きみの誕生日

「来週のはじめ、ぴったりに着きますか」

 クラルテがいつになく真剣な表情で聞くので、勿論、と返した。

 もう今からでは間に合わないかのように言っているが、彼がいつもよりずっと早く手紙を書き終えていたのを知っている。その上今日出しても少し余るくらいだった。

「では、お願いします」

 いそいそと手紙を提出するクラルテは格段に緊張した面持ちで、アルベリックさえ緊張してくる。

 親友の誕生日に手紙を送ることは、果たしてそこまで緊張するものだろうか。いや、するのだろう。クラルテは……する。

 なにしろクラルテのたった一人の親友である彼なのだ。自分が祝われても誰かの誕生日を祝うことは無かった息子だった。だからこそ慎重になって、こうして手紙を出すのさえも落ち着かない。

「失礼致します」

 手紙を出して緊張が緩んでも尚、ぎこちない動作でクラルテが出ていくのを見て、アルベリックは目を細めた。手渡された手紙のすべらかな感触が息子の感情のまっさらなことを連想させる。

 嬉しかった。クラルテの知らないことを教えてくれる友人が出来たのも、クラルテがそれでしか得られない様々な感情を知ったのも。

 来週のはじめはクラルテの先生であり親友の、そんなエトワール君の誕生日だ。


 ◇


 しっかりと背筋を伸ばして座っている。窓から漏れる光が眩しいからとカーテンを閉められてしまった教室は、人工的な光だけを閉じ込めている。

 今日のエトワールは少し違っていた。鼻歌でも歌いだしそうなほど上機嫌で、心なしか髪も艶を増している。瞳はより一層輝いていた。

 それもこれも、この手が抱える美しくカットされた招待状のような手紙を読んでのことだった。

 金のふちが薔薇を成して白い紙を覆っている。これを持ち上げて、折り畳まれた紙を開けば、いつもより自信の無い字が恥ずかしそうにこちらを見つめる。

 黒のインクで書かれた本文は少しだけ文字が震えていて、いつもの彼らしくない。この薄い紙の奥で、どれほど彼が気を張っていたのかが伝わってくる。

 しかし書かれた字の自信のなさとは裏腹に、いつもよりも深く紙は彫られていた。きっと失敗の許されない一発勝負に対する決意と不安の表れだと思った。

 エトワールはおかしくなって笑った。

 彼はこんなことでも緊張するんだ。

「誕生日」

 突然、フィデリオが独り言のように話しかけてくるのにはもう慣れた。フィデリオは、たった今思い出した、というような顔だった。

「そうです」

「誕生日おめでとう。ハイゼンベルク」

 橙のジルコンがダイヤモンドのように煌めいた。フィデリオが笑うと宝石のようにきらきらになる。それももう慣れてしまった。

「ありがとうございます。ボルシュさん」

 にこやかに笑うエトワールに、フィデリオは悪戯っぽく笑うと、あらかじめ用意されていたのであろうプレゼントを提示する。

「フィデリオ・ボルシュをフィデリオと呼べる権利をあげよう」

「はぁ」

 こちらが特に気にもしていなかった呼び方を、フィデリオは気にしていたのかと思うと面白い。とはいえ折角の好意……のようなものを足蹴にするのも失礼だろう。それに使える権利を使わないのも勿体無い。

「ありがたく受けとります。嬉しいです。フィデリオ」

 彼は満足そうに頷いた。橙の髪も嬉しそうに揺れた。

 フィデリオがあまりにも嬉しそうだったので、それでいいか、と考え直した。勿体無いとか、失礼だとか、そういうのよりも彼が喜ぶならそれでいい。自分の行動で誰かを喜ばせることができるなら、それ以上のものはなかった。

「よく続くね」

「意外と楽しいんです」

 視線が手紙に注がれていたので、すぐに文通のことだと理解する。するとフィデリオは興味無さそうに、ふうん、と返した。


 ◇


 履き慣れた革靴に足を入れる。磨かれてつやつやのそれには、金の金具で留められた細いベルトが二本架かっていた。

 コートは着ない。今日は特別暖かく風も無いのだから必要がない。元気に登校した甥のことを思い出して、口元が、ふ、と緩む。

 髭の生えていない顎から下は、手以外の露出はない。あまり焼けていない首もきっちりとボタンが閉められて閉じこもっている。それから飛び込んでくるのは品の良い青の上着だ。

