最終章 博士論文審査

第25話 テニュアトラック

 「佐々木さん、私、関西の国立NS大学のテニュアトラック准教授の書類審査、通ったんだ。他の人には内緒だよ」

 もう毎週恒例となったファミリーレストランでの瀬田との夕食の時、海鮮丼を待つ瀬田がそう言った。

 修士課程を修了してから2年半の月日が流れ、佐々木は博士課程3年になっていた。

 10月初旬。

 そろそろ博士論文を書き始めても良い時期だ。

 現在、佐々木は瀬田との3本目の共同研究をしている。そのため、毎週金曜日に国立A研究所の会議室に行き、瀬田に進捗状況を報告している。同じく博士課程3年となっている香港出身の留学生のジョンとも、共同研究をしている。こちらは、次は2本目となる予定だ。そして、後輩の修士課程2年M2の渡辺芳樹とも共同研究をしていて、そちらは渡辺が主体となった1本目を渡辺が執筆しているところだ。

 結局、鵜堂からは研究テーマは何も提案されていない。時々研究室進捗セミナーで議論をしてもらうだけだ。修士課程の学生たちも国際会議に行けているので、研究室の予算はたくさん取れているようだ。

「おめでとうございます。瀬田さん」

 佐々木は、瀬田を見る。以前は黒縁メガネをしていたが、最近は下のフレームがない赤いメガネになった。それ以外は、会った時からほとんど変わっていない。

「ありがとう。それで、佐々木さんにお願いがあるんだけど」

「なんですか?」

「テニュアトラックの面接審査の時に、『模擬授業』があるの。私、ドイツでのポスドクの時に少し演習の授業をしたことがあるけど、日本に来てからは国研の研究員だから全く授業はしたことがないでしょう? だから、私の模擬授業の練習、見てもらえないかな?」

 そう言って瀬田は佐々木はまっすぐ見ている。

「ええ、もちろんいいですよ」

 佐々木は特に断る理由もないので、頷いた。

「模擬授業、黒板を使って英語でやるそうなんだ。終わった後に何かコメントをもらえると、とても嬉しい」

「なぜ英語なんです?」

「大学院の担当予定の講義を英語でやるらしいわ。グローバル対応だって」

「そうなんですか。面接はいつですか?」

「二週間後の火曜日。だから、来週あたりにできたらと思ってて」

「わかりました。黒板でやった方が良いのでしたら、僕、その時間のセミナー室を予約しておきますよ。時間は1時間でいいですか?」

 セミナー室の予約はwebからできるシステムになっていて、1時間単位で指定できる。学生たちの自主セミナーでも利用出来る部屋なので、瀬田と佐々木が使うのも何も問題はない。

「佐々木さんありがとうっ。あ、海鮮丼は私です」

 ちょうど店員が海鮮丼とスパゲティを持ってやってきたところだった。




 一週間後。T大の物理学科の第二セミナー室。

 瀬田がスーツ姿で黒板の前に立っている。佐々木は前から二番目の席に座って、模擬授業の開始を待っていた。佐々木の他には、留学生のジョンとM2の渡辺がいる。二人はセミナー室の真ん中あたりのテーブルの両サイドに座っている。この二人は超伝導をテーマにしており、瀬田とは何回か会ったことがあったので、来てもらった。ジョンは、英語に関して何かコメントがもらえるかもしれないと思い誘い、渡辺は、大学院の講義を多く受けていたM1時代が近い人ということで誘った。ちなみに佐々木はすでに博士課程3年なので、講義らしい講義はしばらく受けていない。大学院博士課程の単位は修士課程で多めに取った講義の単位と研究室セミナーへの参加で多くを取り終わっており、あとは博士論文提出だけとなっている。

 鵜堂研がいつも使っているセミナー室はすでに予約が入っており、今回は第二セミナー室を予約することになった。

 第二セミナー室は、猪俣研がよく使っていたセミナー室だった。

 研究室解散宣言をした時に猪俣が立っていた位置に、瀬田が立っている。

「みなさん、お忙しい中来ていただいてありがとうございます。では、始めます。時間は15分で、英語で量子力学の初歩についてお話をします」

 そう日本語で言ってから、瀬田は模擬授業を始めた。

 


Thank you for聴いてくれて your attentionありがとう

 ちょうどぴったり15分で模擬授業は終わった。佐々木が拍手をすると、それにつられるように他の二人も拍手をした。

 とてもよく構成が練られており、少し日本語訛りのある英語もとても分かりやすかった。佐々木は瀬田に頼まれてノートに黒板の内容を書き写していたが、書かれた量も消すタイミングも、問題がなかった。一生懸命やっていることが伝わってくる、良い授業だった。

 瀬田は少し汗をかいたのか、額を手で拭っている。

「どうでしたか?」

 瀬田が佐々木の方を見ながら言う。

「とても良かったと思います。何も問題ないんじゃないでしょうか」

「ありがとうございます」

 佐々木は渡辺とジョンの方を見た。二人ともにこやかに頷いているので、同じ意見らしい。



 その日の夕方。

 佐々木と瀬田はお好み焼き屋にいた。

 模擬授業の後、院生室に戻った後に佐々木の研究の進捗についても議論していると、すっかり夕方になってしまった。瀬田が「夕ご飯を一緒に食べませんか?」と言うので、佐々木は学食を提案した。しかし、瀬田は「学食以外の美味しいものが食べたいです」と言うので、佐々木が知っている美味しいものが出てくるお店として、T大の近くにあるお好み焼き屋にやってきたのだった。

