誘拐道中膝栗毛

OOP(場違い)

誘拐道中膝栗毛

「連さん、お願い。この恋が認められないのなら、いっそ私を誘拐して」


 ぼくの恋人である高橋萌音たかはし もねは潤んだ瞳に、すがるような、だけど期待とワクワクを秘めて、そんなことを言ってくれた。

 そこまでして、ぼくと一緒になりたいなんて。ぼくはなんて幸せ者なんだろう。


 だけど同時に悲しくなる。


 これも一つの愛だというのに、かつて自身も経験したとても素晴らしい感情のはずなのに、なんでお義父さんたちは、ぼくたちの愛を許してくれないのだろうか。

 彼女がこんな悲痛な願いをする原因となったのは、約1時間前の出来事だ。

 ぼくと萌音の結婚を認めてもらうべく、きょう初めてご両親に挨拶に行ったのだが、ひどく怒鳴られてしまい、家を逃げるように後にして近所の公園まで逃亡し、現在に至る。

 たしかにぼくも萌音もまだ18歳で、世間一般的な結婚適齢期を下回りすぎているだろう。ハタチを越えてからするのが基本なのだろう。だけど、あんなにひどく言わなくったっていいはずだ。

 ああ、今考えても腹が立つ。しかしそんな燃え盛るような怒りの炎も、この圧倒的な寒さの前では風前の灯であった。

 冬の寒い空の下、日曜日だというのに子供の姿がない公園はとても寂しく、それでいて美しい。ぼくたち2人が貸し切りで使えるように、神様が計らってくれたようですらある。

 手袋の上から吐息をかけている彼女の手を取り、目を見て言う。


「誘拐って、本気で言っているのかい」

「もちろんよ。本当はそんな遠回りなことしたくないけど、逃避行用のお金がぜんぜんまったくないんじゃあ、悔しいけど、しょうがないわよ」

「ぼくんちじゃあ、アルバイトをさせてもらえないからね。労働収入なき学生の持ち金なんて、雀の涙ほどだよ、悲しいけど」

「連さんが悪いんじゃあないのよ、悪いのは私の母さんだわ。いい年してブランド品やスイーツにはお金を使いまくる癖に、こんなとき何も私たちを応援してくれない!」


 萌音もずいぶん怒り心頭なご様子だ。怒って頬を膨らませている萌音は子供のようで、とてもかわいらしい。撫でまわしたくなるね。

 さてさてしかし、いよいよ体が冷えてきた。親に文句を言ったって仕方ない、そろそろ決めなくちゃ。

 ぼくは両の手で頬をパンパンと張り、気合を入れてベンチから立ち上がった。

 そして、右手を萌音の前に差し出す。


「もちろん、君が望むなら、ぼくは誘拐犯にだって大盗賊にだってなってやる。ことによっちゃあ、サツジンだって、君のためならやってやるさ」

「そんな、貴方を人殺しにさせるようなことは願いません」

「そのぐらいの覚悟はあるってことさ。野を越え山を越え、この恋を叶えるためならばどこまでだって逃げよう」

「まあ……素敵」


 そうさ。やる気になればなんだってできる……愛があれば、なんでもできるのさ。


 偽装誘拐だって、ね。



 さて、ぼくは今、ヘリウムガスを片手に公衆電話の前にいる。


 駅前公園を遠く離れ、ほとんど人が立ち寄らなくなったシャッター街の一角。ためしに1時間ほど人を待ってみたが、その間通ったのは、悲しくなってくるほど毛並みの悪いネコを連れた老婆たった一人。

 これなら、電話でユーカイユーカイと連呼しても安全だ。

 公衆電話を使う理由はもちろん、ぼくの携帯番号がお義父さんたちにバレてしまっているから。

 知ってるヤツが、それも今日娘を嫁にもらいに来たヤツがそんな電話をかけたところで、警察沙汰にすらならずに脅迫が失敗してしまうだろう。偽装誘拐で捕まるならまだしも、脅迫すらできないなんて、あんまりにもお粗末だからな。