 さらっとした生地のラペルド・ベストは首を覆い隠す白いシャツによく似合う。薄縹うすはなだで染められた生地に、青藍が波のように押し寄せて広がっている。波打ち際には等間隔で、四つずつの金のボタンが控えめに座っていた。

 染みの一つもない純白のズボンは革靴の上に平気な顔で乗っている。気にも留めていないらしい革靴は変わらず輝くばかりの艶を見せている。

「それじゃあ、行くか」

 それを合図に扉が開かれる。重厚で大きな扉が、嫌がるように音を立てて、まばゆい光を玄関に取り込んだ。見送りの挨拶も程々に歩き出す。

 水気の多い青の絵の具で染めたような空には境界の曖昧な雲が浮いていて、特にどういった物に似ているか、というのも判別がつかなかった。流れが止まって見えるほどゆったりした空だ。

 思った通りそれほど寒くはない。これなら色々見て回れるだろう。

 何を隠そう、甥へのプレゼント選びに出掛けているのである。

 甥の誕生日までには考えておこうと思ったそれは、結局のところ当日まで決まらずにいた。なにしろ甥の欲しいものが解らなかったのだ。甥は年相応にあれが欲しいだとか、これが欲しいだとかを言わない子なのだ。

 候補はいくつかある。まず、甥の好きなものと言えば何だろうかと考えて、はじめに思い付くのは料理。次は本、あとは空……。


 あげてはみたものの、空は難しい。空の絵ならまだあげられるかもしれないが、今回のはもっと実用的で長く使えるものがいい。それに、まだ年端もいかない子供にあげるようなものではないと思う。

 料理なら、きっとコーヴァンさんのとびきり美味しいのが食卓に並ぶはずだ。それも今日は特別な。

 消去法で、ここは無難に本はどうだろうか。最近はクラルテ君の影響かクロティア史についてよく聞いてくるので、そういったものなら喜ぶかもしれない。

 ここまで考えたエトワールは、あ、と思った。

 甥の記念すべき十歳の誕生日。生まれてから初めての切りの良い二桁である。

 そんな日に自分が教えることも出来るような内容の本ではつまらないのではないか。これから先も使える物を、という観点で言えば、もっと何かあるだろう。

 とはいえ本以外となると余計に何をプレゼントすればいいのか悩む。事前に聞いておけば良かったものの、特に何も、どころか要らないとすら言われてしまう気がしたのでやめた。誕生日にはプレゼント、というのは自分の中で当然だった。

