第二章 Red Letters

春との再会

 十二歳の誕生日を迎えた時の誕生日プレゼントは、「ブランシャールでの旅行」であるのを聞かされていた。精々二泊三日程度、長くても四泊五日、もう少し取るならば一週間か。

 ブランシャールの城に泊まるのは初めてだった。九歳のあの日から一度も行っていなかったここは、何も変わらずぴかぴかだ。

 年代ものの家具達でさえ、未だ現役だと言いたげに立っている。随分使い込まれているのにも関わらず、出来立てのような美しさで。

 窓枠、床、階段の手すりから、ベッドの下はもちろん、クローゼットの中に至るまで、ここには存在しえないかのように塵一つない。どれを取っても完璧なまでの美しさに圧倒されつつ、完成されすぎているが故の生活感の無さは拭いきれないでいた。

 こうも肩身の狭い家など他にはない。どこもかしこも秀逸な美。髪の毛の一本さえ、落とせば牢屋にでも入れられてしまいそうなほどの。

 牢屋に入れられては堪らないので、落とさないようにと頭を押さえつつ、ゆっくり足を乗せる。

 たん、たん、たん。

 青い絨毯の敷かれた階段を下りる。もう片方の手に本をどっかりと座らせながら、何かから隠れるように用心深く下っていく。

 手すりを触るのは止そう。汚したらいけないから。

 ぴかぴかの手すりに触って垢でも付いた日には、八つ裂きにされてしまいそう。というよりも、単純に気が引けるからだ。あまりにも綺麗なものを汚してしまうのには誰しも抵抗があるだろう。おのれも同様にそうだった。

 こうして広い階段の真ん中を通れているのは、ここに誰も居ないから。誰に気を遣う必要もないので、こうして王のように堂々と中央を通ることができる。もし他に人が居たのであれば、おのれはもっと端を通っていたはずだ。

 す、と最後の段に足をかけ、歩き出す。そうするとそろそろあの中庭が見えてくる。柱の間をすうっと通る風が冷たくて、思わず触られた頬を撫でる。

 今朝、叔父に手を引かれここを通ったときは上着を着ていたのだが、生憎置いてきてしまった。持っていきなさい、と言われたのに断ったのは失敗だった。

 長袖とはいえ薄い麻のシャツでは肌寒いので、開けっ放しにしていた袖のボタンも留めてしまう。これで少しは寒くなくなるだろうか?

 中庭と廊下には境界線のような柱が等間隔で立っている。柱の裏側には流石に光も回っていけないらしく、廊下はほんのり薄暗い。

 影で出来たような廊下と光に包まれた中庭は、なんとなく現世と異界を思わせるようだ。天国や地獄があるのならきっとこういう感じなのだろう。勝手な想像に過ぎないが。

 目的地は親友の部屋だった。今日から寝泊まりする部屋に行く、ということだ。『折角だから友達と寝なさい』と叔父に言われるがまま、別段嫌でもなかったのでこうなった。

 中庭を抜け廊下を進む。角を曲がって、螺旋階段を下りる。

 さっきまでの薄暗さに慣れていたせいかシャンデリアの光が眩しい。それでも室内は外よりも幾分か暖かいので心地好い。距離があるせいか多少息が上がっていたから暑く感じるくらいだ。袖のボタンを外して、まくる。

 くるんとした階段はこれ以上曲げると酔ってしまいそう。ぐるぐるして目が回るのは好きではないけれど、これくらいならまだ大丈夫。

 階段を下りたときのように恐る恐る歩いて、いくつかの部屋を通り過ぎたところで、ぴたり。足を止めた。

 こん、こん、こん。

 ノックを三回、声を掛ける。すぐに誰かを確認する声が聞こえてきた。

「クララ。僕、エトワールです」


 手に触れているひんやりした金属を撫でた。おのれの熱を分け与える気分で。

 窓枠に掛けられた手は大きくなっていた。大きいといっても、同年代の子供よりは随分細かった。夕焼けの炎に照らされているからかもしれない、肌も幾分か健康的になっている。

「空を見ているのか、エディ」

 今日からの同居人が声を掛けたので、エトワールは振り返った。以前に増してひやりとした赤い目が相手を刺す。それに気にせず彼は──クラルテは、隣に立つ。

「そうです」

「夕方の空なんか見ても楽しくないんじゃないか」

「見ていれば楽しくなります。すぐに」

 言われるまま白い壁紙から切り取られた夕暮れのオレンジを眺める。クラルテは何が楽しいのか解らないままでいたが、やがて見るのに飽きてしまって離れた。エトワールは特に気にも留めなかった。