 公衆電話の受話器を持ち上げんとするぼくの左手に、萌音がそっと指を添える。


「…………頑張ってください」

「勿論だ」


 右手に持っているパーティー用ヘリウムガスを、適量吸い込む。あんまり吸いすぎると気絶する恐れがあるというのは以前テレビで聞いたことがあったので、少々遠慮気味に。


「あー、あー」

「まぁ、面白い声。ふふっ」


 よし、準備完了だ。

 くすくすと笑う萌音にヘリウムガスを手渡す。ああそうだ、念のため、あとで遊ばせてあげるから今はまだ吸わないようにと言っておいた。

 震える手で、彼女の家の電話番号を一桁ずつ押していく。カチリカチリとボタンを押し込む音は、軽い音のはずなのに重苦しい緊張感を与えてくる。

 受話器を耳に当てる。

 プルルルルルル……3コール目で繋がった。


『もしもし……』


 お母さんが出たようだ。


「高橋萌音さんのお宅はこちらで間違いないでしょうか」

『そうですけど、どなたですかアナタは?声が……』

「萌音さんは預かりました。1億円払わない限り、無事は保証致しません」

『…………なんですって!』


 かひゅっ、かひゅっ、と喉に悪そうな呼吸を2つしたあとに、お母さんは電話越しでも耳を塞ぎたくなるような大声で叫んだ。

 萌音に向かって、親指を立てる。つかみはバッチリだ。


「繰り返します。萌音さんは預かりました。1億円払わない限り、無事は保証致しません」

『警察……警察に通報した場合は…………?』


 お母さんは機械に弱い。ちょっとダマしてやろう。


「私にはスーパーハッカーの友達がいましてね。あなたの家から発せられる電話の内容は、約一か月前から全て記録してあります」

『そんな、嘘だわ』

「疑うならそれも結構。……あぁそうそう、今朝、萌音さんから『結婚相手と挨拶に行く』という電話がありましたね?」

『……………………』


 受話器の向こうで顔面蒼白……ってところだろうか。

 まぁ、その『結婚相手』が、今電話している『誘拐犯』であるとは、少しも思うまい。

 妙齢の婦女にこのような脅しをするのは少々罪悪感があり忍びないが、今は脅されて恐怖してもらわねば困る。

 さらに畳みかける。


「警察への通報が確認された場合……いまあなたが耳に当てていらっしゃる受話器から、娘さんの命が切れる音をお届けします」

『お金ならいくらでもお支払いいたします……あ、あなた』

『電話を代わった。お前は誰だ?』


 どうやらお義父さんに代わったらしい。

 やれやれ、この人はもはや声も聞きたくないってのに。少々舌打ちしたい気持ちをぐっと堪えて、唇を舐めて湿らす。


「萌音さんを誘拐しました、返してほしくば1億円を用意してください、警察に相談したら殺します。……と、さきほどの奥様には申しました」

『ふざけるな』


 絞り出すような……或いは、どんどんと溢れ出てくる叫びを必死に堪えているような、くぐもった声。歯を食いしばっているのだとしたらそれはとても面白いものだ。目の前でその光景を見たかったね。

 この頑固なお義父さんをクリアできれば、脅迫は完了したも同義だろう。


「ふざけていると解釈したいなら、どうぞ」

『私の会社が金を持っているから狙い目にしたんだろう』


 当然、偽装誘拐だからって払えるアテのない金を要求したりはしない。

 お義父さんの会社が馬鹿みたいに裕福で、お義父さんが毎日ドンペリ10本を飲み干す贅沢をしても『黒字を脱出できない』くらいに金持ちだから、こんな額を要求しているのだ。