 考えながら歩いているうち、商店街が見えてくる。こちら側から入ると、レストランが左、雑貨屋が右だ。それから左側、四軒先にはあの花屋がある。

 この間甥に赤いラナンキュラスを買ってあげた花屋には、今日は寄らないことにした。きっとコーヴァンさんが甥のために花を買っている。

「エトワールさん、今日はどうしたんですか? また触媒を?」

 聞き覚えのある声だったので、すぐにぴんときた。

 みずみずしいメロン色の髪に、それが植え付けられた土の色の目。すうっと垂れた目尻は優しいのに対し眉は立派だ。ちょっと不思議な出で立ちの後輩の彼。

「トゥレイタ君か。今日は甥の誕生日プレゼントを買おうと思って」

「ああ、なるほど。甥っ子さん、いくつになるんですか?」

「十になるんだ。今日で」

 聞くと、彼は驚いてしまった。一つにくくられた長い髪が驚いて揺れる。

「今日で? 大変だ! はやく選びましょう。はやく!」

 押されるように急かされてしまったので、慌てて歩きだす。その間にも彼が矢継ぎ早に質問を浴びせるので、堪らず声を上げてしまった。

「そ……そんなに急かすことはないだろう!」


「買うものは決まってるんですか?」

「いや、まだ決まってないんだ。何をあげたらいいのかいまいち解らなくてね」

「むう。それは困りましたね。ちょっと待ってください。捻り出しますから……」

 言うと彼は、いかにも考えています、といった風に腕を組む。ぶつぶつと独り言を漏らしながら、うんうんと呻りはじめた。

「甥っ子さんの好きなものとか……いや。そんなのだったらエトワールさんはもう考えているはず。だったら趣味とか――」

「それだ」

「えっ?」

 エトワールが突然遮ったので、トゥレイタは驚いて間の抜けたような声をあげた。エトワールはそれに気付かず続ける。

「それだよ、トゥレイタ君! ありがとう。もう決めたよ」

「えっ、ええっ……! よ、良かったです。うん……? あ……はい! 力になれて良かったです!」

 状況がよく呑み込めないまま置いてけぼりにされたトゥレイタはへらっとして、元気よく返事をした。恐らくなんとなくで笑っている。

「それで、何にしたんですか?」

「箱にしたよ」

「箱」

 それも想像もしていなかった物だったらしく、急に固まってしまう。

 彼の疑問符で埋めつくされているであろう頭を整理してやろうと理由を話すことにした。エトワールがそうなように、きっと彼もそうだろうから。

「あの子は最近、文通を始めてね。手紙を入れる箱にしようとおもったんだ」

 トゥレイタは、ああ、なるほど、と納得したらしい。

「箱なら他のものも入れられますもんね!」

「うん、その通りだ」

 理由が解ったことですっきりしたのか、今度はエトワールの背を押して進む。

「理由も買うものも解ったところで、行きましょう、買いに! はやくはやく! 帰ってきちゃいますよ!」

 う、と詰まって、エトワールは困り果ててしまった。

 こんなに早く帰ってくるはずがないのに……。

 それでも彼がぐいぐいと押してくるので、転ばぬように歩き出すしかない。

 ゆったりした態度とは反対に、彼は非常に単純で、とてもせっかちだ。だからぱっと切り替えられて、すぐに悩む。愛嬌があるしそこが良い所ではあるが。

「だ、だから……。そんなに急かさないでくれないか? ううん、参ったな……」


「エトワールさん!」

 今日は比較的暖かいとはいえ肌寒いだろうに、外で待っていてくれた彼が、ぱあっと笑顔になる。人懐こい、柔らかなものだ。

 手に持ったプレゼントを見た彼は、ぽろんと感想を溢した。

「コンパクトで良い感じですね」

 綺麗にラッピングされたそれは、エトワールの合わせた両手から指が四つ出る程度の大きさの箱。手紙以外のものも入れられるようにと少し大きめのものを買った。甥がこれを見て喜ぶのを想像すると嬉しくなる。

「気に入ってくれると良いんだが」

 視線を落とすと、綺麗な青のリボンに行き着く。

 プレゼントのラッピングを解く時の、あの感覚は堪らない。エトワールにも経験がある。だからきっと甥もそうだろう。エトワールも、毎年プレゼントを貰っては開けるのが楽しみだった。

 思い出を辿るうち、九歳の誕生日に行き着いた。

 血のように赤い髪に金色の目、ゴツゴツとした角がこちらを見下ろして──あ、と思った。その時にはもうエトワールの笑みは消えてなくなっていた。すう、と一気に引いた熱が靴底に溜まる。

 不安に思っていると上手く勘違いしたらしいトゥレイタは、焦ったように手をぶんぶんと振って勇気づけてくれる。

「大丈夫ですよ! きっと……あ、いや。絶対! 喜んでくれますから!」


 ◇


「エトワール、おかえり」

 帰ってきてすぐに叔父に抱き上げられて、驚いてしまった。どうしたの、と問えば、ただ微笑んで返される。鼻唄さえ聞こえてきそうな程の上機嫌さに、奇妙な気持ちになって、もう一度聞く。

