泉下の孤城

 上の方から、タン、タン、と階段が鳴いているのが聞こえる。遠くにあったそれが次第に近付いて、やがて扉を開ける音がしたので、ふと顔を上げた。

 壁に身を預け椅子に座っている。蝋燭の柔い光が照らす彼の顔をぼんやりと眺めれば、彼が寄ってくる。彼は実に優しく微笑んでおのれを撫でた。あのときよりは幾分か細くなった、ごつごつとした冷たい指で。

 それから蝋燭の熱を移し、金の燭台に火を付けると、部屋がすぐに明るくなる。ぼうっと見ているだけのおのれを含め、この部屋に存在するあらゆる物が姿を現した。この部屋に光をもたらした彼の空色の髪は薄く橙を帯びて、夕暮れのようだった。

 彼が専用の席に着く。彼しか座れない特等席に、定規を背骨にしたような彼が座って、ペンを持つ。インクを付け、余分を落とし、まっさらな大理石の床の上、ペンのワルツが始まっていく。

 さらさら、さらさら、踊る彼女の足音はさながら音楽だ。慎重に、軽快に、時に立ち止まって。普段よりもテンポの遅いそれからは彼が思案しながら書いているらしいのが伝わってくる。どう書けばいいのか解らない、どういう言葉選びにすべきなのか、と思い悩んではダンスを止めてしまう。

 おのれは声を掛けるのをやめようと思った。それらしい言葉を持ち合わせてはいなかったし、なによりもおのれは声を出したことなど無かった。人形のように、ここで彼の帰りを待つだけの日々にそんなものは要らないのだから。

 しばらくしてペンの奏でる音楽に彩られた舞台は終幕を迎えたらしく、コン、というペンを立てる音で幕引きとなった。何枚もの手紙を書き終えた彼は、引き出しを開け、真っ白な封筒を取り出す。

 宛名を書く手が微かに震えている。あれでは書き辛いだろうに、それでも彼は決してやめようとはしなかった。

 しっかりと封をしたのを確認した彼は、封筒を机上の小箱に入れてしまった。少しの間考え込む素振りを見せた彼だったが、ややあってゆっくりと腰を上げ、こちらに近付く。

「君も……あの日の僕と同じだ」

 その目の無感情なことくらいはおのれにも理解できた。あまりにも赤い、焔を閉じ込めた瞳は炎のようには揺れていない。

 色とりどりの背表紙を持った本たちの家から、一冊、彼が取り出す。それを開いておのれに見せる。何かが記された、ある一ページだった。おのれは文字が読めないので、何が書いてあるかまでは解らない。

「これが何か、君は知らないだろう。これは誰も……いや。の中では僕だけしか知らない秘密の本だよ。今から君の名前をここに記す。その間は目を閉じていて。絶対に開けちゃ駄目だよ……。赤い、そう、赤い声が聞こえたら、いつもみたいに部屋の掃除をお願いできるかな。大事なことなんだ。だから、もう一度言う。目を開けるのは『赤い声が聞こえた時』だけ。いいね、出来るね? 君は賢いから。次に目を開けたら、君は君でなくなるけれど」

 おのれは頷いた。「赤い声」がなんなのか解らなくても、きっと彼はおのれにも理解できるものだから説明しなかったはずだった。

 彼は満足そうに笑って、目を閉じるよう指示した。素直にゆっくりと目を閉じて、彼のことを考える。

 あれはここしばらくの間に見た、最高の笑顔だった。花のように美しく、筆舌に尽くしがたい、誰もが彼を好くであろう笑みだ。天使がいるのであれば、きっと彼のような微笑みを湛えているに違いない。

 インクの垂れる音が聞こえる。聞きなれた音だったので、すぐに判断できた。あれは彼がペンについた余分なインクを落としている音だ。黒いインクが白いキャンバスに足跡を残すのを想像して、はた、と気がついた。

 そういえば、おのれの名前はなんだろうか?

 思えばおのれは自分の名前どころか彼の名前も知らなかった。さておかしいな、と思い始めたそのとき丁度、コツン、となにかが倒れる音がした。続いて水滴が床に落ちる音が聞こえてくる。何が起こったのか確認するため、目を開けようとして、あっと思った。

『目を開けるのは赤い声が聞こえた時だけ』。危ない、そうだった。すっかり忘れていた。彼の言いつけを守れたことで、彼にきっと褒めてもらえるだろう。何かを引き摺るような音が聞こえても、無視だ。無視、無視……。

 褒めてもらいたい一心で必死に目を瞑るおのれを馬鹿にするように、クスクスと笑う声がする。やがて下品な高笑いになったかと思えば、それは言葉として意味を成していく。

「なんともまあ、惨めな置き土産だこと! 最高だ、お前ってやつは……。この髪も、顔も、何もかもが未練の塊、どこまでも未練たらたらで逝ったというわけか。なお前に似て、しっかりおつむも弱そうで結構なことだ。お前らしい、見ていて痛くなるほどの浅ましさだな! 全く、どうしてどいつもこいつもそうなのか。ほら、お前、もう目を開けろ。いつまでも寝ているだけじゃ部屋は片付かないぞ」

 あまりにも大きな声が突然、部屋に響いたので、驚いて目を開ける。金色の月を二つ、ばっちり目に映す。

「おはよう、そしてようこそ、俺の城へ。この城の主人は今日からお前だよ。おめでとう!」

 はく、と空気を食んだかと思えば、音を結んで声を出す。

「な……なにを言っているの」

「これは驚いた。お前に口が付いていたとは」

 何を言うのだろう、彼は。

「どうして? 口のない人間なんて居ないよ」

 それを聞くと、満月はどんどん形を変えて、やがて三日月になる。

「本当にそう言い切れるのか? お前は今まで、たった一人の人間としか接してこなかったくせに。耳の無い人間、手足の無い人間、目玉の無い人間。俺は知っているぞ。そのどれもが存在し得ることをだ。反対にお前は何も知らない。どんな人間がこの世に存在するかすら。それどころか……外に出て、空気を吸ったこともない! 扉の開け方も知らない箱入りめ。生意気なことを言っていると、その舌を切り取るぞ」

 体の部位を言うたびそこに彼が触れるので、ぞわぞわと全身が粟立つ。その指のあまりの冷たさといい、雰囲気といい、ぞっとするほど嫌な感覚に身を捩る。緊張からかおのれの顔に熱が集まるのを感じ、口を閉ざす。

