最終話 人魚と魔王が迎えたエンディング


 あれから日は開いたものの、正式に人間と魔族の間で和平協定が結ばれた。

 幻聖族の中でも最も長く生きていた者が仲介に入り、人間の王と魔王とで制約を交わしたのだ。

 また、争いを生まないよう、両種族の王は有識者を集めて話し合い、いくつかの取り決めを作った。それを破れば然るべき罰を受けるように。

 しかし、当然ながら人間と魔族の中にはまだ反発する者もいるため、定着するにはもう少し時間が掛かるだろう、とオズは目の前に積まれた報告書を見て溜め息を吐いた。


(せっかく想いが通じ合ったというのに、これでは愛想を尽かされそうだ)


 リリィは今も魔王城で暮らしている。もちろん、彼女の両親に話を通して。

 最初こそ、リリィの父、シリオスは「魔王」と聞いただけで嫌そうな顔をしていた。だが、リリィの母でありシリオスの妻であるフィアナの、「話に聞いていた魔王よりも魔王らしくないし、いいんじゃない?」という穏やかな一言と言外の圧力によって、泣く泣く許可を出してくれたのだ。

 あの柔らかな笑顔の彼女は怒らせないほうがいい、と初対面ながら本能が危険を知らせたのも記憶に新しい。

 そして、漸く二人でゆったりと過ごせると思って喜んだのも束の間。

 魔王城に戻ってすぐ、出迎えてくれたメルは淡々とオズに大量の書類の束を突きつけて言った。


「和平協定後、各地で一部の魔族が反乱を起こしているようです。人間の反乱は人間が、魔族は我々魔族が抑えるという話ですからね。お願いいたしますよ? 