 この金で家探しとか職探しとかして、名前も変えてバレないようにして、ご両親たちの全く知らないところで愛を育んでゆくのだ。


『どうせ萌音を誘拐したというのもデマカセだ、詐欺師め』

「娘さんとその彼氏さまが手を繋いで家を走り出していったところを襲い、連れてゆきました」

『なぜそのことを!』

「本当に誘拐しているのだから当然でございます。……萌音さん、ご両親にお声を聞かせてあげてくださいな」


 落ち着かない様子で髪をいじっていた萌音に、受話器を差し出す。


「お義父さん……本当なの、本当なのよ、どうかお金を払って助けて……殺されてしまうわ!」


 すぐに受話器を返してもらう。名演技だ、あとで誉めてやろう。


『お前!萌音に万が一があったら許さんぞ!』

「一億。それさえ受け取れば、あとは何もしませんとも」

『受け取り場所は!どこにカネを置けばいいんだ、それとも振り込みか!』


 ……受け取りのことを考えてなかったな。

 しまった、受け取り方なんて、誘拐の身代金要求で一番大事な部分じゃないか……どこまで抜けてるんだぼくは。

 運よく、瞬時にパッと閃く。


「そうそう、萌音さんの彼氏さまも同時に誘拐してるんですよ。薬をかがせすぎて今はノビちゃってますが……」

『そいつにどこで受け渡せばいいかと聞いている!』

「A市のB山は知っていますね?翌日午前6時、そこの2合目看板で落ち合わせましょうか」

『一億やれば返すんだな』

「あくまで安全を保障するのみです。人質を解放した瞬間に通報される心配がありますので、私の証拠隠滅が終わるまでは身柄をお返しすることはできかねます」

『卑怯な……』

「…………ともかく、翌日11時でございます。お忘れなきよう」


 これ以上刺激するのもよくないだろう。ぼくだって、悪戯や犯罪に慣れているわけないし、このままウソを吐き続けていてはボロが出てしまいそうだ。

 最後に時間だけを告げて、ぼくは一方的に電話を切った。

 何の運動もしていないのに、気付けば肩で息をしていた。なんでか申し訳なさそうな顔をした萌音が、優しくさすってくれる。


「こんな辛いことを……罪悪感に押しつぶされそうなことを、連さん一人に任せてしまって、本当にごめんなさい」

「それこそ、こんなこと君にやらせるわけにはいかないさ」

「……………………………………」


 それでもまだ浮かない顔をする萌音の頭を、くしゃっと撫でる。

 柑橘系の香りが咲いて、萌音は驚いてぼくの顔を見上げた。その瞳をまっすぐ見つめ返す。


「演技、とても上手だったよ」

「…………まぁ」


 いつものように、萌音は素敵な笑顔を浮かべた。


「ホントに面白い声だわ。ふふふ」

「……もうちょっとだけ、空気が読めるようになってほしいな」

「へ?」



 雀の涙くらいしかないとはいっても、無駄遣いする性分ではないし、こつこつと溜めていた親戚からの貰い金があった。7日ぶんくらいは、少々贅沢な生活をしたって大丈夫なお金がある。

 よほど資金に苦しまない限り萌音の金を使う気はないが、彼女もなかなか貯金があるそうで、ぼくのと足せば10日ほどはいけそうだ。

 そんなわけでやってきたのは、僕たちの町から隣の隣その隣町の温泉旅館。ちなみに身代金の受け渡し場所であるA市は、もひとつ隣。

 川の小道を歩いた先。少し草が生い茂っていて歩きにくいのを我慢すれば、風流とか雅とか、ぼくたち若者にはゆかりのない言葉で言い表される雰囲気を持つそこそこ大きな旅館が、ぽつんと一軒。

 立ち寄りにくいと言ってしまえばそれまでだが、しかし、そんな立ち寄りにくい立地にも関わらずこのような立派な旅館を長年構えていられるという事実が、人々から支持されていることを裏付けている。