 黙り込んだおのれを見て勝利を確信したらしい相手はその目を嬉しそうに細めた。

「ところで、お前の頭はダイヤモンドよりも固いようだな。直接揉んでやろうか。きっと気持ちいいぞ。長年の幽閉生活で凝り固まった――いや、そうだな。使わなすぎて錆び付いた、のほうが正しいその哀れな脳!」

 彼の顔が、す、と離れる。にやついたその顔よりも、天に伸びるゴツゴツとした角、蝙蝠のような飛膜を持った翼。黒くて長い、ぐねぐねした尻尾に目が行く。

 視線に気が付いたらしい彼が、自身の腕に巻きつく尻尾をいじくりながら机に腰掛ける。

「そう舐め回すように人を見るものじゃないぞ。いやらしい。お前、顔に似合わずそういうのが好きみたいだな。これは将来有望な人材だ」

「ちょっと、ちょっと待ってよ。どういう意味?」

「顔に似合わない変態、って意味さ」

「少し見てたくらいで、へ、変態呼ばわりするなんて!」

「こういうのは見られた側に正義があるものだ、アルバード君」

 顔を真っ赤にして掴みかからんとするおのれを、呆れて肩を竦めた彼はその声で突き飛ばした。心が尻餅をついてしまったアルバードは言葉に詰まって、俯く。その通りだったから、何も言えなかったのだ。

「さて。お前の父親の言っていたことは覚えているか?」

 いつまでも無駄話をしていていも仕方ないとばかりに彼が話題を変える。

 父親、というのは彼のことだろうか。おのれが知る中の人間では、つまり彼しか居ない。それならば勿論、覚えている。彼の言っていたことは、こうだ。

「ええと……『これが何か、君は知らないだろう。これは誰も……いや。の中では僕だけしか知らない秘密の本だよ。今から君の名前をここに記す。その間は目を閉じていて。絶対に開けちゃ駄目だよ……。』ねえ、どこまで言えばいいの? ……『赤い、そう、赤い声が聞こえたら、いつもみたいに部屋の掃除をお願いできるかな。大事なことなんだ。だから、もう一度言う。目を開けるのは”赤い声が聞こえた時”だけ』。これで全部だよ」

「正解だ! 流石は天下の悪魔憑き様じゃないか。間抜け面のお前でも、ちゃんとにはなっているというわけだ」

「ま、間抜け面だって? あ、い、いや。そんなのより、悪魔憑きって……」

 言うや彼はこちらの発言を無かったことにして、本棚の方へ足を運ぶ。

「む……無視?」

 置いてけぼりになったアルバードを、アッシュは手招いた。

「役目を忘れたご主人様のために、より良き道を教えてやろうと思っているのに。なんだその口の利き方は? 改めた方がいいんじゃないのか? なによりもお前の父親の前なのだから!」

 目を開けてから、どこまでも視界がクリアになっていたのに気が付いた。あらゆるものの細部をすべて見ることができるようだ。そういえば、声も、名前も、元々知っていたみたいに自分自身に住み着いて、そう、今だって妙ににやけた彼の後ろ、そこに鎮座するあれのことも……。

「お前が生まれてきたせいで、哀れにも項垂れてしまったお前の父さんだ。ほら、慰めなくていいのか?」

 アルバードは咄嗟に駆け寄った。しゃがみこんで顔を覗きこもうとさえした。

 本棚に背を預け、べたんと座り込んで、がっくりと項垂れたその顔は見えない。その場で寝てしまったような格好だ。軽く揺すってみても、反応は無い。それどころか、揺れに身を任せるばかりで自分から動く気配は一切無かった。

 彼の顔を持ち上げて、寝ているのかだけでも確認しようと思ったのだ。だから、やけにひんやりとした頬に手を添えた。

 見るな、とどこかの誰かが叫んでいる。体が……体が言うことを聞かない。見てはいけない。それを見てはいけない。この顔を上げさせれば、何かが壊れてしまう。何か、なにか、大切な。


「……お、おとうさん……」


 つつ、と赤が手の甲に亀裂を生んだ。おのれの血管にそれが流れているような気さえした。太い管から微細な管まで、自身の全身を巡る血液を支配された気分だった。それほど生々しい、脈動するほど冷えた赤。

 そのかんばせを上げさせたおのれの手は、悪魔によってがっちりと固定されてしまったように思えた。アルバードの目が大きく見開かれる。

 彼の虚ろな目から、口から、一筋。たっぷりと涙を含んで潤んだ、輝くあの瞳。あれほど綺麗な宝石だったのに、他人に見られる、ということで研磨していたガーネットの管理を、一瞬でもやめてしまったから?

 それは、くすみ、滲み、溶け出して、ザクロのジュースを作るようだ。白くなった唇の端から溢れるのは、眼孔から流れ落ちたそれとは違って、千切れてしまった赤い糸のような細い血の筋。

 すっかり冷え切ったアルバードの片手に、されるがまま頭を預ける彼。おぞましい光景を見ていられず、おのれは思わず手を離した。従って彼の体も倒れてしまう。

 さっと髪が散らばる。変わらない、美しい髪だ。決して曇ることのない晴天は、変わり果てた彼との対比のようだった。

 アルバードは自身の手を眺める。さっき、自身の血液と彼の血液が混ざり合ったようだと感じた。実際そうだった。おのれの手には、かつて彼に通った熱い血潮が流れていたのだ。

「掃除の時間だ、アルバード。さあ、どこでもいいから持て。階段を上がって、扉を開けろ。それから廊下を――」

「ま、まってよ。ぼくに……時間を、時間をちょうだい。こんな、た、耐えられるわけがない。ぼくは、ぼくの、ぼ、ぼくのお父さんが……」

「時間?」

「そう、だって今、ぼく、どうしても……」

 アルバードが彼の前で座り込み、情けない顔を晒してそう告げると、彼はわざとらしく首を傾げた。

「お前に時間が必要か? よく考えてみればいい。その頭、心、全てを欺いているのはお前自身だ。理解しているはずだ。これがお前の中で耐えきれない事柄だと言うのなら、涙のひとつでも流してみろ。傷付いた人間の声の震えを再現してみろ。出来るのか? お前に。何一つ経験したことがないお前に。こんなもの、お前の中ではもうくずかごに入っているはずさ。その手に付いた血を見たところで、お前の体は一度だって震えていない。声は筋が通って、涙の一筋流すこともない! それでも時間が必要か。心の整理はもうとっくに終わっているのに」

