絵月と牡蠣フライ
水谷なっぱ
絵月と牡蠣フライ
歌原絵月は牡蠣フライが好きである。カリッとした衣にトロトロの身、甘辛いソースと磯の香り。それらすべてが混然一体となって口の中に広がる、その瞬間が好きだ。
そもそも絵月は牡蠣フライが苦手だった。何故なら彼女の母親は料理が苦手で、母親の作った牡蠣フライは、衣はふにゃふにゃ、身はドロドロの悲しいものだったし、たまに買ってきた牡蠣フライがあったとしてもスーパーで安売りされていたそれらに期待はできない。
しかし大人になって一人暮らしを始めた絵月にはある習慣があった。定期的に嫌いなものを食すのである。美味しくなければ仕方ないが、大人になったことで、またプロが作ったものや少し値段の張るものを食べることで美味しく感じるかもしれない。そういった一種の期待と高揚感を持っての挑戦なのだ。
そして牡蠣フライに関していえば、それは成功となった。
あるとき一人で夕飯を食べる際に、なにげなく目についた牡蠣フライを絵月は単品で頼んだ。まだしゅうしゅうと音を立てる牡蠣フライが目の前に運ばれてきたとき、彼女のお腹は大きく音を立てた。牡蠣フライにとぽとぽとソースをかけて、衣が柔らかくなる前に口に運ぶ。
衝撃的な味がした。
衣はさくさくといい音を響かせて咀嚼される。
同時にパン粉の香ばしい香りが立ち込める。
続いて中から牡蠣の甘い汁があふれ出た。
牡蠣の汁は貝特有の臭みはなく、かわりに海と日差しを思わせる磯の香りが口いっぱいに広がる。そこにソースの少し辛みをもった甘さが混ざり合った。
これは完璧だ。
完璧な牡蠣フライだ。
絵月は初めてそう思った。
今までの牡蠣フライはいったい何だったのだろうか。あんなものはただの牡蠣フライもどきに過ぎなかったとしか考えられない。こんなにもおいしい牡蠣フライがあったのに、わたしは今までなにをしていたのかと疑わずにはいられない。
それほどまでに絵月はその牡蠣フライに衝撃を受けたし、衝撃を受けたことにすら感動しそうなほどにおいしい牡蠣フライであった。
それから絵月の牡蠣フライ生活が始まった。1週間に2度は牡蠣フライを食べる。最初の牡蠣フライは行きつけの居酒屋だったのだが、通い詰めることができるほど絵月の懐は裕福ではない。そこで定食屋やスーパーの牡蠣フライにも手を出してみることにした。わかったことは牡蠣フライは出来不出来の差が大きいということだ。
よい牡蠣フライはいい香りがして、箸で割った時にさくさくと音を立てる。また、口に入れた時の甘みが幸せを誘う。
悪い牡蠣フライは磯臭い。よい磯臭さではなく泥の匂いを伴った、残念な匂いである。箸で割った時の感触も違う。悪い牡蠣フライは音を立てないのだ。しんなり、へんにゃり、くったりと箸が入る。その瞬間の物悲しさを絵月はなんと表現してよいかわからない。そして一番がっかりするのは口に入れた時の風味だ。先に述べたとおり、まず泥臭い。そして苦みがある。貝特有の舌に残るまずさがあるのだ。
そういうとき、絵月は牡蠣に同情してしまう。いったいどんな酷いことをしたらこんなにもおいしくない牡蠣フライにされてしまうのだろうか。この牡蠣にどのような罪があったというのだろうか。もしかして仲間の牡蠣に嫌がらせを繰り返し、他の生き物に酷いことをしたのかもしれない。だとしてもこの仕打ちはあんまりだし、ましてやわたしまで巻き込むことはないのではないか。
同時に絵月はこうも思う。
牡蠣じゃなくて良かったと。
もし自分が人間ではなく牡蠣に生まれていたら、このような不味い牡蠣フライにされてしまうかもしれない将来におびえながら暮らさなくてはいけない。それはあんまりな生き方だ。
スーパーの牡蠣フライだからといって侮れないことに絵月は気がついた。インターネットでトースターによる美味しいトーストパンの焼き方を見かけたのである。それを牡蠣フライに応用することはできないだろうか。さっそく絵月は調べることにした。
まずは家にあるオーブントースター機能付き電子レンジの説明書を引っ張り出してくる。そこにはちゃんと総菜の温め方が書いてあった。なぜ今までそのことに気づかなかったのか悔しい限りだが今は置いておく。