 最後は念を押すように、棘を含ませていた。

 反乱の規模はオズが手を下さずとも済むものもあれば、オズが出向いて抑えることもある。

 その結果、彼女が魔王城に初めて来たときより共に過ごす時間が減っているのだ。


「実家に帰られでもしたら、それこそ義母上ははうえのお怒りをくらいそうだ……」

「そう思うのなら手を動かしてください」

「ぐっ」


 現実逃避で存在を忘れていたが、室内には見張り役のメルがいる。

 逃げ出そうとすれば、彼が黙ってはいない。

 再び報告書に向き合ったオズを見て、メルは小さく息を吐く。

 オズはやればできる魔王なのだから、初めから真面目に報告書に向き合っていればそう時間は掛からないはずだ。ただ、集中力が少々短いだけで。

 ふと、ドアが控え目にノックされ、報告書に集中し始めたのか応答しないオズの代わりに出たメルは、「ああ、あなたでしたか」と声を上げた。


「今、入ってはまずいかしら?」


 部屋を訪れたのは、オズが恋してやまないリリィ本人だった。

 中を少しだけ覗いて声を潜めた彼女は、邪魔をする気はないと暗に示している。

 メルもオズを一瞥すると声のボリュームを落として言った。


「報告書に向き合いはじめたばかりですが、どうせすぐに集中も切れると思いますので、代わりに宥めてください」

「補佐も大変ね」

「勿体ないお言葉です」


 優しい笑顔を浮かべてメルの気苦労を労うリリィに、メルは小さく頭を下げる。

 そして、「お茶をご用意いたしますので、中でお待ちください」と言ってリリィと入れ違うように外に出た。

 オズは机に積まれた報告書に隠れており、黒い髪が僅かに見え隠れしている。

 彼ならば気配ですぐに気づくかと思ったが、相当報告書に集中しているようだ。

 暫く机の前にあるソファーに座っていたものの、気づかれないのも寂しい気がする。声を掛けるのも気は進まないが。


「……オズ」

「っ! ……びっくりした。幻聴かと思ったぞ」


 隣まで行って声をかけて漸く、オズはリリィの存在に気づいた。

 大袈裟なほどに肩を跳ねさせた辺り、かなり報告書に集中していたのだと分かる。

 だが、驚いたオズの姿はどこか可愛らしくもあり、リリィは胸の奥がくすぐったくなったのを感じた。


「ふふっ。ごめんなさい。一昨日の夜からまったく姿を見ていなかったから、元気かなと思って」

「そうか。丸一日以上、お前に会えていなかったのか。どうりで作業が進まないはずだ」


 リリィの手を取ったオズは、そのまま自身へと引き寄せて膝に座らせると強く抱きしめた。

 たった一日会えなかっただけでも、随分と久しぶりに感じるのは仕事がひっきりなしにくるせいか。

 穏やかな雰囲気にこのまま仕事を放り出してゆっくりしたい、と思った矢先、ノックもなしに扉を開けた者によって空気が壊された。


「オズ様」

「っ!」

「来ると思った……」


 オズは扉の向こうにメルの魔力を感じていたためにさして驚きもしなかったが、リリィはそうではなかった。

 見られた恥ずかしさからか、オズから離れたリリィは赤くなった顔を冷まそうと入ってきたメルに背を向けて顔を両手で覆っている。

 最も、メルの位置からでは書類の山があってオズの顔とリリィの肩辺りまでしか見えないのだが。

 それでも、メルは一切動じることなく、淡々といつもの口調で言った。フードで彼の表情が隠れて見えないため、本当のところ、彼が動じていないかは分かりにくいが。


「申し訳ありません。リリィ様はしっかりしていらっしゃいますし、時間帯的にノックをせずとも大丈夫かと思いまして。……手もこの有様ですし」


 そう付け足したメルの手には、銀のトレーに乗せられたティーポットとカップが三つ。そして、美味しそうなクッキーがある。

 今、部屋にいるのはオズとリリィ、そしてメルの三人。

 ただ、メルはお茶を持ってくることはあっても自分のカップを持ってくることはなかった。

 珍しいこともあるものだ、と思いつつ、やっと休憩を取れることに安堵した矢先だった。


「ああ、良かった。彼が無言で扉を開けるものだから、目も当てられない光景だったらどうし――わぁ、危ない」


 メルの後ろ……まだ閉まっていなかった扉から顔を覗かせたのは、ここにいるはずのないキースだ。

 メルの持ってきた三つのカップは自分を除いた分で合っていた。ただ、こんなことならメルの分の方がよっぽど嬉しかったが。

 ひやかすような言葉を発した彼の顔の横を、オズが投げた短剣が掠める。

 驚きの声を上げた彼だが、言葉どおりの感情を感じているようには見受けられない。