「そ……そんなこと……」

 ぐ、と腕を引かれ、いつの間に後ろに居たらしい彼の懐に飛び込む。

「お前だけじゃない。悪魔憑きというのは皆そうだ。そこに寝転んだ男もそうだった。優しいふり。好きなふり。誰しもが真似から入るように、悪魔憑きは先祖代々人間の真似事を続けてきた。だからお前も、早く素直になった方がいい……。楽になれるぞ。人の真似事は疲れるだろう? ありのまま、そのままのお前でも、俺は受け入れてやる。俺ならお前を受け入れてやれる。大丈夫、お前を殺せるやつも、怪我をさせるやつも、傷を付けるやつも、誰も居ない世界に行くだけだ。誰も居ない、誰も、だぁれも居ないんだよ……」

 耳元で囁かれる言葉の受け入れがたさに反し、父親の宥めるように優しい声だった。脳まで侵食されるような「甘ったるい声」が脊髄を刺激して、蛇のように巻きつき、するすると登ってくる。いけない、このままでは。このままでは脳を食い尽くされてしまう……。

 ほとんど使ったことのない細い体で必死に逃げようとするものの、おのれを後ろから抱きとめる彼がそれを許さない。元よりこんな小さな子供では、彼に勝てるはずもなかった。

 日焼けどころか陽光を浴びたことすらも無い太股を、黒革の手袋が撫でる。驚いて強張るアルバードを尻目に、彼はどんどん手を伸ばす。嫌がって彼の胸を押す手に力は入っておらず、それどころか、全身の脱力感が否めない。

「いけない子だ。お前がこうなってしまうのも、全部お前が悪いんだ。お前の体が言うことを聞かないのは、お前自身が分離しているせいだ。お前がお前を否定するせいだ。仮面を外せ。なにも癒着しているわけじゃない。外せるはずだ。『君は賢いから』……」

 足の幅より大きな手が肌を辿るたび、ふる、と怯える睫毛が揺れる。アルバードの深いグレーの瞳がたっぷりと涙を溜めて、彼を憎たらしそうに睨みつけた。極限まで白くしたようなおのれの皮膚が、かあっと色付いていく。

 制止の声も掠れてしまって上手く出てこない。

「うん……やっぱり、お前には無理そうだ」

 急に解放された体が投げ捨てられた風に倒れこんだ。拍子に足を擦り剥いてしまったらしく、痛そうに膝を抱えては犯人を怒鳴りつける。

「な、な、何をするんだ!」

「吼えるな。お前、いやらしいことにかけては一級品の才能があるみたいだが、今やるべきことは掃除だからな。お前のように貧相な体では、こんな出汁の取り終えたクズは運べないだろう!」

「別に、エ、エッチなことが好きなわけじゃ……。だいたい君があんな、あんなことっ!」

「どんなことを俺がお前にしてやったのか、その口で説明したいのか?」

 アルバードは肩をわなわなと震わせて押し黙った。悔しさに唇を噛み締めながらこうべを垂れる。真っ赤になってしまった顔は隠せても、長い耳までは隠せていないのに気付かずに。

「とにかくその体を俺に貸せ。抵抗するんじゃないぞ。無駄な体力を使って、劈開へきかいでも起こしたらどうするんだ?」

「どうしてぼくが劈開を起こすっていうの?」

「お前の体は特別製なのさ! ある一点を叩けば割れる、ダイヤモンドで出来ているんだ」

 アルバードは鼻で笑った。あるわけがない、そんなこと。なにしろおのれはきちんと肉体を持っているのだから。

 しかしアルバードは本物のダイヤモンドを見たことが無かったので、どういうものかを詳しくは想像できない。ただ、硬く、光の乱反射する高価な宝石なのは知っていたから、なんとなくのイメージだけは持っていた。

「本当にぼくの体がダイヤモンドで出来てるって言うなら、ぼくにだって運べるはずだよ。それにこの肌はどうやって説明するつもりなの? まさかダイヤモンドの外側に皮を貼り付けたわけじゃないだろうし」

「だからお前の脳は固いって言うんだ。そんなことはどうでもいいから、早く貸せ。無理にやると気持ち悪くなるのはお前だぞ」

 知ったかぶりをするアルバードを彼は笑うどころか反応もせず流した。言及されないことに内心ほっとして、そんな自分を恥じて首を振る。彼は何も言わなかった。

 気を取り直して彼の言っていたのを考えてみることにした。

 しかし、貸せといったって……。

「どうすればいいの?」

「はじめからそうやって素直に言うことを聞いていればいいものを。まずは本棚からあの本を取り出せ。お前の名前が書かれたページを開いたら、俺に『力を貸せ』と命じろ」

 アルバードは仕方なく、着ている服で手を拭った。それに対して、最早どうでもいいという感情を抱いてさえいるのだということに気付かずに。

 本棚の前にあるあれは極力見ないように目を逸らし、言われたままにあの本を探す。おのれの名前が書かれたあの本のことだ。随分と古ぼけた萌葱もえぎ色の表紙には、タイトルも著者も書かれてはいなかった。ページをめくっていく。

 記憶によればここのはず……。

「ぼくに力を貸してほしいんだ」

 これでいいのか解らないまま、なんとなくでやってみると、隣の彼の鮮紅の髪が大きく揺れた。必死に堪える仕草をしたかと思えば、ついに弾いたように笑い出してしまう。

「ど、どこまで間抜けなんだ、お前は……くくく、フフ……俺の名前はアッシュ。さあ、もう一度やってみろ。名前を呼んで、も、もう一回……ぼくに力を貸してほしいんだ、とでも言え」

 名前を聞くタイミングがつかめなかったのだから仕方がない。それをこんなに笑うだなんて!

「そんな、それなら、そんなにぼくを笑うならはじめから教えておいてほしかった。笑ってないで、本当に!」

「悪魔憑きなのだから、当然何もかも理解しているものだとばかり思い込んでいた。俺が悪かったよ。お前は本当に何も知らないのを、忘れていたのさ」

 アッシュが降参したように両手をあげた。

「嘘ばっかり! なんでも覚えているくせに」

「嘘だって証拠があるなら是非ご提示願いたいね」

 どう見ても嘘だって言うのに!

