図書委員の待ち人

星名柚花

図書委員の待ち人

 図書室の窓の外から、部活動に励む運動部員の声がする。

 廊下で弾けた賑やかな笑い声は、同じ階で活動している文化部の生徒たちのものだろう。


 かすかに届くのは、吹奏楽の音色。夏のコンクールで金賞を取っただけあり、その安定した音程と爽やかな音楽は美しかった。


「…………」

 意識が外に向いてしまうのは、集中できていない証拠だ。

 これ以上は時間の無駄らしい。

 並川美祢子なみかわみねこは広げていた文庫本を閉じ、集中力を奪う原因に目を向けた。


 カウンターの斜め前。

 茜差す窓際の閲覧席で、一人の男子生徒が伏している。


(寝てる……よね、あれ。もうすぐ閉めなきゃいけないんだけどなあ……寝てる生徒を起こすのも図書委員の仕事の一環だよね……なんでよりによって私が一人のときに寝てるんだろ、あの人)


 わざわざ頭上の時計を見ずとも、時刻は右手のパソコンに表示されている。

 現在時刻は四時五十分。閉室規定時刻の十分前だ。


 カウンター当番は二人一組が基本なのだが、今日は相方である図書委員が学校を休んだため、美祢子だけになった。

 隣で作業していた女性司書も、用事があると言って少し前に職員室に行ってしまった。


 戸締りや鍵の返却、そういった雑務は美祢子に任されている。

 図書委員を務めてはや半年、もう慣れたものだ。


 中間考査の直後だからか、十月中旬の今日は利用する生徒も少なかった。

 このまま何事もなく穏やかに放課後の図書委員活動を全うする――つもりだったのだが、閲覧席で眠る男子生徒がそれを許さない。


 彼は美祢子の一年先輩で、秋里啓あきさとけいという。

 図書室の常連で、好きなのはミステリーや純文学。


 五月の午後、彼がリクエストカードに綴った文字を覚えている。リクエストされたマイナーなライトノベルのタイトルが意外だった。

 何より印象的だったのは癖のない、素直で丁寧な文字。


(なんだか優しそうな人)


 綺麗な文字を見て、ろくに言葉を交わしたこともないのにそう思った。


 そしてその印象は当たった。

 本の返却や貸出手続きに来るたびに、彼は「お願いします」と言う。

 耳に心地よい、落ち着いた、優しい雨のような声音で。


 いつしか美祢子は誰よりも彼の来訪を気にするようになった。

 とはいえ、気にするだけで、何か具体的な行動を起こすわけでもない。


「お願いします」と差し出された本を受け取り、適切に処理し、最後に彼の礼儀正しさに対する敬意と感謝の証としてほんの少しだけ頭を下げて――ただそれだけ。


 美祢子が把握しているのは彼の名前とクラス、好みの本の傾向くらいなものだ。

 読書以外の趣味、誕生日、交友関係、恋人の有無、そういった個人的な情報は何も知らない。


(恋人がいたからといって、私には関係ないことだけど……)

 言い訳じみたことを思いながら、もう一度パソコンを見る。


 時刻は五時ジャスト。閉室時間だ。


 文庫本を持って立ち上がる。

 パソコンはそのままにしておいた。もしも啓が本を借りるつもりだとすれば、電源を落としてしまうと手続きができない。


 カウンターを出て、文庫本を本棚に戻す。

 窓の鍵がかかっていることを確認してから、カーテンを引いていく。

 そうして全ての窓のカーテンを引き終え、ざっと書棚を見回す。

 返本棚は綺麗に空。

 あとはパソコンを落として電気を消し、鍵を閉めればここでの業務は終了だ。


(……その前に、常にはない大仕事がひとつ)

 視線を巡らせば、啓はまだ眠っている。

 美祢子は緊張しつつ、ゆっくりと啓に近づいた。


 啓の左隣に立ち、見下ろす。

 啓は両腕を重ね、横向きに伏せていた。

 黒縁の眼鏡が下にずれている。


 彼の傍らには一冊の本。デカルトの『方法序説』――哲学に関する本だ。

『我思う、故に我在り』とは、この本の中で提唱された、あまりにも有名な命題ではあるが……


(ああ、これは眠くなるよね)