 偉そうにガイドしてるが、ぼくたちもここは初めてだ。

 旅館の戸を開く前に、喉を押さえてボイスチェック。


「あー、あー……。声、ヘンじゃないかな」

「大丈夫、いつもの男らしい声よ」

「はは。君の声は見事に面白くなっちゃってるけど」


 ここに来るまでの道中でヘリウムガスを吸った萌音は、いつも通りの真顔でヘンな声を出すもんだから、あんまりシュールで笑ってしまう。

「我々は宇宙人でございます」

「扇風機の前でやるヤツだよね、それ。しかも言葉遣いが丁寧すぎるし」

「あの人、いつか何かやると思ってたんですよねぇ」

「ニュース番組の証言者か。……実際、君の横にいる男は偽装誘拐犯だから、それはもうシャレになってないんだけどね」

「愛を貫くための必要悪よ、胸を張ってくださいまし」

「…………はは」


 その声じゃ、説得力ないなぁ。

 ともかく、旅館の中でこんな声で喋られちゃあ、たまったもんじゃないな。しばらくの間は黙っているように釘を刺して、こほんと咳ばらいをひとつ、いざ旅館の戸を開く。

 ちりん。風鈴だろうか鈴だろうか、可愛らしい音色が玄関から伸びる廊下に響く。

 それを聞いてか、若い着物姿の女性がトコトコとこちらへ駆けてくる。どたばた足音を立てずに小走りできるのは、経験によるものなのだろうか。


「ようこそおいでくださいました。ご兄妹さまでしょうか?」

「いえ、恋人です。……ぼくと彼女の、2名でお願いします。1泊で」

「……失礼いたしました。えっと……あいにく、2階3階の高級部屋は満室でして、1階の部屋をご用意させていただくことになりますが、よろしいでしょうか?」

「はい、問題ないです」

「申し訳ございません」


 いえいえ。どのみち高級部屋なんか借りられませんから。


 若い仲居さんは大学ノートくらいのサイズの帳面にさらさらと何か書き込み、それをパタンと閉じると、ぼくたちを部屋へと案内する。靴を脱いで廊下に上がり、あとについていく。

 1003号室はけっこう広い和室だった。数えたわけではないが、10畳かそれぐらいの長方形が、ついたてで仕切られている。2人で使うには広すぎるくらいだ。

 ルームサービスとか朝食とか、細かな説明を要領よく済ませて、仲居さんはぺこりと頭を下げた。


「それでは、ごゆっくり」


 戸が閉められ、ぼくたちは部屋に2人きりになる。

 畳の部屋に、自分がいちばん心を許している人間と2人きり。ご両親に結婚の許しを貰いに行ったり、それを断られた上に怒鳴られたり、偽装誘拐の脅迫電話をかけたり、こんなところまで徒歩で逃げたり。

 自覚はなかったが、ここ数時間緊張しっぱなしだったのだろう。畳に寝そべると、これまでで一番といっても過言じゃない眠気が襲ってきた。


「あー、あー……あら、声が戻ってきたわ」

「それはよかった……」

「……連さん、お疲れですね」


 ぼーっとした頭の側面に、柔い感触。

 それはとても暖かくて心地いい温度。耳元で、甘い声がささやく。


「少し……ゆっくりお休みください」

「……………………」


 君も疲れているだろうに、君にだけ正座なんてさせるわけには……。

 まどろみ、薄れていく意識の中、その言葉はついぞ発することができないまま。ぼくは、しばしの眠りに落ちていった。



 夕食の前に風呂をもらおうということになり、浴場へ。

 『大浴場』だとか『露天風呂』だとか書かれた張り紙の前で、萌音がうんうんと唸っている。


「混浴可能のお風呂はないものかしら」

「……気持ちは嬉しいけど、うん。えっと……うん、やめておこうか」

「あら、五右衛門風呂なら、話しながら浸かれるみたい」

「五右衛門風呂?」


 萌音が指で示した写真には、4台ほどの五右衛門風呂(言わずもがな、かまどの上に桶みたいなのが乗ってるあれだ)が野外に並んで置かれている様子と、そこから望める夜景が写っていた。

 そして、その下には『1台1人入浴・男女同時入浴可能』と。

 ……正直、混浴とか夜景とかにはあんまり興味はないけど、五右衛門風呂はちょっと入ってみたいかな。けっこう珍しいし。


「……そうだね、五右衛門風呂にしてみようか」

「やった!じゃあ、仲居さんを呼んでくるわね」


 萌音は大喜びの小走りでどこかへ走って行ってしまった。見ると、『ご利用の際は従業員にお申し付けくださいませ』と書かれている。

 やれやれと苦笑いしつつ……でも、この行動力も彼女のかけがえのない魅力のひとつだよな、と思う。偽装誘拐だって、彼女が提案しなければぼくは勇気が出なかっただろうし、ちょっとヘタレな面のあるぼくを強く支えてくれている。