 悔しさに、むっとしながら本へ目をやる。結局アルバードには彼の嘘を証明できるだけの証拠が揃っていないのだから、黙って再挑戦する他なかった。

「アッシュ、ぼくに力を貸して。でなければ君を追い出してしまうよ」

 怒気を孕んだ口調でアルバードが言うと同時に、目の前の彼が、にんまりと笑う。

「任せておけ」


 ズッ、ズッ……。

 何か重いものを引き摺る音だ。一定のリズムを保ちながら、毛羽立った絨毯に空色の筆で線を描く。

 黒い革靴から覗く細い足、ゆったりした白のチューニックの袖に生えた蒼白い手は、後ろに携える大きな筆を持つのもやっとに見える。にもかからず、足取りはしっかりとして、かつ軽やかに進んでいるのは夢に出そうなほど奇妙な光景だった。

 誰も居ない廊下を鼻歌交じりに歩く。口元は笑みすら浮かべ、その目は夜空をくりいたように輝いていた。

 少年の低い身長に不つり合いな筆の足をかぼそい両腕に抱えては、王の行進でもしているふうだ。彼は長いマントを連れ歩くように、幼子が気に入っている毛布を持ち歩くように、軽々とそれを動かしている。

 玄関の重い扉を押し開けた。外はもう、ほんのりと白みを帯びている。夜明けが近いのだ。

「ああ、重い。自分から墓にでも入ってくれれば楽なものを」

 銀と夜の闇は淡く混ざりあって独特の色を作り出す。明るい光を背に受けながら、少年は歩き出した。

 邸宅の壁を伝って行き着く広い庭。綺麗に剪定されたグリーンの城壁の綻びに小さな体を滑り込ませる。そこはまさしく湖畔だった。普段なら陽の光をたっぷりと浴びて、きらきらと輝く湖の横。

 少年は涼やかな空気を胸いっぱいに吸い込んだ。風の無い季節だったから、水面は落ち着いている。昼寝にもってこいな静かで穏やかな空間であった。誰かが深く背負い込んだものを解き放つに相応しい、安寧の地。

 柔らかな芝生の上にいくつか石碑が立ち並んでいる。新しく建てられたらしいひとつに、おのれのよく知る男の名前が刻まれている。

「お前が建てたのか」

 返事は無い。

「お前は大きいから、三日はかかりそうだな。寝ているくらいならお前も手伝えと言いたいところだが」

 彼は筆をゆっくりと下ろした。どこからか持ってきたスコップで石碑の目前に穴を掘っていく。

 ふかふかの土とはいえあの大筆ほど掘り下げるのは容易なことではない。少年は至って手際よく茶色の寝床を作り上げていくが、小さなスコップのためか、ぱっと出来上がるようなものでもないらしかった。

 しばらく掘って、おおよその形が出来てきたところで湖が眩い朝日を照り返す。煌きに目を奪われ、夜が明けたのを自覚した。

「思った通り、毎日これくらい掘ればお前の墓が出来そうだよ、エトワール」

 土を払い立ち上がる。片付けのできない子供のように、スコップも筆もそこに置いたまま湖を覗き込む。湖に映った自身の顔をじっと見つめれば、対する向こうもこちらを見つめた。

 美しい顔だった。

 おだやかだがしっかりした印象を与える眉の下、天を見上げる睫毛が守るダークグレーの瞳はすべてを見透かすように澄んでいる。瑞々しいレモンみたいな形の目が瞬く様は誰もが頬を染めるほど綺麗だ。

 人智を超える端麗な顔立ちを持ったアルバードは、言うなれば天使だった。それなのに彼はその顔で年相応な笑顔を見せたりはしない。今だって湖上に映るおのれの存在自体をナンセンスだとばかりに嘲笑っているのだから。

 偶像を見るに耐えないと手で崩しては、ばしゃばしゃと顔を洗う。折り曲げた膝に冷えた水が掛かる。水に塗れて張り付く髪も、びっしょりの顔も気にせず、満足気に腰を上げた。

「また明日、お前の墓を掘ってやる。ベッドが出来るまでは申し訳ないが床で寝ていて貰えるかな、エトワール? これも経験の内だと思って」

 寝そべる筆の頭を見下しながら、毛布も掛けてやれないが、と笑う。至極少年らしくない笑みでそこに立っていた。

 死体を蹴りつけることも可能なような少年は、部屋に居た彼とはまるで違う。誰が見ても今の彼では子供らしさの微塵もない青年を思わせるだろう。同じ見た目の同じ声なくせをして、中身だけは逆さに吊るしたほど変わっていたのだ。

 アルバードは墓の群れに背を向けた。つられて流れる銀の髪は薄っすらと青みを帯びて、雲間に覗く青空めいた燐光りんこうを見せる。楽しそうなハミングも流れに沿って遠くへ飛んでいく。

 気分が乗ってきたのか、やがてそれは口から溢れる。


 目覚めの夜は星に託せ

 誰も見えぬ 誰も見えぬ

 もう一度 我が瞳にあの星を


 目覚めの朝を月に隠せ

 誰を救い 誰を落とす

 もう一度 我が心に水滴を


 裏切り者には十字を切れ

 正しき者にはつるぎを向けん


 なべて戯言と蹴れ

 その舌切り取る者はおのれと知らん


 革命のは赤で満ち

 革命の火は我を討ちし 反撃の意は我を裂きし


 散れ

 薔薇よ 星と共に生く青い薔薇よ

 目覚めぬまま 鮮やかなまま


 散れ

 薔薇よ 輝く陽を見ん青い薔薇よ

 しかし淡く散るなかれ


 待っていてくれ

 いつかおまえと見た楽園で また会おう


 アルバードのふっくらした頬に自身の髪の青が伝ったようだった。ぽつんと音を立てて鼻先に何かが当たる。雨が降ってきたらしい。

「折角掘ったのに流されるかもしれない」

 面倒くさそうに髪を撫でつけてアルバードは駆け出した。走り出すのなら全く無意味な動作だったが、どうでも良かった。

 まだ大きく降り出してはいない。庭へ続く石畳を進んだ先、門の前に少年は立っていた。出るときに開け放したままだった扉は閉じられている。

「こんにちは、今朝はすごく寒いですね。そこを開けてくださいますか?」

 老いた門番は土に汚れた少年に見覚えがあるか自身の記憶を探っていたようだったが、やがて知らないと解ると首を振った。一見すれば修練士に似た、そうでなくても少なからず教会出身であるというふうな出で立ちの少年だったので、門番は教会の偵察かとも思った。

「どこの馬の骨だかも解らん子供を入れるわけにはいかない」

 アルバードは首を傾げた。

「僕のことを解らないと仰るのですか」

 門番は、ぐっと眉を寄せてアルバードの全身をしげしげと見つめたが、やはり心当たりがないらしい。

「解らないも何も、おまえのような子供はこの辺りですら見たことがない。一体どこの子供だと言うのかね。こんなに朝早くから誰を訪ねてきたんだ。両親は? 名前は?」

 こちらを全く知らないというふうな門番の質問に、アルバードは密かに冷笑を送った。次いで、汚れを知らない無垢な子供の笑みでこう返すのだ。

「僕のお父さんはこの家の当主、エトワール・オービット・ラスペード様です。お母さんは……居ません。名前はアルバード・エトワール・ラスペードと申します」

 門番は少年の台詞を飲みこめずによく咀嚼しているようだった。こちらを訝しげに眺めた末、あっと目を見開いてそこを開けた。次いでうやうやしく礼をする。まるで当主に対してするような深い敬愛を表していた。


