悄然のルビー

 ロンド・ホールは今日も騒がしかった。まばらに、かつ美しく配置されたテーブルにはどれも誰かが座っている。皆声を大きく話すわけではないが、これだけの人数が集まればそれはうるさくもなる。その上、ただでさえここは天井が高く響くのだ。

 人を掻き分け足早に進む。目的地は一つ。ロンド・ホールの大きく開けた窓の横、あのテーブルだ。中庭を見ながらお茶をしたり、談笑したり、暖かい陽に包まれて本を読んだりするあのテーブル。

 近付くにつれ、タン、タン、と音が聞こえてくる。小さな音だが、彼らが盤上で剣戟けんげきを振るっている証拠だ。

 早くしないと終わってしまう!

 不躾ではなくとも解る程度の熱い視線を受けながら、僕は急いでいた。どうしても見逃せない、最近の好きなこと。このテルセッタ学院の知られざる名物だ、と僕は呼んでいる。

 瞬間、チェック、と声がした。

「ぼくの勝ちだ。エディ」

 ああ……終わってしまったみたいだ。

「参りました。クララ、流石です」

 光を受け、煌めく亜麻色が揺れた。彼らはいつも律儀にお辞儀をしてゲームを終えるのだ。それから彼はチェス盤を片付けようと立ち上がる。

「うわっ!」

 がっくりと肩を落としていると、こちらに気付いていなかったクラルテ先輩が、至近距離に居た僕に驚いて座りなおす。座ったままのエトワール君が驚いてこちらを見た。彼も僕に気付いていなかったみたいだ。この赤い目を未だ直視することは出来ないが、驚いていても映える、本当に綺麗な顔だ。

 クラルテ先輩はすぐにさっと立ち上がって僕の顔をしばらく眺めてから、言う。

「はあ……あんまり近くにいるものだから、驚いてしまったよ。ところでジョージ君、今日は少し、来るのが遅かったね」

 退いてくれ、と訴える視線に応じて横にける。チェス盤を戻しにいくらしいクラルテ先輩に釣られてエトワール君も立ち上がった。

「そうなんです。急いだんですが、あ、急いだと言っても早足しただけで走ってないですよ。それで、前がジョゼ先生の授業だったんで、長引いて、こうです」

 僕が心底落胆しているのが解ったのか、クラルテ先輩は慰めるように言う。

「ジョゼ先生か。それは仕方がないな。なあ、エディ? おまえもジョゼ先生の授業を受けているんだろ?」

「ええ、まあ。確かに、ジョゼ先生の授業は毎回休み時間に食い込みますね。その分解りやすいので僕は構いませんが」

 チェス盤を戻した二人は紅茶を飲むのかカウンターの方へ歩いていく。僕も置いていかれないように歩いた。クラルテ先輩の長い髪が軌跡を描く。

 今日の茶葉はダージリン。まだピークには至らないが十分良い香りが楽しめるはずだった。

 とくとくとく……。

 カップへ注がれる紅茶はファーストフラッシュ特有の色の薄さで、まだ若々しい、それこそ中等部の一年生のような、元気盛りの新鮮な香りが立ち昇ってきた。実は僕は紅茶を飲むことなんて滅多に無かったから、感動する。

 あまりにも素敵な匂いに頭を満たされうっとりしていると、エトワール君が声をかけてくれた。

「貴方もいかがです」

「あ……うん! 飲みたい。僕も」

「そうですか。今、淹れますね」

 ありがとう、と感謝を告げるとエトワール君は柔らかく微笑んで返した。その笑顔の美しさたるや、もうなんと言って良いかも検討がつかない。

 ま、眩しい……。

 男の僕でもドキッとする彼の笑みはきっと、女の子なら恋に落ちてしまうのではないか。紅茶を注ぐその姿さえ絵になることこの上ない。どうしたらこんな芸術品みたいな人が生まれるんだろう?

 注ぎ終わったカップを差し出される。ほんわりと湯気が昇って、エトワール君のガーネットみたいな目が奥に霞む。中々受け取らない僕を疑問に思ったのか、彼が首を傾げた。

 慌てて受け取ろうとすると、彼がそっと僕の手に触れて――

「ああっ!」

 時間は案外、ゆっくり流れるのかもしれない。落下する陶器のカップ、置いていかれた紅茶、的確に隙を突いた驚きに見開かれた赤……。僕は受け止めようと手を出す。ロンド・ホールの住人たちが一斉にこちらを向く。

「あ、あちち!」

 紅茶の熱さに気が動転した僕は、一回、二回、カップを落としそうになる。

 割ったらまずい!

