劣情と友情

 本当に知らなかったのだ。あれほどの精度でそうなってしまうなんて、予想もしていなかった。ほんの出来心で、なったらいいな、の願いだったのだ。本当にそれでしかなかった。

 だから彼が来たときには心底驚いた。そして、ああ、これはおのれが悪いのだ、とすぐに理解した。彼の輝く髪を見た瞬間、彼の煌めく瞳を見た瞬間。


 頬杖をついて、ノートを下敷きにしている。聞いているのか聞いていないのか、それも解らないような態度だ。お世辞にも真面目に授業を受けているようには見えない。

 アデライードは苦笑した。愛しい息子は昔から変わらずこうだった。授業参観だからと他の生徒がしっかり授業を聞いているのにも関わらず、彼はそれを知らないかのようにいつも通りだ。

 他の生徒といえば、ハイゼンベルク、というのは息子の友人らしいのを思い出す。話によると席はフィデリオの隣だ。視線を、す、と動かせばすぐに見つかった。

 一番左の列、その最後尾の窓側に彼は礼儀正しく座っていた。先生の話を注意深く聞きながら、教科書を読んでいる。アデライードが今まで見たことのない珍しい空色の髪だった。

「みんな読めたかな。では、赤い目をした人間のことをなんというか。フィデリオ・ボルシュ」

 呼ばれたフィデリオは、あ、と間抜けな声を出した。それから慌てて立ち上がる。

「魔族です」

 ペンに視線は寄越さないまま手元で弄ぶ。そのまま答えた。どこまでも自由奔放で物怖じせずマイペースな彼を、誰しもが不真面目だと思うだろうな、と思った。

「よく出来た」

 息子のクラスの担当教員であるバージル先生は素っ気なく言った。フィデリオは気にせず座る。

 アデライードとしては息子がきちんと答えられたので、ほっとした。フィデリオは何もかも聞いていないような子供ではないのを再確認したからだ。聞いてないようで聞いている息子を褒めてやりたいと思った。

 先生の態度はアデライードにとってそう重要ではない。学びの精度は息子の成績で数値化され、対応は息子の話を聞けばすぐに解ることだ。元より彼はああなのを知っていたので何も違和感はなかった。


 どうやらここでは初めてクロティアの歴史についての授業をするらしい。しかしクロティア史において魔族は悪い存在である、ということくらいしかアデライードは覚えていなかったので、新しく学ぶ気持ちになった。

 魔族が絶対悪とされるこの国では全土に渡って魔族はほとんどいない。特に「魔族狩り」の本部がある南部では彼らへの対策が多くとられている。クロティアは大陸きっての安全度を誇る国だ。

 しかしそのようなクロティアを何故夫がの国と呼ぶのか、その理由はアデライードの知るところではなかった。これほど安全な国は他に無いというのに。

「魔族は昔から悪逆非道の限りを尽くしてきた。そこに現れたのが、初代ブランシャール公となるアルセン・フォン・ブランシャール」

 若いわけではないが老いているというわけでもない、三十代の先生。ひげは丁寧に整えられている。黒縁の眼鏡が彼の印象をより知的にしていた。茶こけた髪はさっぱりと切られて爽やかだ。

 彼が黒板に文字を書き終えると、フィデリオは静かに頬杖をやめる。書き終えたタイミングでノートを取りはじめた。ペンが動く。

 さらさら、さらさら……。


 はっ。

 気が付くと授業は終わっていた。うっかり眠ってしまっていたようだった。アデライードがまだ子供だった頃、彼女は授業を真面目に聞くのが得意ではなかったのを思い出す。

 今でさえこうして淑やかになった彼女でも、勉学は苦手だった。好き嫌いも勿論ある。息子がそうでなくて良かった。きっとそういうところは夫に似たのだろう。反対にフィデリオの虚弱体質はアデライードのものだ。

