相反する青

 エトワールは静かに教室の隅に鎮座していた。息をひそめ目線を落とし、なるたけ気配を消して。普段は星の瞬く赤い瞳だが、今日は遠慮がちに伏せられ、星もほとんど姿を見せないでいる。心なしか俯き気味な彼の陰った空は黒と混ざりダークブラウンにも見えた。

 次の授業に出るためには教室を移動しなければならない。頃合いをみて、生徒たちが席を立ち、エトワールを置いて出ていく。誰も彼を待たずに行ってしまう。誰もいない。この教室には、赤目に構う者など、誰も。

 彼は落ち着き払ってゆっくりと席を立つ。空っぽの教室にはたったひとりだけなのに、恐れる必要などないからだ。

 ハンガーに掛けてあった上着を掴み袖を通すと、本を持ち直し歩き出す。

 分厚い教科書を抱く彼の真っ黒なコート。しかしその裏地の色だけは他の生徒と違う。彼のコートの裏側は、学院でその色を目にすれば誰もが振り向く、成績優秀者にのみ許された崇高な青色に他ならなかった。輝くばかりのサテンの裏地を惜しげもなく翻しながら、優秀なエトワール・ハイゼンベルクは歩いていく。

 それは堂々とした歩きではなかった。どちらかといえばひっそりとして、誰にも見られたくないと願うように見える。事実そうだった。エトワールは自分自身を誰にも見られたくはなかったのだ。赤い目をした、こんな自分を。

 自分がここに居てはいけない存在だと知ったのは少し前だったが、そのときにはもう遅かった。フェルキスに長らく住み、周りの人間が少数派だと知らないでいた。誰とでも同じ場所に居られると思っていた。見た目なんかよりももっと大切なものがあるのだと信じていた。けれどもそれは、世間知らずなおのれの狭い視野に偏った思考、単なる思い込みと一抹の望みであった。

 事の重大さを理解するのに時間を使いすぎてしまったのだ。南部に来てはじめてエトワールは自分がイレギュラーなのだと知った。誰かのおのれを見る目が、言葉が、どれとも違う響きを持ってエトワールを叩いたのは、まさしくこの叔父と同じの赤い目が「あってはならない」ものだったから。

 中等部の頃はただただ静かに過ごしていたせいかさして人目には付かなかったものの、高等部になるとそうもいかなくなる。あの成績優秀者の戴冠たいかん式で大々的に表彰されてから、エトワールの存在は瞬く間に知れ渡った。以前よりまことしやかに囁かれていた噂の人物が実在したと分かると、無遠慮に眺められることも多くなった。彼が赤目だと全員が認識したのだから、それ相応の扱いを受けることになる。そこでやっと気が付いたのだ。

 赤い瞳のエトワールは嫌悪の対象としても非常に優秀な少年だった。何をしても目立つような、何をしてもいけないような存在だ。

 エトワールに寄りつく者はほとんど居ない。怖いもの知らずの無鉄砲な人間以外は誰もが赤色主義の刻印を恐れ眺めるだけだ。無理もない、そう思う。

「エディ」

 びく、と肩が揺れた。聞き慣れた声がエトワールの猫背を照らしている。至って明るい、友人に対する声色である。

「はあ……クララ」

 笑顔のまま近付いてくる親友に、頭痛を催しながらも体を向けて応える。

 若様はおのれの知るうちで一番の怖いもの知らずでいらっしゃるが、最もそうではいけないお方なのだと再三申し上げたはず……。

「わたくし……。僕の話は聞いていませんでしたか」

 公私混同は避けろとのお達しを思いだし、即座に言い直す。彼は満足そうな顔で手すりに腰掛け、エトワールに返した。

「ぼくは気にしないから、おまえも気にするな。親友に目の色は関係ないだろう」

「そういうわけにもいかないのは僕の方なのですが」

「おまえはいつでも上手くやるから心配はいらないよ」

 呆れ返るエトワールを他所に、クラルテはいたずらに成功したと笑っていた。おのれはそうではなく、内気な少年が視線を合わせるのを嫌がるように俯いた。

「これだけは、上手くやれる自信がありません」

 自分の中の認識が変わったせいで、弱音となって口から溢れ落ちる。それを拾ったクラルテは、じっとエトワールを見つめてから、落とし物をグシャグシャに丸めた。

「あまりそういうことばかり言うと、ぼくと過ごすのが嫌なんだと聞こえるぞ。おまえの赤目が何だって言うんだ。ぼくはおまえの赤目が好きだ。だから良いだろう。それに、父上も、おまえがぼくと過ごすのを了承してくださっているじゃないか。これが答えなんじゃないのか」