 美祢子にとって哲学は高尚過ぎて理解できないものだ。

 読んでいると高確率で眠くなる。

 それは啓にとっても同じだったらしい。


 紺色を基調とするブレザーの制服が、呼吸に合わせてわずかに上下している。

 薄く開き、静かに寝息を吐き出す薄紅色の唇。

 綺麗なラインを描いた頬。

 思わず触れたくなるような、柔らかそうな黒髪。蛍光灯の光を浴びて、髪の一本一本が輝いて見える。


 癖っ毛ひとつ見当たらない黒髪を羨ましく思う。

 地毛が癖の強い茶髪の美祢子は、まっすぐな黒髪に憧れていた。

 今日だって、自己主張の激しい茶髪をポニーテイルにまとめるのにどれだけ苦労したことか。


(先輩をこんなにじっくり眺めるのは初めてだ)


 彼はふとした瞬間に目が合うと口元を緩め、笑いかけてくれるから、対処に困ってしまって、胸がざわざわ騒いで、落ち着かなくて――結局逃げるように顔を伏せてばかりいたけれど、実は酷くもったいないことをしていたかもしれない。


(……って、あんまりじろじろ見るのは失礼だよね)

 すっと息を吸い、思い切って声をかける。


「秋里先輩。先輩、起きてください。もう閉室時間です」


 呼びかけても返事はない。揺り起こす必要がありそうだ。


「し、失礼します……よ?」


 美祢子は恐る恐る右手を伸ばし、彼の左肩を叩こうとした――のだが。

 その瞬間、啓の手が動いた。

 え、と思う暇もなく、右手を掴まれた。


 唖然として、瞬きする。

 啓は伏せたまま目を開き、動揺する美祢子を見て笑っていた。

 反応を楽しんでいる――からかわれているのだ。


「!? お、起きてたんですか?」

「うん」

 啓は悪戯をしかけた子どものように微笑み、起き上がった。

 手を引きたいが掴まれているためそれができず、かといって相手が先輩だと思えば強引に振りほどくこともできず、なされるがままにするしかない。


「あの……離してもらえません? どうしてこんなことを?」

「わかってるでしょう?」

 まっすぐに目を見つめて、啓は微笑とともにそう言った。


(こ、これは、反則でしょう……!)

 からかわれているだけだとわかっているのに、自分の手を包み込む大きな手の感触を妙に意識してしまう。


 みっともなく動揺しそうになる。

 美祢子は朱に染まった頬を隠すために俯き、反論した。


「いえ、わかりませんよ。先輩に人をからかって楽しむ趣味があるというのはいま初めて知りました。そんなことよりですね、手を――」

「嘘だ」

 啓は繋いだ手を少しだけ引いた。

 予想外の行動に、否応なく顔があがる。

 吸い寄せられるように啓を見てしまう。

 眼鏡の奥にある、何もかもを見透かしたような啓の瞳と目が合い、心拍数が上がった。


「並川さんはわかってたはずだよ? もうとっくに、何もかも、全部」

「……な、何のことですか」

 うるさい、黙れと念じても、心臓は一向に鎮まらない。

 間近に見た啓の瞳のせいだ。


 きっと美祢子は、この目は危ないと本能で気づいていた。

 彼の目は魔性だ。美祢子を虜にしてしまう。


(なんてことだろう)

