夢を見た青年の話

 思い返せば、幼かった頃の僕の周りに文字というものは、いつも転がっていた。だけど、まるで酸素のようにそれは存在していて、目に見えていなかった。まだ、目に見えるモノだけしか信じられなかった僕は、いわずもがな文字の存在に気づいていなかったのだ。でも、何も難しい話ではなく、クラスメイトの女の子に抱く、胸がズキズキとする感情を「恋」と分からなかったり、嫌がらせをされたときに素直に「嫌い」と言えなかったりするのと同じで、幼い少年にしたら当たり前のことなのだ。後悔をしているわけではないけど、ただ、そうゆう世界に気づけなかったという話をしておきたいだけのことだ。


 まだ慣れない会社の環境で酷使された体に、金曜日の夜のホームは堪えた。鼻につくアルコールの香りと惰性で吐かれた嘔吐物の存在感、埃っぽい電車の中で息を顰めるように睨み合う人々、そんな物の一つ一つが、今の僕に「ざまぁないね」と言っているように感じる。

 アパートに帰る途中の道には、今朝カラスに食い散らかされた生ゴミが散乱している。それをついばむ小鳥は残酷だし、その反面当たり前なのかとも思える。目に見えない空気ですら、汚れている、と叩きつけられてしまう世界では、小鳥だって絵本のように木の実だけを食べて生きていけない。

 ただ、その時の環境が当たり前だったんだ。道を歩いていたら段差があって飛び越えるのも、小鳥が生ゴミをついばむのも、400字詰めの原稿用紙を破り捨てることも同じだ。ただ、環境がそうさせただけの話。

 僕は、夏の温度より低いアパートのドアノブを回し、無言で部屋に入る。暗い部屋の中から、溜められていた熱気だけが出迎えてくれて、少し眩暈がする。それを堪えて、部屋に入り電気をつける。ひどい部屋だ。テーブルに散乱する酒の空き缶、台所に積まれた食器、それから出し忘れたゴミ袋。さっきとは違う眩暈が僕を襲い、そのままベッドに身を投げる。

 なんだか、泣いてしまいそうな気分だった。子供の時は、何にでもなれると思っていた。消防士、警察官、医者、役者、博士、勇者、ヒーロー……小説家にだってなれると思っていた。

 ベッドから体を起こす。すると、自然と散らかったテーブルの上にある、2枚の手紙に視線が向いた。1枚には文字が書いて無く、クローム色の質素な紙。でも、もう1枚は、海を連想させるブルーの便箋で、文字がたくさん埋められている。

 昨夜のことを思い出す。

 僕は、手紙を書いていたんだ。過剰に表現するなら、初めてのラブレターを書こうとしていたんだ。

 体を起こして、文字で埋められたブルーの便箋に目を通す。とても稚拙な字がならんでいる。決して、殴り書きをしたような幼稚な雑さではなく、この便箋には2種類の文字が存在する。1種類は、女子学生らしい丸みを帯びた字だ。多分、潰れかけの鉛筆で書かれたのか鉛の色は濃く、文字は太い。2種類目は、凛とした文字だ。まるで、海の地平線にある入道雲を連想させるような凛とした文字。

 この2種類の文字を見て、女子学生らしい方を稚拙と表現した。

 僕は、再び、この手紙に目を通す。


『手紙を書くのは、緊張します。今も、手紙の書き出しが分からずに、何度も考えて、書き出し方が分からないってことを書いています。それから、急に手紙を渡してごめんなさい。変な意味はありません。ただ、君の書いた本がよかったっていうのを伝えたいだけです。

 本当に、良い本でした。私には、本のことはよくわからないけれど、君の思い描く文字の一つ一つは、なんだか気持ちいいくらいに胸に染み込みました。

 君の次回作に期待です。』


 稚拙な文字列は、これで終わりだ。学生の時に、趣味程度で書いていた小説を、たまたま彼女に見られてしまったんだ。僕は、当時のことを鮮明に思い出せる。

 誰もいない放課後の教室で、夕暮れの朱色の中で揺れる長い黒髪が、僕の文字列を読んで、楽しそうに表情を変えていたんだ。

 手紙をテーブルの上に置いて、冷蔵庫から酒を取り出した。慣れた手つきでプルタブを開けて、酒を口に含んでから、また手紙に視線を落とす。

 でも、この手紙を渡されたのは、学生だったあの頃ではない。つい数日前に、実家から送られてきたものだ。

 僕と同じく大人になった彼女が、実家に送ってきたらしい。

 だから、凛とした大人の文字列が、下に並んでいる。


『急に、気味の悪い手紙を送ってごめんなさい。私のことを覚えていますか?

 当時、これを渡すつもりでしたが内気だった私は、渡せずに青春を終わらせてしまいました。なので、勝手な私の物語だと思ってください。私の小説の一説だと思ってください。

 私は、あなたの作品が大好きでした。改めて、それを伝えたいだけでした。』


 何度読み終えたかわからない手紙をテーブルの上に戻し、安い缶ビールを口に含んだ。すきっ腹に流れる酒は、異様にアルコールを感じてしまう。

 僕は、この手紙に返事を書けないでいる。何を考えても、アルコールのように気化してしまい、全てに滲んでいってしまうのだ。存在が、曖昧になってしまう。

 だって、彼女が好きな僕の書く物語を、僕自身が嫌ってしまったんだ。

 夢を諦めてしまったんだ。

 今日もまた、クリーム色の質素な便箋に、文字列が並ぶことはなかった。

 ただ、それだけの話だ。

 

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嫌わないでくれよ、人間 【短編集】 成瀬なる @naruse

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