第3話 熱心な人ほどタダ働きしている

 OJT研修という現場での研修を受けるために、仮配属されたθ中央校の2号館を目指して歩いている。θ中央校はσ学園のなかでかなり規模の大きい校舎で、初めに建てられた1号館だけでは生徒を収容しきれなくなり2号館が作られているらしい。1号館は駅ビルの中という好立地なのだが、2号館は地図を見る限り少し面倒な場所にあるようだ。個別指導部はすべて2号館らしくOJT研修もそこで行われるとのことだった。

 なんとか目的地に辿り着くと、そこには巨大なボウリングのピンがそびえ立っていた。

 なにこれ?おもいっきりボウリング場やん。これがホンマに塾なんか?

 心配になって辺りを見渡すと「σ学園個別」という看板が目に入ったのでひとまず安心した。

 中に入ろうと開き戸を開けるとドアチャイムが鳴る。しかしメロディICにかかる電圧が低下しているのか、はっきりしない音階で心地よくない音を奏でる。

 電池交換を怠ってるだけならええんやけど。本社から教室整備の予算が下りんとかないやんな?

 入ってすぐの受付兼オフィスのような場所で教室責任者が待っており僕を出迎えてくれた。

「お疲れ様です。今日からOJTでお世話になる研修生のλです。」

「λ先生ですね。ηです。よろしくお願いします。」

 多分生まれて初めて「先生」と呼ばれたのではないかと思う。将来、教諭に成るつもりもなければ、医者、政治家、弁護士のどの職業とも縁が遠いと思うので、一生「先生」と呼ばれることはないと思っていたのだがこの手があったのか。突然のことだったので、少し変な感じがして自分でもよくわからない感情になった。

 閑話休題。教室責任者はとても丁寧で見るからにいい人だった。簡単な挨拶をしているとまたドアチャイムが鳴り、バタバタと誰かが入ってきて僕の方に近づいてくる。

「研修生の子やね。4回生のμです。」

「1回生のλです。よろしくお願いします。」

 挨拶が終わると、ηさんが提案する。

「じゃあ、λくんはμさんに任せます。いろいろ教えてあげてください。」

 μさんはこの教室のアルバイトの中では一番長く働いており、生徒評価が高かったり、研修で賞を取ったりしている凄い人らしい。

 それから僕はμさんに業務の流れを大まかに教えてもらった。

 「そろそろ授業の時間やわ。私の授業見学しよか。」

 そう言うとμさんは僕を個別指導の教室へと誘う。どうやら凄い人の授業を見学することができるようだ。やったー。

 μさんは書類をまとめると、このタイミングでタイムカードを切った。

 え?今までの時間は働いてないことになってたんか。なんか悪いことしたな。

 見せていただいた授業は面白く、わかりやすく、とても良いものを見学することができた。中学生のないようだが、僕も授業を聞きながら「そうなんや!」と頷いてしまうレベルだった。いや、それは問題か…

 2コマの授業を見学するとすっかり夜も更けていた。μさんは授業を終えるとホワイトボードを消して、書類を持ってオフィスの方へ戻っていく。そうしてデスクに戻るとタイムカードを「退勤」で切ったがラップトップの画面を見つめて何やら事務処理らしきことをしている。

 ちょっといきなりブラックなのみてしまったかもしらん。やっぱり塾バイトってそんなもんなん。ぜったいアレ働いてるやんな?

 授業見学が終わると僕は特にすることもないので、帰宅準備をする。校舎を去る直前にタイムカードを切って、研修扱いの安い時給ではあるがしっかりと貰っておく。

「お疲れ様でした。」

 出口で挨拶すると、オフィスから数人の返答が返ってきた。そのなかにはμさんの声もあった。どうやらまだ残っているようだ。

 生徒評価が高かったり、研修で賞を取ったりしている、会社に貢献している先生なのだから賞与があってもいいぐらいなのに、そういう熱心な先生に限って損をしているという状況を見て悲しい気持ちになった。本人は損をしていると思っていないのかもしれないが、そこに浸け込んで搾取しようという会社の考えは許せない。