 瀬田は佐々木の向かいに座り、その間には鉄板がある。

 このお好み焼き屋は自分では焼かず、店員が焼いてくれるお店だった。佐々木は、学食のメニューに飽きてしまった時に、一ヶ月に一回くらいここに訪れる。頼んだメニューを目の前の鉄板で焼いてくれるが、店員の腕がいいのかとても美味しい。

「今回のNS大のテニュアトラック准教授って、どういう条件でテニュアになれるんですか?」

 注文を聞きに来た元気そうな男性店員が注文を受けて去ったタイミングで、佐々木は瀬田に話しかけた。

 テニュアというのは任期のない定年制のポジションのことで、テニュアトラックというのは、一定の任期の後にテニュアになるための審査を受けられるポジションだ。猪俣は10年のテニュアトラックの准教授で、10年が経って審査に落ち、任期のない准教授になることができなかった。そのため、猪俣は他の大学に移り、猪俣研は解散となった。

「私が受けるテニュアトラック准教授は、5年の任期で、2年後に中間審査、4年後に最終審査なんだって。4年後の最終審査に落ちた場合は、1年間で次の職を探してください、というような形みたい」

「条件はどうなんですか?研究費を取ってこなければいけない、とかあるんですか?」

 佐々木がそう聞くと、瀬田は少し笑った。瀬田も猪俣研が解散になった経緯を知っているからだ。

「それもあるみたい。何をしたら何点、みたいな表があるみたいで、その表にしたがって点数をつけて、その点数をもとに審査をするそう。外部から研究費を100万円取ってきたら10点、とかそんな感じみたい。論文を書いたら、掲載された論文誌のインパクトファクターに応じて点数がついたり、学生に論文を書かせたら追加で点数がついたり。第一著者は自分自身か指導する学生じゃないと、どんなに共同研究しても点数にはならなかったり、とか。授業の学生からの評価も点数に反映させるそうで」

「結構複雑ですね...」

「書類審査を通った人にはあらかじめその表が送られてきたの。自分がこの指標に従ってどのくらい高い点数が取れるかを面接でアピールしてください、だって」

「はー。大変ですね」

 話しているうちに、先ほどの元気そうな男性店員がやってきた。目の前でお好み焼きのタネをかき混ぜ、鉄板に垂らす。素早い手つきでどんどんお好み焼きが出来上がっていく。焼きたてのいい香りがし始める。二枚同時に焼いている。

「お待ちしました。はい、出来上がりです。ごゆっくりどうぞ〜」

 そう言って店員は颯爽と去っていった。

 お好み焼きは一人一枚で、すでに店員によって四等分されている。佐々木はその一切れを取って、皿に運ぶ。

 熱々でおいしい。

「おいしいですっ」

 瀬田もすでにお好み焼きを口に運んでいた。笑顔だ。

「もし面接審査に通ったら、いつから着任になるんですか?」

「それが、結構すぐで、11月の中旬には来て欲しいんだって」

「え、それって、一ヶ月しかないですよ?」

「そうなんだよね。この公募、5月が締め切りで、締め切りから数ヶ月経ってたから、あー今回も落ちたなー、って思っていたんだけど、いきなり連絡が来て。そして慌てて準備したんだ」

「それはまた不思議ですね」

「そうね。でも、受けられるものは全部受けないといけないから。あ、このマヨネーズおいしい」

 瀬田はお好み焼きの一部にソースをかけずマヨネーズだけかけて食べていた。以前、マヨラーだと聞いたことがある。何にでもマヨネーズをかけるマヨラーではなく、マヨネーズが合う食べ物に少し多めにマヨネーズをかけるマヨラーだ、と言っていた。

「佐々木さんは、来年の春に無事博士号が取れて卒業できるとして、その後、どうするか決めた?」

 瀬田がいきなり話題を変えたので、佐々木は箸に乗せて口に運ぼうとしていたお好み焼きのかけらを落としてしまった。ちょうど皿の上に落ちた。

「い、いえ、ま、まだです。ポスドクの口を探しているのですが、学振PDもR研の特別研究員も落ちてしまって。どうしようかなー、と」

 どちらの研究員公募もすでに結果発表が終わっており、佐々木は落ちていることは確定している。あとは、大学のそれぞれの研究室から個別に出されるポスドクや助教の公募や、海外の大学のポスドクの募集を、一つずつ調べて応募しないといけない。博士論文を書いておらず博士論文審査も終わっていないのに職探しをしなければならず、佐々木はあまりそのことについて考えたくなかった。できれば研究のことだけ考えていたい。

「きっと佐々木さんなら大丈夫だよ」

「だといいんですが...」

 お好み焼きはとても美味しかったが、佐々木は自分の今後について考えてしまい、瀬田の話もただ相槌を打つばかりになってしまった。



 瀬田と別れて一人暮らしの自分の家に帰った後も、しばらく眠れなかった。



(続く)


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