第19話 本当に大事な人


 魔石がアイリスに渡っているのなら、治す方法は一つしかない。

 リリィは躊躇うことなくオズの傷口に手を翳した。


「治らないなら、私が……!」

「よ、せ……」

「っ!」


 弱々しい声音だったが、オズはしっかりとリリィの手を掴んで制した。そして、どうして、と目で訴えてくるリリィに薄く微笑んだ。


「俺の、母も……父と共に、いた、から……殺、された……。なら、俺の近くにいれば……お前も、いずれ、そう、なる……」


 掠れる声で言ったオズは、頬に何かが落ちてきたことに気づいてリリィを見る。

 顔を歪めた彼女の瞳からは、大粒の涙が溢れては流れ落ちていた。

 まさかそんな顔をされるとは思わず、しかし、悪い気はしないなとオズは掴んでいた手を離して涙を拭ってやった。

 そんな二人を、キースは状況に頭が追いつかずに呆然と見ていた。

 リリィがここに来たことも驚いたが、オズは魔石と引き替えにリリィの声を取り戻したと言う。

 何故、魔王が彼女のために動いているのか。

 混乱するキースに説明したのは、隣にいたアイリスだった。


「リリィは、足を得てからしばらく魔王のもとにおったのじゃ」

「え?」

「魔王もまた、リリィに心を奪われておったからのぅ。ただ、嫌われるのを恐れ、力ずくで我が物にはせず、リリィとの距離を見ながら接しておったが」


 アイリスから事情を聞いたキースは、愕然としてオズと彼を支えるリリィを見た。

 今まで、魔族とは傲慢で狡猾な存在だとばかり思っていたが、目の前にいる魔族筆頭たる魔王はどうか。

 一人の少女の気持ちを慮るだけでなく、彼女の幸せをも願い、自身の命をすんなりと差し出すような者だ。


「僕のしていたことは、間違いだったのだろうか……」

「何が正しいか、何が間違っているかは誰にも分からん。ただ、ひとつ言えるのは――」


 平和を脅かす存在として、ずっと魔族と争ってきた。誰もがそれを疑問に思うことはなく、魔族を倒すことは「正義」とされている。

 しかし、魔族からすれば、人間のしていたことも平和を脅かしていたのと同じではないのか。

 言葉を一度止めたアイリスは、真剣な表情でキースを真っ直ぐに見つめて言った。


「魔族だからとてお主らと同じように『心』はある。こやつの父もまた、人間に討たれておるのじゃ」

「っ!」

「争いの始まりはどちらからとは分からぬ。しかし、両種族の争いが、血で血を洗うものだということは、お互いにしっかりと胸に刻んでおいたほうがよいな」


 視線を落とした先で、剣先から血が滴り落ちる。

 真っ赤な血は、人間と変わりない。

 苦しそうに目を強く瞑っていたキースだったが、深く息を吐くとアイリスを見てしっかりと頷いた。


「肝に銘じておきましょう」

「その目を見て安心したぞい。さて、と……」


 満足げに口元に笑みを浮かべたアイリスは、何を思ったか首に掛けていたペンダントを外した。

 小さな手では魔石もかなりの大きさに見える。

 そして、辺りを見回した彼女は、無表情で横に軽く投げた。


「え!?」


 石床にぶつかった魔石がカツンと音を立てて転がる。

 驚いたキースの声を聞いて、リリィの視線がこちらに向けられた。

 そこで、アイリスは何かを見つけたように、「おお、あれは」と投げ捨てられたペンダントを見て声を上げた。


「さすがは魔王城か。こんな所にも魔石が転がっておるぞい」

「いや、それは――」


 ペンダントに駆け寄って拾い上げたアイリスはさも今、初めて目にした物のように扱っている。

 一連の出来事を見ていたキースが戸惑いながら「先ほど、あなたが投げた物です」と言おうとすれば、彼女はそれを遮るかのように言葉を続けた。


「ああ、そうか。きっと、魔族の誰かが魔石を見つけて持ってくるところだったのじゃろうな。……ふむ。わしも、ちょうど欲しいところじゃが……」


 魔石を様々な角度で眺めるアイリスに、リリィが何か気づいて口を開こうとする。

 だが、それを見たアイリスは口元に笑みを浮かべると「安心せい」と言ってから魔石をリリィに向かって投げた。


「ほれ、お主のじゃよ」

「わ」


 まさか投げられるとは思わず、リリィはオズを支えたままで何とか片手を伸ばして魔石を掴む。

 リリィが魔王城にいた頃、オズが首に掛けていた物と同じだ。

 どういう気の変わりかは分からず、しかも対価を求めない彼女につい訝るような視線を向けてしまう。


「わしが手にするには、それはまだ早いようじゃからのぅ」

「アイリス……」

「ほれ、はよう治してやらんか」

「……ありがとう」


 手を払うように動かしたアイリスに礼を言ってから、リリィはオズに向き直る。

 息は弱々しく、魔石が戻ってきたというのに目は閉ざしたまま動こうともしない。

 涙を拭ってくれた手は、力なく傷口の近くに置かれたままだ。

 リリィはその手を取り、魔石を握らせる。


「やっと、本当の気持ちに気づいたのに……このままお別れなんて嫌よ……。だから、お願い……。もう一度、一緒にいさせて……!」


 魔石を握らせたオズの手を握り締めながら、すぐには治らないのか塞がらない傷を見て必死に懇願した。

 引いていたはずの涙が再び視界を滲ませる。

 滴がオズの顔にまた落ちた。

 その時、握っていた魔石が輝きを放ち、オズの体を包み込んだ。


「っ!」