 カップが手に収まったとして、中のお茶はそうなるはずがない。それは無残にも僕の手を貫いて、びたびたと床に水溜りを作った。

「……」

 この一瞬であれだけ騒がしかったロンド・ホールが静まり返った。ポタ、ポタ、音を立てて水滴が落ちる。丸く突き抜けて高い天井に木霊する音は、小さいはずなのにやたらと大きく聞こえてしまう。外気に触れたダージリンティーの湯気も黙り込んで消えた。

 張り詰める空気の中、糸を切るようにはじめに動いたのはクラルテ先輩だ。彼はまず、僕からカップを取り上げる。次にジャケットの裏ポケットからきっちり折り畳まれたハンカチを取り出して、固まる僕の手を拭いた。

「火傷はしていないか」

 僕は何も言えなかった。ただ、顔が火照って、浅く息を吸うだけ。

「火傷はしていないかと聞いているんだ」

 答えない僕が焦れったいのか、先程よりも低い声でもう一度聞かれる。僕の手を拭うために俯く彼のサファイアが僕を射抜いた。

「……あ、あ、あ。はい。大丈夫です……」

「念のため先生に診てもらおう。エディ、おまえも」

「僕は大丈夫です」

 エトワール君が素っ気無く返すと、クラルテ先輩はますます眉間に皺を寄せた。それに気がついたエトワール君が前言撤回すれば、少しは顰めっ面も改善されたようだ。

 さっきまで床を拭いていたらしいエトワール君が立ち上がった。いつのまにか水溜りは消えていて、その頃にはもう、ロンド・ホールも賑わいを取り戻しつつあった。


 氷水の詰まった袋が邪魔だ。あのとき、火傷どころか紅茶の一滴も触らなかった。

 断ったのに、全くあの人は。

 心配症を拗らせたような親友のせいで、机の上に邪魔なものが増えてしまった。心配されなくても自分で解決できるというものを、勝手に思い込んでやるのだから。しかも、有無を言わさぬあの目で。

 ブランシャールでのお泊り会と称したあの「置き去り事件」の初日の彼からも感じたことだが、昔の彼とは随分違う成長をしたようだ。本質は変わらないものの、紳士らしい振る舞いや言葉遣いを身に着けたように思う。それもこの学校の教育の賜物なのだろうか。

 校舎東塔から伸びる薔薇のアーチを進む。中央の大きな噴水から、仕切るように白煉瓦で道が敷かれているのを横目に、大外回りで歩いていく。

 薔薇の洗礼を抜けた先では大樹がその広げた腕で木陰を作っている。そんな快適な場所の下には、ここにずっと居てください、とばかりにベンチが置いてあるのだ。しかしそこにはいつも先客が居て――

「その本面白いよね。特に僕はね、このシーンが好きで……」

「ルージュ……君は読書したことがないのかい?」

「あるともさ! でなければそんなこと解らないじゃないか」

「……」

 呆れたらしいロイクは押し黙った。ジョルジュはいまいち原因が解らないといった風に、彼に尋ねる。

「どうしたの? ロイク」

 読書の邪魔をする隣人の対処を諦め、ついに彼は無視を決め込むことにしたようだ。黒い頭を俯かせ、無言で本を読み進めていく。ジョルジュは少し考えてから、あっと声を上げたきり真っ青になってロイクから離れる。すすす、とベンチの端に寄って頭を抱えてしまった。

 丁度空いた真ん中に座るのも気が引けるが、時間は有限だ。ここは一つ、声をかけて座ることにしよう。

「お隣よろしいですか。べタンクールさん、グランジェ先輩」

 冷や水を頭から掛けられたような叫び声でジョルジュが立ち上がった。以降彼のことは意に介さないスタンスのロイクの『どうぞ』という返事に、ジョルジュと入れ替わってエトワールが座る。

「エ、エ、エトワール君。びっくりしたよ……いつから居たの?」

「ついさっき来たところです」

「そ、そっか。うん、いや、ええと。そんなのはどうだっていいんだけれども、それじゃあね、今度からは、その、もっと……気配を出して来て! 毎回これじゃびっくりしちゃって心臓が持たないよ……はあ、驚いた。多分、今年で一番驚いた!」