 彼女なしでは生きていけない。それは怖いことなのかもしれないけれど、だけどいまは、そのことが愛おしくてたまらない。彼女に依存しきっている自分を心から愛している。

 恋に恋するというわけではないけれど、でも、そういうのってとても嬉しい。彼女もぼくと同じ気持ちなら、それはこの世で一番の幸せだと思う。


「……はは」


 なんて。

 五右衛門風呂ひとつで余計なことを考えすぎか。


「連さん、準備してくれるそうですよ」

「うん、ありがとう」


 きっと疲れてるんだ。きっと、まだ先が不安なんだ。

 とりあえず、風呂に入って忘れることにした。



 長めのバスタオル一枚しか纏っていない萌音と、同じバスタオルを半分にたたんで腰に巻いているだけのぼく。

 髪を後ろでまとめて、うなじが強調されていて、肌の露出が多くて。

 本来なら恥ずかしくてたまらない状況なのだろうが、それ以上に強い感情のせいで、そういう性的な感情は湧いてこなかった。

 五右衛門風呂を前に、困惑して立ちすくむ。


「……………………連さん、あの……」

「分かってるさ……よし、アレだ、ぼくが先に入ろう」


 なにを怖がってるんだ。形が釜を模しているというだけで、こんなのただの風呂じゃないか。常識的な入り方をすればいいんだ、そうだろ?

 チラリと萌音を見ると、なんだか両手でグッとやっている。……ありがとう、頑張るよ、ぼく。

 もわもわと湯気の立ち込める中を、さながら戦場でがれきを除ける兵士のようにかきわけて、桶に張られた湯の上に浮かぶフタをつかむ。


「まずはフタをどけてだな……」


 木製のフタを脇に置く。

 よし……あとは入るだけだ。極上のリラックスタイムはすぐそこ、怖がる必要なんてない。


 …………なにか致命的なミスを犯している気がするが、そんなわけないのだ。


 ちらりと後ろを振り返ると、萌音は海軍式の敬礼なんかしていた。


「よし」


 まずは右足から、ゆっくりと湯の中に浸かっていく。けっこう熱いけれど、このくらいの方が疲れも汚れも取れるというものだろう。

 桶のフチを持つ両手に体重をかけて、左足も半分浸ける。下手くそなあん馬選手みたいな体勢のまましばし呼吸を整えて。

 両足を、風呂の底につけて、くつろごう――


「………………………………………………………………!!」


 人のものとは思えない大絶叫が、旅館を通り越してこの川沿い一帯に響いた。



「本当に申し訳ございません……説明を忘れておりました」

「いえ……あの、こちらこそ、本当に」

「連さん……お猿さんみたいになってるわ」


 足とか尻とかを火傷していないか確認しながら、必死に頭を下げてくる仲居さんをなだめる。

 ペコペコと半泣きで謝りながら戻っていった仲居さん曰く、ぼくがフタだと思って除けた木の板はフタなんかではなく、ぼくみたいに足や尻を火傷せずに入るための底板なのだとか。

 萌音と苦笑いを交わして、正しい方法で、今度は2人一緒のタイミングで入る。


「あぁー……」

「はふぅ……」


 同時にため息が漏れて、なんだかおかしくって、顔を見合わせて笑う。

 熱い湯は、今日一日の汚れや傷を優しく洗い流し清めるように、或いは、これからの困難に向けて叱咤激励するように、ぼくたちを温める。

 前かがみで桶にもたれると、ぽつぽつと点いている家の光と、薄く輝いて空を彩る無数の星々という、片田舎ならではの美しい夜景が見えた。思わず、2つ目のため息がこぼれる。