***


 授業を数回見学すると、次はアルバイトの先輩方を相手に模擬授業をして、最後に修了検定というのを受けて、やっとOJT研修が終わった。

 僕は仮配属先のθ中央校に本配属されることになり、晴れて塾講師として働けることになった。

 今日は初めての授業だ。念入りに準備をしようと思い授業の始まる約1時間半前に校舎に到着した。

 オフィスに入りタイムカードを切ろうとすると、ηさんに止められる。

「あっ、λ先生。まだ切らんといてもらっていいですか?一応あんまり早く切らんようにいうことになってるんですよー。」

 と、申し訳なさそうに説明してくれた。

 そうなんかい。知らんかった。これから絶対早く来んとこ。

「そうなんですか。目安として何分前ぐらいに来たらいいですか?」

「30分前ぐらいですかね。」

 ショッキングなやり取りの後、授業準備を始める。しかしこれがなかなか面倒で時間がかかる。

 生徒情報のファイルから進度を確認して、その範囲の教材を自分用にコピーする。そして、前回の宿題の範囲を確認して、小テストを作成する。それから、授業報告書の事前に埋めれる箇所を埋めて、ちゃんと色の出るホワイトボードマーカーを探す。初めてということもあるのだろうが、そうこうしているうちに1時間程度かかってしまった。

 授業30分前になったのでタイムカードを切って、残りの時間は今日の範囲を予習して生徒が来るのを待っていた。

 初授業の相手は運良くとてもいい子で、緊張気味の僕の授業をにこやかに受けてくれて助かった。

 あっという間に2コマが終わり、今日の僕の授業が無事すべて終わった。

 オフィスに戻り、生徒情報のファイルに授業報告書を綴じて出勤簿を書いていると、またηさんに「ごめんなさい。」と話しかけられた。

「えーとですね。多分契約説明会でも言われていると思いますが、授業前30分はお給料でないんですよ。」

 マジか…そんなん記憶に無いぞ。ウトウトしてたからその時かな。でも、そんなんアカンくない?平均して計算したらスーパーの時給と変わらんやん。

「えー、そうだったんですか。じゃあ今日出勤簿に書けるのは授業時間の分だけですね。」

「そういうことになるんですよー。こめんなさいね。」

 ηさんは凄く申し訳なさそうに説明してくれる。その態度を見るとこちらも怒るに怒れなくなってしまう。しかし、規則を決めているのはηさんではなく本社だろう。そちらに対しては怒りが湧いてきた。

 これからは30分前にも来んとこ。直前に来な損やな。

 不満を抑えて出勤簿を書き終えると、タイムカードを切って荷物をロッカーから取り出して帰ろうとする。すると、数人の生徒が「先生」と呼ぶ声が聞こえた。きっとηさんのことだろうと思って周囲を見ると、いつのまにかηさんはいなくなっている。

 まさか僕のこと呼んでる?今日働くの初めてやねんけど。スーツ着てたらそれなりに先生に見えるんかね?

 仕方なく僕は「どうした?」と言って話を聞きに彼女らに近づく。

「意味わからん問題があって、教えて欲しいんですよ。」

 えー。今から帰宅しようとしてたんやけど。タイムカード切ってもうたし。でもなんか頼られるのって嬉しいな。いかんいかん、やりがい感じだすと搾取ルートまっしぐらやん。

「ちょっとだけな。この後やらなあかん仕事があってな。」

 とか適当なことを言って素早く終わらせようとしたのだが、結局20分近く解説してしまった。

 結局一度切ったタイムカードを修正することもできず、タダ働きしてしまった。


***


 帰り道、ふと今日の時給を計算してと笑ってしまう。

 なんじゃこりゃ。最低賃金の半分やん。やってられんな。

 この先、段々職場に慣れていくとともに効率よく稼ぐ方法を見つけ出して、少なくとも実質の時給が最低賃金を下回ることはなくなった。しかし、アルバイト募集の広告に載っている非常に高い時給を手にしたことは一度もないのだった。

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僕は有名進学塾に怒っている Complaining @complaining

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