 エトワールは、すっと目を逸らした。

「僕はそうは思いません。貴方と過ごすのも嫌いではありませんが、僕と貴方では立場が違いますから。親友だからこそ、距離をおくべきだと思います」

 クラルテがなにか言いかけるのを遮って、エトワールの強い一撃が飛び出した。

「何度も申し上げましたが……もう僕を訪ねてくるのもやめてください。今度こそ僕と約束していただけますね。若様」

 授業に遅れてはいけないと、呆けるクラルテの横を通りすぎていく。止めることは出来なかった。深く被った黒いフードが、サファイア・ブルーに彼の空色の混ざるのを許さないのだ。


「今日はやけに元気がないね」

 ロンド・ホールの窓際、いつもの席に座っていた。今日は天気も良く、たっぷりと日射しを受けた金髪が輝いている。ジルダの言うとおり、クラルテは明らかに気力を失った様子でぼうっと外を眺め、チェス盤を開くこともない。

 座っても良いかい、と聞くと、辛うじて返事が返ってきたので座る。チェス盤が見当たらない、それもそうだ。だって肝心の相手が居ないんじゃあ、どうしようもないだろう。

「もしやチェスのお供が居ないなら、わたくしが相手しましょうか。ブランシャール小公爵様」

 クラルテが渋い顔をして言った。

「今、一番聞きたくない台詞だ」

「またフラれたの。エトワール君に」

 ジルダのからかい混じりな言い方が気に入らなそうに眉をひそめていたが、クラルテがそれについて言及することはなかった。それから一呼吸置いて、ジルダは落ち着いた表情で呟いた。

「彼は賢いね。君のことをよく考えていると思う」

 クラルテは相変わらず上の空だったが、ジルダは続ける。

「彼の言うことに、僕も賛成だよ。君はもう少し人目を気にしなくちゃ。学院の全員に白い目で見られたくないなら、やっぱり改めるべきだ」

「そんなことは……わかっているよ」

 苦しそうに眉を寄せ、視線を落とすクラルテがあまりにも可哀想だったので、ジルダは思わず言葉に詰まった。

「父上の……家のことを考えれば……そうでなければならないんだ。改めるべきはぼくの方で、エディの言うことは本当に正しい。だけどぼくは、親友を赤目だからと差別するような人間にはなりたくない。エディが赤目なのがなんだ。ぼくはずっと赤目と接してきた。今まで何も言わなかったくせに、何を今さら怒ることがある。ぼくがどんな人間と接しようが、誰にも言われる権利は無いはずだろう」

 頬を上気させ、早口で捲し立てるクラルテの声が段々と大きくなるのを聞いたジルダはすぐに声量を落とせと合図をした。クラルテは、はっと気が付いて呼吸を整える。それから黒髪がふわふわと左右に揺れ、周囲を確認してから、作戦会議でもするようにこっそりと注意した。

「腹が立って仕方がないのは解るけど、こんなところでそんな話をすると、すぐに噂が広がってしまうから。気を付けて」

 クラルテが頷くのを見て、ジルダは言う。

「クラルテ君、彼と遊ぶのがいけないことだとは言わないけど……。でも、君はいずれ家を背負うひとになるんだし」

 何度も聞かされた台詞にクラルテはとうとう弱気になって呟いた。

「どうすればエディとずっと親友でいられるのかな……」

「ばかだな、ずっと親友だよ。今までも、これからもさ。だから今はその時じゃないんだって。もうすぐで卒業するんだ、僕たち。もう少し待てば大人になって、君は新しい当主になる。そうしたら好きなだけ遊べばいいんじゃないのかな。ちょっと離れるくらいで弱気になるなよ」