 厄介なことになる前に逃げ続けてきたのに、もう終わりだ。

 心臓が大音量で騒いでも、頭が熱でくらくらしても、美祢子は啓から目を逸らせない。


 手を引くどころか、身動き一つ取れない。

 感情が麻痺して、雰囲気に流されてしまいそうになる。


 でも、理性がそれを押しとどめた。

 どうしても確認しなければならないことがある。

 脳裏に焼き付いたように離れない光景があった。


「……先輩には彼女がいるんじゃないんですか。他の子にこんなことしていいんですか」


 美祢子は見た。忘れもしない、六月の昼下がり。

 渡り廊下で仲が良さそうに女子と笑い合う啓の姿を。

 相手は美祢子の憧れをそのまま具現化したかのような、まっすぐに流れ落ちる黒髪を持つ美人だった。

 大人っぽくて色艶があって――一目見ただけで、到底敵わないと思うような。


「いないんだからいいんじゃないの?」


「え」

 美祢子は目を丸くした。

 ということは、あのとき見かけた女子はクラスメイトだろうか。

 それとも幼馴染とか、そういう類の友人だろうか。

 真偽のほどは不明だが、彼がそう言うのならばそうなのだろう。

 そうであってほしい――そう信じたい。


「何その反応。彼女がいるのに他の子にちょっかい出すとか、そんな不誠実なやからと一緒にしないでほしいんだけど」

 啓は傷ついたような顔をした。

「あ、ご、ごめんなさい」

 反射的に謝る。

 しかし、彼女がいないとしても、これはちょっとどうなのだろう。

 手を掴まれている現状を鑑み、美祢子は苦言を呈した。


「でもあの、やっぱりずるいと思うんです。眠ったふりをして、騙し討ちみたいに手を取って……困るんですが」

「嫌?」

 啓は真顔に戻って、問いかけてきた。


「嫌なら手を離すよ」

 臆することなく見つめてくる彼の黒瞳。

 選択肢は君にあげる、と言われた気がした。

 手を離されることを望むのか、それとも――それとも?


(それとも、何?)


 放課後に二人きり。

 彼に手を掴まれ、彼が目の前にいる。

 彼が真剣な表情で美祢子を見ている。

 心の天秤がぐらぐら揺れる。


 それを見透かしたように、啓が笑った。


 瞬間的に頭が熱くなり、心の天秤が大きく傾く。

 限界まで傾いた天秤が、がたん、と音まで立てたような気がした。


「……………………っ」

 もう認めるしかない。


 ――囚われた。この人に。


 一歳年上の、図書室の常連。先輩と後輩。ただの知人。

 築いた垣根を越えて、啓が侵入してくる。彼はその魅力的な笑顔で以て、美祢子の心を奪い去るつもりだ。根こそぎ。何もかも。

 美祢子の真っ赤な顔を見て、啓が楽しそうに笑う。


「もうとっくに気づいていたと思うんだけど」

 啓は美祢子の手を取り直して立ち上がり、一歩距離を詰め、決定打を口にした。

「俺は並川さんのことが好きだよ」

「…………はい」

 美祢子は壊れた自動人形のような動きで、首を縦に振った。


 彼の言う通り、美祢子はとうに気づいていた。

 嫌いな子に、あんなに優しく笑いかけるわけがないのだから。

 そして自分の感情にも気づいていたから蓋をした。彼女がいるかもしれない、その可能性に怯えて、傷つかないように鍵をかけて心の奥深くにしまい込んだ。

 ――でも。


「並川さんは俺のことどう思ってる?」


「私は……」

 改めて思う。彼はずるい人だ。

 全部わかっているならとうに気づいていたはずなのに。

 美祢子がどう答えるかもわかっているだろうに。

 それでも、言葉にしなければ伝わらないことだってあるし、きちんと声に出して聞きたいことだってある。


 美祢子がその言葉を聞いて、飛び上がりたいくらいに嬉しかったように、啓だってその言葉を聞きたがっている。

 これまでの関係を打ち砕く、魔法の言葉を。

 掴まれた手が、真剣な瞳が、美祢子の言葉を待っている。


「私も……」

 体中の血液が沸騰しそうな熱を感じながら、勇気を振り絞り、真正面からその目を見返す。

「先輩のことが、好きです」

 緊張に震えた声で、それでもはっきりそう言うと、啓はとても嬉しそうに笑った。


(いま私は世界で一番幸せだ)

 美祢子は心から思い、はにかみながら笑い返した。

 囚われた手に力を入れて、啓の手を握る。

 啓もすぐに応じて手の位置を変え、繋ぎ直してきた。


 互いに交換する体温。


 これからは静かな図書室のカウンターの中で、運試しのように彼の来訪を待たなくても良いと、繋いだ手の感触が教えてくれた。

 彼が来るよう祈らなくたって、彼の予定を聞く特別な権利を、美祢子はたったいま手に入れたのだから。


 《END.》

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