それからインターネットで牡蠣フライの温め方を調べる。するとびっくりするくらいの量の情報が出てきた。またもやなぜ、今までそのことに気づかなかったのか後悔しそうになる絵月だが、この際そのことには触れないでおくことにする。
先に電子レンジで温める。トースターでカリッと仕上げる。アルミホイルで包む。出来上がったらキッチンペーパーで余分な油を取る。他にも魚焼きグリルを使う方法や、フライパンを使う方法なども出てきた。絵月の目からは鱗がこぼれっぱなしである。
そうして絵月はますます牡蠣フライにのめり込むようになった。朝食は今までどおり会社でおにぎりやパンを食べる。昼食は当然会社の近くの定食屋に牡蠣フライを食べに行く。毎日同じ店ではなく、違った店を探索している。絵月の勤める会社はIT系のエンジニアによるITサービス提供を行っている。そのための利便性を考えて都心に社屋を構えていた。だから会社の近くで美味しい食事を探すには事欠かないのだ。
そして問題は夜である。
初めておいしい牡蠣フライに出会ってから1年ほどたった現在では、絵月は1週間のうち3度以上の夕食で牡蠣フライを食べるようになっていた。
一番よく食べるのは近所のスーパーの牡蠣フライである。総菜コーナーで色よく揚がった牡蠣フライの中から、よりきつね色で大きすぎず割れていないものを選ぶ。家に持ち帰って電子レンジとオーブントースターで程よく温めて食べる。気が向いたらキャベツの千切りやレタスをちぎったもの、トマトのサラダなどを添えることもあるが、たいていの場合は牡蠣フライを単品で食べる。ごはんもパンもつけない。用意するのが面倒だからである。こちらについても気が向いたら冷凍しておいたごはんを解凍して食べる時もある、くらいのものだ。
次によく食べる牡蠣フライは近所の定食屋の牡蠣フライである。そこの牡蠣フライはおいしいときとそうでない時があるので気をつける必要がある。牡蠣を揚げている人の違いである可能性が高い。もしくは油の温度が下がっているか、揚げる時間が短いのかもしれない。なんにせよ心していく必要がある。おいしい牡蠣フライを期待したのにそうでなかったときの残念さは心の準備をしていないとなかなか耐えがたいものなのだ。
そしてあまり行かないが行くとなれば大量に食べてしまう牡蠣フライが行きつけの居酒屋である。何度行ってもおいしい牡蠣フライはおいしい牡蠣フライだった。牡蠣が牡蠣として生まれて余生を送るのに相応しい牡蠣フライだ。その居酒屋の牡蠣フライはいつ行ってもきちんとした牡蠣だった。見た目も香りも味も、なにもかもが理想的な牡蠣フライであり、それ以外の何ものでもない。
もしかしたら牡蠣が並んでオーディションを受けに来ているのかもしれない。普段は海の底でものを言わず、牡蠣的な思索にふける牡蠣たちがいかにおいしい牡蠣フライになれるかという噂を聞いていそいそと準備をし、居酒屋に電話をかけ履歴書を書くのだ。
「もしもし。秋田の牡蠣ですが、御社の牡蠣フライオーディションに参加したくご連絡差し上げました」
「わかりましたx月x日に面接会を行いますので履歴書をお持ちの上ご来社ください」
といったやりとりが繰り広げられる。そして秋田産よりも広島産の牡蠣の方が牡蠣フライに向いているという理由で彼は落選し、海の底で牡蠣的な反省を行い、再び牡蠣フライを目指すのである。
そこには牡蠣の牡蠣的生活を覆すための葛藤や煩悶、懊悩などがあるだろう。それでも彼は牡蠣として暗い海の底での生活を捨て、牡蠣フライとして生まれ変わることを志すのだ。牡蠣が大志を抱く一瞬である。絵月はそんなことを考えながら、居酒屋のカウンター席に一人で座り、牡蠣フライを黙々と食べた。
あるとき絵月は自分で牡蠣フライを作ることを考えた。揚げ物用の鍋は家にないが、フライパンに油を敷けばある程度は揚げ物ができるはずである。さっそく絵月はインターネットで牡蠣フライの作り方を調べる。
事前に牡蠣を塩水で洗い、さっと茹でるとおいしくなるらしい。大根おろしの汁で洗うのも良いそうだ。