 クラルテはもう十四歳になる。背ははじめに会った頃よりずっと伸びて、足はすらっと長い。亜麻色の髪はより色鮮やかに輝きを増していた。唯一、サファイアブルーの瞳だけは変わらず美しい。

 今度、クラルテは客人の背中を眺めることにした。空に価値を見出だすことは出来なかったが、親友のことは価値あるものだと認めていたため、それの方が良いと思ったのだ。しかしクラルテはあまり同じ事をしていられない性格だったので、それもすぐに飽きた。

 勉強することや本を読むことなら長時間できるものの、意味もなくじっとしているのが苦手だった。また、エトワールのように空に興味があるわけでもない。美しいことには美しいが、はっきり言えば、どうでもよかった。

 クラルテにとってはそんなことよりもチェスやカードゲームで遊ぶ方がよっぽど好きだったから、エトワールの趣味は全く理解できない事柄の一つだ。絵を見ているのと大して変わらないだろう、とまで考えていた。

 どれもこれも飽きて、蝋人形のように椅子に座っていた。ふと指先が触れたので、サイドテーブルに置かれた親友の本のページを数枚、めくってみる。しかし見えた文字列にさえ興味が失せてしまって、読む前に飽きたときては、もうどうしようもない。

 もっと楽しくて背筋が伸びるような、例えば……チェスみたいなものがしたい。

 ここでクラルテは、あ、と思った。

 そうだ、チェス、チェスをしよう!

 クラルテは良いことを思い付いた、とばかりにエトワールを呼びつけた。どこからか出してきたチェス盤を広げながらエトワールを前に座らせ、駒を並べ始める。

 突然呼ばれ、面倒だというのを隠しもしないエトワールはぶっきらぼうに言う。

「なんです」

「チェスがしたいんだ。指せるか」

 これほど大人びた子供なのだからチェスくらい指せるだろうと思い込んでいるクラルテは──これから過ごせるであろう楽しい時間を考えながら──にこにことして返事を待った。

「いいえ」

 えっ! なんだって?

 エトワールが素直にそう答えると、クラルテは吃驚仰天びっくりぎょうてんして、言葉に詰まってしまう。同時にこの子供に出来ないことなどあるのか、と思った。

「指せないのか、本当に? やったこともないのか?」

「ありません」

 再度、しっかり否定されてしまって当初の思惑が外れたクラルテはがっかりした。どすんと背もたれに体を預ける。足を組んで、傲慢極まりなく。

 エトワールはむっとした。人を呼んでおいて、出来ないと解るとこの態度。本を取り上げられたのを思い出して、これは全く変わっていないな、と思った。

 まるで物語に出てくる我が儘な王子そのものだ。

 エトワールが大きく溜め息をつけば、今度はクラルテがむっとする。解りやすく口を尖らせて、恨めしそうな視線も寄越した。元はといえばおまえが悪いんだぞ、とばかりに。

「久しぶりに会ったから遊べると思ったのに、どうしてチェスが指せないんだ」

 子供が駄々をこねるような口振りに、エトワールは思わず、ぷっと吹き出す。

「そんなに僕と指したいのなら、教えてくだされば良いじゃないですか」

 あ、なるほど。

 解らないなら教える、というのは基本的なことだ。それに、この少し生意気な親友に何かを教えるとあればきっと自分への尊敬も生まれるはず。こんなに賢いのだから当然、おのれを敬うことも出来るはずだった。

 そう考えれば穏やかな気持ちで相手と接することができよう。この少年よりも自分の方が歳上であるのをすっかり忘れていたらしい。

「じゃあ、教えてやるから、その後はぼくと指そう。いいかな」

 この提案を断られる、といった可能性は一切捨てきった笑みだった。かつ、名案だろうと自信もたっぷり添えて。

 照明のように素早く切り替わるクラルテは、年齢にそぐわない幼さを感じる。しかし恐らく父親に対してそうはしないのだろう。ずっと変わらない彼のままで。

 エトワールはもう、大きな子供を相手にしている気持ちになっていた。だからクラルテの純粋な期待を裏切るようなこともしようとは思わず、彼が思うままさせる。そもそもエトワールも彼の意見に賛成だったので、そのまま頷いた。

