あなたのなわばり
今崎かざみ
あなたのなわばり
「精が出ますのね。順調?」
「えっ?」
背後から突如掛けられた声にサーバルは作業する手を止めた。
港にほど近い林の中で『ふね』の製造は進められていた。日はとうに沈み辺りは暗いが、夜目の利く彼女の瞳には声の主がはっきりと映っている。
「カバ?」
「お疲れさま、サーバル。そろそろ休憩なさらない?」
手に持ったジャパリまんを差し出して、和やかな微笑を湛えるカバ。ぱあっとサーバルの顔も綻ぶ。くきゅう、と気の抜ける音も鳴った。
てへへと照れ臭そうに笑い、サーバルはカバを自分の『ふね』の素体――ジャパリバスの後部に招き入れた。ビーバーらが設えた木製のベンチにふたりで並んで座る。
「ありがとうカバ! も~お腹ペコペコだったよ~」
「あんまり根詰めちゃダメよ? 他のみんなはもう引き揚げてるじゃない、続きは明日にしなさいな」
「ううん。わたしが一番がんばらないと! 前はかばんちゃんのための『ふね』だし、後ろはわたしが使うんだから!」
むん! と意気ごむサーバルを前に、カバの表情がかすかに翳る。
荒れた毛並み、ささくれた両手指。目にはうっすらとクマができている。過去の長旅でサーバルが蓄積した疲労は容易に見て取れた。
「ねえ、サーバル」
「うん?」
「本当に、またあの子と一緒に行くの?」
決然とカバが切り出した。
つられてサーバルも真顔に変わる。
潮気を含んだ生暖かい海風がふたりの前髪を揺らす。つかの間訪れた静寂を破り、カバは再び言葉を加えた。
「慣れないちほーでの生活は命を縮める。あなたも知っているでしょう?」
「うん」
わかっているのかいないのか。淡白なサーバルの回答に我知らず苛立ちを募らせるカバ。それでも上辺は平静を保ち、諭すような――ともすれば懇願するかのような――口ぶりで訴える。
「いい、普通けものは旅なんかしませんの。できるように作られてませんの。ましてや夜行性のあなたが昼行性のヒトとなんて。……どうせあなたのことだもの、あの子に付き合ってあまり寝ていなかったんでしょう?」
「ね、寝てたよー。それにね、最近昼型になったんだよ! すごいでしょ!」
「嘘おっしゃいな」
「嘘なんかついてないよ!」
「サーバル。私、少しだけ後悔しているの」
かすれた小声が地面に落ちる。
自ずと目線も足先に向いた。
「……カバ?」
「どうしてあのとき、あの子と一緒に行かせたんだろう、って」
日々、カバは後悔し続けていた。
かばんに付いていくサーバルを止めず、送り出してしまった自分を。
そんなサーバルに付いていかず、さばんなに居留まっていた自分を。
「で、でもかばんちゃんと一緒に旅したおかげでパークは助かったんだよ! もしかばんちゃんと旅してなかったら今頃きっと」
急に沈痛な面持ちになったカバにサーバルは慌てて反論するが、カバはにべもなくはねつける。
「そういうのを結果論っていうの。それ以前に、私はあなたに危ない目に遭ってほしくなかった。無茶な旅をして、大事な命を摩り減らしてほしくなかった。気付くのが、少し遅かった。だからね、今度は。……今度は」
――本来であれば住み処も居場所も、生きる時間さえ重ならないふたり。
それがかばんとサーバルであった。
共に旅を続ければ摩り切れる。サーバルがサーバルである限り。かばんがサーバルでない限り。
そのことを理解しながらも、カバはふたりを見送ってしまった。
「……あのね、カバ」
俯いたままのカバにサーバルが落ち着いた口調で語りかける。子どもをあやすような口ぶりだった。カバの胸がじくりと痛んだ。
「かばんちゃんがあの黒いセルリアンに食べられたとき、わたし、思ったんだ。かばんちゃんと離れたくないって。ずっと、ずーっと一緒にいたいって」