 雨は一時的なものだったようで、すっかり晴れ渡っていた。日当たりの良い部屋の、ぽんと突き出た窓の縁に座ったアッシュが口を開く。

「天気がいいんだから穴でも掘りに行こうか」

 本を読んでいたアルバードが顔を上げて、彼の不思議な提案に疑問を投げる。

「どうして天気がいいと穴を掘るの?」

 アルバードの三歳の子供のような質問にアッシュは目を伏せて答えた。

「雨の日に穴を掘ってみろ。我が儘なネコのようなお前がずぶ濡れになったまま穴を掘れるわけがない。なによりも、お前に穴は掘れない」

 明らかに馬鹿にした言い草にアルバードはなるべく冷静に聞いた。腹を立てても仕方がないと学んだからだ。

「どうしてそう言い切れるの? 猫にだって穴は掘れるよ」

「お前は穴を掘ったことがないからだ。やったことがないことは猫にだってできやしないのさ」

「じゃあ、どうして穴を掘ろうだなんて言い出したの」

「お前の父親の墓を掘るのを手伝ってもらうためだ」

 アルバードは、信じられないというように目を見開いてアッシュを見つめた。なんとなく自身の記憶から抜け落ちていたようなその事実を、彼が拾って突きつけた気分だった。

「ぼ……ぼくにお父さんの墓を掘れって言うの?」

「さっきの言葉にそれ以外の意味は無い」

 あっけらかんと言ってのけた彼から顔を背ける。嫌だったのだ、それをするのは。詳細な理由は解らなかったが。

「そんなのは君がすればいいことでしょ。またぼくの体を貸してあげるから、好きにやったらいいじゃないか」

 アッシュは首を振った。

「教えてやるから掘ってみろと言っているんだ。お前も悪魔憑きなら墓の一つや二つ掘れなくては」

 おのれの顔は鏡を持っていないのではっきりとは言い切れないが、恐らくは今、物凄く嫌そうな顔をしているはずだ。さっきから彼は『悪魔憑き』を連呼するが、それが一体なんだと言うのか。悪魔憑きであれば、なんでも理解することができ、なんでも出来るとでも言うのか。馬鹿馬鹿しい、そう思った。

 別に穴が掘れないのを馬鹿にされて悔しいのでも、教えてやると上から目線なのが癪に障るのでもない。そうではないが、悪魔憑きという得体の知れない単語でおのれを評されるのが不愉快なのだ。

 アルバードは本を閉じ、腹を立てている割に優しく机に置いた。それから窓際でこちらを見据える赤毛の前へ、つかつかと歩み寄って、ワンと吼えた。

「悪魔憑き、悪魔憑き。君の言うそれは一体全体何なのか、ぼくにちゃんと説明してよ! 君はぼくに重い期待をしているみたいだけど……あ、もう、そうやってすぐに笑うんだ! 悪魔憑きなら何でも出来て当然なの? 悪魔憑きなら何でも解るの? なんにも知らないってぼくのことを馬鹿にするくせに、なんでも知っているみたいに言うんだから。ああ、もう! ちょっと、君さ、笑ってないで、答えてくれないかな」

 笑い声が止まった。口の端をひくつかせながら睨みつけるアルバードをいなすように、アッシュは返す。

「そうだ。お前たち悪魔憑きは、何でも出来て当然。何でも理解できて当たり前。それは何故か解るか。お前たちの脳はあらゆる記憶を書き留めておけるノートのようなものであり、その場で瞬時に計算できるソロバンであり、どんな難題もすぐに解ける教科書だからだ。やったことは全て忘れないのだから、出来ることだけが増えていくというわけさ。これも全部俺のおかげだよ、アルバード? どうしてか解るか? まあ、お前が質問してきたのだから聞くまでもないがね。話を戻そう。悪魔憑きの呼称の由来は、つまり――俺だ。俺という悪魔が憑いているから、悪魔憑き。それだけだ。簡単だろう? それならば、どういう訳でお前たち悪魔憑きがそうなのかと言えば――」

 意地汚く要点だけを話そうとしないアッシュに痺れを切らしたアルバードは遮って言う。欲しがっていたプレゼントを前にして、その箱を開けずに待っていられる子供など居ないのだから、彼の反応は至って正しかった。

「君がぼくたち悪魔憑きに才能を与えているんでしょ」

「なんだ、つまみ食いでもしたのか? 先に言うなんて、ハイエナみたいで下品だな」

 アッシュはつまらなそうに長いチューブのような尾を弄ぶ。血色の感じられない腕に巻きついたそれは一見すれば飼いならした蛇であり、彼自身も蛇を愛でる風に撫でるものだから、ますます彼の尾は動物然としていた。

「ハイエナだってぼくのことを言うのは、たぶん、君だけだよ」

「そうだろうな。お前の本性を知るのは俺だけなのだから」

 髪を整えるのに夢中になっている少女のように他に集中することがあるからとこちらを見ようとしない彼に、アルバードはいい加減、頭に血が上る思いだった。

 どこまでもぼくを虚仮こけにするつもりみたいだ。

 アルバードは彼の尻尾を弄る癖がなんとなく気に入らないと出会ってからずっと思っていたので、主人の手にすり寄るそれを思わず、むんずと掴んで引っ張ってみた。腕に絡まっているためか、するすると解けるわけではなく、ぐっと突っかかる感覚がしてやめた。

「……何をしているんだ?」

 珍しく動揺したらしいアッシュの声がする。

「……」

 アッシュは不躾にこちらを眺め、しばらくして何かを閃いたように声をあげた。

「ああ! 触りたくてしょうがなかったのか。お前も物好きだな。こういう風に動くのが好みか。そんなにお気に召したのなら、ほら、触りたいだけ触れ」

 わざわざ腕から剥がしアルバードの手を尖った尾先でつつく。それから彼がしていたのと同じように絡ませてきたので、アルバードは顔をしかめた。不審者に腕を掴まれたような顔だった。

「いらない。君の癖が嫌だっただけ」

 丁寧に取り除こうとしたが、反対に向こうも力を入れて腕を締め上げる。何故、と眉をひそめると彼は笑った。

「遠慮はするな。こんな機会二度とないぞ。お前の腕はこの先二度と使えないのだから」

 ミシッ!