「よし、決まりだな」


 それから夕飯まで、クラルテ先生のチェスの授業は終わるところを知らなかった。エトワールも普段からそうなせいか随分と熱心に聞くので、先生の話はどんどん長く、熱くなっていった。

「よし。これでもう、ぼくとチェスが指せるはずだろう」

 欠点の無い説明をしたから、これで完璧だ。

 クラルテは未だ興奮冷めやらぬ様子で、エトワールを見つめた。楽しい夕食の後には多少の運動もしなければ。

「そうですね」

 素っ気無い、ひんやりした声だ。

 クラルテはそれも気にせず、それならば今すぐにでもやろう、といった風に口を開く。しかし相手がそれを良しとしなかった。言う前に素早く遮って、ですが、と付けた。

「今夜はもう遅いです。時計を見てください」

「うん……。でも、出来ないことは無いんじゃないか」

「出来ないことはありませんが、必ず決まった時刻に寝る貴方では、少し時間が足りないと思います」

 確かにその通りだ。

 一瞬納得しかけたクラルテだったが、あることに気がついて、にやりと笑った。

 しかし、この子猫のように可愛らしく椅子に鎮座する親友……。意外と自信家なようだな。

 どうだ、ぼくが少し小突いてやれば、動揺の一つでも見せるだろうか。

「おまえと指すのには寝るまでの時間でも足りない、と言いたいわけだな。随分な自信じゃないか。ちょっと聞きかじっただけなのに」

 エトワールは驚いて、すぐに首を振る。

「そんな、違います。そうではなくて。貴方の考える時間はそう長くないでしょうが、僕はそうではありませんから。例えば僕が一手を考えるうち、貴方は何手先でも読めてしまうと思います。つまり……」

 必死に弁明せんと口ごもる親友は、今だけは年相応な少年だ。どれだけ大人のような口振りで話していようとも、結局のところはまだまだ子供なのだ。

 クラルテは微笑んだ。手紙の中からは想像できない彼のそのままの姿がこれなのだろう。彼の幼い部分を自分はあまりにも知らなかったので、笑みを堪えることなど到底出来そうもなかった。

「ああ、解った、解った。ぼくが悪かったよ……。フフフ……。ああ……はあ……。気が変わった。やっぱり明日にしよう。ぼくにも準備が必要だから」

 そう言うと見るからに安堵した表情を見せたのも面白かった。長らく会っていなかった上に、一日限りの出会いなものだから、彼の表情の変化はさして解らなかったのだが。こうしてみれば、ころころ変わるものだったようだ。

 文面からは決して想像できない人物像。自分だけしか知らないような親友。

 つい嬉しくなって、もうちょっと悪戯してやりたくなったが、無理に押さえ込もうとした。

「何を笑っているんですか」

「おまえが面白いから」

「面白がるようなことをしたつもりはありません」

「まあ、そう怒るな。手紙から想像していたおまえとは全然違うんだってことが面白かったんだ。ぼくはおまえを見て俳優のようだと思ったよ。エディ、おまえの寄越した手紙はさながら仮面だ。だけどおまえは、そんな仮面を着けているわりには、意外と幼い」

 エトワールは何がなんだか解らないようで、訝しげにこちらを見た。

「そうだ、どうせ時間も余っているのだから、何か話そう。夕食はどうだった。おまえの家とそう変わらないだろう」

「いえ、僕の家の夕食はあんなに豪華ではありません」

 彼はもう一度首を振って見せる。柔らかい髪が小さく揺れて、ふわり。

 すると、クラルテの中の悪魔がここでも優しく囁いた。しかしそれに耳を貸してしまえば最後、また……。

「そうか。それなら、味はどうだった。いくら豪華さで負けていようとも、おまえの家の方が美味しいか」

 見事な笑顔だった。悪意の無いような、花の立派に咲くような、実に秀麗な笑みだ。

 しばらく目線を彷徨わせる。

 やがて答えに窮したらしいエトワールは、みるみる内に、かあっと赤くなって、お盆をひっくり返したみたいに甲高い声をあげた。悪魔の囁きを受け入れたおのれへの非難じみた声色でもある。

「か、か、か、からかわないでください!」

「こら、あまり大声を出すと迷惑になってしまうよ」

「だ……誰のせいだと!」

 今にも掴みかからんとばかりにこちらを睨みつける親友は、あまりにもいじらしく幼い。それでも手を出してこないのがいっそ子供らしさを演出するようで、ますます腹に力を入れなければ決壊しそうだ。

「もう、もうっ……もう寝ます。話しかけないでください。貴方のことは少し嫌いになりました」

「冷たいことを言うな。これから一緒に過ごす仲じゃないか、なあ」

 こういうのには慣れていないらしいエトワールが、堪えきれず、といった様子でベッドに潜り込む。やがて大きな溜め息が聞こえてきた。

 やり過ぎたのを反省しながら、クラルテも床に入る。エトワール用のベッドはわざわざ父がこの日のために買ってくれたらしく、真新しい。彼はこれに気が付いているのだろうか?