「オズ様。『親善大使』として、我々と人間との橋渡しをしていただいている御方です。くれぐれも、ご無礼のないように――」

「物には段階というものがある。連絡もなしに訪れるとは何事だ」


 協定を結んで以降、キースは両種族を繋ぐ役割を担っている。魔族側からはメルがその役を請け負ってくれた。

 親善大使として両者共にそれぞれの種族に赴くことはしばしばあるが、やはり相応の手順は踏まなければならない。

 苛立ちを露わにしたオズを見て、キースはきょとんとして言った。


「通達は出しているはずですが?」

「なに?」


 キースが来るという報せがあれば嫌でも覚えているはずだ。何せ、命を奪い合っていた敵であり、恋敵でもあるのだから。

 今でこそリリィはオズを選んでくれているが、キースはリリィを諦めたようなことは一言も言っていないのだ。

 一方、本当に知らないといった様子のオズを見て、メルの纏う雰囲気が冷たいものへと変わった。


「オズ様。もしや、まだ拝見されていないわけではありませんよね?」

「…………」


 どうやら、本当に通達は来ていたらしい。

 低い地鳴りのような音が聞こえてきそうなオーラを纏うメルに、さすがのオズも口を閉ざして目を背ける。

 そのとき、リリィが横に積まれていた書類の一番上にあった紙を手に取ってオズに差し出した。


「ねぇ、オズ。『これ』って……」

「…………」

「「「あ」」」


 リリィから紙を受け取ったオズは、しかし、目を通した途端に紙を青い炎で燃やして消した。

 灰さえ残らず、オズは小さく息を吐くとキースを見て毅然とした態度で言ってのける。


「俺は何も見ていない。故に、正式な書面を持って出直せ」

「大人げない……」

「あまりお前とこいつを引き合わせたくないんだ」

「ははっ。はっきり言うね」


 さすがのリリィもキースに同情の色を滲ませる。キースはあまり気にした様子はないが。

 それどころか、キースはリリィへと視線を向けるとにっこりと笑みを浮かべた。


「まぁ、確かに、隙をつかれて奪われてもいけないよね」

「お前、実は性格悪いだろう。いや、腹黒いだろ」

「人のこと沈めようとした魔王には言われたくないなぁ」

「か、え、れ!」

「わ」


 見かけに寄らず、キースは言うことは相応に言うらしい。

 優しい面しか知らなかったリリィからすれば新鮮な一面であり、オズとのやり取りは見ていて楽しいくらいだが。

 これ以上、キースに余計なことを言われまいと、オズは魔力を使ってキースを強制的に国へと帰した。

 光に包まれて消えたキースを見て怒ったのはリリィとメルだ。


「もう! 変に誤解されたらどうするの!」

「まったくです。……リリィ様。私は少しあちらへ向かいますので、しばらくお任せしてもよろしいでしょうか? 手伝いは寄越しますので」


 あちらと言うのは、キース達人間の暮らす国だ。

 本来ならば今回のキースのように事前に連絡を出すのだが、今回は事情が異なる。何せ、連絡を出した親善大使を追い返しているのだ。

 キースがうまく場を取りなしてくれるだろうが、今後の外交的にも魔族側から直接謝罪に赴くのが当然だろう。


「ええ。大丈夫よ。サボろうとしたら全力で止めるから!」

「ありがとうございます。では、失礼いたします」

「おい」


 主はどちらだ、と問いたくなるほどメルはオズの言葉を聞かずに姿を梟へと変え、開けられたままの窓から飛び出した。

 だが、最も難易度の高い障壁がなくなった今、オズにとっては好都合だ。

 先ほどの続き……と言わんばかりに、窓からメルを見送っていたリリィに近寄ったオズだったが、抱きしめようとした直前で後ろから新たな声が上がった。


「では、まずは北の魔獣鎮圧の件からじゃのぅ」

「……何故、お前がここにいる」


 オズが座っていた椅子には、相変わらず少女の姿をしたままのアイリスがいた。しかも、取り組んでいた書面を読んでいる。

 何故、こうも次から次へと邪魔者が現れるのか、と城の警備を見直そうと考えつつ本人に問えば、彼女はにやりと口元に笑みを浮かべた。


「どこぞの有能な梟が、リリィでは押さえきれんかもしれんと憂いておったからのぅ。城には警備の魔族が快く通してくれたぞい」

「手伝いってアイリスのことだったのね。てっきり、メイかと思ったわ」

「メイはメルの別の姿だ」

「嘘!?」


 最近、姿を見ていないメイド姿の魔族を思い浮かべていたリリィだったが、酷く気落ちしたオズが力なく告げた真実に愕然とした。

 どうりで、ここに来てからメイの姿を見ないはずだ、と納得もしたが。

 そんな二人を余所に、アイリスは椅子から下りると小さな手で椅子を数度叩いた。