 直後、一層力の込められた尾は鎖のように巻きつき、食い込み、剥がせなくなった。骨を伝って聞こえる嫌な音がおのれの鼓膜を内から震わせ、脳にまで達すると、途端に危険を察した頭が警鐘を鳴らす。

「い……痛い!」

 低い笑い声が聞こえる。ただただ楽しんでいる、そういう声だ。食いつかれた腕は更に悲鳴を上げ、徐々に芯までやられていく痛みを耐え忍ぶしかない。鈍いが強い痛みだった。

 視界が滲む。砕かれてしまいそうな腕から痛覚が無くなればいいのに、とどこか客観視した思考でいるのが信じられない。こんな状態で泣き喚かないのはどうしてなのか、考えている余裕さえある。

「余裕そうだな。痛いか?」

 まずい。それ以上力を入れたら……。

「ウウッ……!」

 アルバードの頬に一条の流星が落ちる。折れる寸前に外された尾が星の欠片をすくった。

「ど、どうして……」

「泣けたじゃないか。偉い偉い……ふうん、ちゃんと涙の味がするな」

 涙のひとしずくを舐め取った赤い舌を見て、あ、と思った。彼にもおのれと同じ赤い血が流れているんだ。

「折られたかったか?」

 アルバードは必死に首を振る。抗議をしようとして、ふと声が出ないことに気がついたとき、初めて恐怖のあまり声が出なくなるのを経験したことを知った。

 奇妙な気分だ。おのれは確かに彼のような理解に苦しむ存在に恐怖しているはずで、腹を立てているはずで、それなのに何故与えられた事象を他人事のように見ているのだろう?

 二人、三人、あるいは四人、いや、それ以上……自分自身が分離しているような感覚だった。痛む腕を押さえながら、やっぱりいくつかに分離した自分と共存しているのを自覚した。痛がることさえ奪われたような気持ちで。

「声が出なくなるほど怖かったか。ハハッ……それは申し訳ないことをした」

 絶対にそんなこと思ってないくせに!

 何も言えないのが悔しい。アルバードは下唇を噛んで視線を落とす。

「声が出ないなら丁度良い。沈黙は肯定、つまり今ならお前は何でも言うことを聞くというわけだ。さあ、墓穴を掘りに行こうじゃないか、アルバード?」

 じ……冗談じゃない! こんな悪魔の良いように使われるなんて!

 ぶんぶん頭を振って否の意を示すも彼の目は都合の良いことだけしか映さないらしい。最悪だ。彼の目は節穴なんじゃないか?

 アッシュに押されるまま廊下を抜け、玄関を抜け、初めて外の景色を見た。それどころかアルバードは廊下も玄関も見たことは無かった。だからアッシュのことなどどうでも良くなって、全てのものに興味を示す。好奇心旺盛な少年のさっきまで出なかった声も気が付けば治っていた。

「ここが廊下? 何が飾ってあるの? 玄関の扉の模様、あれは花? 何て言う花なの? 随分重そうだけど、冷たいのかな。触っても良いかな。ねえ、少し止まってよ。もっとよく見たい」

「うるさい。後で好きなだけ見ればいいだろう」

 すれ違う使用人たちは慣れているのか挨拶をするだけだ。アルバードは年相応の子供のようにはしゃいでいたから、挨拶を返すのは疎かにしてしまっていたが。しかし不思議なことに、表情からすると使用人たちは皆、そちらのほうがなんとなく嬉しいようだ。それでもアルバードにはその意味が理解できないし、彼自身するつもりもなかった。それほど好奇心に支配されていたのだ。

「まるで好奇心の操り人形だな」

「だって、こんなの見たことない! 全部ぜんぶぼくのはじめてだ。空が青いのも、おうちの外の景色も、ううん、この石畳だって……。見たことも触ったこともなかった。ぼくはいつだってあの部屋にあるものだけで生きてきた。アッシュ、君の言うとおり、本当に何も知らなかったんだって、改めて自覚したんだ。お父さんの地下室に居たころ、何も知らなくて良かった世界からぼくは解き放たれて、鳥みたいに空を飛ぶこともできる気がする。全部知りたい。なんでも記憶しておける頭なら、何でも残しておきたい。絵や日記じゃ残しきれないものをぼくの頭に入れておくんだ」

 背後から声をかけるアッシュに折れてしまいそうな首を曲げた。まるで叶わないほど大きな夢を語るように、アルバードは腕を目一杯広げ、自分を抱きしめる。天使のような笑顔で笑って、天真爛漫に声を弾ませた。

 アルバードの目に曇りは無かった。そのときだけは本当に、これから何をしに行くのかすっかり忘れてしまい、本物の少年のように裸足で庭を駆け回ることもでき、どこへでも羽ばたく鳥になった、そういう顔をしていた。

 外の世界を夢見る幽閉された子供だなどと童話じみた特徴を持つこの子供の青く苦い魂がいかにして熟れた甘い魂へ変わるのか、アッシュは獲物を狙うオオカミのように舌なめずりをしてそれを見つめる。蜂蜜を満たしたふうに美しい金の虹彩がうっとりと細まったかと思えば、標的を決して逃さぬ槍でも構えるが如く強い光を湛え、ささやく。

「そうだな。たくさん知るといい。お前の知らないことは、全て外が教えてくれる」

 嬉しそうに微笑みを寄越すアルバードをアッシュは急かすように押した。

「早く行かないと日が暮れる。カラスにつつかれて跡形も無くなる前に埋めてやらなきゃ」

 アルバードは急に立ち止まった。

「どうしてもやらなくちゃいけないの」

 この期に及んで渋るので、アッシュは深く溜め息を吐いて髪を左右に揺らした。

「どうしてもやらないのなら、長い時間をかけて土の中の某に解体してもらう他無いな。更に言えば、カラスがお前の父親を汚くついばむだろうし、風はお前の父親を腐らせるだろう。太陽はお前の父親を焦がし、雨はそれを溶かす。そうして流れ出たものは土に還る。全てがそうなるまでにはどれほどの時間がかかるのか解っているのか? お前をここまで育ててくれた――お前を解放した愛すべき父親の亡骸を衆目に晒しておくだなどと、どれほどの親不孝か。嘆かわしいったらない! 今後一切、お前は土を踏んで歩くことを許されないだろうな。そう、お前の愚行を土の神がお怒りになるのさ」