 しばらく経つと穏やかな寝息が聞こえてきた。上体を起こして隣を見れば、すやすやと眠っている。なんとなく見当がついていたが、寝付きが良いらしい。

 クラルテは他人のベッドで寝たことなど無いので解らないが、話によれば、見知らぬ寝床では寝られない人間がいるのだそうだ。しかしこのぬいぐるみのような親友はそうではないらしかった。

 ぼくも寝よう。明日はチェスの試合があるから。

 いつもよりちょっと早い就寝をするため、クラルテはサイドランプを消す。部屋はぼんやりとした光のみとなった。部屋が暗くなったのを確認してから目を閉じる。何かを忘れている気がしたが、それが何なのかもすっかり忘れてしまった。


 窓の外から月が自身を溶かした欠片を投げ込んでいる。雲が前を通る度、波のように引いていく。クラルテの亜麻の髪はなんとなく金髪に近付いている気がした。月が穏やかに光を寄越すせいなのか。

 この部屋に月光が射し込むのは久しぶりだ。彼がカーテンを閉めるのを忘れて寝るのは珍しいことだった。しかしそうしてくれるのであれば好都合だ。開け放たれた窓から風が入ってくる。カーテンはそれを受け止めて膨らんだ。

 ミルクティー色の長い髪を掬い上げて流す。

 さらり。

 軽く、細い髪が指の間を抜けていった。クラルテはむずがるように寝返りを打つ。

 そのとき、青白い月光がベッドに腰掛ける影の正体を暴いた。太陽に熱く焼かれ焦げたような黒髪から、暗褐色の虹彩が覗く。それはなんとも妖しい、魅力的とも取れる輝きを孕んでいた。

「種明かしはもう少し先にしよう。すぐにばらしたんじゃあつまらないから、お前がこれにもっと肩入れしたときこそ、正体を暴いてやろうじゃないか」

 赤黒い瞳が、すうっと細まる。ずっしりと重たい黒髪は艶やかに煌めいて、病的なまでに白い肌とよく調和していた。光を受け入れたように白く、ともすれば生気を感じない皮膚。

 冷たく細い指がクラルテの頬を撫でる。軌跡は無かった。

「今でもブランシャールの歴史は好きか。それならば俺が、お前をその主人公にしてやってもいい。この世でただ一つの本にしか存在し得ない悲劇的な物語だ」

 クラルテは何も答えなかった。


 赤塗れた死神よ

 荒れし神たる嵐の中で

 誰が青く輝く星を 掴むことなど出来ようか


 見上げし星の一粒も

 暗雲立ち込める我らが母に

 どうして一縷差すこともせぬ


 おまえは生くのか

 神のみ恵みから外れんこの地を

 零れた星の一片ひとひらさえも

 残さず持つには足りぬ手で


 おまえは駆けるのか

 紫紺の空

 水の枯れた地

 癒えぬ傷 繋がれた足で

 どこへ行くことが出来ようか


 おまえは飛ぶのか

 闇の中 絶えず呼ぶ声に身を任せ

 夜の調べを掻き分けて


 血塗れたこの手で手折たおりし花も

 やがて心臓へと還りゆく


 赤塗れた死神よ

 おまえは星の声を聞いたのか

 まばゆく消えぬあの光 青く塗られた魂を


 我が神なる光芒よ

 今ひとすじの光で 内なる闇を穿つまで

 彼が呼んでいる 我らが母への恵みの元で


 我が神なる光芒よ

 われら今 暁の主となり

 いざ行かん あの星へ

 我が神なる光芒よ

 われら今 永久とこしえの誓いより

 いざ往かん この空を


「もうすぐ夜が明ける」

 月光が照らしていた影は消えた。同時にそれも一緒に消えてしまった。

 部屋は完全な闇に包まれることとなった。カーテンで月の欠片を追い返し、窓は一切の動きも無かったとばかりにぴたりと閉まっている。何も変わらない。何もいなかった。


 ◇


 扉が開いた。

「エトワール」

 どこに行ったのかと思ったよ、と言うには随分厳かな声色だ。一人夜風に当たっていたエトワールは、ぱっと笑顔になって振り返った。

「やあ、アルベリック。どうしたんだ、怖い夢でも見たのか」

「違う。ただ……」

 彼の言いたいことはなんとなく解っていた。声色から、顔つきから、推測は容易だ。しかしそれに気付かない振りをするのがエトワールだった。彼の前ではただ、でいたかったのだ。