 クラルテはしばらく、もごもごと何か言っていたようだったが聞き取れる声量でも無かったので、何を言っているのかは解らなかった。ジルダの提案に異を唱えたくてうずうずしているものの、うまくまとまらないといった様子だ。

「ずっと親友だ」

「そうかな……」

「そうだろうとも」

 たいていは強気な態度を崩さない彼をここまで弱らせることができるのは、やはりそれほどの信頼を得ているからか。

 ジルダは単純に、羨ましい、そう思った。口元は微笑んでいるものの彼の表情は豊かな方では無いため、その考えは誰にも解らなかったが。ジルダはとても上手くやれている少年だった。

「僕はね、クラルテ君。どれだけ離れても切れない絆があると思っているんだ。そしてそれはお互いとお互いとを結ばないと決して伸びることのない糸だ。もしもどちらかの結び目が緩ければ、離れただけで外れるか、切れてしまう。だけれども、それが固く結ばれた糸なら……」

 クラルテはいつの間にか顔をあげ、ジルダの話に耳を傾けていた。額に流れたジルダの黒髪は光を吸収して反射しないようだった。

「自分たちで糸を紡ぎながら、伸びていくんだよ。真ん中から、はじっこから、どこからでもいい。その糸はまるで意思を持ったみたいに、するすると伸びるんだ。そうしたら、次に会ったとき、もっと深い関係になっている」

 彼が咀嚼する前に次を放り込んでしまう。

「エトワール君とクラルテ君には、固く結ばれた絆があるよ」

 季節に合わず冷たい手を握り、黒に似たグレーが有無を言わさぬ様相を呈したので、クラルテの考えは腹へ押し戻されてしまった。そんなことは口に出すものじゃないよ、とジルダは笑った。当惑した表情を浮かべる青い瞳を一心に見つめながら。

「ジル」

 あまりにもじっと見つめるので、視線を落とす。冷たかった手はジルダの熱を受けてほのかに温かさを取り戻していた。手の内が緊張して、しっとりと汗ばむ。

「ジル。もう解ったから」

 躊躇ためらいがちに離されたジルダの手の首は、彼自身が握った。真っ白な肌、クラルテよりも白く血管の見えるような肌に痕をつけそうなほど力を入れて。それはジルダが自分自身を叱りつけるときの、自傷的な癖だ。

 ジルダは立ち上がった。

「簡単に切れない絆は大事にしなよ。たまには思いの丈をぶつけて、糸を太くしてもいいんじゃないか」

 お先に失礼、と椅子を押し込んで背を向ける。言い忘れたのか、ちらりとクラルテの方に顔だけ向けて、また会いに行くよ、と約束を投げつけた。クラルテはまた、一人残され言葉を噛み締めることしかできなかった。

 カツン!

 ロンド・ホールの開け放たれた扉をもう一度開くように高らかな踵の音と、慌ただしい足音とが聞こえた。その群れは統率の取れたものではないが、塊としてはきちんと形を為している。談笑していた学生たちは皆話すのをやめ、注目した。

 ホール内を一瞬で支配してしまった集団の頭目は、ビターチョコレートの髪がなめらかに流れる額のまんなかを隠すこともせず堂々と登場した。分けられた前髪はふんわりとウェーブがかかり、それから覗くローストアーモンドの瞳は不可思議な感情を涙膜に浮かべている。おいしそうなナッツはすっかり透明な箱に入れられてしまっているからきっと触れることも叶わないだろう。

 魔族狩りが国属の軍として機能し始めた頃からあるテルセッタには、高等部の成績優秀者に裏地の青いコートを進呈する習慣がある。青は嫌魔のクロティアにとっては非常に意味のある色だ。崇高で、清廉で、魔族の赤に相反する色。故にこのコートを賜る行事を誰もが「戴冠式」と呼ぶのである。