「兄さん、何かあったの?」

「今日はエトワールの誕生日だろう」

 叔父が歩く度、優しくリズムを刻むので、心地よくなって身を預ける。

 彼がエトワールの誕生日を我が事のように喜ぶのはなんだか不思議だ。

 これまで彼の叔父がどれほど甥のことで感情を動かしてきたかを知らないエトワールは、ぷっと笑う。

「僕の誕生日だから、そんなに嬉しそうなの?」

「そう。この家の誰もが、エトワールの成長を喜ぶ日だ。僕だって、嬉しくないわけがないだろう!」

 エトワールの好きな笑みを浮かべた叔父は、部屋の扉を器用に開けて入る。静かに扉を閉めて、それからベッドにエトワールを乗せる。

「僕は……エトワールがこんな風に大きくなって、嬉しいよ」

 膝で立って、おのれを見つめる叔父の目が、すうっと細まる。映る感情が複雑なせいで、真意はエトワールには掴めない。

 叔父はエトワールをいつもより少し強く撫でて抱き締めた。ぐっと抱き込められてただただ困惑する。こんな風にされたのは初めてだった。

 いつもはガラスで出来た人形を抱くようにそっと、優しくそうするのに。

 どうしたの、と聞いても今度は返事がない。肩を叩いても反応しないので首を傾げた。

「兄さん、兄さん、どうしたの」

 言い切ると同時に、微かに鼻をすする音が聞こえてきたので、あ、と思った。理由は検討もつかないが、叔父が泣いているというのだけは理解できた。

 肩が震えて、呼吸を整えようと必死になっている。聡明な彼の嗚咽など一生聞くことは無いと思っていた。というより、叔父が泣くことなどないとどこかで思っていたらしかった。

 ゆっくりと手を回す。それから、とんとん、と叩くと、き止められていたものが溢れだすようにはっきり聞こえてくる。服越しの肩に落ちていく水滴に、叔父の感情を汲み取れない自分を感じて目を伏せる。

 声を必死に我慢して、それでも堪えきれない叫びのようなものがおのれの身を溶かしていく。叔父の大きな背は今はなんとなく小さく感じて、ゆっくりと擦ってやる。

「う……。く……、ううっ、ううう……」

 きっと何も言わない方がいいのだろう。何も言わず受け止めているだけで、彼は満足する。叔父が満足するまでこうしていればいい。どうにもできないことは無理に触らない、というのがおのれの信条だった。

 どうしてか、などという野暮なことは聞くものではない。知りたいわけでもない。叔父としても知られたいはずもない。だからこれで構わない。

 彼の落とす感情が紫の制服を濡らしていく。見えない顔を想像するのは容易くはなかった。ただ一つ言えるのは、彼がどうしようもなく散らかってしまった感情を整理しているということだけだ。

 震えた体で一生懸命息を吸う度に笛のように高い音が鳴る。流れてそのままの涙はエトワールに拭うことは出来ない。

 より一層強く抱かれて、息苦しい。それでも為すがままなのは、何もしてあげられないことへの無力さからだ。

「ごめん。エトワール、ごめん。大丈夫だ。大丈夫」

「わかってるよ……」

 大丈夫なわけがないのを解っている。それでも……。


「エトワール様、坊ちゃま、お食事をお持ち致しました。入ってもよろしいでしょうか?」

 ノックの音と共に声が聞こえた。叔父の呼吸が次第に整う。静かに解放される。ひんやりした外気に触れた。彼に守られるようにしていた体から、寄越された熱が奪われていく。

 叔父の目元は少し赤かった。さっきまで泣いていたというのはすぐに解ることだったが、その顔はいつも通りの彼だった。

「どうぞ」

 震えた声ではない。いつもと同じように通った、変わらない、落ち着く声だ。

「今晩は特別メニューですよ、坊ちゃま!」

 叔父に椅子を引かれたので、座る。感謝を述べると微笑んで返された。それから叔父も席に着く。叔父の一件には猶予が無かったので気付かなかったが、机の上には大きく開いたピンク色の花が飾られていた。

 にこにことしたエコーが料理を運んでくる。まずはスープ、それからパンに、メインディッシュのグラタンだ。

「坊ちゃまはこのスープがお好きでしたよね。それとパン、本日の主役のグラタンです。ソースとマカロニをいっぱい入れた美味しいグラタンですわ!」

 焼きあがったばかりのグラタンはこんがりと焼き色が付いて、歯ごたえのありそうなバゲットは側に控えている。

「それから……このガーベラはわたくし達からのプレゼントでございます。坊ちゃま、お誕生日おめでとうございます。今年も素敵な年になりますように」

 使用人が一同に頭を下げた。タイミングはぴったりと揃って、角度も同じだったので、きっと練習したんだろうな、と思った。

「ありがとうございます」

 言うと、エコーは嬉しそうに笑う。

「それでは、失礼致します」


 いただきますを済ませてから、さて、とスープを手に取った。透き通ったスープを掬いあげると、ふっと湯気を吹き飛ばす。それから口に運ぶ。

 スパイスの効いたそれは、いつ食べても変わらない味だ。たっぷりと入った野菜は食べやすくカットされて、柔らかく煮込まれている。

 染み出した脂が小さく玉を作っていて、掻き回したりして動かすと、くっついたりする。大きくなって離れたり、もっと小さくなってみたりもする。踊る二人がペアを作って、また新しいペアを作っていくように、除け者にされてしまっているように。