カバははっとして面を上げた。
サーバルは夜空を仰いでいた。
「かばんちゃんってね、すっごいんだよ! かばんちゃんといるとね、風が冷たくても、雪が降っててもガマンできるの。昼でもがんばって起きてられるよ。あと、ジャパリまん! ひとりで食べるよりもうーんと美味しいんだ! なんでだろう? それにね、景色だってきれいでね」
「……それは、私たちのさばんなでは感じられなかったことなんですの?」
「うん。わたし、かばんちゃんに素敵なものを、いっぱいいっぱいもらったんだ」
「だから……だから付いていくの? お礼をするため? 今度はちゃんと守ってあげるために?」
やりきれなさを吐き出すかのようにカバは言葉を継いでいく。
「あの子はあなたの力がなくても、もうひとりで十分やっていける。行く先々で友達も作れる。あなたが付いていく必要なんて、これっぽっちだってありませんのよ?」
「わたしもそう思う……ちょっと、ほんのちょっとだけ寂しいけど。今のかばんちゃんはもう、わたしなんかいなくてもきっと大丈夫」
「なら」
「だからこれは、かばんちゃんのためじゃなくて」
カバの詰問を遮り、サーバルはついと片方の腕を伸ばした。
愛しげにバスの内扉を撫でる。慈しむような手つきであった。
「かばんちゃんを守りたいとか、何かお返ししたいとかじゃなくて」
そっと扉から手を離し、告げる。
「ただの、わたしのわがままなんだ」
言い終え、サーバルはくしゃりと笑った。
カバは何も言い返すことができなかった。
「もう、かばんちゃんの隣がわたしのなわばりなんだよ」
ベンチをぽんと叩いて、サーバルははにかむような微笑みを浮かべる。
「……そう」
交わったままの視線を解いて、カバは深いため息をこぼした。
扉を開けてバスから降り立つ。
「ありがとうカバ。でもね、もしかばんちゃんが――」
「この板。どこに嵌めればいいんですの?」
「え?」
バスの周囲に積まれた素材の板を掴み取り、カバは問いかける。
「こんなの早く終わらせて、フレンズたちと一緒にいる時間を作った方がいいわ。せっかくお友達になれたのでしょう?」
「え、あ……うん。うん! えっとね、それはたしか『こぎいた』って言って――」
黙々と漕ぎ板を組み立てながら、ふいにカバがぽつりと呟いた。
「たまにはさばんなちほーにも顔を見せにいらっしゃいね」
「もちろん!……あのね、さっき言いかけたことだけど。もしかばんちゃんが海の外に出ないって言ったら、そしたらさばんなで暮らすんだから! そうなったらカバともいつでも会えるよ!」
「……そうね。うん。そうなるといいわね」
*
今日分の作業を終えたサーバルと道の途中で別れた後。
カバは近くの川べりに行き着いていた。
砂が粗く、岩の多い浅瀬だった。ベストとは呼べない場所だけれども今宵はここを寝床としよう。
川面に身を浸し、石をよける。冷たい川の水が全身に染みこんでくるようで心地良かった。重たい身体を仰向けにし、川底に背を預け寝そべった。
四肢の力を抜くと、少しずつ肉体も軽くなり、やがて浮きあがる。
柔らかな浮力に包まれながら、明るい夜空を仰ぎ見るカバ。やけに月が眩しく感じられた。さばんな以外で初めて見る月は、丸く、青みがかっていた。
「あの子の答え、わかってるくせに」
誰にともなくぼやいてから、そんな自分自身に苦笑を漏らす。
「これが、泣くってことなんですのね」
今は、もう少しだけ泣いていたい。
淡く滲む月を見上げながら、カバはゆっくりと息を吐いた。
あなたのなわばり 今崎かざみ @n_method
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