「……これから、大丈夫でしょうか」


 萌音が突然そんなことを言うので、ぼくは3つ目のため息を吐いた。

 ぼくだって、偽装誘拐がそう簡単に成功するなんて思っちゃいない。だけど……萌音がそんな風に不安がるのなら、ぼくは。


「大丈夫さ」

「………………………………」

「大丈夫。大丈夫に決まってる。……大丈夫に決まってるのさ!」


 ぼくは、強がるしかない。

 『ぼくも不安だ』なんて、死んでも言えないだろう。


「…………星が綺麗ね」

「………………そうだね」

「…………こんな会話が、ずっとできればいいのにね」

「…………………………………………………………」


 星と星とを線で繋いで、星座をつくる。

 しばらく、望遠鏡も何もなく、あれは何座だとかいって2人で笑い合った。



 翌日、指定した現金の受け渡し場所……A市B山、2合目看板前。


 先にやってきていたのは、お義父さんの方だった。昨日の五右衛門風呂のせいで思うように歩けずノロノロと歩くぼくを見るなり、お義父さんはわざと聞こえるように舌打ちした。

 平和なイラストの描かれた看板の前で、2人の男が、場違いにもしかめっ面で睨み合っている。


「萌音を守れなかったのか、無様な」

「……………………」

「そんなことで、よく結婚するなどと宣ったもんだな。オマケに誘拐犯の使いっ走りとは、私はどこまで呆れればいいんだ?」

「……金を、渡せ。持って帰らないと、萌音が殺される」

「役立たずめ!」


 ぼくの頬をぶつように、乱暴にトランクを投げつけてくる。

 よろめきながらも何とか体勢を整える。……もはや、こんな男、睨みつけてやる価値もない。目が腐るだけだ。

 トランクの中に万札がいっぱい詰まっていることを確認し、すぐに閉じる。


「いいか。萌音は何があろうと助けるが、お前なんぞ殺されようがその死体を食われようが燃やされようが知ったことではない。お前に一銭も払う気はない」

「分かってる。アンタなんかに期待してないさ」

「……いちいち鼻につくヤツだ!とっとと戻って、誘拐犯の機嫌を取ってこい!」


 目線は、合わせない。

 道に生えた雑草の1本1本を見ながら、言う。


「…………お母さんも、ぼくのことはどうでもいいって?」

「ハハハ、聞く必要があるか?」

「……………………」

「なにを期待してるんだ。お前なんか、誰からも愛されてない。萌音がお前を気に入っているからそばに置いてやってただけだ、お前になど価値はない!」

「……ああ、分かってたよ」


 ぼくは、重い重いトランクを。

 さっき自分が体験したから知ってる、当たったら痛い痛いトランクを。

 ぼくと萌音の愛を叶えるためのトランクを。

 義父になるはずだった男に向けて。

 もしかしたら、自分の本当の父親になってくれるかもしれなかった男に向けて。


 両手で、頭の上に高く掲げた。


「……おい、何をする」

「分かってたんだ。…………アンタも、分かってるんだろ」

「やめろ!クソ、こんなことが許されると思っているのか!」

「知るか」


 重い音。

 足元に崩れ落ちる、人もどき。

 眼下に見える、小規模な樹海。

 蹴り落とすと、漫画みたいに落ちていった。



「――……行方不明となったのは、株式会社………の社長、高橋清次郎たかはし せいじろうさん57歳。なお、その後の調べにより、彼の義理の息子である高橋連たかはし れんさん18歳、義理の娘である高橋萌音さん18歳も、共に行方不明であることが……――」

「警察は、すごいなぁ」


 間の抜けた声でそんなことを言ってテレビを消す。

 誘拐というワードが出てこなかったのには救われた。どうやら……警察には言うなという脅しを、未だに信じきっているみたいだ。

 そろそろ、この旅館を出なければならない。顔写真こそまだ公開されていないものの、バレたら大変だ。

 ぼくが立ち上がっても、萌音は三角座りで俯いたまま。


「……萌音。勝手なことして、ゴメン」

「…………謝りたいのは、私の方よ」


 やっと顔を上げたと思ったら、その顔は涙でぐじょぐじょだった。

 そんな溢れ出る感情に不意を突かれて……思わず、ぼくも目頭が熱くなって、下唇を噛んで堪える。


「同じなのに。……同じ義理の子供で、双子なのに。なんで……こんな……あんまりだわ、ひどすぎる」

「もう、いいんだ。……ぼくに親なんか、いない」

「連さん…………あんまりよ……こんなの!」

「萌音。……行こう」



 ぼくと萌音は、母親と前の父親の間にできた双子の子供だった。


 前の父親は死んだらしい。カネが絡んでいたとかそういう話は子供のときだから覚えていないけど、そのあとすぐに、金持ちの父親と結婚したことだけは、強い憎しみと共にいつまでも覚えている。