「ただ?」

 辛抱強く待つつもりだった。それを引き出すのも野暮だから。

 アルベリックは逡巡しゅんじゅんして、困ったように微笑む。どうやら待たせるつもりも、言うつもりも無いようだ。

「……いや……。エトワール、隣に座っても構わないか」

「勿論」

 静かな夜だった。北部よりも数が少なく感じる星は、北部と同じように瞬いていた。柔らかな風が頬を撫でて、おのれの髪を空に溶かす。

「お前はこんな風に空を眺めることも久しぶりなんじゃないのか」

 アルベリックの目を射抜くように見つめた。彼の海ほど青い瞳に、おのれの石榴がぼろぼろと浮かぶようだ。

「忙しさに打ちひしがれる暇も無いものだから、確かにそうだ」

 彼が一息ついて空を見上げる。その横顔のなんと美しいことだろうか。銀灰色の長い髪が揺れるのさえ記憶に残って、目を離せないでいる。するとアルベリックが急に吹き出して笑うので、エトワールは面食らった。

「あまり見詰められると恥ずかしいよ」

「あ……いや、そんなつもりは無かったんだ。すまない」

 本人に指摘され、弾かれたように顔ごと目線を外す。大袈裟なまでの反応に彼は微笑んだ。

「謝るな。私よりも星の方がお前の目を引くだろうに、光栄だ」

「そ……」

 そんなことはない。

 言いかけて、あ、と思った。

 やめよう、こんなことを言うのは。なにしろ僕はもう決めたのだから。

 突然、時の止まったエトワールのことを彼は何も言わず待った。まるで、お前の口から言わないのなら聞かない、とでもいう風に。エトワールはアルベリックのそういうところを好んでいた。解っているくせに、と勘繰るのは馬鹿らしい。

 しばらくの間に耐えかねたのだろうアルベリックが口を開いた。

「エトワール、お前の甥の制服がそろそろ届くそうだ」

「そうか! ありがとう。はやく見たいな」

 今年甥が入学することになっているテルセッタ学院の制服は、中等部、高等部とで違うが、そのどれもが全て礼服のようなデザインだ。例えば中等部のジャケットは短くカットされているが、高等部は逆に燕尾服のように長かった。

 ――学院内、中庭にある薔薇のアーチをくぐり、白い煉瓦れんがの道を進む。晴天の色を靡かせ、軽い足取りで、緑溢れるそこを行く。可哀想なほど細い腕に重い本を抱え、ゆっくり読めるベンチを探す。