 眩い光にリリィは目を瞑った。

 柔らかい風のような魔力が肌を撫でる。

 やがて、瞼の向こうで光が弱まったのを感じ、リリィは恐る恐る目を開いた。


「……治って、る?」


 破けた服から覗く肌は傷など一つも見当たらない。

 呆然と呟いたリリィの声に反応してか、腕の中でオズが身動ぎをした。


「ん……」

「オズ!」

「……あの世というものには、恋しい者とよく似た者が待っているのか」

「し、死んでないわよ!」


 オズは未だ治ったという自覚がないのか、どこか寂しげに呟いた。

 頬に伸ばされた手を掴んで声を張り上げれば、オズは怪訝に眉を顰める。そして、ゆっくりと上体を起こすと自身の手で傷口を触って固まった。


「治っている……?」

「魔石が戻ってきたの」

「は? いや、でも、お前の声は……」


 魔石はリリィの声と引き替えにアイリスに渡したものだ。つまり、魔石が戻ってくるということはリリィがまた声を差し出したのかと、オズはやや不機嫌そうにリリィを見る。

 今、声が出ていても、オズが目を覚ましたら差し出すという可能性もある。

 それを訂正したのは他でもない、魔石を渡したアイリスだった。


「リリィ、違うぞい。その魔石はのじゃ。わしのは……扱い手がなっておらんと判断されたのか、何処かになくしたのじゃ」

「え?」

「そういうことにしておけ」


 頑として認めなかったのは、今まで散々対価を要求しておきながら無償で渡したからだろう。

 二度目はないぞ、と釘を刺した彼女にリリィは再度礼を言った。

 一方で、オズが目を覚ましたことで城内にやってきた兵達には緊張が走っていた。


「いかがいたしましょう、キース様。魔王が……」

「……はぁ」

「キース様?」


 兵達はいつでも魔族に対抗できるよう、一様に武器を構えたままだ。

 オズやリリィの事情を知らなければ、キースも同じことをしていただろう。

 思わず出た溜め息は、様々な思いから咄嗟に出てしまったものだった。

 もちろん、先ほどまでいなかった兵達に伝わるはずもなく、不思議そうに名を呼んでくる兵に答えるように、剣を振って血を飛ばすと鞘に納めた。


「な、何を……!」

「暴虐非道の限りを尽くしていた魔王は討った」

「え!?」


 兵達の間に動揺が走る。

 それもそうだろう。魔王と名を冠する者は、今、目の前に生きているのだから。

 しかし、キースにはもう彼を討とうという意志はなかった。


「魔族も人も、姿や性質は違えど、そう大差ない存在だとよく分かった。戦いの始まりはどちらからなのかは分からない。だが、これ以上、無意味に血を流すのはこれで終わりにしよう」


 一部は幻聖族の受け売りだけど、と内心で付け足しつつ、キースは踵を返して広間を出て行く。

 その背を見て、リリィは声を張り上げて呼び止めた。


「キース!」

「…………」

「その……」


 キースは振り向くことなく、しかし、足は止めてくれた。

 ここへ来る前の彼の言葉を思えば、何と言えばいいか分からない。

 それでも伝えなければ、とリリィははっきりと言葉を紡いだ。


「いろいろと、ありがとう」

「……それは僕の台詞かな。それじゃあ、また」


 振り向いたキースは、優しい笑みを浮かべていた。

 また背を向けて歩き出したキースに、周りの兵達も付き従って広間を出る。

 入れ違いに魔族が物陰から姿を現すのを視界の隅に捉えつつ、オズは何かを探しているのか辺りを見回しているリリィに訊ねた。


「なんで、戻ってきた」

「え?」

「元は、あの男が良かったんだろう?」

「その言い方は語弊を招きそうで嫌だけど……」


 そっぽを向いたオズは、拗ねているのか恥ずかしがっているのか分からなかった。ただ、どちらも合っている気はするが。

 リリィは広間の出入り口を見てからオズへと視線を戻して言葉を続けた。


「あなたは、ただ害を成すだけの魔王じゃない。改心できて、命と引き替えに誰かのために動ける心優しい魔王だって知ったから、かな」

「俺のところに来たって、本のように幸せな結末になるかは知らんぞ」


 リリィに僅かに向けられた顔は、嬉しさを押し殺せていない、微妙な表情をしていた。

 それにくすりと笑みを零してから、リリィは魔石を持ったままのオズの手を取った。


「そんなの、私が感じることよ? あなたが決めることじゃないもの。だから、私の幸せを願うのなら、最後まで一緒にいて」

「……いいだろう。望むところだ」


 漸くリリィに向いたオズは、もう逃がすものかという想いを込めて強く抱きしめた。

 その様子を玉座の傍らから微笑ましそうに眺めていたアイリスは、影に隠れていた――正確には、出ように出られなかった一羽の梟に言う。


「めでたしめでたし、じゃな。お主もこれで一安心じゃのぅ?」

「ええ、一応は。これからまた忙しくなりそうですが」

「そうじゃな。まずは、人間との和平をきちんと結ばねばならんからの」


 キースは剣を収めてくれた。しかし、それが人間すべての意志かと問われればそうではない。もちろん、魔族側にも同じことが言える。

 これからを考えたメルヴィンは頭痛がしたが、目の前で幸せそうな空気を醸し出す二人を見れば、それも享受しようと思えたのだった。

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