ミコトの水

ふだはる

ミコトの水

 今朝、二十五歳になったばかりの宮木みやきみことの元に宅配便が届いた。不思議なことに送り主の名前は、六年前に亡くなったはずの父親だった。

 命が配送に使われたダンボール箱を開けると、中から少し重たい化粧箱が現れる。その化粧箱の中には、彼女に宛てたバースデー用のメッセージカードが入っていた。そして、四合くらいの大きさのウィスキー瓶も、淡いピンク色をした美しい布に包まれて収められていた。


「はぁ~、すごいなあ。二十五年ものだって?」

 彼女の夫の与一よいちは、ラベルをしげしげと眺めながら、ため息をついた。

「自分の年齢と一緒だなんて、ちょっと恥ずかしいから、余り言わないでよ」

 命はキッチンから氷を入れたグラスを二つと、カカオ成分のパーセンテージが高い、少しビターなチョコレートを持って、与一とウィスキーが待つテーブルへと戻ってきた。

「お父さんが、私の生まれる少し前にウィスキー工場の見学ツアーに、会社の同僚と参加したときの物らしいわ」

「そのときに造るのを手伝って樽に詰めたのが、このマイウィスキーなんだ?」

 与一はウィスキーの瓶の蓋を開けると、命のグラスに注いだ。瓶を命に渡すと、今度は彼女が与一のグラスへウィスキーを注ぐ。

「私が産まれた年から二十五年後に樽から瓶へ詰めて、当時の参加者たちに配られる予定だって、高校生くらいの頃に聞いた覚えがあるわ」

 命は自分のグラスを持って、そのふちを両手の人差し指で触れたまま、視線を上に向けて想い出すように語った。

「私の二十五歳の誕生日に届く予定だったから『届いたら、お父さんと一緒に呑もう』とも言われていたわね」

「それって、君の実家の住所に届けられるって話だよね? よく、今の住所に配送されて来たなあ」

「うん、宅配便の転居転送サービスを利用しているからね」


 二人は先ず、それぞれのグラスの中にあるウィスキーの香りから楽しんだ。

「これが、シングルカスクの香りかあ。きつい匂いじゃないのに、鼻の中でスーッって、しっかり自己主張してくるな」

「同じ名前のウィスキーでも、市販品とは大分香りが違うのね。ところで、シングルカスクって何?」

 命は聞き慣れない単語について、与一に質問をした。

「一つの樽だけから出した原酒のことだよ。樽によってウィスキーに個性が出るから、普通は複数の樽から出た原酒同士を混ぜ合わせて、味を調えるのさ」

 与一は続けて答える。

「複数の蒸留所の原酒を混ぜた物をブレンデッドウィスキー、単一蒸留所にある複数の樽から出た原酒を混ぜた物は、シングルモルトって呼ばれているよ。大麦麦芽から作られた物をモルトウィスキーって言うんだ」

「へえ……」

 命は興味深そうに与一の説明を聞いていた。


 二人は充分に香りを堪能すると、一旦はグラスを置いた。

「こんな高そうなウィスキーに、普通のペットボトル入りのミネラルウォーターで申し訳ないけれど……」

 与一はそう言うと、命のグラスに水を注いで水割りを作った。

「ありがと。あなたは、どうするの?」

「俺は、このままロックでいいや」

 ミネラルウォーター入りのペットボトルの蓋を閉めながら、与一は答えた。

「瓶に入った美味しい炭酸水とか、勤め先の近くにある駅前の量販店で売っていたから、今度はそれを買ってきてハイボールで楽しもうよ?」

「いいわね。美味しいおつまみも買ってきてね?」

 与一の提案に、命は笑顔で答えた。


「それじゃあ、乾杯しようか?」

「そうね」

 二人はグラスを持って互いに寄せ合う。

「とりあえず、お誕生日おめでとう」

「ありがと」

 与一は本格的に命の誕生日を祝うために、ホテルでディナーの予約をとってある。それゆえの『とりあえず』だった。

 今は土曜日の午後一時くらい。『昼間からお酒を呑むのも、どうかしら?』と、命は思わないでもなかったが、他界している父親の遺した二十五年物の誕生日プレゼントが、気になってしまったのである。