 先程まで黒板に文字を書いていたはずのバージル先生は既に居なくなっていた。黒板も彼の痕跡を残さないほど綺麗に消されてまっさらだった。

「フィデリオ君のお母さん、ですよね」

 急に息子の名前が聞こえたので、びっくりした。声がした方を振り返ると、二つの赤い目がこちらを見ている。アデライードは身構えた。今さっきやったばかりの、魔族の象徴たるそれだったからだ。

「ええ。そうです」

「良かった。僕は甥の……エトワール・ハイゼンベルクの叔父です。いつも甥がフィデリオ君にお世話になっているようで、ありがとうございます」

 彼はふんわりと笑った。あまりにも優しい笑顔だったので、彼は魔族ではないな、と瞬間的に思った。真偽は解らないが、まさか本人に聞くのは失礼だろう。なによりもこんなに素敵な笑みを浮かべる人間が悪の象徴なわけがない。

 ああ、彼が「ハイゼンベルクの叔父さん」ね。

 青空と同じ色の髪、真っ赤な目。息子を信じなかったわけではないが、本当に言われた通りだ。フィデリオから聞いていたので、ハイゼンベルク君と同じ髪色なのには驚かなかった。

「兄さん」

 教科書をまとめていたらしいエトワール君がゆっくりと振り向く。それから叔父を呼んだ。

 恐ろしいほど同じ顔だった。ドッペルゲンガーのように。

 アデライードは非常に奇妙な状況になっているのを感じた。同じ顔の双子は見たことがある。しかし血縁で、それもこんなに珍しい髪色なのだ。「子供の頃はこうでした」「大人になったらこうなりました」と言われても信じる。

 彼らが楽しそうに話しているのを他所に自分がどんどん混乱していくのが解った。答えを知っていたのに、彼らが並ぶとどうにもおかしな感覚を植え付けられるのは何故だろう。

「彼女はフィデリオ君のお母さんだよ、エトワール」

 美しい顔が笑った。そうすると下の子が頭を下げる。息子のそれのように小さな口が、はじめまして、と動いた。

「あ、あれ。何かしてしまったのかな……」

 アデライードが返事をしないので、大きな方のエトワールが、困ったな、という顔をした。

 何か……何か言わなければ。

「あ……」

「えっ?」

「貴方……ドッペルゲンガー!」


 ◇


 叔父、甥と母、息子という席で座っていた。真っ白なテーブルクロスのかかった机上には紅茶とアップルジュースが二つずつ。暖かい店内のおかげで氷の入ったアップルジュースは汗をかいていた。

 他にも飲食店があるので人はまばらだ。黄色っぽい照明が穏やかな雰囲気を出している。ゆったりとした空間に流れる音楽は『星の心臓』。

 子供達二人が談笑しているのを横目に、まずは母の方から切り出した。

「ごめんなさい。その……あんなに似ているだなんて予想もしていなかったんです」

 彼女が申し訳なさそうに謝ったので、エトワールはびっくりした。それから慌てて、謝らないでください、と言う。すると彼女は微笑んだ。

 エトワールとしてはもう慣れていたので特に気にも留めていなかったのだが、彼女は申し訳ないと落ち込んでしまったらしい。

「双子みたいだ、とはよく言われるんです」

「そうでしょうね。似ていますから。貴方と、エトワール君は」

 アデライードがフィデリオを撫でた。ふわふわの髪は指通りが良い。しかし撫でられてもすぐに元のくるんとした形に戻る。

 エトワールは楽しそうに笑って、湯気の立つ紅茶に口をつけた。ほんのりとフルーティーな香りだった。

「改めて、いつもありがとうございます。この間フィデリオ君が遊びに来たのも含めて」

「いいえ、こちらこそ。エトワール君がフィデリオと仲良くしてくれるだけでも本当に嬉しいんです」

 彼女の紅を引いた唇が遠慮がちに三日月になった。長く重たそうな金の髪は高い位置でくくられて、彼女が少し動くだけでも揺れる。白い肌に咲いたような赤い花が言葉を紡いでいく。