 そんな大袈裟な。

 ぷっと吹き出すと、次に驚いたのはロイクだった。

「おや、驚いた。意外と笑うのか」

「どういう意味ですか?」

「そのままの意味で。気を悪くしたなら、謝るよ」

「いえ、そんな。ですが、よく言われるので」

 彼とジョルジュが顔を見合わせて笑った。

「そうだよね! 美人ってちょっと冷たく感じるから、笑わないってどこかで思ってたりするもの!」

「思うところは皆同じってことだ」

 美人だ、と言われるのに慣れきったエトワールはそれを無視して聞いた。

「僕が笑わないって思っていたんですか?」

「そう。でも君も僕達と同じ人間なのがすっかり抜けてしまっていたよ。美人っていうのはどこか浮世離れした印象だから……君も」

 ロイクはそう言うと、すと本へ目を向けた。深い青の縁の眼鏡のレンズに文字が映る。ジョルジュも先程のことで学んだのかそれきり口を開かなかったので、エトワールも同じように本を開く。

 時折吹く初夏の涼しい風に髪を揺らし、しばらく読み耽っていると、肩に何かがもたれかかるのを受け止めることになった。キャラメル色の髪が頬をくすぐる。暇になったジョルジュが耐え切れず寝てしまったらしい。

 重たいが特に気にするほどのことでも無かったので、そのままにしておくことにした。相方の方は未だ熱心に本を読んでいて、こちらのことは視界にも入っていない様子だ。

 エトワールは本を閉じることにした。どうしようもなく心地好い空間が、ジョルジュと同じようにするのを誘っていた。眠りの神様に導かれるまま目を閉じる。木の葉の揺れる音、ページを捲る音、健やかな寝息、そのどれもがエトワールの子守唄になる。


 すう、すう、寝息が二つ分聞こえてくる。本を一旦閉じて目をやれば、二人して昼寝にふけっているようだった。

「おかしいな。ハイゼンベルク君は本が好きだと聞いていたんだけど」

 やっぱり、学校生活はおのれと他人は違うのを再確認させられるから面白い。例えおのれが本に集中していれば眠れなくなるようでも、彼は違うのだろう。

 茶色い頭の友人は先に寝ていたのだろうか、彼よりも小さなエトワールの肩に頭を乗せて寝こけている。そこに頭を預けているのがエトワールだった。折角なのでこれは一年生タワーと名付けることにしよう。

 木々が揺れるのと一緒に髪も流されて、さわさわ揺れる。例の積みあがった塔も同じように髪を靡かせている。葉の隙間から漏れる光が柔らかく、あたたかい。

 彼らを眺めているうち、エトワールの赤い目を思い出した。彼のことは決して嫌いではないが、彼のあの目だけはどうしても好きになれないのだ。というのも、彼の虹彩は血で染め上げられたように真っ赤だったからだ。

 彼は北部のフェルキスから来たという。通りで隠さないわけだ。南部と違い、北部は赤目に対する差別や軽蔑の少ない地域だった。だからきっと彼は知らないのだろう。この学校の真の目的も。

 ロイクは彼がこれからどのような扱いを受けるのかを想像して身震いした。あまりにも恐ろしい結末までもを考えるには容易かった。

 今は入学したててあまり知られていないから良いのだが、これが他の上級生にまで広まれば……。

 まず間違いなく彼は迫害される。確実だった。魔族と同じ赤い虹彩は嫌われるのが当然。首都であるストウィックに赤目が居るというのは、つまりそういうことだ。

 ロイクは自分もそれに加担している一人だというのに気がつかないほどの子供ではない。子供ではないから、彼と関わるのはそろそろ終わりにしようと考えていたところだった。

 ここでは彼のような赤目の人間と関わるだけでもいけない。そういう国だ。グランジェ家のため、保身に走ってしまうのは仕方が無いことだと言い聞かせた。

 何かあってからでは遅いのだ。それこそ極力波風立てぬようひっそりと生きてきたおのれに、もし赤色せきしょく主義(赤目の人間や魔族に肩入れする人間の蔑称)という不名誉を着せられてしまったら――。