まずは近所のスーパーに行き牡蠣やパン粉などを買う。帰宅して牡蠣を水で洗い、さっとゆでてからキッチンペーパーでしっかり汚れをふき取る。次に小麦粉、溶き卵、パン粉の順で衣をつける。最後に180度の油で揚げれば完成だ。
揚げたてだけあって見た目はおいしそうである。色はきつね色だし、おいしそうに見えるように千切りキャベツも添えた。タルタルソースも買ってきた。
いざ実食である。
牡蠣フライに箸を入れると衣はさくっと音を立てて割れた。
中には先ほどまで生牡蠣だった牡蠣が、火の通った牡蠣としてそこに存在する。しかし臭みはなく、汁も濁らず透明だ。ソースをかけてみるとわずかにしゅうっと音がした。
これは良い傾向かもしれない。期待を抑えつつ牡蠣フライを口に運ぶ。
おいしくない。
悲しいことに、まったくもっておいしくない。
自作した牡蠣フライは、外はかりかりさくさくなのに、中身が水っぽいのである。一体何が悪かったのか、どこの手順を間違えたのか思い返すものの、なかなか考え付かない。もう一度調べなおしたところで原因が判明した。牡蠣を洗うときの水が塩水ではなく真水だったのだ。
牡蠣フライを自作することを覚えた絵月の食生活は牡蠣フライにまみれていった。元々絵月はフライでない牡蠣も好物である。生牡蠣、焼き牡蠣、蒸し牡蠣も自然と高い頻度で食べるようになった。しかし絵月は注意深く気の小さいところがあるため決して加熱用牡蠣を生で食べることはしなかった。そのために今まで牡蠣であたることはなく、おいしく牡蠣フライを食べ続けることができているのである。
その後しばらく絵月は牡蠣の夢を見るようになる。
「もしもし、広島産の牡蠣ですが歌原絵月さんのお電話でお間違いないでしょうか。この度は歌原さんに当方の牡蠣を揚げていただきたくお電話差し上げました」
「こんにちは、歌原絵月さん。牡蠣不足にお困りではないですか? よろしければ私の仲間をご紹介しますよ」
「突然のご訪問、申し訳ございません。歌原絵月さんに揚げていただきたくはせ参じました」
絵月の牡蠣フライ生活はかれこれ5年に渡っていた。
あるとき絵月が近所のスーパーで牡蠣フライを買おうとすると違和感があった。
大したものではない。ほんのささやかな、虫の知らせ程度のものである。
絵月はそれを気のせいだと思っていつもどおり牡蠣フライを厳選し、買って帰った。帰宅して牡蠣フライを温めている途中にも違和感があった。いつもなら牡蠣フライの衣からいい香りがするのに、それを気持ち悪く感じたのである。首をかしげつつも温められた牡蠣フライを口に運ぶと違和感どころか、吐き気すら感じた。なにが起きたのか絵月にはわからず、しかしそのまま食べることもできず、彼女は泣く泣く牡蠣フライを捨てることになった。
その後の絵月は牡蠣フライを食べる気がまったく起きなかった。あれほどまで好きで好きでしょうがなかった牡蠣フライを食べようと思えず、スーパーや定食屋のショウケースで見かけてもなんとも思わないのである。
それは絵月にとって衝撃でしかなかった。思わず友人に電話すると一言で理由が判別した。
「飽きたんだよ」
それだけ?
それだけのことで、わたしは大好きだった牡蠣フライを食べられなくなってしまったのか?
友人は続けて言った。
「ものごとには限度があるんだよ」
なぜ絵月はそのことに気づかなかったのか。もう何度目か知れぬ衝撃である。しかし友人の言葉はすんなりと腑に落ちた。
そうか。
飽きたのか。
ならしょうがない。
というふうに。
絵月はその後牡蠣フライを暴食することはなくなった。暴力的なまでに牡蠣フライをもとめた心は失恋を吹っ切ったかのように落ち着き、牡蠣たちの夢を見ることもなくなった。
いったいあれはなんだったのか。
未だに絵月にはわからないが、それでもたしかに絵月は5年間という長期にわたり牡蠣フライを求めていたし、牡蠣は今でも深い海の底で粗悪な牡蠣フライになることにおびえ、牡蠣的な思索にふけっていると思う。
絵月と牡蠣フライ 水谷なっぱ @nappa_fake
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