「お名前を伺ってもいいでしょうか」

 アデライードが聞くので、エトワールは笑顔で、勿論、と言った。

「僕はエトワール・ラスペードと言います。貴女は……アデライードさんですよね」

 彼女はこれ以上ないほど驚いたようだ。名乗っていないのにも関わらずエトワールが言い当てたのを、不審に思っただろうか。

 エトワールとしては彼女の名を聞いたことがあったので覚えていただけだ。慌てて弁明すると、彼女は愛嬌ある笑みで応える。エトワールはほっと胸を撫で下ろした。

「エトワールさん、これからもどうかよろしくお願いします。息子のことも」

 彼女が赤い髪留めが見えるほど頭を下げたのでエトワールは面食らう。

 礼儀正しいというか、オーバーリアクションだな。

 彼女はカップに口をつけた。ふう、と息を吹いて冷ます。昇る湯気が彼女の息に流されて途切れた。


 結局、エトワールとアデライードのお喋りは見事に花畑となって様々な話題が咲き乱れた。

 なにしろこうして二人で話すのは心地がよかったのだ。彼女が意外と勉強嫌いなことや、体が弱いことも知った。流れる音楽を背景に、随分と話しこんでしまっていた。

 気がつけば他の客も居なくなって、いよいよ四人だけになってしまったらしい。時刻は午後四時半を過ぎたほどだ。なのでそろそろ帰ろうか、ということになった。

 甥とフィデリオ君は疲れてしまって居眠りしていた。側に置かれたアップルジュースは半分ほど飲まれてそのままなので、グラスの水滴が涙のよう。氷が溶けて黄色く濁ったジュースは半透明になっている。どう見ても味が薄そうだ。

 隣に座った甥を起こす。呼び掛けてぽんぽんと軽く叩く。彼はむずがるように睫毛を震わせ、ゆっくりまぶたを持ち上げた。そうしてまた閉じる。

 まだ目覚めが完璧ではないようで微睡まどろむ甥が微笑ましい。フィデリオ君のほうも未だ頬杖をついたまま舟を漕いでいる。

「では、そろそろ解散にしましょうか。長々とありがとうございました、アデライードさん」

 ここは僕が払いますから、と席を立つ。彼女が遠慮するのを諭して支払いを済ませ、よいしょ、と甥を抱き上げた。甥は流石に目を覚ましたらしい。

「うぅん……」

「おはよう、エトワール。もう帰るよ」

 甥が未だ眠気の混じった声で返事をすると、起き抜けのフィデリオ君も、うとうとしながら呟くように返した。

「それじゃあ」


 暖かかった店内から一歩出るだけでも肌寒い。甥が震えたのを感じる。その細い腕を取る。

 こうして手を繋いでいると温かい。甥のちいさな手に閉じ込められた熱がエトワールを温めていた。はあ、と吐き出す度に白くなる息を軌跡にして歩く。

 寒さで仄かに赤くなった甥の頬は見た目に反して冷たい。髪が涼しげな色なのも相まって余計に寒そうだった。握る手を強くすると、甥は立ち止まり、こちらを見上げて困ったように笑う。

「兄さん、痛いよ」

 ほんのちょっと緩めると彼は満足そうに前を向いた。エトワールも一歩遅くにつられて笑った。

 夕暮れに甥はあまり似合わない。あの晴天がオレンジの光に汚されてしまうようだった。白い肌に影が落とされるのも好きではない。甥のルビーをより一層輝かせる陽光を消してしまうのも。