「埋めておいても、解体するのは土の中の某でしょ。だけど……その通りだ。埋めてあげなくちゃ。それなのにどうしても足が動かない。行きたくないんだ」

 しゃがみこむ勢いで項垂れるアルバードの頬を冷たい尾の切先が撫でる。顔を覗き込んだアッシュが母のように優しく問う。

「さっきまであんなに楽しそうにしていたのに、どうしてこれは嫌なんだ。言っただろう。お前に全てを教えるのは外なんだと。穴を掘る経験も、死体を埋める経験も、お前が頭に詰めるべき情報だ。何故かと言えば……」

 駄々をこねるアルバードは耳を塞いでうずくまった。世間の母親がしきりに言う子供の世話が大変だ、というのはこういうことか、とアッシュは合点がいった。

「聞きたくない、やめてよ。嫌だ。とにかく、ぼくは行かないよ。確かに外のことを知りたいって言ったけど、ぼくの欲しかったものはこれじゃない。こんなのじゃない!」

 悪魔憑きにあるまじき醜態を晒す少年に、ひとつ気付いた事がある。彼のように愚図り喚き散らす幼児にも似た行動は悪魔憑きにおける狂気の兆候として多くあった。突然なる者もあれば、彼の父親のようにゆっくりと進行する者もある。

 彼らは九歳の誕生日を迎えると、アッシュによるあらゆる才能の恩恵を得る。その負荷に耐え切れなかった脳の異常を止めることができないのはままあることだ。さて、しかし、実のところ生まれたてに近い状態のアルバードがそうであるかと言えば……。

「お前は貰ったプレゼントを『欲しくなかったから』と捨てることのできる恩知らずらしいな。人の好意を無下に出来るところは実に悪魔的で拍手を送るべきなのだろうが、送られてくる当のプレゼントが中身の選べるものであるかと言えばそうではないはずだ。勿論あらかじめこれが欲しいと言っているのであれば結果は変わってくるだろう。しかし沢山のプレゼントの中からお前の目当てのものだけが贈られてくるわけではない。数あるそれから好きなものだけ取捨選択していったとして、最後に残るのは嫌なものだけだ。つまり欲しくないものの中から選ぶこともいずれ必要になるということだ。それをやめるとするなら、その時にお前の成長は止まる。まあ、お前が全てのものを要らないと切り捨てるのであればそれでも構わないが、そんなことをするくらいなら地下に潜って永遠に本でも読んでいるべきだと俺は思うね。あの孤城でたった一人、君主としてそこに座っていたいのならば好きにしたら良いのさ」

 アルバードがそうではないのをしっかりと理解した上での発言だった。ただただ子供らしいだけの、世間知らずなお坊っちゃまだから。断言できる根拠が無いのに言っているわけではない。彼がそうでないはっきりとした理由は、彼自身の今までにある。

 顔をおずおずと上げ、様子を伺うアルバードが不貞腐れて言った。

「ぼくに贈られてきたプレゼントの最後の残りがこれだって言いたいの?」

 アッシュは当たり前だといいたげに肩をすぼめる。

「その通りだ。お前は今、選択を迫られている。穴を掘るか? 死体を埋めるか? この二つだ」

 アルバードは意味ありげに目を伏せた。

「君なら、穴を掘って死体を埋める、を含めたみっつの選択肢で来ると思ったんだけどな」

 綺麗なを掘ってみせた少年の顔に微かな笑みが浮かんでいる。勝利を確信した、アッシュのよくするそれだった。

 やられた!

「ぼくは今、墓穴を掘った。さあ、もういいでしょ。どんな穴か、君は言わなかったんだから。それが抜け穴だったんだよ。解るよね」

 勝ち誇った口元は綺麗な弧を描き、土を落として立ち上がる。

 やはりこの子供は狂ったクズなどではない。れっきとした本物の悪魔憑きだ。こんな細かなところまで目をつけて即座に穴を広げられるようなことは狂気に侵されたそれには決して出来ないことだった。

 アッシュは知らず笑みを浮かべる。悪魔憑きならばどんな隙間も目敏く見破り、少ない手数でつついて粉々に砕くようでなければ。

 アルバードの出した答えは「答えとして」はまともではない。その上単なる揚げ足取りにも見える。事実その通りだ。しかしアッシュはまともな返事などちっとも期待していなかったから、それで良かった。

 ただし、アッシュとてやられてばかりではない。本当はやられる前にやってしまうのが最善であって、だから常としてそうしていたのだが、今回はそうもいかない。となればやはり、痛い目に遭わせてやりたくなる。今まで幾度もちいさな彼をいじめてきたのを忘れたように、アルバードをどうしてやろうかと考えた。何も考えていないような、一瞬のうちに。

 ──子供の傷の治りが早いのは何度も痛みを経験するためだと聞く。うん、それならば、親代わりである俺が痛みを与えてより良い成長を促そうじゃないか。

 一人勝手に納得したアッシュが言う。

「解るとも。さあ、早く行こう」

「え、話が違うじゃないか」

「ふむ。不利になると思って言わなかったが、実のところ、お前の体を借りなければ俺は穴どころか死体を埋めることもできないんだ。だからお前が居なければならないのさ」

 あっけらかんと言ってのけるアッシュに対し、抗議にも似た声が上がる。

「それじゃあ結局ぼくがやるんじゃないか!」

 騙された、とアルバードが肩を震わせると、赤毛の悪魔は金の目を細めて笑い出した。

「そもそも俺はお前がやらないなんて選択肢は出していない。さあ、進め進め。このままじゃ本当に日が暮れるぞ。素直にやると言ったらどうだ」

 頭上の金の両目をキッと睨みつけて気丈に返す。

「わかったよ……やるよ。だけど負けたんじゃないからね。妥協したんだ。ぼくは君に負けたわけじゃない。折れてあげたんだから」

 汚れたチューニックをひるがえし、庭へ駆けていく。庭へ行ったことがないくせに、まるで行ったことがあるほどの確かな歩みだ。


 みずからを映す鏡のような水面に星が息を吹きかけた。ふう、と一吹きで小さく波打って、まんまるの月を揺らしていく。澄みきった水を覗き込む星と星が繋がって星座を作るのなら、水と水がぶつかると何になるのだろう?