 スープの表面のこれはエトワールの好きなものの一つだ。小説を読んでいるのと同じだった。この脂玉の関係性が人間らしくて好きだった。

 最後の一滴を飲み干すと、真っ白なナプキンで口を拭く。拭くというよりは、軽く叩くようにして吸いとらせた。

 先にパンを食べてしまうとお腹いっぱいになってしまうかもしれないので、グラタンから食べることにした。湯気はそろそろ昇るのに飽きてきたらしく、勢いが衰えている。

 焼き目のついたグラタンの左側から手をつける。スプーンで掬おうとすると、上のチーズが焼かれて固まっているせいか上手く切れない。仕方がないのでフォークを使う。

 チーズで蓋をされた下に詰まったホワイトソース。その中に細長いマカロニが埋まっている。それを捕まえて、持ち上げる。外は冷めかけていても中はそうでもないらしく、白い柔らかな煙がほわんと顔を出す。

 一緒に伸びるチーズも面白い。細長い尻尾を必死に伸ばして着いていこうとしているみたいだ。努力も虚しく、ぷつんと切れてしまったが。チーズを乗せたほかほかのソースは決してゆるくはないため、フォークの上で留まっていた。

 あ、あちち!

 はふはふ、口に入れてから暫くは冷まさないといけないらしい。思ったよりも熱くて、火傷しそうになる。

 コンソメで味付けされたソースはメレンゲのようにふわふわだ。口に入れるととろりと溶けだして、スープのようになる。マカロニは少し固く歯触りが良い。

 これもぺろりと平らげてしまうと、エトワールは、ちょっと満足した、とばかりに口元をお上品に拭った。

 最後に取っておいたパンは、今日はイチゴのジャムで食べる。持ちやすいようにスライスされた固いそれに、ピンクの混じった赤いジャムを惜しみなくつける。上から下へ線を引くように動いたスプーンとぶつかって、ざりざりと音を立てるのも好きだ。

 ぱりっ!

 噛むと軽快な音が鳴る。黄金色に焼き上がった表皮。固い殻のようなそれの中には柔らかくて白いクラムがあって、もっちりした食感が楽しめる。

 ジャムのひんやりした感触は、パンの仄かな温かさと調和していた。香ばしいパンとイチゴの甘い匂いが鼻を通って抜ける。春らしい爽やかな甘さだった。

 もぐもぐとよく噛んでいくと、ほんのりした小麦の甘味を感じるようになる。美味しい。

 さて、これも食べ終えてしまったエトワールは叔父を見た。もう食べ終えていたようで、ぱちっと目があう。挨拶をしようと提案されたので、そうすることにした。挨拶をして、その後休憩だ。

「ごちそうさまでした」


「エトワール、こっちにおいで」

 叔父が手招きをした。側に寄るとすぐに、彼の滑らかな額に流れていた髪がおのれの顔にかかるように近付く。理解するよりも抱き上げられる方が早かった。

「改めて、お誕生日おめでとう。エトワール」

 叔父の細く骨張った指が頬を撫でる。少しだけひんやりした指だった。それから髪をくしゃくしゃに乱されて、エトワールはむっとする。

「兄さん、それはやめてよ」

 聞こえているだろうに、叔父はそれには触れない。その代わり人形のように美しい笑みを浮かべた彼が、エトワールを下ろす。机の引き出しを開けて何かを取り出した。

「これは僕からエトワールへのプレゼントだ。開けてごらん」

 エトワールには少し大きくて重たいプレゼント。可愛らしい包み紙から中を想像するのは特に難しくはない。きっと本か何かのはず……。

「は……箱?」

 開けてびっくり、箱だとは。エトワールの予想は綺麗に外れてしまったので、驚きを隠すことができない。目を見開いて驚くエトワールを見た叔父が笑う。そうしてしれっと言った。