 水色に橙色というのは、互いが遠慮しあってしまう組み合わせだとエトワールは考えていた。これが青と赤であったならまだ引き立つものを、水色と橙色ではなんとも言い難い。

 漏れ出す息の白くなるのを気にせずに、オレンジを薄くひいたようなベンチに目をやる。道沿いに置かれたそれには誰も座っていない。

 そのとき、深緋こきひの瞳がこちらを見ていることに気が付いた。印象的な白いベレー帽には大きな紫のリボンがついている。手入れの行き届いた真っ黒の髪は真ん中で分けられて明るい印象だ。

 それは確かにベンチの端に居た。ぴっと伸びた背筋に、すらりと伸びた足、綺麗に揃った足から育ちの良さを伺うことが出来る。

 しかしその子の目付きは決して明るいそれではない。どちらかと言えば冷たく、こちらを羨むようなものだった。見るからに幼い顔立ちで身長もあまり高くはないためすぐに子供だろうと見当がつく。

 ただし甥の出会ったとは少し違うらしい。甥の出会ったのはもっと釣った目で、ベレー帽など被ってはいない。それに加えて子供ではなかった。

 雪ほど白い服は汚れのひとつもない。菫色のラインがあの子を引き立て、髪の漆黒が最も美しく輝いていた。膝ほどにカットされたズボンを穿いているので、恐らくは少年だろう。

 彼はこちらを見て心底驚いたようだった。まさか気付かれるなんて、というような表情。あの妙な目付きは子供らしく見開かれて、黒髪はさらりと流れる。

 声を掛けようとすると、控えめに手を引っ張られた。甥が心配そうにこちらを見ている。

「兄さん、どうしたの。急に立ち止まったらびっくりしちゃうでしょ」

 甥を見た一瞬で彼は消えてしまっていた。音もなく、痕跡を残さずに。エトワールは甥の好む微笑みを浮かべて言う。

「ごめんね。何でもないから、帰ろう」

 眉が寄ったところを見るとどうやら納得しきれていないようだ。それには気付かないふりをした。

 エトワールは今度、甥の手を引いて歩きだす。甥は半ば引きずられるようになってしまったので早足に並ぶ。同じ速度で歩く。

 見張られているようで気分が悪い。この間の件もそうだ。あんな風にされては、甥を一人で歩かせるのも怖くなる。なにせ甥の頬の傷は酷い有様で、今でも治っていないのだから。

 手を掴んだまま急いだように歩みを進めるせいで、甥が着いてこれずに困っている。息も切れてしまい、一生懸命になって空気を吸い込む音が聞こえた。

 あ、と思った。これでは甥が辛い。エトワールは一度立ち止まってからゆっくり歩くことにした。甥の肩が呼吸に合わせて上下して、口からは吐く息がしっかりと見えている。申し訳ないことをしてしまった。

「どうしてそんなに急ぐの……」

 甥の頬は紅潮しきってリンゴのようだ。本当に疲れているらしく呼吸は荒いまま。乱れた呼吸を整えるのに必死な甥を見てエトワールは素直に反省した。

「ごめん。気を付ける」

 すると甥は、むっとして、ぷいっとそっぽを向いてしまう。

「エトワール。どうか許してほしい」

 甥は答えなかった。そのまま手を引っ張って、つかつかと歩いていく。このままでは到底許してもらえそうもない。それでもおのれを連れていかんとする甥が可愛くて、抱き締めようとしたら、ひらりとかわされてしまった。

「今はそんな気分じゃないし、それに……乱暴する兄さんはずっと落ち込んでいればいいんだ!」

 ぴしゃりと投げ捨てるように言った彼はずんずんと先に行ってしまう。小さな背が先へ先へと進むのと一緒に白い息が軌跡になる。

 ありゃ。手酷く振られてしまったみたいだ……。

 まったく取りつく島もない。エトワールは肩を落とした。


 ◇


 二人で歩く親子を見ていた。父親が息子の手を引く。銀灰ぎんかい色の美しい髪が彗星のように尾を引いて、風を受けては靡く。その下には亜麻色。青いリボンで飾られた父のそれのような尾が綺麗だ。