 彼もまただ。三年生が締めるカーキのタイと青いコートを身につけ、ゆっくり歩きながら、すうっと瞼を落としこう切り出す。

「我が校に赤い目の人間が居る」

 クラルテは弾かれたように彼を見た。彼は意に介さず続ける。

「テルセッタに赤目が存在するだけで、どれほど高尚な意義を汚しているのか解らない身の程知らずが居るという意味だ。しかもそいつは、小公爵様とつるんでいるそうじゃないか」

 彼、ジョアンの冷えきった瞳がクラルテを射抜く。しかしすぐに視線は外され、ロンド・ホールの中心に立った。

「魔族は腐ったミカンのようなやつらでしかない。だって赤色主義はつまり、そういう人間たちなのだからな。魔族が近くにいるせいで腐っていった連中だ」

 聞こえるように大きな声でされる演説は、多くの学生の是を得ていた。テルセッタは魔族狩りの育成に一際力を入れた教育機関であったし、クロティアが魔族を嫌っていると言っても嘘ではなかったためだ。

「赤色主義の何がいけないのか解らないようなやつはここには居ないだろうが、赤色主義である者がいないわけではない」

 ジョアンの瞳ははっきりとクラルテを捉えている。口元に薄らと笑みを浮かべ、しかし決して友好的ではない色を湛えながら。

 静まり返ったロンド・ホールの扉の向こうから黒い、幽霊にも見える影が入ってきた。何も知らないのだろうそれは、深く被ったフードを取らずひっそりと歩いている。紅茶でも飲みに来たのだろうが、なんともタイミングの悪い哀れな生徒だとクラルテは思った。そのときまでは、そう思っていただけだった。

「先輩に挨拶もできないのか」

 ジョアンの手が肩を掴むふりをして、その黒いフードを取ったのだ。数人の生徒から、アッと悲鳴が上がった。水色の後頭部がさあっと揺れ、振り向いた顔のルビーは大きく見開かれていた。

「僕は挨拶もできないような不出来な生徒がこの学院の制服を着ているのが許せなくてね。我が校では礼節も重要視している。青のコートを着る生徒は謂わば模範だというのに、それを持つ君がこんな体たらくでは、高い授業料を一生懸命稼ぐフェルキスのご両親が泣いてしまうだろうよ」

 その色はよく見知ったものだったので、クラルテはすぐに理解した。あれはエトワールだ。

「先輩、おはようございます。挨拶が遅れて申し訳ありません」

 侮辱とも取れる言葉を受け止めるでもなく放置するエトワールに、ジョアンは面白くなさそうに鼻を鳴らす。

「よく出来た。偉いじゃないか。ご褒美にひとつ教えてあげよう。君は赤い目だから、これから先、魔族狩りに狙われるかもしれない。例えばこんなふうに」

 アクアマリンの細い髪を鷲掴みにし、ぐっと顔を寄せて眺めた後、そのまま投げ捨てるように思い切りエトワールを突き飛ばした。彼の体は対応できずに傾き落ちる。

「うあ……」

 ドン、と響く音に皆目を丸くした。しかしある生徒が声をあげると、一人、またひとりと面白がって囃し立てた。エトワールが驚きを処理する間、ジョアンは十字を切ってエトワールの顔を革靴で踏みにじった。

「もしかするともっと痛いかもしれないが。そうだな……」

 エトワールは何も言わなかったが、苦痛に歪んだ顔が何を思うのかは明白だ。もしくは、こんなことは生まれて初めての経験だったから何も言えないほどの驚きだったのかもしれない。あるいはそのどちらも。

 ジョアンの光沢を持った革靴が離れると、顕になった頬にはソールの模様が彫られていた。形式的に「ごめん」と呟くと、赤く充血したそれをならす。ざり、ざり、ざり。エトワールの好きなバゲットにバターやジャムを塗るときの音にも似ている。似ているのではなく、ジョアンは確かに靴底をおのれに塗りつけているのだ。

 人間に、それも同じ学生が学生にこんなことをして、怒る者が誰ひとり居ないのが恐ろしくなった。あんなに優しい彼を踏みにじられて怒る者がほんとうに誰も居ないのか? 誰も? それは……ぼくでさえも?