 二つのグラスが重なり合って、軽やかに弾むような音が鳴った。命は一口だけ、与一は舐める程度に呑む。

「これは……」

「美味しいわね」

 ウィスキーが舌の上に乗るように流れてきたと思った瞬間に、口の中で清々しさを感じる甘い香りが広がった。

 ウィスキーそのものが、まだ喉を触れていないにも関わらず、その奥が香気によって、ほんのり暖められた気がした。焼けるというほどではないが、微かな熱を気道に感じる。

 その香気は、そのまま鼻孔をくすぐるように通り抜けると、甘い、しかし鋭くすら感じる匂いを記憶の底へと焼き付けていった。

 命と与一はチョコレートを囓ると、舌で舐めて溶かす。そして、ウィスキーを一滴だけ再び舌の上に落とすと、絡める様に味わった。

 口の中を全体的に甘く温められていくような感覚が広がっていく。

 二人は、そのままチョコレートを囓りつつ、最初の一杯を堪能した。

「ふう~」

 命は紅く染まった頰に片手を添えると、目を細めてほっこりとした微笑みを浮かべた。

「何だか子供の頃に飲んでいた、故郷の水の味がするわ」

 このウィスキーの蒸留所は、彼女が家族と共に暮らした実家のある県に存在していた。


「う〜ん」

 与一は悩んでいる様子だ。彼の視線はチョコレートに注がれている。命は彼に尋ねてみる。

「どうしたの?」

「いや、これはこれで美味しいんだけど、少し勿体ないかな? って、思ってさ」

 『確かに、そうかもしれない』と、命も思った。

「ここで、一旦やめとく?」

「いや、もう一杯だけ欲しいかな?」

 与一は片目を瞑って手を合わせた。その姿を見た命は、微笑みながらテーブルを離れる。

「少し待っていて? 何か作ってくるわ」

 そう言うと、キッチンへと向かった。

 命は冷蔵庫から殻付きではない牡蠣を取り出す。それをざるに入れ、軽く水で洗ってから水気を切っておく。

 ニンニクを包丁で薄く切った後で、コンロの上にフライパンを置いて火を点ける。そこにバターを入れて溶かした後で先程のニンニクを入れて、軽く色が付くまで炒めた。

 水気を切った牡蠣に片栗粉をまぶし、フライパンへ入れて、ニンニクと一緒に炒める。出来上がりの直前に醤油を垂らして絡めた。


「お父さんがウィスキーで一杯やるときに、よくお母さんが作っていたおつまみよ? ほうれん草を加えて、おかずとして出されたこともあったわね」

 命が短時間で作ったおつまみは、小皿に盛られてテーブルの上に静かに置かれた。

「牡蠣のガーリックバター炒めか。うまそうだけど、こってりもしてそうで、ウィスキーに合うのかな?」

 バターの香りに微笑みながらも、与一は命に尋ねてみた。

「お父さんの味覚を信じましょ?」

 彼女は、そう言って笑った。


 今度は与一も水割りで飲むことにした。ストレートに近いロックの飲み始めでは、ちびちびと舐める様に呑むことになるので、つまみのボリュームに追いつけないと思ったからだ。

 二人は先ず、牡蠣のガーリックバター炒めを箸でつまむと、口に運んだ。

「んん~、うまい!」

 与一は瞼を閉じて、そう感想を述べる。

「ありがと」

 命は顔を寄せると片目を瞑って答えた。

 牡蠣はとても柔らかくて、ぷりっとした食感のまま歯を使わずに舌と上あごを擦るだけで、じゅわっと旨みが溢れてきた。

 口の中いっぱいに、バターの風味と牡蠣のミルク感が合わさって拡がっていく。それだけだと単に濃厚で甘いだけの所を、少しだけ加えた醤油の香りが包み込むように適度に抑えてくれた。

