5 静寂の人(ⅴ)
無人の改札を抜けた。
その先に広がる空と陸の境界は、闇の中で星雲にぼんやり照らされて曖昧になる。
僕は、そんな何もない田舎に居を構えている。
夜は実に静かだ。
それもそのはず、まずこの星における人間の絶対数の著しい減少が大いに関係するだろう。それが、ヒューマノイド産業の台頭が故なのか、それが故にヒューマノイド産業が台頭したかは、鶏が先か卵が先かを考えるに等しい。
さらに言えば、歩行用の道路が拡大したり、人口が分散されるようになったことも起因するのかもしれない。
大昔と違い、都会と田舎という言葉には、利便性での差異は含まれず、その機能だけが字義に残った。
僕が生を受ける前から、商業は体系を変えて全国に満遍なく分配され、国内全域に張り巡らされた公共交通機関網の発達により、コストパフォーマンスの悪い自動車の需要は減っていった。
国内でも海外でも市場競争から敗走した自動車産業は、間も無く我が国の代表産業の座を追われ、今は細々と延命治療に勤しんでいるようだ。公共交通機関以外の個人的な移動手段はというと、電動小型機か自転車・徒歩に絞られるようになった。
公共交通機関は、ヒューマノイドを採用することが多くなり、ほとんど無料に等しく利用出来るようになった。
それによるリスクも往々にして存在するのだが。
とはいえ、輸送用の大型自動車は未だ現役で、こんな片田舎でも昼間は幅を利かせているらしいが。現に、大型自動車は僕にとって事故のトラウマでもあり、見かける度に、左脚に虫が這いずるような感覚に襲われる。
だがそれも、夜になれば出くわすことは少なく、今の僕の生活サイクルにはほとんど関係のないことだ。
僕は広大な田園の傍の道路を歩いていく。
目が慣れてくれば、街灯がなくても空の細やかな光だけで、モノクロの世界が見えるようになる。
月が不在の今宵の空には、無数の光の粒が闊歩する。
人間が今よりもずっと多く蔓延っていた大昔には、こういった空は絶滅寸前だったというが、こうやって見上げると、それも御伽噺のようだ。
少々疲れてきたので、携帯していた杖を伸ばして補助に使う。
そうして十数分歩いていくと、懐かしい灯が見えてきた。
門の錠を開け、庭の草花に見つめられながら家の扉を開ける。
「謐君、ただいま帰ったよ」
夕飯の良い香りがする。
靴を脱いでいると、足音が聞こえて、謐君が玄関に現れた。
「今日もご苦労様、謐君」
謐君がゆるりと頭を下げて、居間への扉を開けて待つ。
僕は、所有物は出来る限り自分で世話したい類の人間であるから、他の人間とは違い、謐君に荷物を放るような真似はしない。謐君には謐君の、僕には僕の役割が明確にある。
扉を抜けた先の部屋では、植物たちに囲まれたテーブルとオープンキッチンの辺りを、優しい光が照らしている。
鞄を置いて、深呼吸をした。
私の癒しが詰まった空間だ。
僕が外套を引っ掛けて、手を洗い部屋に戻ると、謐君は料理を並べて待っていた。
今日はホワイトアスパラガスのクリームパスタがメインなようだ。春キャベツのスープも、いい芳香を漂わせている。
台所のガラス端末が移動していることから、新しいレシピでも習得したのだろう。
「謐君、今夜はちょっとお洒落なメニューだね」
謐君が照れくさそうに俯く。もうすっかり、少なくとも我が国の人間よりは、人間味が溢れてきた。
僕たちは席に座った。
「では、いただこうか。今宵僕たちの血肉となる全てに感謝をこめて」
手を合わせ、祈りを捧げて夕食を始めた。仄かな光の中、食器の小さな音だけが響いている。
謐君とは筆談か手話でコミュニケーションを取るが、食事の妨げになるので、この静寂は必然かつ好都合だ。
その代わり、料理は存分に味わう。
一つの同じメニューをとっても、五感を研ぎ澄ませば、また違った楽しみが生まれる。陳腐でチープな思想に思えるが、実際に実践し実感した者にしか決して至れない、身近な秘境なのだ。
夕食を終えて、片付けに入ろうとした時、ふとあることに気づいた。
「あれ?謐君。首のシール、取れたのかい?」
そう言われた謐君が首筋を押さえる。
その手を退けると、赤い識別証が露わになっていた。
識別証は、ヒューマノイドと人間を区別するために必要な烙印だ。これを押していないヒューマノイドは違法となり、回収・処分されてしまう。だが僕は、件の団体との遭遇と同団体の襲撃を警戒して、普段は皮膚と見分けのつかないシールを貼って隠蔽しているのだ。
これは滅多に取れないようになっているはずなのだが、何かあったのだろうか。
謐君は、筆談用のメモ用紙と取り出すと、すらすらとペンを走らせた。
謐君が見せた紙には、細く可憐な字で、“引っ掻くと取れてしまいました”と書いてあった。
「どうして引っ掻いたんだい?」
僕は問うた。
すると、またペンを走らせ、“全身が痛痒いのです”と書いた。
そういえば、ペンを持つ手にも掻き傷のようなものがあることに気づく。
痒みというのは、痛覚のないヒューマノイドには本来現れるはずのないもので、恐らく他の感覚が誤伝達したと推測するが、不可解な出来事には変わりない。
「……片付けたら、お風呂にしようか」
漠然とした不安とともに食器を抱えた。
浴室は少し広めに設計してある。
二人入っても狭くならないように。
ヒューマノイドに風呂は必ずしも必要ではないのだが、謐君に関しては別だ。僕と対等であるという意味でも、僕だけという訳にはいかないだろう。
それにシャワータイムは、その日一日のつかれを癒す時間でもあり、点検の時間でもある。摩耗の激しいヒューマノイドは、こまめに点検しなければ、あっという間に動けなくなってしまうのだ。
僕は昔に一度、半ば腐敗し、骨格がずれ、がたがたと震えながらも、使命を果たそうとするヒューマノイドを見たことがある。まるで半端に蘇生した屍のようで、その悍ましく哀しい姿は、僕の脳裏に今でも鮮烈に焼き付いている。
それからというもの、謐君の点検は毎日欠かさないし、微々たる異変も見逃さない。今日の痛痒さも当然ながら看過出来ない。過保護なようだが、過保護なくらいが過不足ない。
僕は、躰の泡をすべて流し終えると、謐君を呼んだ。
しばらくすると謐君が入ってきて、隣の椅子にちょこんと座った。
軽くクセのある長い髪を丁寧に洗っていく。人間のそれとは天と地ほど違うのに、完全に再現出来ているということに、毎度ながら感心させられる。こうしてみると、ヒューマノイドの卵であるEUAIDを作った人間は、神に最も近いと言われても文句はない。
髪を流し終えると、次に僕はボディタオルに専用の石鹸を泡立てる。
そうして謐君の躰を洗おうとして、僕は手を止めた。
全身についた無数の深い引っ掻き傷と赤の斑点。それが何かは、もちろん気になるが、それ以上に胸が痛い。
時に、真人間では痛みが勝って手を止めるであろうその先まで、ヒューマノイドは踏み込んでしまう。ヒューマノイド自身が痛みに動じないが故に、見る者へ感じさせる痛々しさに、僕はぎりぎりと奥歯を鳴らした。
「明後日の休日……千領先生の所へ行こうか」
躰をそっと洗いながら僕が言うと、謐君は一度だけ頷いた。
イデアロイド 和毘助 @wabisabi4
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