「抵抗しないと殺されてしまうよ。それとも死ぬのが怖くないとでも言いたいのか」

 顔を見て笑うためか足を浮かせた隙に、エトワールが這いつくばって前へ進もうとするので、ジョアンは出した手を踏みつけた。薄い皮膚を貫通するような痛みが骨を伝い、エトワールは大きく悲鳴をあげた。

「痛みに負けるような根性無しでは、今後が危ういな。君も魔族狩りになるのなら」

 体重をかけるジョアンの足を掴むことには掴んだのだが、痛みのせいかうまく力が入らないようだ。まるでびくともしない大きな柱を動かそうとしているようだった。

 茶褐色の髪を持つ生徒が一人、我慢できず立ち上がったのが見えた。友人であろう黒髪の生徒が彼を止めるが制止を振り払ったようだ。エトワールに夢中になっているジョアンに静かな怒りを滾らせた彼は、手に持ったカップを思い切り振り上げ、中身を頭目にひっかけた。

 いきなり紅茶を掛けられたジョアンは吃驚仰天して動きを止めたが、足をどかされそうになるとエトワールを守ろうとする手ごと踏み潰そうとした。それでも彼は負けなかった。

「どうして誰も止めないの? こんな……こんなことが許されていいの? ハイゼンベルク君は何もしていないのに、どうして! 他の皆も……見ているだけなんて! それなのに笑っているなんて!」

 変声期もまだなような高い声を大きく張り上げて訴えようとも、いないものはいないのだ。誰の心にも響かないのだ。

「君も赤色主義なのか。狂ってる! 新入生は皆赤色主義なんじゃないか。もしやフェルキスの悪魔はこのエトワール・ハイゼンベルク君で、皆たぶらかされたのか」

 ハンカチで水気を取りながら、余裕を取り戻したジョアンがエトワールから足を外し、重なる手を蹴り上げると傷口を抉られたエトワールが背を丸めた。

 身を屈め、エトワールに馬乗りになると、すかさず止めようとする茶髪の少年をある生徒が羽交い締めにした。ジョアンを止める者は誰も居なくなった。馬になった少年は相変わらず無言を貫いて、泣きもせず、笑いもしない。ジョアンにはそれが、僕を屈服させられるならやってみろ、お前に出来るはずがない、とでも言うように見えたから、どうにも腹が立つ。

 ジョアンはひとまずエトワールを仰向けに寝かせる。すると他の生徒がエトワールの腕を踏みつけ、抵抗できないようにした。ジョアンは満足げに笑った。

「随分と余裕そうだこと。そういえばもともと、君は紅茶を飲みに来たんだろう。うむ……セレスタン、紅茶を二つ持ってこい。エトワール・ハイゼンベルク君に紅茶を淹れて差し上げるんだ。それもとびきり熱いのをな。早く!」

 セレスタンは一つ頷くと紅茶を取りに行った。そして、この場のほとんどが淹れられたそれをどうするのか理解していた。ジョアンがエトワールのシャツのボタンを幾つか外し、腹を丸出しにして、それを眺めていたからだ。

「先輩、熱いですからお気を付けて」

 セレスタンがそっと手渡した紅茶からは白い湯気が立ち、彼が明らかにカップを触らないところを見るとかなりの温度を持つだろう。ジョアンは感謝の意を述べ、にっこり笑ってエトワールに見せつける。

「美味しそうだろう。エトワール君、これは僕からの、青いコートのお祝いだ。ゆっくり味わって飲むんだよ」

 茶髪の少年が金属音に近い声をあげた。

「――この腹で」

「は……あ! ヒッ、あ、あ、あ――!」

 人が乗っているというのに、びくん、と体が跳ね上がった。腹に散らばった湯気がどれほどエトワールの皮膚をただれさせるのか、想像するのは難しくない。薄く伸ばした白い肌の上に水脈を通す。なだらかに流れる小川はやがて脇腹を流れ落ち、シャツからコートへ染みを作った。

