【外伝】ある秋の日、籠を出た鳥と
使用お題:
魔法の林檎
籠鳥檻猿
神に愛された
まだ帰れない
フラクタル形状
秋。紅色に染まった桜の葉がひとひら、橘領斗織の枕元に届けられた。柄をつまんで眺める斗織のベッドサイドで、葉を持ち込んだ見舞客が言う。
「桜の葉は、こうも鮮やかに色づくものなのですな。初めて知りました」
髪に白いものの混じる、堅物という単語を具現化したような風貌の男だ。名を、駒場という。
「皇居にも桜はあるでしょう」
男の職場は、この国の中でも特に丁寧に手入れをされた木々に囲まれているはずだ。仕事に忙殺されていては、例え日本一の庭園を横切っても美しさは目に映らないものなのだろうか。
「平地の桜は、こうまで見事に色づきませんからな。こちらは、山の色が違う」
「それだけ寒いということです」
緋色に燃える山々を思い出してか、駒場は目を細めて感嘆する。斗織は葉をくるりと裏返し、ため息交じりに言葉を返した。
「それに、カメムシも多い」
心底うんざりした響きに、駒場がくすりと笑いを漏らす。全く以って笑い事ではない。自力でまともに起き上がることも難しい斗織にとって、どこからともなく悪臭を放つかの害虫は天敵に他ならないのだ。
「――カメムシが多い年は、雪の多い冬になると申しますな」
今年の春先、初めて斗織のもとを訪れた駒場は、この山の秋も冬も初めてだ。
「覚悟しておいてください。多いですよ、例年通り」
年に一度は、一メートルを超える積雪がある土地柄である。もう「視る」ことの出来ない斗織では、この冬の雪も予測しようがないが、かつては大雪の数日前になると全く耳が聞こえなくなる日があった。何故聴覚なのか最初不思議だったが、どうやらあれは「無音の世界」を示していたらしい。
くるり、くるり、と回す葉には、朱く葉脈は透けて見える。それ自身がまるで、親である樹を写し取ったかのような姿だ。
「葉脈もフラクタル形状ですね。世界は、フラクタルで出来ている」
樹の姿と、それを構成する枝の姿。葉脈の姿。葉脈を更に拡大してもまた似たような形が現れる。拡大しても拡大しても似たような形が続く。細部と全体が相似した図形をフラクタルと呼ぶのだ。
「世界もまた、人の形をしているのかもしれない。そんな話を以前にもしておいででしたな」
「姿というよりは、意識ですけれどね」
斗織には異能があった。それは、余人は知る術のない「明日」を視る能力とされた。だが実際に斗織が見ていたものは「集合的無意識」の知る「今」だ。この世界には、意識がある。斗織や駒場や、他の人間たち、鳥や獣や植物に至るまで、地球上の全存在の「全体としての意識」だ。
「僕にこうしてある意識を、僕を構成する細胞が知る術はないでしょう。理解する――という概念すらきっとない。同じように、僕たち個々の生命を構成の最小単位とする上位の存在、この地球にもまた、僕たちには到底理解しえない『意識』があるのだと思います」
古典力学の世界に君臨していた、魔法の林檎は地に落ちた。サイコロを振る神に愛された猫は、生と死の間を自由に行き来する。世界はまるでマザーグースだ。どれだけ理詰めで根本を追いかけても、まるで乳母がでまかせに語るお伽話のように、のらりくらりと逃げていく。
「私などは、それは『神』のようなものだろうと思ってしまいますが……貴方にはまた、全く別のものが見えておいでなのでしょうな」
ふう、と少し諦めたような顔で、いかめしい客人は天を仰いだ。宮内庁に勤め占術を本来の職務とする彼が、斗織の言葉遊びにギブアップした時の表情だ。それに軽く笑って、斗織は桜の葉をサイドデスクに置いた。
「そうですね。それでもきっと、その『神』とやらの考えや言葉を、僕が知ることはできない。だけど……」
なぜか斗織は、世界の意識のほんの欠片を理解する能力を与えられて生まれてきた。四次元のモノを三次元に、三次元のモノを二次元に落とし込んだ時のように、その情報はあまりにもあやふやで意味不明なものが多い。だが、多少不可解でも不完全でも、斗織は自分の意識より高次の情報を処理するアルゴリズムを、自分の中に持っている。
異能に縛られ籠鳥檻猿に甘んじていたのは、もう過去の話だ。
「データベースのアクセス許可を、貰ってきてくださったのでしょう。『鍵』を」
やせ衰えた青白い手を伸ばす。手のひらの乗せられたメモリカードを、枕元に置かれたカードリーダに挿し込んだ。ベッドサイドからアーム固定されたキーボードやマウス、液晶ディスプレイを引っ張り出してコンピュータを起動する。
斗織の身体はもう動かない。籠から出る代償に、風切り羽根は折られてしまった。だが、代わりの翼を隣の男が用意してくれた。どこまでも飛べる、電子の翼だ。
「……楽しそうでいらっしゃいますな」
「楽しいですよ。憧れでしたからね」
憧れという単語に、男が首を傾げる。
「ハイスペックマシンに複数ディスプレイ、多ボタンマウスとアームのキーボード。かっこいいじゃないですか」
言えば、さらに「ははあ。分からん」という顔をされた。どこまでも、生きてきた世界が違う相手なのだ。人生の道が交わったこと自体、不思議でならない。あまりにも違うので、分からないという顔をされても腹が立たないし、向こうも分からないままで気にしてもいない。居心地の良い距離だった。
この世界に神というものがあるならば、それは常世という名の「母胎」かもしれない。全ての「意識」はそこから出でて還る。斗織も、また。きっとそれは、あまり遠い未来ではないはずだ。
だが、今はまだ帰れない。リクライニングベッドを起こす斗織の傍らで、男がのっそりと温んだ茶を啜った。
桜下の夢 歌峰由子 @althlod
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