第27話 博士論文提出
12月中旬。
二度目のTK大訪問では、佐々木は迷うことなく津村教授のいる建物までまっすぐ向かった。
ノックして入室し、印刷した博士論文を津村に手渡す。
「審査を引き受けていただき、ありがとうございます。よろしくお願いします」
佐々木は礼をする。
「わざわざ来てくれてありがとう。読むのが楽しみだよ。二週間後の審査会も楽しみにしていますよ」
「津村先生を失望させないよう、頑張りたいと思います」
そう言ってもう一度頭を下げ、部屋を退室した。
津村の研究室を訪問した後は、同じキャンパス内にある超伝導実験の研究室へ向かう。
場所はあらかじめ地図でよく調べたので、問題なく建物を見つけることができた。建物の近くに大きな『液体窒素』と書かれたタンクがある。
一階の研究室の扉をノックし、部屋の中へ。
もう一人の博士論文の外部審査委員はTK大の丸井教授で、丸井研究室は超伝導体の合成と比熱の測定をよく行っている。60代に近い恰幅の良い男性だった。
「来てくれてありがとう。学会と論文であなたのことを知っていますが、こうして会うのは初めてですね」
「審査を引き受けていただき、ありがとうございます。よろしくお願いします」
少しの雑談の後、佐々木は部屋を退出する。丸井はとても気さくな『おじいさん教授』という雰囲気だった。
次は、T大のKキャンパスへ向かう。
KキャンパスはTK大のキャンパスからは一時間以上かかる。博士論文の提出は伝統として原稿を手渡しする必要がある。審査委員の先生方のスケジュールを確認したところ、TK大の二人とKキャンパスの審査委員が同じ日になってしまった。
今回の博士論文の外部審査委員は、TK大の津村教授と丸井教授となった。副査はKキャンパスの神田准教授とHキャンパスの栗島教授。主査は、猪俣研の解散の後にほぼ入れ替わりでやってきたHキャンパスの浜田教授だ。
博士課程の大学院生の間では、それぞれの先生が博士論文審査でどのくらい厳しいかの情報が共有されることが多い。見た目優しく授業も優しい先生でも、普段研究室の所属の大学院生にも優しくても、博士論文審査会の時には恐ろしい精度で的確に攻撃をする先生もいる。他の大学の大学院の場合、予備審査等を経てから博士論文本審査に臨む場合もあるが、T大の物理学専攻では本番一回しかない。この本番でちゃんとした受け答えが出来なければ、たとえ何本国際的な論文誌に論文を通していたとしても、博士号は取得できない。博士論文審査会の時期になると、あの先生は殺しにかかってくる、などという噂が流れることもある。
今回、佐々木の博士論文の副査の二人の神田准教授と栗島教授は特に悪い噂を聞かず、客観的な適切なツッコミを入れることで評判が高い。外部審査委員の二人に関しては、今回初めて外部審査委員という制度が始まったこともあり、情報はあまりない。それぞれの研究テーマにそれぞれの外部審査委員がつくために、今後も情報の蓄積は望めそうにない。外部から審査委員を呼ぶというのはアメリカやカナダなどでは比較的一般的で、T大もそれを真似たのだろうか、と院生は囁きあっている。
TK大の津村教授は、佐々木にとって苦手なタイプだった。
D1の時に一度訪問して以来直接の議論はしたことがなかったが、学会などではよく顔を見かけていた。質疑応答の時の質問の切れ味は非常に高く、質問された人が学生だったりすると津村の質問によって沈黙が作られることはよくある。質問相手を過大評価する傾向があり、自分と同じ理解をしていることを前提に質問することがよくあるので、回答者は津村と同じレベルにまで達していないとなかなか適切な回答を返せない。しかし、佐々木がD1の訪問の時に撃沈した質問は、津村が佐々木を優秀な院生レベルとしか思っていない時の質問だった。つまり、佐々木がT大の博士号をとって当然のプロフェッショナルであると仮定した時の津村の質問は、以前よりもさらに切れ味が上がるだろうと予想された。
博士論文審査のことばかり考えているうちに、Kキャンパスの最寄り駅についてしまった。ホームを降り、改札を通る。バスを使うか、歩くか、という選択肢がある。鎌田と前にKキャンパスに来た時は、30分近くかけて歩いた。
空はどんよりと曇っている。雨は降っていない。
佐々木は歩いて向かうことに決めた。
主査のHキャンパスの浜田教授の情報を、院生たちはほとんど持っていない。着任したのは今年度の4月で、浜田研究室にはまだ学生はいない。
T大の物理学専攻で博士号を取得していることから、T大の博士論文審査会についてはよくわかっていると考えられている。また、着任する前には世界各地でポスドク(研究員)をしており、まだ38歳だそうだ。院生の間では、若く着任したために自分自身を基準に物事を考える可能性があり、博士論文審査会では非常に厳しくツッコミを入れるのではないか、と予想されている。専門は超伝導であり、猪俣研が解散となったのは非常に優秀な研究者である浜田を教授として迎え入れたかったのではないか、という噂まで出ている。
主査の先生への論文提出は、副査の先生方の全員に手渡した後の最後に手渡しすることとなっており、まだ佐々木は浜田に挨拶をしていない。