 胸が忙しなく上下し、まともに口も利けず、ただただ耐えるために歯を食いしばる。美しい顔は哀れにも歪み、苦しみだけを噛みしめ、痛いと喚くことすら許さない熱を咀嚼していく。飲み下すには大きすぎるのを、真っ赤に染まったエトワールの腹が訴えている。

「クラルテ小公爵様。どうぞこちらへ」

 クラルテはどきりとした。

「お連れしろ」

 クラルテの腕を掴み、半ば引きずる形でエトワールと対峙させる。ジョアンはセレスタンから受け取ったもうひとつのカップをクラルテに差し出した。

「これは貴方の分ですよ。これを彼にご馳走してあげてください」

 エトワールがこちらに視線をやった。寄せられた眉からは想像できないほど、諦めに満ちた色だった。勝敗の決まった試合に対し競争心を燃やせないといった感情などではない。もっと複雑で……誰かのために敗北を受け入れるような……。

「……」

 時間が止まってしまえばいいのに、と思った。どうすればいいのかは自明であるはずなのに、どうしてこの期に及んでまで保身を考えるのか、理解できない。

 本当にそうだろうか?

 そうではない。父の存在はクラルテの根底に常に存在していたからだ。クラルテの絶対の支配者である父をこの場に見ているのだ。言っている。『これ以上失望させてくれるな』と。

「早く」

 ジョアンは気が立った様子で催促した。彼の瞳が強く輝く。

 何も迷う必要はないと感じた。

「ぼくは彼を傷付けたくない。離してあげてくれ」

 あの瞳が安堵を表すのだとぼくにはわかる。ぼくは彼の親友だから、よくわかるんだ。

「紅茶が冷めてしまいますよ。御冗談も程々になさってはいかがですかな」

「こんなときに冗談は言えない」

 ジョアンの笑みが消えた。

「冗談でしょう。その血統で、その青い目で、その制服で……貴方が? この紅茶を受け取らず、これを踏むことも出来ないと仰るのか。赤色主義を背負うのがどれだけのことなのか、未だに理解されてはおられないようですね」

 彼はひとつ息を吐くと、立ち上がった。エトワールの呼吸は整いつつあったが、腹の赤みは一向に収まらない。可哀想なほど汗をかき、高熱を出した子供のようにも見える。

 ジョアンが向かったのは未だ囚われている少年の前だ。ジョアンは器用に片手でボタンを外し、少年が腰を折るのを無理に正させた。

「いやだ……。嫌!」

 ジョアンの冷えた視線が彼の熱傷を癒すことはないだろう。ぎゅうっと目を瞑った。

「やめろ!」

 クラルテの声が丸い天井に響く。

 少年が膝をついた。腹を押さえた腕は濡れて、充血した箇所を保護している。しかし肩で息をする彼を誰も助けようとはしない。

「赤色主義も同じです。魔族と同じ、赤目と同じ。貴方も彼らと同じような扱いをされるのですよ。魔族狩り当主になる御方でありながら」

 クラルテはエトワールをそっと起こした。彼はクラルテを見ると薄らと微笑んで口を動かしたが、上手く声が出ないようだった。クラルテはそっと唇に手をやると、喋らなくても良いと合図した。

「ぼくは親友を赤い目だからと差別できるような悪魔ではない。エディとジョージ君をこんな目に合わせた君たちを許すこともない。ぼくの友人を傷付ける者があれば、それこそが魔族だ」

 クラルテの言葉にジョアンは眉を潜めた。聞き捨てならない単語だった。

「何だと?」

「ぼくは確かに、やめろ、と言ったぞ。それなのにぼくの言うことも聞かず、ジョージ君に紅茶を引っかけただろう。ブランシャールの小公爵であるぼくに逆らうやつが魔族でなければ、一体何だと言うのか。魔族狩りに逆らう者は皆、狩られて然るべき魔族だ」

 その青い瞳が白い獅子のそれに似ていたからか、ジョアンは一歩下がった。こんなものに恐れをなして逃げるような少年ではなかったが、彼のサファイアの反射があまりにも冷たく鋭い刃であったから、刺さった体を反動で下げただけだ。エトワールですらクラルテのこんな表情は見たことがなかった。

