大江戸悪刀伝──浮かれ徒花咲かせようか

名も無きキンメリア人

第1話江戸の闇に生きる

八つの掘に区切られた六十七棟の米蔵が見える。


浅草御蔵である。


この浅草御蔵には幕府が集めた年貢米が保管されており、これらは御家人などの扶持米として支払われた。


その浅草御蔵の西側に見えるのが、蔵前である。


蔵前には札差や米問屋の表店が、ズラリと軒を連ねていた。


浅草御蔵前は昼は人で賑わうが、夜の帳が降りると急に人気がなくなる。


時刻はそろそろ暮六つ半といったところか。


高柳松五郎は柳の木にもたれ掛かると、じっと闇に目を凝らした。


夜鷹や金の無さそうな酔っぱらいが通り過ぎていくのを黙って見送る。


金の無い者には用はないのだ。


松五郎が狙っているのは、ここから浅草寺裏にある新吉原へと向かう客達である。


吉原遊びが目的の客なら懐は温かい。


逆に松五郎の懐は素寒貧だ。


金がないということは、それだけで寂しいものである。


惨めといってもよい。


それから少しして、商家の若旦那と供の手代と思しき若者が、松五郎の居る柳の木を横切っていく。


松五郎は素早く顔を手ぬぐいで隠すと、ふたりの前に回り込んだ。


そのまま手代の横面を拳で殴りつけると、若旦那の向こう脛をつま先で蹴りあげる。


ギャっと悲鳴を漏らす若旦那の前にずいっと掌を突き出し、松五郎は金を出せと催促した。


「金をよこせ。よこさねば斬る。全部とは言わん。半分で勘弁してやる」


これみよがしに鞘口を親指で切り、恐怖を煽る。


「わ、わかりましたっ、金は差し上げますので、どうか命だけはご勘弁をっ」


相手が差し出した財布を奪い取り、入っていた金の半分を抜き取ると松五郎が残りの金を突っ返す。


そのまま全部もらっても良かったのが、松五郎は妙なところで律儀な男だった。


奪った金子(きんす)を懐に収めると、その場から颯爽と立ち去っていく。


若旦那と手代は、その後ろ姿を唖然としたまま眺めていた。


松五郎がふたりを斬らずに殴って金を脅し取ったのは、単純に無駄な殺生を避けたかったからだ。


人を斬るという事は、それなりの覚悟と気力が必要なのである。


松五郎もこれまでに用心棒や出入りの助っ人で、それなりに人を斬ってきたが、斬った後は必ずと言って良いほど後味が悪かった。


胸のあたりがむかついてくるのだ。


だからこそ、殺生なんてものは出来ればしないに越したことはない。


松五郎はそのまま、夜明かしの為に適当な場所を探し求めた。




江戸は両国広小路と言えば、浅草、上野に並ぶ江戸有数の盛り場である。


行き交う人の波は決して途切れることがなく、お天道様の下では、大道芸人や曲芸師達の威勢の良い掛け声が届いていた。


股間からぶら下げた巨大な陰嚢を見世物にし、通行人から見物料を乞うているのは、願人坊主どもだ。


俗に「戸塚の大金玉」と呼ばれる見世物芸である。


そんな雑踏がさっと二つに分かれた。


「おう、邪魔だっ、どきやがれっ」


縞模様の着流しに青い半纏を羽織った、四人組の与太者だった。


それが肩で風切りながら、ふんぞり返って練り歩いている。


近くを通った娘の尻や胸を撫で、気の弱そうな男や老人を突き飛ばし、いい気になっていた。


地元ヤクザの身内というわけではないだろう。


ヤクザは自らの縄張り内では、つまらない悪さはしないからだ。


となると、どこからか流れてきたゴロツキということになる。


そのまま調子づいた四人連れが、周りに乱暴狼藉を働きながら人込みを進んでいくと、一人の浪人に出食わした。


「なんだ、痩せ浪人か、おう、邪魔だ、どきな」


ゴロツキの一人がそう言いながら、浪人に顎をしゃくる。


だが、浪人のほうも動かずにいた。


