第26話 博士論文執筆

 11月初旬。

 佐々木は院生室で博士論文の執筆を続けていた。

 今年度佐々木と同じ院生室なのは、共同研究をしているM2の渡辺と、D3の留学生のジョンだ。全員が超伝導を研究しているので、大相撲のテレビ中継で部屋を紹介されるようなイントネーションで『鵜堂研超伝導部屋』と呼ばれている。M2の渡辺は修士論文を、D3の二人は博士論文を執筆する必要があるため、院生室ではそれぞれがキーボードを叩く音が響いている。三人ともノイズキャンセリングヘッドホンをつけ、外界の音をシャットアウトしている。

 博士論文は、なんとか100ページを超えた。修士論文の時と比べて、研究テーマの数が増えているため、あと2,30ページは増えそうな気がする。11月の半ばまでには第一校を完成させたいと考えている。

 佐々木は、博士論文を日本語で書いていた。

 博士論文で使う言語は、英語か日本語で書くことになっている。どちらを選ぶかは本人が決めるのだが、英語を選ぶ人の多い。英語で博士論文を書くことで、世界中の多くの人がその研究成果を読むことができる。実際、佐々木は論文の引用文献を遡っていった時に時々博士論文にまでたどり着くことがあり、それが英語であれば読むことができた。最近は世界中の多くの大学が博士論文をウェブ上で無料で公開しているため、普通の論文よりもしっかりと書かれている博士論文は新しいことを学ぶ上では良い資料となる。

 一方で、たどり着いた博士論文がドイツ語であることもあり、その場合はたとえウェブ上で見つけたとしても全く読めない。タイトルと概要くらいは英語で書かれていることが多いのでそれを読むことは可能だが、それ以上の情報は得られない。

 日本語で博士論文を書くメリットは、書く速度が速くなり同じ時間でたくさんのことが書けるのと、文章表現よりも内容に集中出来るということだ。また、佐々木のように何本か英語で論文をすでに書いている場合、日本語を読めない読者は論文を読めばいい、という考え方もできる。出版した論文と同じ内容をコピーアンドペーストするよりは、日本の読者に向けてわかりやすく日本語で書いた方が、有益かもしれない、という考え方もできる。

 佐々木は、母国語で物理が勉強できる国はそう多くないんだからせっかくなので日本語で書く、というスタンスだった。

 T大の佐々木の所属する物理学専攻では、指導教官は博士論文の審査員に加われないことになっている。博士論文審査会当日も、観客としても指導教官はその場に参加しないのが慣例となっている。それでも、博士論文のチェックは指導教官にしてもらうことが多い。

 鵜堂研では、鵜堂教授に博士論文第1校を提出することになっている。

 しかし、鵜堂はほとんど中身を見ない。中身に関してはすでに研究進捗セミナーで十分に議論しているから、らしい。また、博士論文は自分自身で書き上げるべきである、とも考えているようだ。

 英語で書いた場合も、ほとんど文章の訂正をしてくれないらしい。2年前に博士号を取った元猪俣研の先輩の内海は英語で書いたそうで、「結局英語の表現を直してくれたのは主査の先生だったよ」とのことだった。英語の作文の能力と分かりやすい英語の論文を書く能力は少し違うので、天下のT大生でもひどい英語論文の場合があるらしい。佐々木も瀬田に英語論文執筆に関して随分お世話になった。

 佐々木はヘッドホンを外し、デスクに置き、大きく背伸びをする。パソコンの時計で時間を確認すると、もうすぐ19時だった。そろそろお腹が空いてきたので、何か食べてからまた作業に戻りたいところだ。

 佐々木は立ち上がり、ジョンの机に向かう。ジョンは軽く頭を振りながらキーボードを叩いている。佐々木は机の端を指でトントンと叩く。それに気がついたジョンがヘッドホンを外して佐々木の方を見る。

「ジョン、夕ご飯食べた?」

「まだ食べてないです」

 ジョンは日本語が随分上達して、物理の議論以外は日本語で会話している。

「じゃあ、近くのお好み焼き屋に一緒に行く?」

 ジョンと日本語で話すときは、なるべく分かりやすい言い回しで喋るように心がけている。その結果、すごくフランクな言葉遣いになる。英語で喋るときの堅苦しいような丁寧な表現とは真逆になってしまう。