 家柄に傷を付けるくらいなら身を切る覚悟だった。彼一人のためにそこまでしたくはない。彼だってそんなことになれば荷が重いはずだ。だからこれが最善策。それで良い。

 同じ年頃の少年だというのに、目の色の違うだけで忌み嫌われるのはあまりにも憐れでならない。それはクロティアの歴史とも呼べる悪習だ。直さなければならない部分であるのには間違いないけれども、ロイクにそれは不可能だ。

 鐘の音が聞こえてくる。次の授業の予鈴だ。今ならまだ授業に間に合う。ロイクは横で眠る二人を起こそうと優しく揺すった。

「二人とも、そろそろ起きて。次の授業が始まってしまうよ。今ならまだ間に合うから。ルージュ。それと……ハイゼンベルク君」


 ◇


「エディ、一緒に帰ろう」

「解りました。ちょっとそこで待っていてください」

 クラルテとおのれが一緒に帰るのは、この学院に入学した当初からだ。なにぶん帰る家が同じであるため、自然とそうした。

 丈の短いジャケットを羽織る。この季節ではもう暑く見えるかも知れないが、意外と風通しが良いので涼しい。鞄を持って扉をくぐり、クラルテと合流した。

 二人並んで歩き出す。談笑しながら進むその速度はほとんど同じになっていた。知らないうちに、お互いがおたがいの速度に合わせるような形で。歩幅は相変わらず違っていたが。

 しばらく歩いているうち、クラルテが突然、口を開いた。

「学校生活はもう慣れたか?」

 エトワールは素っ気無く、はい、とだけ述べた。

 もう少しなにかないのか。

 いつものことだが口数が少ない。これじゃ会話らしい会話も出来やしない、とクラルテが肩を竦めると、向こうは至って純粋な疑問をこちらに向けてきた。

「何か言いたげですね」

「おまえとの会話があまりにも続かないから、どうしたものかと思って」

「え、だって、特に話すこともありませんから……」

 あっけらかんとしている彼にクラルテは大きく溜め息を吐いてしまう。

 そういうところが悩みどころなんだ、おまえの場合は。

 クラルテの考えに及ばないエトワールが素直に困っているようなので、つい面白くなって笑うと切り裂かんばかりに睨まれた。

「そんなに話したいのであれば、クララ、貴方が話題を提供してください。僕は貴方の言うように面白味に欠ける人間なので」

「そ……そこまでは言ってないだろう!」

「言っているのと同じです!」

 ぎゃんぎゃんと吠えては呼応する犬のように騒がしい帰路ももう珍しくない。つっけんどんな割に反応の良い親友を意図せず(意図している時もあるが)弄んでいるクラルテはこんな時間が一等好きだった。

 彼が来る前はいつも一人で帰っていたので、彼のおかげで寂しい帰り道もずっとずっと楽しくなった。白熱するチェスの試合も同年代の友人とすることが出来るようになったし、本当にここ最近のクラルテの生活は充実を極めているのだ。

「おまえが居てくれてよかったよ。エディ」

 クラルテは笑った。エトワールは不審げにこちらを眺めて、聞いてはいけないものを聞く風に問うた。

「なんです、急に……」

「ふと思ったんだ。ぼくの生活の水準をあげたのはおまえで、ぼくを大人にしたのもきっとおまえなんだ。おまえはぼくの先生みたいだな」

 理解できない、と訝しがってこちらを見やるエトワールを余所に、クラルテは続ける。

「ぼくがこうして親友とチェスが指せるようになるなんて思いもしなかった。夢が叶ったっていうのかな。とにかく嬉しいんだ、毎日楽しくて……。やっぱりおまえが居てくれてよかった。おまえでなくちゃ駄目だ。ありがとう」

