僕は有名進学塾に怒っている

Complaining

第1話 突然契約を拒否される

「λくん、ちょっと来てくれる?」

 アルバイトの契約説明会で契約書を書いているところ、突然僕の名前が呼ばれた。声の主は先程まで前に立って説明をしていた採用研修部のωさんだ。後に僕が心底嫌うことになる人だとは知るはずもなく、僕は自分の席から立ち上がってωさんのもとへ向かう。

 それほど広くない会議室の中では、同じく契約に来た大学生たちが決められた席に座って静かに契約書を書いている。その脇を邪魔しないように静かに歩いていった。

 僕は今、県ではそこそこ有名な進学塾のアルバイトの契約説明会に来ている。

 数週間前、自宅に塾講師のアルバイト募集の郵便物が届いた。僕が中学生時代通っていた愛着のある塾からで、ちょうどスーパーでのアルバイトに飽きてきた頃だったということに加えて、時給・仕事内容ともに魅力的だったのですぐに応募した。

 採用会と呼ばれる面接・筆記試験を通過して運良く内定を貰うことができたので、契約のために本社ビルの地下にあるこの会議室に来ているのだ。

 僕がΩさんに近づくと、ωさんは会議室から出ていく。

 ん?どこいくんや?

 自分ひとりだけ室外に連れられることに不信感を覚えたが、それ以上深く考えることなくついていく。連れられた先は会議室近くにある職員用トイレだった。

「ごめんなー、こんなとこで。ちょっと鏡の前いってもらえる?」

 なんでトイレ来たんや?しかし取り繕ったような笑顔で喋る人やなあ。

 意図がよくわからないので、「いえいえ」とか言いながら鏡の前へ向かう。

 すると、JHCAのレベルスケール(頭髪色の基準となるサンプル)を手渡された。

「あなたの髪と比べてみてどうですか?」

 もしかして髪の毛の色に文句つけられるんか?

 やっとωさんが何をしたかったのかが理解できてきた。

 この会社は従業員の髪の明るさに制限を設けている。そのこと自体は面接のときに聞いていた。「JHCAレベル8以上にしてください」と言われていたがそれがどの程度なのかよくわからなかったので、美容院へ行き「JHCAレベル8」に染めて貰った。

 そのため、髪色について何か言われるのだろうということは予測できたが、何を言われても大丈夫という絶対的な自信があった。しかし、「どうですか?」と聞かれると何を答えてよいのかわからない。

「えーと」

 すると、ωさんはさらなる情報を与えてくれる。

「これと比べてあなたの髪は明るいですか?暗いですか?」

 それ僕が判断してええんかいな。

「僕の主観でいいんですか?先生が判断してくださいよ。」

「いやいや、あなたが決めていいんですよ。」

 そう言われて少し真面目にレベルスケールと自分の髪の色を比べて見たが、どうみてもレベルスケールのほうが明るく見えるので堂々と質問に回答する。

「レベルスケールよりも暗く見えます。」

 するとωさんの取り繕ったような笑顔が突然真顔になった。

「そうですか。じゃあ、この赤い色はなんですか?」

 そんなこと言われても知らんがな。言われてみればちょっと赤みがかってるかな?

「美容師さんにおまかせしましたので僕はよくわかりません。」

 ωさんの口調が強くなる。怖いやんけ。

「わからないことないでしょ!美容室でなんて頼んだんですか?」

 そう言われても僕はヘアカラーに詳しくないので全く覚えていない。それにしても、ちょっと前の笑顔からの豹変ぶりがやばい。

「そう言われましても『JHCAのレベル8にしてくれ』とお願いしただけなのでわかりません。」

 それから何回か似たようなやり取りが続いて、いい加減応答が面倒になってきた。

「美容師さんが僕に似合うように赤い色を入れたんじゃないですか?」

 後に凄く後悔することになる発言をしてしまった。これを聞くとωさんは勝ち誇ったような顔をして口を開く。

「やっと言ったか。誰がお洒落していいっていいましたか?自然な髪色でないと契約はできません。」

 は?話が違うやんけ。高いカネ出して髪染めてきたのに。こんな理由で契約拒否とかアリなん?そもそも今日来るのに結構交通費かかったんやで。スーパーでバイトの身にはキツイんやで…

 いろいろな感情により、無意識に口答えしてしまう。

「僕は採用会のときにJHCAのレベル8と言われたので、それに従っただけなんですけど。色味の話は聞いていません。」

「いや、してたはずです。それに常識的に考えてわかりませんか?髪が赤い先生の授業受けたいですか?」

 意味がわからん。それ間接的に外国人の講師を侮辱していませんか?

 反論しようとすると、ωさんは僕を別の小さな部屋へ招く。

「こっちで話しましょう。」

 僕が部屋に入り言われるがまま椅子に腰掛けると、部屋のドアが閉められた。そうしてωさんは語気を強めて早口に話し出す。

「あなたの髪色は当社の規定を満たしていませんので、あなたとは契約できません。」

 怒りを抑えて反論の言葉を選ぶ。

「採用会で色味の話はでてきていないはずです。そちらの説明不足ですよね?」

「ではその件はこちらから調べておきます。が、どの道あなたとは契約できません。お帰りください。」

 ホンマに契約せんつもりか。腑に落ちんなあ。

「僕は結構な代金を支払って髪を染めたんですよ。それに、ここまでの交通費はどうしてもらえるんですか?」

「それは知りませんよ!まだあなたとは契約してないですからね。支払う義務がありません。」

 クソッ、確かに内定貰っただけで契約してないやん。今めっちゃ立場弱いやん。悔しいどうしたらええねん。

「もしあなたが髪を染め直すというのなら、今後についてはこちらで話し合いますのでまた連絡します。」

 お?意外とまだ雇う気あるねんな。でもなんかそれやと完全に負けたみたいやな。でもここで内定破棄したら一生美容院の代金戻ってこんよな?ここはすんなり契約してもらって入社してから取り返すしかないか…

「染めます。ただ、採用会の件は説明不足だったので、その点は追求してくださいよ。」

「わかりました。じゃあ契約書は机に置いておいてもらっていいので、忘れ物ないように返ってください。」

 ωさんはそう言うと部屋のドアを開けて、契約説明会の会場である会議室へ向かっていってしまう。そのあとに続いて荷物取りに会議室へ戻る。すると、部屋中の視線が一気に集中する。突然名前を呼ばれて長時間席を離れていたのだから無理もないだろう。

 筆記用具をまとめて収納し、鞄を背負って立ち上がる。静かに歩いて会議室を出る直前に「失礼しました。」と挨拶をしたが、華麗にスルーされてしまった。ωさんには無駄に礼儀正しそうなイメージを勝手に持っていたので、少し意外に感じた。さり際に会議室を振り返ると、色が黒くて人の良さそうな青年と目があった。

 彼らは今の状況意味わからんやろなあ。驚かせてもうたかな。悪いことをした。


***


 本社ビルからの帰り道、先程までの過程を思い出して憤慨しながら歩いている。

 なんやねんアイツ!思い出すと腹が立つわ。詐欺罪とか適用できへんのかね?すごい騙された気分やわ。あんだけゴージャスな本社ビル建てれるねんから髪染め代ぐらい出せるんちゃうん?

 このときはこの県では有名な塾が非常にずさんな管理体制で運営されていることをまだ知らなかった。

 考え事をしながらしばらく道を歩き、バスターミナルに着いた。そして、自宅付近へ向かう高速バスに乗車した。はずだったが、考え事をしていたせいかバスを乗り間違えてテーマパークに到着してしまった。

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