 その声は父親のそれとよく似ている。低く、絶対服従を誓わせる強さを秘めた、よく通る声だ。

 ジョアンは顔を真っ赤にして押し黙った。ロンド・ホールが静寂に包まれ、ジョルジュの荒い息遣いだけが木霊していた。クラルテがジョルジュを介抱する間、エトワールは一人でボタンを留め、何もなかったかのように立ち上がってジョルジュに声をかける。

「冷やすものを貰いにいきましょう」

 堪えきれなかったのだろう、涙を一粒溢したジョルジュが頷いた。彼の目を見るとフィデリオを思い出す。彼はあの美しい翡翠を、今も大切にしているのだろうか。


 結局、ロンド・ホールの出来事で誰かが謹慎処分になるだとか、そういうことは無かった。エトワールの方は相変わらずだったが、ジョルジュには変化があった。勿論、クラルテにも。

 まず、ジョルジュはあらゆる友好関係が薄れていくのを感じていた。素っ気ない挨拶を返される日々は昔の彼から想像もできないが、友人を助けたことをむしろ誇りにすら思っていたから、さして問題はない。

 ただひとつ、ロイクとの関係の変化だけは受け入れられない問題だった。彼の制止を聞かず飛び出していってあんな目に遭わされたとしても自業自得だ。しかしロイクはそうではなく、何故もっと強く止めなかったのかと責任を感じているらしい。その上ジョルジュが赤色主義だと言われてしまっているからには距離をおかざるを得ないのである。今だってこのベンチに、一人分のスペースがある。

 ジョルジュは上手く話題を探すことができずにいた。ロイクは相変わらず本を読んでいて、こちらには無関心といった様子だ。

 声をかけるのもはばかられる。

 以前であれば「もっと寄ればいいのに」とでも言ってくれたロイクが、今ではもう、向こうから話しかけてくるなどはほとんどない。拒絶されないだけましだとは思うものの、なんだか釈然としない気持ちだった。

「ロイクは僕が嫌いなのかな……」

 本を閉じる音だ。

「それは違うと言っておくよ」

 ロイクがおのれを見る。ジョルジュもロイクを見つめた。

「じゃ……僕が赤色主義だって言われても友達ってこと?」

「わかりきった質問だと思う。友達だよ」

 当たり前だ、と彼は頷く。ジョルジュは腑に落ちないらしく、視線を下げて呟いた。

「ほんとうかな……。赤色主義とは仲良くできないって、言ってたから」

 実のところ、ロイク自身こうしてジョルジュと話すのは奇跡的だと感じていた。ロイクは昔から人との関わりをあまり持たず、赤目と関係する人間だと解ればすぐに切ってしまえるような人に執着を見せない少年であった。だから今回もそうなると信じて疑わなかったのに、今こうしているのが不思議で堪らない。

 彼のことが気に入っている、のか。

「ルージュは違うよ。……たぶん、違う」

 彼が曖昧な表現をするなど珍しいが、ジョルジュにはそれよりも気にかかる言葉があったから、特に触れなかった。

「へんなの。僕は良くて、他の人は駄目なんて」

 むず痒そうにジョルジュは言った。頬を掻きながら笑っていた。ロイクも照れくさそうな口振りだ。

「ルージュは特別なんだ。恐らく、きっと」

 ふと、ジョルジュは瞳を曇らせて真剣な表情を見せた。そのミントグリーンが冬に変わりつつあっても、キャラメル色の髪は変わらず、やわらかくつやを持っていて、なめらかな口当たりを想像させる。

「だけれども、他の人にあげられない特別は、僕はいらない」

「どういうことだい?」

 突き返された大切なものを、ロイクはひとまず受け取った。心底、困り果ててどうしようもない、というような顔で。

「僕だけが特別なんておかしいよ。ロイクは僕がハイゼンベルク君だったら、こうして話してくれないんだよね。赤色主義も赤目も、何がいけないの? 僕、ちっともわからない。だってみんな同じでしょ。同じ姿かたちでしょ」