 クラルテが言い切ると、それきりエトワールは黙ってしまった。


「エディ、おまえの叔父さんはいつ迎えに来るんだ」

 クラルテが自分でやるからとタイの金具を外そうとするエトワールの手を下げさせた。素直に引き下がって、エトワールは言う。

「わたくしも存じ上げません。若様」

 帰るまでの彼はどこへやら、若様、という響きには確かな壁があった。クラルテはそれがどうしても嫌いで、何度もやめるよう言ったが一向に直らない。

「ぼくのことは学院にいるみたいにクララと呼んでくれればいいって何度も言っただろう。主人の命令だぞ、ほら」

 エトワールが首を振った。

「主人に対してそのような口の利き方ではいけないと学びましたので」

 つんとして突き返された言葉は、もう何度も聞いた。それだから今度は少し強めに言ってやろうとクラルテが口を開く。

「ふうん。そうか、それならばおまえは、主人であるぼくの命令よりも、おまえ自身の経験の方がよっぽど大切であり優先されるべきだと考えているわけだな」

「滅相もございません」

 目を伏せて頭を下げる彼に、クラルテはこれは何を言っても駄目か、と思った。しかしいつか必ずそう呼ばせてやる、という決意を密かに胸に忍ばせて。

 おのれと親友である彼がどうしてこうなったか、というのには、話せば長い理由がある。

 エトワールがブランシャールの城に泊まりに来た時のことだ。彼とおのれはこのお泊り会をかなり楽しんでいたのだが、突然、彼の叔父が姿を消してしまっていたのだった。そして次々と届く彼の荷物に当時は驚きを隠せなかった。勿論、彼も。

 そしてあれよあれよと言う間にここでクラルテ専属の使用人として働くことになってしまったのだった。それこそかのように。

 父に聞いても理由を答えてくれなかったようだし、彼の叔父ほど聡明な男ならば理由も無しにこんなことはしないだろう。何か、エトワールにも話せないような深い事情があるらしい。

 いつかは迎えに来るだろうと思い、信じて待ってみたが、一向に来る気配もない。荷物も全てこちらに送りつけてきたというのだから、まず間違いなくエトワールは置き去りにされたということになる。

 父の買った新品のベッドまでも、ご丁寧にこのために用意されていたとも取れるのが、ますます謎を深めるのであった。謎が謎を呼んでいる。

 見るからにこのことを予想していなかったらしい親友は、恐らく前の学校の友人たちに挨拶することもなくここに来たはずだ。かの「翡翠の隣人」とやらにもそうしていないだろうから、気に病んでいるのではないか。

 いや、それよりも彼は……こんなところで、ぼくの下についているような人間なのだろうか。

「おまえはここに居るべきなのか、ぼくには時々解らなくなる」

「お言葉ですが、手紙の文中でも度々わたくしをお側に置いておきたいと仰っていたではありませんか。これは元々、若様が望まれたことなのではないのですか?」

「違う。ぼくは……こんな形でおまえと一緒に居たかったわけじゃあ……。いや、もう、いい。解ったから……」

 クラルテが話を切ろうとしたとき、エトワールがぽつりと言った。

「与えられた場所で精一杯やれ、というのが叔父の教えでした。ですから僕も、ここで精一杯やることにします。貴方との関係が変わろうと、今までの友情や心の繋がりまでもが消えるわけではありませんから。僕は貴方を若様と呼びますが、貴方は僕を変わらずエディと呼びますね。それと同じです」

 この上なく寂しいのを必死に抑えつけているのを隠せない、ルビーの瞳。

 やっぱりそうだ。彼はきっと帰りたがっている。せめて挨拶くらいはさせてやればよかったものを、彼の叔父も顔に見合わず悪魔のような男らしい。

 とはいえ彼のために何かできるかといえばそうでもないのが事実だった。おのれと同じように彼には学校があるのだから、無理に休ませてさあ行って来い、というのも出来ない。そもそも彼は一人で家に辿り着けるのだろうか? それすら危うい。