佐々木の春からの就職先は、まだ決まっていない。
佐々木は物理学の研究を続けたいと考えていて、アカデミックポスト、いわゆる大学や国の研究機関での教員や研究員の職を探している。
当然、博士号取得見込みで動いていて、博士論文審査会に失敗すれば、もし次の就職先が決まっていたとしても、パーとなる。
大学の学部を4年間、大学院の修士課程を2年間、博士課程を3年間、大学を計9年も過ごして博士号を取った後のT大の物理学専攻の卒業者でアカデミックポストを希望する多くは、卒業後任期のある研究職につく。その任期は2年から5年だ。大学には、教授、准教授、講師、助教という職があるが、卒業後に狙えるのは助教という職。この職につくと、その研究室の教授や准教授の方針に従って研究を行ったり研究室の学生の指導を行ったりする。しかし、助教の職は基本的に誰かがいなくならないと次の人が入らない椅子取りゲームで、しかも物理学の理論を研究している研究室を持つ大学の数は非常に限られているため、募集がかけられた時は凄まじい倍率となる。佐々木のような博士号取りたての若葉マークの研究者ではよっぽどのことがない限り椅子に座ることはできない。運良くその椅子に座れたとしても、最近は助教の職の多くは任期付きで、5年程度で放り出されてしまう。
そこで、博士課程卒業したての新兵はポスドクという職を探すことになる。ポスドクとはポストドクトラルフェローの略で、博士号を持っている研究員、という意味の職だ。国が様々な予算をつけて、大学や国の研究所には様々な研究プロジェクトが動いている。これらのプロジェクトは基本的に数年程度の期間のプロジェクトで、そのプロジェクトを推進するために必要な研究員を雇うための経費も研究費用として含まれている。もちろん、それで雇われる研究員は、そのプロジェクトの終わりとともに任期が終わる。これらの研究員をポスドクと呼ぶ。
また、国や大学、国立研究所が、若手研究者育成のために若い研究者を雇用するポスドク制度もある。その例としては、佐々木がD1の時に応募していた学振特別研究員の博士版の学振PD特別研究員などがある。これらのポスドクはある時期に一斉に申し込みを受け付けて、そして一定期間ののちに一斉に合否を発表する。
佐々木は学振PDも含め様々なところに応募したが、全て落ちている。
考え事をしながら歩いていると、すぐにKキャンパスに到着してしまった。キャンパスの中は誰も歩いていない。しかし、どこの建物の窓も光が漏れている。最近は瀬田もいないので、相談する相手もおらず、一人でひたすらに考えてしまうことが多い。ジョンとの共同研究は非常に実りがあり楽しいが、ジョンは留学生で立場が違い、悩みを出す間柄にはなれていない。ジョンは学位を取った後は香港に一度戻ってから民間アカデミック両方を視野に入れて職探しをするらしい。
神田准教授に会い、提出。
神田は忙しかったらしく、扉を開けて少し挨拶をして論文を手渡して、それでもう面会は終わりだった。キャンパス内の建物に入ってから5分も経っていない。
佐々木はキャンパスの道端にある自動販売機でペットボトルの水を買った。
12月中旬のKキャンパスはHキャンパスよりも寒かった。
時間は14時。
残りの審査委員は両方ともHキャンパスで、副査の栗島教授と主査の浜田教授だ。佐々木のいる鵜堂研と同じHキャンパスなので、二人の先生からはいつでも渡しに来ても良いと言われている。
佐々木はもともとHキャンパスの研究室に戻るつもりだったので、もし二人の先生の部屋の明かりがついていれば、今日渡してしまってもいいか、と思った。
佐々木は歩いて帰ることに決めた。
そして、博士論文審査会のことと自分の就職についてのことばかり考えているうちに、あっという間にHキャンパスの自分の院生室についてしまった。
栗島教授と浜田教授のいる部屋は鵜堂研の院生室と同じフロアだ。荷物を置いてちょっと向かってみると、ドアが開かれており、部屋の明かりもついていた。佐々木はあらかじめ印刷してあった残りの二部の博士論文を院生室に取りに戻り、そのまますぐに二人の先生のところへ向かった。
二人の先生ともに、とてもにこやかに佐々木の博士論文を受け取ってくれた。浜田教授は背は小さいがとても大物の雰囲気を持つ人で、切れ者のオーラを漂わせていた。佐々木が論文を手渡すと、「僕が主査をする初めての学生が佐々木君なんだ。よろしく」と言われ、握手を求められた。
佐々木は院生室に戻った。自分の席に座ると、途端に空腹が襲ってきた。まだ昼ごはんを食べていなかった。自分の机の一番上の引き出しから、板チョコを取り出して食べる。
すでに論文を提出し、あとは二週間後の博士論文審査会でディフェンスしきればよい。研究に関しては、その多くをすでに論文にして投稿しているし、自分の研究は自分が一番よくわかっている、と思えている。
なんとかなるはずだ。
板チョコを一気食いしながら、佐々木はウェブでポスドク公募探しを始めた。
(続く)
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