 半ばあざけるようにロイクが鼻を鳴らした。ジョルジュはほんの少しムッとしたようだった。

「まず言っておくが、みんなにあげられる特別なんて存在しえないよ。そして、僕は赤色主義や赤目になんの恨みもない。何がいけないのかも、実はいまいち解らない。だけどそれが普通のことなら、僕はそのように振る舞うのが当然だと思っている。だから君は特別なんだ。僕が普通に振る舞えないから、君は特別なんだ」

 ジョルジュは行動こそ大袈裟で落ち着きのない子供のようだが、確かに賢い少年だったから、ロイクの言葉を否定するわけではない。むしろ理解しようとすらする。しかし何かが、違う、そうではないとジョルジュを糾弾するのだ。正体不明の何かが。

「そうだろうけど、そうだろうけれども……。僕だけじゃなくて……みんな同じように接することはできないの? 僕一人と付き合えるなら、他の何人と接しても変わらないと思う。違う?」

 その通りだ、頷いた。

「そうだね。でも半分違う。クロティアの現状を僕には変えられないから。赤目を含め、赤色主義は君だけしかいないわけじゃないから、赤色主義として嫌われるひとを全員は守ってあげられない。守れても君だけだ。だからもう、この話はやめよう。だってすべてを守るにはあまりに力が足りないんだ。出来ないことを話し合っても、僕は革命家にはなれないんだ」

 聞くなりジョルジュの手が伸びて、ロイクの手を掴んだ。緊張して冷える指を温めるための按摩を施す彼のてのひらも決して温かくはない。

「ごめん。僕、ロイクの気持ち解らなかった。冷たい指だ。いっぱい頑張ったね。こんなに緊張して。いつもそうだったのかな。ねえ、ありがとう。僕のワガママを聞いてくれてありがとう。僕ね……ロイクの特別で嬉しいな」

 微笑む彼の無理に気付けないほど鈍感ではない。ロイクの手とジョルジュの手はちっとも温かくはないが、分けあうのは体温だけでなくとも良いはずだ。

「僕はいいさ。ルージュこそ、納得できていない顔をしているよ」

「僕だっていいよ。これから納得するから!」

 どちらともなく、ぷっと吹き出すと堪えきれずに笑いだした。

「早く納得して、和解しよう。そうしたら僕たちは同盟者だ。えっと、そう、『赤を嫌えない同盟』」

 二つ目のジョルジュの変化はロイクとのこと。そしてもう一人――ジョルジュ以外の大きな変化を経験した、赤を嫌えない同盟のメンバーの一人とも言えるクラルテはというと、それこそ崇拝にも似た感情を抱く赤色主義だと噂されていた。噂は煙のように広がり薄く伝わるものだ。内容が事実とちょっと違っても、誰も気にしない。

 四年生のクラルテはすぐに卒業してこの学院を去るが、しかしまだ一年生のエトワールのことは最も心配すべき事項であった。あの日言われて以来あまり話せなくなってしまったし、生真面目な彼のことだから何かあっても隠すだろう。それが不安の種になるのも知らずに。

 寂しい。エトワールがおのれのためを想ってやることが、望むものと正反対で。

 クラルテは昔のように二人で中庭を駆けて回り、チェスを指し、紅茶や美味しい食事を楽しみたいと願っていた。目の色など気にせず、ただ親友であれれば良いと。けれどもそのエトワールは、赤目の自分のせいでクラルテの立場が危ぶまれるのだけは避けたい。まさしく正反対な願いだ。

 親友だからこそ距離を置くのだとクラルテを突き放した彼はちっとも寂しさを見せない。それならばとおのれがずっと見ていてやることもできない。

 この頃の二人はすれ違ってばかりだ。昔のようにいかないのは成長してしまったからなのか、ただ神様がタイミングをずらしたからなのか。ちいさな歪みの生み出したお互いの歩幅が次第にずれゆくのと、歯車の噛み合わないのはよく似ていると思った。

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Vanitate Rose 佐久間 @OOriginal_W_N

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