「エディ、家に帰りたいとは思わないのか」

「思ったとして、この状況ではどうにもなりません」

「それはそうだけれど……」

「ですが、僕の宝物を取りに行かなければならないので、いずれは行くつもりです」

 エトワールは今度、丁寧に磨かれたせいか強い光を宿すルビーでおのれのサファイアを刺激した。クラルテはその光に、眩しそうに目を細めては聞き返した。

「宝物?」

「はい。箱なのですが……ちょうどこれくらいの。貴方との手紙を入れた箱です。どうしてか送られてきていなかったので」

「手紙を出して送ってもらうよう頼めばいいじゃないか」

 解せないのを隠しもしないクラルテが首を傾げたので、エトワールは微笑んだ。

「叔父の顔も見たいんです。そのついでに回収しようかと」

「ふうん。それにしても、一人で大丈夫なのか? 行けるのか?」

 茶化すように言えば彼は眉間にしわを寄せる。口が尖って、じとっとした視線もこちらに寄越した。

「……行けます。一人で、自分の家にくらいは」

 反論しようとしたのをぐっと堪えたエトワールが、冷静を装う。取り繕った笑みを浮かべ、次いでこうも言った。

「これはわたくし個人のことですので、どうぞお気になさらず」

「僕とおまえはもう兄弟みたいなものなのにか」

「兄弟といえど他人は他人であろうと思います」

「干渉されるのは嫌いか?」

「好きではありませんが、別段嫌いというわけでもありません」

 どこまで会話を進めても終始変わらない彼の声色に根負けし、次なる話題への方向転換を思いつく。そういえば彼の手は大丈夫だろうか。痕になっていなければ良いのだが。

「手の具合はどうだ」

「もう十分回復しています。この通り」

 ぐっと握って開くのを数回繰り返し、振ってみせる。うん、確かに大丈夫そうで安心したよ、と伝えると、彼はにっこりと笑った。


 ◇


 柔らかなソファに座っている。目の前の男は返事を待っているらしい。しかしどう返せば良いのか全く検討もつかずに、ただ宙ぶらりんの気持ちと焦りだけを持て余していた。

 彼がこんなことを言い出すのは初めてだった。そして、恐らくはこれが最後なのだろう。そんな顔だった。

「アルベリック……お願いだから、はいと言ってくれ。せめて頷くだけでもいいんだ」

 そんなことを言われても、軽々しく肯定するなど到底出来ない。彼の継ぎ接ぎだらけの笑顔が次第に崩れていくのですら、止めることができないでいるのだから。

「どうしても……どうしても頷いてはくれないんだな」

 おのれはそれを聞いて、静かに頷いた。

 よもやほつれを繕う布も無くなった彼の顔がみるみるうちに悲哀に満ちていく。親友のたった一つの願いすら叶えてやれないおのれのことを、彼は嫌っただろうか。

 彼の瞳が迷いにぶれる。やがて意を決したように、僕は、と始めて、言葉を紡いでいく。

「おまえを……おまえを愛しているのに、愛してはいけない。おまえを独占したいが、それも駄目だ。僕はずっと、おまえという矛盾と生きてきた。おまえももう知っているんだろう。知っているくせをして、それなのに……どうして僕に優しくするんだ」

 ――せめておまえが僕に笑いかけなければ!

 悲鳴にも似たその声は酷く焦燥に駆られていて、普段の沈着な彼らしさの欠片を残してはいない。今にも涙を溢しそうなのを見れば彼の心情は手に取るように理解することが出来る。

 アルベリックの口は弓を引いたように弧を描いた。その目の青はエトワールのひび割れて脆くなったガーネットを打ち砕かんとする矢であった。切っ先を突きつけても尚、何も知らないと白を切る笑み。

 青い瞳の射手は短く息を吸う。エトワールの紅い両の目にはまった宝石が、やめろ、それ以上言うな、と絶叫している。研ぎ澄まされた矢尻にそれが閉じ込められた。

 やめるわけにはいかない。それを聞いた以上、どうして知らない振りなど出来ようか。返事をしなければならないのだ。何十年と蓄積されたそれを、今、ここで。

 ああ、その答えはたった一つだ、エトワール。

「おまえは私の親友だから」

 次の瞬間、あの美しかったガーネットが音を立てて粉々に砕け、キラキラ光る破片を滑らすように落とした。アルベリックの鋭い矢の刃がそれをしっかりと貫いた証拠だった。

 ガーネットの断片たちは、床に転がるとすぐにくすぶり黒くなる。決壊は留まるところを知らず、次々と割れ、零れ、滑り落ちては姿を消していく。

「……酷い男だ。おまえは……」

 自嘲混じりの消え入るような声と共に、彼がゆらりと立ち上がる。俯いたその顔は見えない。部屋を出ようとする彼を追い、アルベリックはその力無い細い腕を掴んだ。

「また会いに来るだろう、エトワール。まさかこのまま、どこかへ行ったりしないだろう」

 いっそ白々しいまでの本心だった。彼は俯いた顔をふと上げて、弱弱しく微笑んだ。

「そうだね」

 まるで抜け殻にでもなったような中身の無い台詞。乾いた涙の跡が白い頬に線を引いている。

 いつまでも美しいままのエトワールは掴まれた手を振りほどく素振りも見せず、出会った頃よりも年老いたおのれだけを、その目にぼんやりと映していた。

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