「ほれ、さっさと取り組まんか」


 促されたオズは深い溜め息を吐き、再度椅子に座った。リリィとゆっくり過ごすのは諦めたほうがいいようだ。

 アイリスはソファーに移動すると、テーブルに置かれていたティーポットからカップに紅茶を淹れる。

 茶葉の良い香りが鼻腔を擽り、「良い茶葉じゃのぅ」と満足げに零す。

 落胆するオズの隣に歩み寄ったリリィは、他の書類も手に取りながら言った。


「知ってた? 一部の魔族に、『人魚に毒気を抜かれた今が好機!』って言われているの。魔族の王らしく、ちゃんと誰が取り仕切っているのかって分かってもらわないとね」

「それは、メルから報告を受けて知っているが……」

「オズ?」


 眉間に皺を寄せ、不満を露わにしているオズにリリィは小首を傾げた。

 何かを言いたげな雰囲気だが、言うのを躊躇っているようにも見える。

 「笑わないから言って?」と優しく先を促せば、彼は拗ねた子供のように、そっぽを向きながらもゆっくりと口を開いた。


「……せっかく、想いが通じ合ったというのに、これでは……」

「…………」


 まさか、オズの口からそんな言葉を聞くとは思わず、リリィは唖然としてオズを見る。

 アイリスもあんぐりと口を開けていた。

 だが、リリィよりも早く我に返った彼女は、リリィに駆け寄ると彼女の裾を引いてしゃがんでもらい、何かを耳打ちする。

 聞き終えたリリィは耳を赤くさせながら戸惑っていたが、「はよう」とアイリスに急かされ、渋々ながら再びオズに近寄った。

 机に肘をつき、手を組んで渋面を作るオズの耳元に唇を寄せ、アイリスのアドバイスどおりの言葉を紡ぐ。


「終わったら、ね?」

「!」


 オズの眉間から皺が消えた。それだけでなく、驚いてリリィを見上げている。

 これで良いのか、とリリィがアイリスに視線を向ければ、彼女は満足そうに深く頷いてソファーに戻った。

 直後、腕を強く引かれたリリィの視界が大きく揺らぎ、目の前にはオズの顔が迫っていた。

 腕を掴んでいない手を頬に添えたオズは、囁くように言う。


「二度目だ。殴るなよ?」

「え」


 何が、と問うより先に、唇に柔らかい何かが触れる。

 背凭れの影からばっちりとその場面を見ていたアイリスはきょとんとしていたが、すぐにいつもの笑みを浮かべると「ご馳走様じゃの」と言ってソファーに背を預けた。

 ただ、リリィは何が起こったのか理解が遅れ、ゆっくりと離れたオズを見て漸く、キスをされたのだと分かった。同時に、それが二度目だということも。

 しかし、一度目はリリィの記憶にはない。


「え? ど、どういうこと?」

「よし。これでひとまず頑張れそうだな」

「ちょっと待って。二度目って?」


 戸惑うリリィからまるで逃れるように書面に向き合うオズだが、このまま流されるわけにはいかない。

 何せ、今までひっそりと憧れていた『ファーストキス』というものがいつの間にか奪われているのだ。

 いくら相手が今、好きな人でも文句は言いたい。

 すると、さすがのオズもまずいと思っていたのか、視線をリリィに合わせることなく頬を掻きながら手短に説明した。


「あー……あれだ。今だから明かすが、あいつの船を俺が沈めたと知って、泣き疲れて寝ているときに、ちょっと……」

「っ、バカ! 変態!」

「はぁ!?」


 確かに、決して褒められた行いではないが、「変態」とまで言われては黙ってはおけない。

 人間の言葉を借りるならば、「男は狼」というものか。それより先を我慢しただけまだ褒めて欲しいくらいだ。

 ぎゃあぎゃあと喧嘩を始めた二人だが、アイリスはのんびりと紅茶を口にしながら「平和じゃのぅ」とどこへともなく語りかけた。

 すると、答えるかのようにソファーの肘置きに黒い影が現れ、中からメルが飛び出してアイリスの傍らに降り立った。


「喧嘩をするほど何とやら、と人間の間では言うようだな」

「そうじゃのぅ」


 まだメルが飛び立って間もないが、人間のほうは何も問題なく事が収まっていたようだ。さすがはキース、と言ったところか。

 アイリスはトレーに一緒に乗っていた皿からクッキーを一枚摘むと、一度リリィ達を見てから言葉を続けた。


「これはこれで、一つの“ハッピーエンド”というものじゃろう」


 ――人魚と魔王の、恋物語のな。




~完~

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人魚と魔王の恋煩い 村瀬香 @k_m12

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