「そう。箱だよ」

「何に使うのですか」

「手紙を入れられるようにと思って……。もしかして、気に入らなかったかな」

 叔父が明らかに落ち込むそぶりを見せたので、ぶんぶんと頭を振って返した。

「そんなことないよ。ありがとう、兄さん」

「ああ、良かった! もしもそうならどうしようかと思った」

 あまりにも嬉しそうに笑って撫でるものだから、自分がプレゼントをあげたような気持ちになる。おかしくなって笑えば彼も笑った。

「もう寝ようか、エトワール」

 彼を見上げればあのガーネットがもうすぐ睡魔に盗まれそうなのを知る。これは恐らく彼が眠いだけだろうな、と思った。おのれとしてはさして眠くないのだが、きっと一緒にベッドに潜ってしまえば眠くなる。

 頷くと、手を取って誘導される。そのまま上掛けを持ち上げて、入る。彼も続けてそうした。しばらくすると規則正しい寝息が聞こえてきたので、同じように目を閉じた。


 ◇


「いつまでもそうしてを演じているなら、それでもいいさ。しかしお前の本性がそうでないのは俺が一番解っている。早くボロを出さないか。お前を信じた誰彼の前で、全てをぶちまけてしまえ」

 健やかな寝息を立てる二つ星を眺めては、くつくつと笑って撫で付ける。肥大化した黒い腕が、仮面のよく似合う俳優の首を掴んだ。

「ああ、滑稽と言ったらない! お前のような悪魔がこんなものを手にいれて、人間の真似事だなどと。お前の父親を思い出すようだ。あの男もお前と同じように、お前と、妻とを手にいれて、自らを欺いたものだよ」

 この指一つで締め上げられる首。折ってしまえばそれまでの花のような命。それを大事に育て上げ、一気に捻じきり台無しにする感触!

 アッシュは知らず身震いした。いつしか訪れるこの男の結末を想像するだけで、笑みを抑えきれない程愉快だった。

 疑うことなく美しく、誰よりも優しく、それでもその記憶力と思考ではどこまで行っても人間になれない哀れな俳優。

「いつまでそうでいられるのだろうな。おのれを殺して誰かを生かしていると思い込むのはもうやめろ。お前に出来ることなど、主役を引き立てる脇役だけだ。主役を飾れるのは人間だけなのだから」

 何かに気付いたらしいアッシュが首から手を離す。腕は静かに元に戻った。噛みつけば穴の開きそうなほど鋭く尖った歯がちらりと見えたと思えば、アッシュは大きく笑った。まるで誰にも聞こえないからというように、遠慮なく。

「アハハハ、フフフ……。わざわざ寝たふりをするくらいなら目を開けて聞けばいいだろう! しかし、まあ、お前がどうしていようと、俺は一向に構わないが」

 何も言わない。あくまでも寝ているのを貫き通すつもりらしかった。アッシュは目を細めて、ベッドに腰掛けた。

 二人で寝るには大きいベッド。大人二人、子供一人であればぴったりと収まる大きさのそれ。

「今でも思い出す。お前の父親と、母親と、お前がここで寝て、息をして、笑っていたあの光景。お前はどうだ。もう忘れたか? お前が九歳の誕生日を迎えたあの日のことも」

 膿んでしまった傷口を、もっと深く抉るように、アッシュは話し続ける。

「お前の父親と、お前の母親の顔! それはもう絶望に拍車を掛けたように、幸せな日々は崩れ去ったのだと言うように……フ、フフフ、アハハ……。いや、ああ、ハハハ。すまない、そんなつもりじゃない」

 口先で謝っては堪えきれず笑い出す。いっそ謝らなくてもいいだろうというのに、それでもそうした。

「お前の父親はその後すぐに死んだんだったな。。母親は……うん? どうだったかな……」

 解っているくせに、白々しくおどけてみせる。しかし頑なに口を開こうとしないので、アッシュは、つまらないと言うように大きく溜め息をついた。

「フン……。そうか、そうか。決して喋るものか、喋れば負ける。そう思っているんだろう。解った、俺の負けだ。これ以上やっても効果が無さそうだから、そろそろ俺も寝る」

 玩具を取り上げられた子供が拗ねるような口振りで、アッシュは背を向けた。

「ああ、そうだ。お前の母親がどうなったか、その答えはお前の知るところだろうから、出来る限り早くに教えてくれ。俺とて知っているのに思い出せないのは気持ちが悪いからな」

 暗い部屋では赤黒くなるアッシュの髪が流れていく。月光の入らぬ闇へ向かう血の色。しんと静まり返った部屋の中で、二人眠る星を照らす光。相容れない存在なのは、お互いこそが最も理解している。

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