「お前らこそ邪魔だ、どけ」


互いに一歩も譲らない。


そうしている内に通行人達が足を止め、興味深けにゴロツキと浪人を眺める。


「野郎、いい度胸じゃねえかっ」


最初に手を出したのは与太者のほうだ。


慌てることなく、浪人が殴りかかる与太者の手首を掴み、足払いを掛けて転ばせる。


背骨をしたたかにぶつけたせいで、与太者は地面の上で身悶えていた。


残りの三人が、一斉に浪人に向かって掴みかかろうとする。


だが、浪人を捕まえる寸前に三人の鼻頭には、次々と掌底が叩き込まれた。


大量の鼻血が吹き出し、荒くれ者達の顔を唇を赤く塗らしていく。


浪人が使ったのは、柔術である。


地面にへたりこんだ四人を浪人が見下ろした。


「まだ、やるか?」


四人が黙って首を横に振る。


ゴロツキは既に戦意を喪失していた。


そのゴロツキ達の前に掌を出すと、浪人が言う。


「所で少々、酒が飲みたい。酒代を貸してくれ」


これが浪人松五郎という男だった。




近くの居酒屋で酒を飲む。


懐は温かい。


思わぬ臨時収入もあった。


とは言え、高い酒は飲まない。


注文するのはいつもの安酒だ。


松五郎が飲むのは、四文一合の水で薄めたムラサメなどの類である。


酒を飲んで村のはずれまで来たら、もう酔いが覚めている事からこの名が付いた。


酒と水を半々で割った代物なので、熱燗にでもしない限りは、とても飲めたものではない。


それでも酒は酒である。


酒が飲めるだけ、まだマシだ。


貧しい浪人の中には、こんな酒でも飲めない者も多い。


貧しいままで、こんな安酒にもありつけないのは、根が善良だからだ。


善良だから、悪事を働いて稼ぐということが出来ない。


だから何か手に職があるならばともかく、多くの善良な浪人は尾羽打ち枯らしている。


松五郎はそうではない。


不必要に他人に害を与え、殺すような真似はしないが、逆に生きる上で必要であれば躊躇せずに手を下す。


それは少なくても善人ではないからだ。


否、世間の目から見れば、松五郎は間違いなく悪人なのである。


手酌でやりながら、湯豆腐をつついていると、いつの間にか一人の願人坊主が相席していた。


「へへ、旦那はお強いんだねえ。おらあ、あのゴロツキどもを旦那が叩きのめしたのを見て、思わずスカッとしたぜ」


毬栗頭を一つ叩き、願人坊主が松五郎に笑う。


恐らくは松五郎が荒くれ連中から金を巻き上げた所を見せ、タカリに来たのか。


「タカるつもりなら他を当たれ」


「へへ、勘違いしねえでくれ。おらあ、そんなつもりはねえさ。おう、親父、俺にもムラサメを頼むぜ」


訛りのない伝法口調を見ると、どうやらこの願人坊主は江戸育ちのようだ。


「俺は玄海、見ての通りの願人坊主よ。それで旦那はどこから来なすったんだい」


「ふむ、どこから来たかと問われると答えにくいな。俺は元は江戸の深川にいたんだが、十年ほど前に旅に出た。

それで関八州を回りながら暮らしていてな。一週間ほど前にまた江戸に戻ってきたところだ」


「そうだったのかい、なるほどねえ。所で旦那は柔術だけじゃなくて、ヤットウのほうもおやりになるのかい?」


「いささか」


猪口に注がれた酒を飲みながら松五郎が頷いてみせる。


もっとも、松五郎の剣の腕前は些かどころの話ではない。


馬庭念流が盛んな上州では、高柳松五郎と言えば相当な剣客として知れ渡っていた。

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大江戸悪刀伝──浮かれ徒花咲かせようか 名も無きキンメリア人 @yusima

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