せていない、博士論文そのものに書かれてある内容についてさらに踏み込んで質疑応答が行われた。津村が佐々木の理論を真っ二つにすることを試みつつ、丸井が実験との比較についてより詳細に議論することを希望し、神田と栗島は津村と丸井に援護射撃を行った。浜田は、論文の式変形で使った近似の妥当性に関する議論を要求し、佐々木は全員の指摘に真摯に答える必要があった。




 そうして、さらに一時間半が過ぎた。

「それでは、そろそろ時間ですので、非公開審査も終わりたいと思います」

 浜田が時計を見ながら言う。

「佐々木さん、それでは15分ほどこの部屋から出ていてください。15分後に、論文審査の結果をお教えします。ノートPCはプロジェクターにつなげたままおいておいてもらって結構です」

「わかりました。ありがとうございました」

 佐々木は審査委員たちに礼をして、教室の外に出た。



 教室から出て、そのままふらふらと建物の入り口へ向かう。入り口近くには自動販売機がある。

 水のペットボトルを買い、そのまま近くの壁に座り込む。

 そして、一気に水を飲み干す。

 瀬田が近くにいるかと思って見回してみたが、瀬田らしき人はいなかった。

 立ち上がり、いつ呼ばれても大丈夫なように、元の教室の近くに戻る。

 戻る途中に瀬田を探したが、やはりいなかった。



 15分が経った。まだ、呼びに来ない。

 どうしたのか。

 なぜ時間がかかっているのだろうか。

 



 30分が経った。教室のドアが開かれる。浜田が顔を出す。

「佐々木さん、遅くなってすいません。どうぞ」

 佐々木は浜田について教室へ戻った。

 浜田はもともと座っていた席に戻った。佐々木はスクリーンの前に立っている。

「佐々木さん、外部委員として参加なされた津村先生と丸井先生に色々と説明していたら、少し遅くなってしまいました。申し訳ありません」

 5人の審査委員が、佐々木の方を見ている。浜田は続ける。

「そして、審査の結果ですが。問題ありません。合格です」

 5人が笑顔で拍手をしてくれる。

「ありがとうございます」

 佐々木は深く礼をした。

「佐々木さん、ただ、博士論文にはいくつか修正が必要な箇所がありますので、その件に関しては、後日私のところに来てください。全員分の修正要求をまとめて記入した原稿をお渡ししますので」

「わかりました」

 ぞろぞろと審査の先生方が教室から出ていく。

 佐々木は荷物をまとめ、片付けをして、教室を出た。



 佐々木は急いで建物を出た。

 外はとても寒い。まばらな雨が降っている。

 キャンパス内を少し走って、瀬田がいないかどうかを確認する。

 しかし、やはり瀬田はいなかった。

 何もかもやってくれたのに、こちらからは何もしていない。

 直接会って今までのお礼をしたかったが、もう新幹線に乗って帰ってしまったのかもしれなかった。



 仕方がないので、佐々木は自分の院生室へ戻った。

 戻ると、鵜堂研の後輩たちやジョン、鵜堂教授がいた。皆が口々に「おめでとうございます」と祝福をしてくれた。

「ありがとうございます」

 と皆に礼をする。

 非公開審査での様子など、様々な人と少しずつ話をした。

 


 30分後、全員が自分の場所へ戻った後、佐々木はPCの電源を入れ、ポスドク公募をウェブで探し始めた。



 博士号は、「足の裏の米粒、取らないと気になるが取っても食えない」とか、「博士号は運転免許」とか「博士号はプロのドライバーズライセンス」などと言われる。どんな例えにせよ、取ったということはスタート地点に立てた、ということを意味するにすぎない。

 高給が約束されるわけでもない。

 それどころか、職の保証があるわけでもない。

 プロの世界に入ることをプロが認めたことを示す称号に過ぎない。

 プロの世界で生き残ることができるかどうかは、あとは佐々木の運と実力次第だ。



 まずは、春までに職を見つけなければならない。

 

 



 

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