 しかし視線はずっと父親へ注がれていた。彼の強く輝く群青の瞳、あばたの一つもない端正な顔立ち、整ったそれを彩る髪がエトワールの全てを強く惹きつける。

 息子を真に愛して、おのれの愛する甥すらそれに費やしてしまいたいと思えるその心。こちらへ向ける信頼しきった視線、夜に溶かしたような瞳。ふとした時のあの表情も、銀灰色の髪が煌めくのも。

 僕にだけじゃない。僕にだけじゃないのが、なおさら……。

 エトワールは、あ、と思った。この気持ちはあってはならない。忘れなければならない。最もいけないことだった。こんなはずではなかったのに、一人になるとどうしても考えてしまう。

 パンドラの箱を目にしたような気分になって、目を伏せる。彼への感情が爆発するのに確かな嫌悪感を覚えながら。

 エトワールは自分が嫌いだった。星のようには輝けず、に対して劣情を募らせる自分。甥すら自分の糧にしようとしてしまう自分。甥にも彼にも申し訳なくなって、段々と自分が不安定になっていく。

 おのれのどうしようもない部分が侵食してくるのは嫌いだ。

「こんにちは、エトワールさん」

 ふわ、となんとも言えず良い匂いが鼻をくすぐる。ベンチに座ったエトワールに声をかけたのはアデライードだ。

 驚いた。こんなところで会うなんて。

 はっと我に返ったエトワールは挨拶を返し、隣に座るよう促す。彼女はブロンドの髪を揺らして座った。

 冬の代名詞である雪はもう溶けて無くなっていた。ブランシャール邸に行ったあの時は積もってすぐだったので絨毯のように道を覆っていたものだが、最近は雪が降らず暖かい日が続いている。

 甥の誕生日がもうすぐやって来るな、と思う。春に近づく頃だ。丁度この時期。雪に隠されていた春が木々の芽吹きと共に顔を出す。

「何か物思いに耽っているようでしたから、声を掛けるのに迷いました。迷惑でしたか? 」

「いいえ。人と話すのは好きですし、なによりも貴女と話すのは心地好くて好きなんです」

 誰もがエトワールを好くような笑みを浮かべて首を振る。

 すると彼女はびっくりして、ぽ、と赤くなった。フィデリオ君と同じ橙色に近いブロンドの睫毛が恥ずかしそうに、ふるふると揺れた。浅葱あさぎ色の瞳がこちらを見ている。

「夫にも同じ事を言われたことがあるの。だから、私、びっくり」

 それから彼女は、ぱっと明るく笑った。

「私も貴方と話すのが好きです。そうだ。良かったら、さっきどんなことを考えていたのか、教えて下さいませんか」

 彼女の瞳は非常に好奇心旺盛だ。興味があります、とはっきり言っていた。隠すようなことでもなかったので素直に白状する。

「親友のことを考えていました。息子と、彼との二人で歩いているんです」

 あまり深く掘り下げてもいけないと手短に済ませたので、彼女が納得するのも早い。質問が飛んで来るのも勿論早かった。陽だまりに当たるブロンドも瞳と同じようにきらきらだ。