 あまりにも想像に容易い。エトワールは、くすっと笑った。

 冷たい雰囲気を纏う甥にかっちりとしてフォーマルな制服はさぞ似合うだろう。どうか自分の葬儀にはそれを着てきて欲しいな、とまで考えてやめた。

「その顔はまた変なことを考えたな、エトワール」

「ああ、どうしてばれてしまうんだ?」

「何年会わなくとも解る。お前の親友という肩書きは嘘ではないから」

 エトワールは驚いて、口を開いたまま固まってしまった。

「さあ、戻ろう」

 置いていかんばかりに腰をあげたアルベリックに気がついて、はっと我に返ったエトワールも立ち上がる。月もほんの少し傾いている夜だ。


 ◇


「よろしくお願いします」

 二人揃ってお辞儀をした。対戦相手への敬意を表しているのだ。

「どちらが先にやるかは、コインで決めよう。表か裏か、好きなほうを選んでいいぞ」

「僕は裏を」

「それならぼくが表だ。さあ、いくぞ」

 ぴん、と軽快な音を立てて弾かれたコインが宙を舞う。そのまま下に落ちる。それをクラルテがしっかりと掴んだ。

「裏だ」

 開いて見せた手の上には、国王の横顔が彫られていなかったので、裏側だとすぐに判断出来る。つまり、エトワールが先攻というわけだ。

「ルールはちゃんと覚えているか?」

「ええ、まあ。ですが貴方の相手になるかどうか……」

「昨日はあんなに自信満々だったじゃないか」

 クラルテが茶化して言うとエトワールは不快そうに顔をしかめる。

「でも、そうだな。ぼくは楽しければそれでいいんだ。で、ぼくはおまえとやることなら何でも楽しい。この意味、解るだろ。だから深く考えるな」

 意外と考えすぎるやつだな。クラルテが苦笑いしているうち、相手は奇妙な顔をしていた。

「どうしたんだ」

「貴方も意外と大人のようなことを言うんですね」

「な……なんだと」

「勘違いしないでください。貴方のことを見直したんです」

 それってぼくのことを子供だと思ってたってことだろう!

「勘違いする余地も無くそのままじゃないか!」

「え、そうでしょうか」

「むしろどこで勘違いするんだ……」

 心底驚いた、そう言いたげな顔だ。そんな顔をされては怒るに怒れず、なんとなく空気が抜けてしまう。

 まったく、憎めないやつめ。ぼくじゃなかったら殴られていたかもしれないぞ。

 さて、そうこうするうち、エトワールは初めの一手を決めたようだ。

 突っついても無視をされそうなほど神妙な面持ちで、ポーンをE4に進める。タン、と軽快な音を立て、一人の兵士として立ち上がる。

 一方のクラルテはあらかじめ決めていた手を打った。クラルテが余裕たっぷりなのは明白だ。二つのポーンが盤上ですれ違う。そうするとエトワールはまた頭を抱えてしまった。

 クラルテは待った。急かすことも、茶化すこともしない。父にそう教わったのだ。

「次は……」

 躊躇って、進める。自信のない控えめな音が鳴る。クラルテは次もすぐに打った。至極堂々とした態度に圧倒され、萎縮してしまったエトワールが顔を俯ける。

「顔を見せてくれ」

 親に怒られた子供のように体が跳ねた。恐々とゆっくり顔を上げた。この場のクイーンである彼のサファイアブルーには、酷く困惑した、泣きそうな顔のおのれが映っている。

「深く考えすぎだと言ったばっかりなのに、どうしてそうなんだ」

「あ……」

「ぼくが思っていたよりもずっと難しく考える癖があるみたいだな。エディ、おまえははじめから完成形を求めているのか? おまえのやりたいようにやったらいい。だけど完璧を求める前に形を作らなきゃ」

 クラルテが身を乗り出してエトワールの頭を撫でる。

 反動で動いた駒が喧嘩しているのをさっと戻したクラルテは、震える子猫を怯えさせないように優しく微笑んだ。

「ぼくはいくらでも待つよ。得意だからな」

 はく、と空気を食む。予想だにしないことが起こりすぎたためか脳の処理が追いついていない。エトワールはそのまま、石像になってしまった。


 宣言した通り、クラルテは主人を想う犬のように待っていた。やっとエトワールが動き出した頃になっても、多少身じろいだくらいで、他の動きなどは一切していなかった。

 意を決したエトワールが次の手を打つ。クラルテは、やっとか、と駒を進める。しかし次の一手は随分と早くやってきた。

 タン。

 驚いてエトワールを見ると、まだたどたどしいものの、少しの自信を感じる瞳をこちらへ向けている。この一手も悪くない。流石は呑み込みの早い神童だ。

 クラルテは次を打った。向こうも負けじと置いてくる。

 早いな。

 あまりの変化ぶりに我慢できず、問うた。

「急にどうしたんだ」

「貴方に言われて少し考えました」

「それで?」

「僕は戦うことを知りませんが、面白いですね」

「そうだろう!」

 クラルテが嬉しそうに笑うのを止めるように言った。

「貴方が僕に驚く顔がとても面白いです」

「なっ……な、なんだと! チェスの話じゃないのか!」

 こんな時でもエトワールは至って上品に笑うらしい。まるで薔薇だ。控えめだが存在感のある薔薇。薔薇らしからぬ色の髪を持っているが……。

 くすくすと笑うのと一緒に伏せられた長い睫毛まつげが揺れて、しかし間から見える赤い瞳は確かに燃えている。静かでも熱い炎だった。

 その色の好戦的なのを感じれば、こちらも呼応して体の芯から疼くようだ。あの虫も殺せなさそうな大人しい子供からは想像できない、なんとも言えない艶かしさに似た感覚。持て余す前に、クラルテは駒を手に取った。

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