 ニンニクの香ばしい匂いが、牡蠣の生臭さを消してくれている。その美味しさだけが、二人の口の中を支配していった。

 二人はウィスキーを口で含むように呑んでみた。

 ウィスキーのスッキリとした飲み口が、舌に残った牡蠣のこってり感を綺麗に流してくれる。

 そして、香りが優しく拡がり、再び口の中に新たな牡蠣を閉じ込めたくなる欲求が抑えられなかった。続けて牡蠣を食べるよりも、ウィスキーを呑みながら食べた方が、明らかに美味しかった。

 まるで常に最初の一口目を味わい続けているような感覚に、二人はすっかり嬉しくなってしまった。

『ちょっと食べ過ぎ、呑み過ぎかな? 今夜はディナーを予約しているけれど大丈夫かな?』

 そんな考えがふと頭を過ぎったが、食欲を止められなかった。

『たった二杯で、すっかり酔っ払ってしまったけど、きっと出掛ける時刻までに酔いは醒めるだろう。うん、きっと醒める』

 二人は、そう考えていた。


「明日はヒラメのムニエルでも作って、ハイボールで呑みましょ?」

「いいねえ。ホテルからの帰りに美味しい炭酸水を買おうよ」

 二人は明日の夕飯の献立と、買い物の相談をする。そして後ろ髪を引かれつつも、命はウィスキーの瓶を戸棚へと仕舞った。

「んん~、君のお父さんの味覚は最高だ。お母さんの料理の腕も最高だ」

「ちょっと! 私の腕は褒めてくれないの?」

 そう言いつつもケラケラと笑う命。

「君は全てが最高だ!」

 与一は恥ずかしげもなく、そんなことを彼女に伝えた。

 二人の酔っぱらいが、そこにはいた。

 水を飲みながら、命は言う。

「度数が高いから、少量でも結構回るわね」

 同じく水だけを飲みながら、与一も同意する。

「そうだね。でも美味しかったよ? 良い気分だ」

 そして彼は、少しだけ寂しそうな表情に変わった。

「君の御両親とも一緒に飲んでみたかったな……」

 命も少しだけ胸が切なくなる。

「そうね」

 そんな雰囲気が長続きするのを嫌ったのか、命が与一に明るく尋ねる。

「ねぇねぇ、お母さんに私の名前の由来を聞いたときに『お父さんがウィスキーから取ったのよ?』って言われたんだけど、命なんて銘柄あるの? あったら呑んでみたいわ」

 嬉しそうに尋ねてきた命の顔を与一は、キョトンとして見た。

「何?」

 命は少しだけ不安になる。

「ウィスキーは『いのちの水』という言葉が語源なんだよ。それだけお義父さんにとって、君は大事な娘だったんじゃないかな?」

 与一は柔らかく命に微笑んだ。

「そう、なんだ……」

 少しだけ間を置いて命は、呟きながら水の入ったグラスの縁に唇を付けた。頬が先程よりも更に紅くなっていく。

 それは、ウィスキーのせいなのか?

 それとも、彼女が照れているせいなのか?

 命の潤んだ瞳を見ながら与一は『きっと後者だな』と思った。

 水を一口だけ飲んだ命は、グラスを静かにテーブルの上に戻すと、視線をキッチンの戸棚に向ける。その中には、先程まで呑んでいたウィスキーがあった。

 二十五年の歳月を経て、美味しく熟成されたいのちの水。


 私は、あのウィスキーと同じ様に、成熟した人間になれたのだろうか?

 両親に尋ねてみたい。

 きっと『大丈夫だ』と言ってくれるだろうから……。


 みことは、そう信じた。


 硝子ガラス越しに見えるウィスキーの煌めき……。

 それは琥珀色をした、亡き父の遺言……。

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ミコトの水 ふだはる @hudaharu

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