「貴方の親友ってどんな人なのかしら。良かったらそれも知りたいです」

 来るだろうなとは思っていたが、やっぱりそうか。

 その質問は今のエトワールにとっての地雷とも言えるものだった。それを何も知らない彼女は容易く踏んだ。頬が引きつって、ひくっとした。

 しかし答えないわけにもいかない。変に勘繰られるのは好ましくないと判断したからだ。だから極力出さないように話そうと思った。きっと彼女もすぐに満足するだろう。

「僕の親友は息子想いの良いやつなんです。それに頭も良くて」

 声は知らず知らずのうちに弾んでいた。顔が変わらないよう努めているものの、目も声も感情を抑えきれていないのをエトワールは知らなかった。

 突然の変化にアデライードはきょとんとして、くすくすと笑う。今度はエトワールがびっくりしてしまった。

「あ、あれ。どうかしましたか」

「いいえ。好きなんですね、親友さんのこと。もっとお話ししてください」

 アデライードが言うので、エトワールは続ける。

「いつも他人のことばかり考えているんです。息子がどうとか、奥さんがどうとか。彼のそういうところが人を惹きつけるんだろうな」


 彼の頬が「好き」に呼応してほんのりと赤くなったので、ああ、と思った。これはつまりそういうことなのだろう。なんとも解りやすく可愛らしい人だ。

 しかし彼の親友は妻子がいると言うではないか。であれば、なるほど。彼は想いを伝えることもできず一人で抱えている。同性で、しかも相手が妻子持ちというのは非常に辛い境遇であった。

 彼は何もかもを我慢して生きてきたのだろうな、と思った。彼の持つあの感情はアデライードにも経験がある。だからこそはっきりと理解できる。正真正銘、恋心だった。

 きっとアデライードにするように、誰にでも優しく振る舞っているのだろう。彼の親友がそうなように、彼もそうなのだ。だから彼は今も自分の気持ちが言えずにいるはず。これがもし伝えているのなら、顔を繕わずはっきり好きだと言うだろう。

 彼はおのれの本心よりも関係を望んだのだ。恐らくそうだった。言ってしまったら壊れるかもしれないのを危惧したのだろう。わば「恋情よりも友情」を取ったということだ。

 考えすぎなほどの考察を繰り広げたアデライードは勝手に納得した。

「本当に好きなんですね。彼のこと」

 アデライードが言うと、エトワールは何かを諦めたように、ふっと笑った。それから目を伏せて、消え入るように、ぽつりと溢した。

「決してそうではないんです。決して……」

 それがあまりにも悲痛に聞こえるので、アデライードはそれ以上、何も言えずに黙りこんだ。彼もそれからは話さなかった。


 沈黙したままの状況に耐えられなくなって立ち上がる。エトワールの頬はもうすっかり元の白に戻っていた。

「そろそろ僕は帰ります」

 つられてアデライードも立ち上がった。

「それなら私もそうします。送ってくださらなくていいわ。まだ明るいですし」

「解りました。お気を付けて、アデライードさん」

 先手を打たれてしまったので、了承する他なかった。送りましょうか、という言葉はエトワールの喉で止まってそのままだ。

 帰ろうか、と背を向けたところで彼女が呼び止めたので、エトワールは振り返った。未だ冷たい風が吹いて、アデライードの長い髪が靡く。

「天使のようですね、というのを言い忘れていました」

 彼女は至って真面目に言った。エトワールは困惑して、どう返すべきか言葉を選ぶ。しかしそれは必要ないとばかりに彼女は続けた。

「たまには悪魔になってしまってもいい、と思います。きっと貴方は我慢しているのでしょう。だからもっとままになって、誰かを傷付けてしまってもいいわ。ずっと天使のふりは疲れると思うんです。貴方のことを決めつけることは出来ないけれど、私にはどうしてもそう見えるの」


 ◇


 おのれの中のパンドラの箱は、意外にも彼女が開けてしまった。あれからずっと脳内には彼女の言葉が響いていた。

 彼女はおのれを買い被っているに過ぎない。エトワールがそうやって演じているのを信じこんでいるだけだ。おのれは天使だなどと言うような慈愛に満ちた存在ではない。

 それに、彼女は「悪魔になってしまってもいい」と言ってくれたが、エトワールはそんなことが出来るほど強い男ではなかった。アルベリックとの関係を壊すかもしれない言葉をわざわざ言うことはできない、ということだ。