 ジョンはパソコンの画面をちらっと見てから、もう一度佐々木を見る。

「ごめんなさい、もうちょっとで終わるので、家でご飯を食べます」

「わかった」

 佐々木は頷いてからジョンの元を去る。そしてそのままM2の渡辺のデスクへと向かう。ジョンの時と同じように指で机を叩こうとしたが、叩く前に渡辺は気がつき振り向いた。渡辺は髪を茶色に染めたチャラチャラした東大生の典型のような雰囲気を持っている。しかし物理に関してはかなり真摯に向き合っていて、数分話すととても知的なことがわかるタイプだ。

「佐々木さん、何ですか?」

「渡辺くん、夕ご飯食べた?食べてないなら一緒に近くのお好み焼き屋に行かない?」

「お誘いは嬉しいのですが、ついさっき学食で夕ご飯食べちゃったんですよ。すいません」

「了解」

 二人に断られてしまったが、どうしてもお好み焼きを食べたい気分だったので、自分の机の上の財布とスマートフォンをつかみ、院生室を出た。



 お好み焼き屋。

 佐々木はすでに注文を終え、店員が調理しに来るのを待っている。

 佐々木の目の前には鉄板がある。

 向かいの席には、誰も座っていない。

 瀬田と一緒に食べた時とは違う席だったが、テーブルと鉄板のレイアウトがどれも同じだったので、先月に瀬田と食べたことを思い出す。

 瀬田は、無事に関西の国立NS大学のテニュアトラック准教授の職を手に入れた。

 瀬田はすでに関東にいない。

 今頃、関西の端のあたりで研究室の立ち上げの準備で忙しくしているのだろう。

 『国内なんだから、気軽に遊びに来てね』、と瀬田は言っていた。

 瀬田との3本目の共同研究はすでに終わっており、論文誌への投稿も済ませ、あとはレフェリーからのレフェリーレポートを待つのみだ。レフェリーへの返信などについては、メールで十分議論ができるだろう。

 瀬田と今度直接顔を合わせるのは、3月の日本物理学会と思われる。今度は岡山でやるそうだ。

「お待たせしました」

 と店員がやってくる。瀬田と食べたときと同じ男性店員だ。手際の良い手つきでお好み焼きを作っていく。

 瀬田はいない。

 鵜堂教授は博士論文をほとんどチェックしない。

 博士号を取るまでの残りのプロセスの全ては全部自分自身でやらなければならない。

 もう博士課程3年だ。鵜堂研に移籍してから4年目になる。もう、猪俣研の在籍期間よりもはるかに長い。

 この鵜堂研究室は、放置系研究室だ。間違いなくそう断言できる。

 鵜堂教授は研究進捗セミナーで非常に有益な議論をしてくれた。そして、予算を取ってきて大学院生たちが不便にならないようにしてくれている。しかし、その二つだけだ。

 あとの全ては全部自分自身でやらなければならない。

 鵜堂研の先輩だった江藤はD3の三回目でも博士号を取れず、いつの間にか居なくなった。佐々木がM2で入った時に二度目のM2だった緒方は修士号を取ることができ就職した。元猪俣研の内海は問題なく博士号を取得し、関西の国立K大のポスドクをしている。佐々木の同期は二人。近藤勝はD3だが博士論文を書いていない。自分で考えた研究テーマがうまくいかず、鵜堂から『君は今年は無理だよ』と言われていた。清水さおりはD1の終わりに博士課程を中退してメーカーに就職した。

 佐々木には瀬田がいた。そのおかげで、なんとか博士論文を書くところまでやってこられた。

 ジョンと渡辺には佐々木がいる。結局、共同研究をしている学生はなんとかこの研究室を生き残り、それ以外の学生の生存率は5割。

「お待たせしました。ごゆっくりー」

 男性店員がお好み焼きを焼き終わり、去っていく。佐々木は一枚丸ごとを皿に移動させ、マヨネーズを多めにかけ、ソースもかける。

 来週には、博士論文審査の主査1名と副査4名が決まる。

 今年度から、T大の外部の先生にも審査をしてもらうことになったらしい。さすがに主査はT大所属の先生が行うらしいが、副査4名のうち2名は外部の先生になるそうだ。

 制度的には、主査の先生がたの希望を出すことが可能だった。しかし、鵜堂は「実力があるかどうかを見る審査なのだから、審査委員の先生が誰になろうとも博士号を取れるようにしなければならない」と希望を出すことに否定的だった。そのため、佐々木は希望を出すつもりはなかった。

 お好み焼きは相変わらず美味しい。マヨネーズを多めにした選択は間違っていなかった。


 佐々木は綺麗に食べ終えて、再び研究室に戻っていった。

 Hキャンパスには、佐々木と同じような院生たちがたくさんいるのか、20時を過ぎていても人通りが多く、どの部屋の明かりもついていた。

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