 父親はすぐ、萌音を何か、およそ親が子供を見る目ではない、汚い目で見つめ始めた。

 あのとき父親が萌音を指して言っていた『上玉』だとかいう言葉は、やはり風俗がらみの言葉だったのだろうか。今となっては聞くこともできないが、答えを聞いた時点でどちらにせよ殺していた気がするので、まぁどうでもいい。

 母親は母親で、前の父親と一緒にいた頃の優しい母親ではなくなり、ぼくを執拗に虐げ始めた。母はすでに心が壊れているようだったので、可哀想な人だという気持ちばかりで、怒りも何も湧かなかったが。


 世間体的には、両親はぼくたち兄妹を愛するよい親だったが、裏では萌音だけに、『カネを生み出す何か』になってもらうために偽りの愛を注ぎ、相対的に俺を虐げてきた。


 ぼくと萌音が、お互いに愛を求めだすのに、そう時間はかからなかった。



 しばらくして萌音が泣き止んだあと、それでもずっと俯いたままの彼女の手を引き、お金を払って旅館を出た。

 トランクから金を5万ほど出して、近くにあった古びたゲームセンターで、全て千円に両替する。札の番号で誘拐がバレてしまったという話は、以前何かで読んだことがあった。

 そこからまたしばらく歩いて、とうとう県境を跨いだ。早くもそろそろ昼時だというのに、萌音はまだ、浮かない顔をしている。


「……昔、菓子パンの取り合いで喧嘩したことがあったよね」

「え?…………ええ、あったかしら」

「半分こしようか」


 素朴な雰囲気のパン屋さんに立ち寄り、カレーパンとメロンパンを一つずつ買って店を出る。

 両方とも半分に割って、一つずつ付属の包み紙で包んで、萌音に渡す。

 そこらへんのベンチに腰掛けて、カレーパンを頬張る。子供の頃の、数少ない楽しい思い出だけを思い出すようにして。


「ぼくは最初、君を憎んでいたんだ」

「………………」

「今思えば理不尽な怒りだった。君だって、あんな奴らに愛されたくて愛されてるわけじゃなかったのにね」

「……………………ごめんなさい」

「謝らないで。……子供の頃、君にキツく当たっていた。すぐに虚しくなって自己嫌悪になったけど、それでもやりきれなくて、また君を罵った」

「…………はい」

「だけど……母親からも、あの男からも虐げられて、唯一ぼくに優しくしてくれたのは君だった。あんなに意地悪をしても、ぼくのために泣いてくれた」


 双子の妹を好きになるのは、おかしいのだろう。

 だけど、ぼくの場合……それは自然な成り行きだった。それこそ、神様が計らってくれたかのように。

 萌音も、奴らから、何かカネがらみの偽りの愛を注がれて、疲弊していたのかもしれない。それで、ぼくのことを……。

 萌音の髪を、頬を、撫でる。


「結局、生まれたときからぼくは、君がいないと生きていけなかったんだ」

「………………」


 また、泣き出してしまった。

 今度は、笑っている。笑い泣きだ。

 そして、ぼくも。


「だから……君と一緒なら、どこへだって行ける」

「はい。…………私もです」

「…………ありがとう」


 人はこれを、悲しい結末だと哀れむのかもしれない。

 だけど今、ぼくたちの胸には……未来への、未知への希望だけが、暖かい光を灯していた。

 物語は、続いていく。


「じゃあ……また、逃げようか」

「はい。どこまでも……私を誘拐して」


 ぼくたちは、手と手を取り合い、当てのない逃避行の続きをすることにした。


 二人の行方は、誰も知らない。

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