 そもそも、おのれなんかよりもよっぽど彼女の方が天使のようなのに。

 アッシュはエトワールの胸中を察したらしく、呆れたように笑った。長い尻尾がエトワールの頬をつつく。尖った骨が当たって痛いので振り払った。

「どうした、エトワール。そんなに悩むことがあるか。素直に伝えたらいいだろう。

「出来るわけがない。こんな感情自体が許されて良いはずがないんだから」

 そう、許されて良いはずがない。アルベリックには家庭があるのだ。これは我慢というよりもエトワールなりの配慮だった。

「本当に許されないのか? お前の感情が、お前の頭が、それを望んでいるのに。馬鹿馬鹿しい。たった三文字をあの男に言うことさえ許されないのであれば、そんな感情は早くに捨ててしまえ」

 エトワールは頭を抱えた。アッシュの言うことはもっともだった。しかしそう簡単に捨てられるのであればもうとっくにそうしているのだ。いつまでも捨てられないから持て余しているのに。

 言うことも出来なければ捨てることも出来ない。こんな扱いにくいものはこの世に二つとない。面倒くさいな、とエトワールは思った。

 僕だってこんなもの捨ててしまいたいんだ。すぐにでも。

「アッシュ……簡単に言うな。それが出来ているなら、いつまでもこうして悩んでいない」

 ふうん、と呟くように言ったアッシュの金の瞳が弓形に細められ、口元が歪む。くつくつと笑う彼の長い尻尾が、つ、と喉を伝って、ひたりと巻き付く。そうして段々と締まっていく。それならば、と。

「消してやろうか。悩みごと」

 エトワールはアッシュを睨み付けた。しかし首に食い込む尾を外そうとはしない。抵抗できる力を持っているはずなのにそうしなかった。

 アッシュは声をあげて笑った。この男の意思の弱さは大変好ましい。今にも締め殺さんと巻き付いたこれを外そうとしないのは、ほんの少しでもそうしてしまいたいという気持ちの現れだった。

 本当に嫌であるならば何がなんでも阻止しようとする男だから、これを止めないというのはそういうことだ。アッシュは嬉しそうに笑った。

「そもそも息子の劣等感に気付く男がお前の劣情に気付かないわけがない! あの男は知っていて尚、お前と親友を続けているんだ。それなのにお前はいつまでも言わないつもりか」

 その通りだ、とエトワールは思った。アルベリックは察しの良い男だ。だからきっともうこの感情に気が付いていてもおかしくはない。なにせ付き合いの浅いアデライードでさえ勘づくほど解りやすいのだから。

 そんなことくらい理解している。しかしエトワールとしても言うわけにはいかなかった。彼が勘づいたものを、ただの勘違いで終わらせなければならない。本当におのれの墓まで持っていくつもりなのだ。

 彼にはこんな汚い部分を見せたくはなかった。おのれの感情で彼を汚すのはどうしても許せない。彼はおのれ以外の綺麗なものだけで構成されたような人間でなければならなかった。

 アッシュの抗弁を許さぬように低い声でエトワールは言い放つ。絞首などされていないかのようにはっきりと。

「言わない。決して。こんなことを言うくらいなら死んでやるつもりだ」

 言い切ると同時にアッシュの笑みは、すうっと消えていった。黒く長い尾に込められた力は波が引くように緩み、エトワールの喉をゆっくりと離れる。

 つまらない、と言うように彼は眉を上げた。彼の表情は今までのことが嘘のように冷えきってしまう。歪んだ口元はもう結ばれて、まるで紙くずを捨てるように無感情な目付きでこちらを見た。

 アッシュのぎらりと輝く黄金がエトワールのガーネットを貫く。冷たく突き刺す視線は恐怖に近いものとなってエトワールの背を駆けていった。彼はするりと身を寄せる。

 エトワールの肩を肘掛けにして、いかにも悲しんでいる、といった風に目を伏せる。耳に寄せられた口から、おのれを優しく抱き寄せるような声が聞こえる。その囁きはまさしく聖母のようだった。

「可哀想に……。大切なものを捨ててまでそうするしかないのは、非常に残念なことだ。お前はいつか本当にそうするのだろうな……」

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