 湖と夜空の境界線は曖昧だ。ぶつかっているのかもしれないし、遠くで離れているのかもしれない。はたまたもともとはどちらも同じで、今だってひと続きかもしれない。それならこの星や月は第二の存在なのだろう。

 湖畔に佇む人形のような子供の髪は月光を受けて鮮やかに光るようだ。脱いで揃えた靴の中に靴下を入れて、チューニックをあげて座っている。音を立てて上がる足は水を連れていったが、重力に従って落ちていく。

 かたわらに置かれたスコップの指し示す先には、星の名の刻まれた石碑がある。その下に埋まるであろう星の亡骸はきっとやわらかなベッドで寝息を立てているはずだ。今までの疲れを癒すように……。

「ぼくはこれから、どうすればいいのかな」

 少年の呟いたことには、案外すぐ近くから返事がきた。

「どうもこうもない。好きなように生きろ」

 まともな返事は期待できないのを知っていたから、少年は目を伏せる。足で湖をかき混ぜると立てた波が星空を歪ませる。

「好きなようにと言ったって。目指すものもないし」

 くつくつと笑う声が耳に口を寄せてささやく。

「それならば、どうすればいいのかは問題ではない」

「突然、お父さんを失ってしまったぼくの気持ちがわかる? たった一人の家族も居なくなってしまったんだよ」

「俺では満足できないと言いたいわけか。フン、それならば、哀れな孤児みなしごのお前に一人紹介してやろう」

 数回、瞬きの後、少年は口を開く。

「君の紹介する人なんて、信用ならないな」

「そうだ。あの男のことは決して信用するな。騙されてはいけない」

「それじゃあどうして紹介するだなんて言ったの?」

 真っ当な質問だった。

「深く知ろうとしなければ実害のない人間だからだ。お前にぴったりだと思わないか? 中身の無いお前に、内の黒い人間。あの男は俗に言うの典型だ。似たもの同士、偽りの家族を演じてみろ。それを演じきれたら、お前のことをちゃんと大人だと認めてやる。お前のことを信頼して、お前の手助けに徹してやろう」

 それを聞いた少年が、虚空を睨みつけた。

「言ったね。ぼくは忘れないよ。君がぼくの下につくなんて、これ以上ないチャンスだ。絶対にそうなるから、そこでにやつきながら見ていなよ」


 ◇


 夜明けが近いせいか、ほんのりと光が差し込んでくる。

 そろそろ支度をしなければ。

 段々と白みを帯びていく空を尻目に、エトワールは寝巻きのボタンに手をかけた。

 大きく開いた窓からは既にちらほらと街の夜明けを知ることができる。夜が明ければ次第にこの街も明るい太陽へと変わる。アサガオのように人々は夜明けと共に顔を出す。

 エトワールはそれよりも少し早く起きるので、そんな花の綻ぶ瞬間をよく知っていた。そしてそれが一等好きだ。朝早くに起きだしては空を眺める小さな頃からの習慣も未だエトワールの中に残ったままで、それだから新しく好きなものが増えたのだが。

 同居人はまだ目を覚ましていない。こんな時間に起こすのも申し訳ないので、放っておくことにした。

 洗顔を済ませ、歯を磨き、髪を整え、上着に袖を通す。黒の燕尾に近い制服だ。ここに来たばかりの頃は短かったジャケットももうこんなに長くなってしまった。それはエトワールがテルセッタ学院高等部に入学したという何よりの証拠だ。

 幼さをほとんど消してしまったエトワールの顔立ちは、ますます彼の叔父にそっくりだ。彼よりは幾分か冷めた印象を与えるが、それでも彼と同じく美男子であったし、微笑めばオマケのついてくる、そんなところも変わらない。

 背はあれからぐんぐんと伸び、すっかり彼自身が叔父になってしまったかのような錯覚までするほどだった。なにしろ同じ顔に同じ背丈という特異だがある種普通な特徴を併せ持つ彼らだったから、それは無理も無いことだろう。

 同居人はといえば、彼の優しい亜麻色の髪は色が抜けて金髪になってしまっていた。この家の子供は皆そうだと笑っていたが、それならばブランシャール公爵もそうであったのか。

 若様の――クラルテの髪も、いずれはああして銀灰色になってしまうのだろうか。

 色の抜けていく髪に比例して、彼自身の幼さもどこかへ脱ぎ捨てたかのように薄れていった。さて、出会った頃はもっと色の濃い亜麻色であったかもしれない。

 どことなく寂しいような奇妙な気持ちを抱えながら、エトワールは外の光に目を細める。太陽が昇って目覚めを促す。さわさわと揺れる木の葉の音が朝の訪れを知らせるので、同居人を起こそうとベッドに寄っていく。

「ゆっくりお休みになられているところ失礼致します。若様、起きてください。朝食に遅れますよ」

 起きたくないと唸る彼に、今は主人と下僕であるという障害を取り除きたくなる。常々思っていることだが、彼を起こすのは一苦労なのだ。エトワールは寝付きも目覚めも良い少年だったので、朝に弱い主人のことはよく解らなかった。

「もう少し寝かせてくれ……」

「時間も守れないのかと旦那様がお叱りになられるかもしれませんよ」

 言えば、彼は長い金の髪を体液のように垂らして飛び起きる。昔から父親のことに弱いのでこう言えばすぐだとエトワールも学んだのだ。彼の方は解ってはいつつも反応してしまうらしい。

 まるで悪夢でも見たのかというほどの酷い顔でこちらを見やる。目が悪い彼が『もう少し寄れ』と手招きするので、ぐっと顔を近付ける。すると安心したように頬を緩め、おはよう、と挨拶をするのだ。毎朝だ。毎朝これだ。

「おはようございます。今朝もあまり良い目覚めではないようですね」

「誰のせいだと思っているんだ。心臓に悪い冗談はやめてくれとあれほど言ったのに……」

 クラルテがベッドを抜け出して、ふらふらと洗面所に向かう。しばらくして洗顔や歯磨きを済ませてきた彼がそのまま椅子に座った。髪をかす合図だ。準備していた櫛を目を引くほど美しいブロンドに通す。心地好さに微睡む彼に声をかけ、艶の増した金髪を手際よく纏めていく。

「支度を進めていただけますか」

 まだはっきりと目が覚めたわけではない彼が小さく返事をして、寝ぼけ眼でボタンを外した。皺一つ無いシャツを手にとって腕を通す。綺麗に結わかれた尻尾のような毛を揺らしてズボンを穿く。それからジャケットを羽織れば完成だ。

 鳥の尾のように長いフォーマルな制服をかっちりと着こなせば、彼はもう時期当主に相応しい少年になる。まだまだ青いが十分余裕があり、優雅であり、そして白獅子のように凛々しい。スイッチを切り替えたように、しゃっきりとした彼がおのれの手を取った。

「さあ、行こう。父上にだけは怒られたくないからな」

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