赤の片鱗

「困るんだ。ああいうのは」

 久しぶりにエトワールが怒った顔を見た。血で染め上げたように赤い髪のアッシュは、面白いものを見た、とでも言うようにくつくつと笑う。

「ああいうのだって?」

 一体全体、それはどういうのだって言うんだ?

 ふっと肩を竦めてとぼけると、エトワールはキッと目を釣り上げて言った。

「フィデリオ君をからかっただろう! 彼が君を見たのを面白がって、君が変なことを言うから――」

「変な家に住んでいる甥っ子がもしも嫌われたらどうしようって言いたいんだな。そうだろ?

 エトワールさえからかうような態度のアッシュに、彼は話にならないとばかりに背を向けた。遠ざかるエトワールの背を眺めながら、アッシュはその金の瞳を弓なりに細めて、言葉を続ける。

「可愛い甥を手放すのが惜しくなるな。なあ? エトワール」

 言うと同時に、背を向けた彼がぴたりと止まる。す、と振り返ったエトワールは悪魔のような形相でアッシュを睨みつけ、地を這うように低い声で命令した。

「もうやめろ」


 エトワールは珍しく寝坊した。といってもまだまだ朝で、早朝の日課に寝坊した、という意味だ。昨日のことがどうしても思い出されて、なかなか寝付けなかったせいなのは明白である。

 楽しかった。非常に楽しかった。

 研究熱心なエトワールは、フィデリオを質問攻めにした。フィデリオはいつものように断片的にしか話さなかったが、エトワールにはそれで十分。小さな研究家は本を読むことも他人のことを考えるのも得意だったからだ。

 フィデリオの言葉を拾い上げ、咀嚼し、こうではないかと仮説を立てる。たぶん、これで合っている。そうに違いないと自分を納得させ続けた結果わかったのは、彼に関する三つのことだ。

 まず、彼は曇りの日が好きだということ。エトワールは雨が好きだったが、彼は曇りが好きなのだと言った。なんとまあ、フィデリオらしい天気だなと思った。不思議、という意味で。

 次に、彼は本が得意ではないということ。教科書に載っていてもおかしくないほどの字を書くのに、当の教科書が好きではないらしい。エトワールは本という本を食べ尽くす虫のような子供だったので、彼のそういうところはいささか理解に苦しむ。

 最後に、彼が意外と人を見ているということ。エトワールたちの在籍するクラスの全員の名前をしっかり把握していたし、それぞれの人間関係だとか、どういう話をするのが好きだとか、そういうのをなんでも知っていた。休み時間に聞こえるものを覚えているらしかった。

 恐らくクラスの誰もが知らないフィデリオのことを、自分一人が知っている。

 エトワールは昨日のことをふと思い出して、嬉しくなってひとり笑った。日課のことを今日は諦められるくらい、エトワールにとって昨日のことは絶大だった。

「エトワール? どうしたんだ。今日は随分遅かったじゃないか。体調でも悪かったのかな」

 先に起きていた叔父が、居間に出てこないのを心配して見に来たようだ。エトワールはぶんぶんとかぶりを振って微笑む。薔薇のつぼみが解けて大輪になるようだった。

「違うよ。寝坊しちゃったんだ。昨日……楽しかったから」

 叔父は甥っ子のかつてない喜びように圧倒されたらしい。一瞬だけ活動を停止した叔父はすぐに自分のことのように嬉しがった。それはもう、溢れんばかりの「嬉しい」だった。

「そうか! そんなに楽しかったんだね。ああ、良かった。ほんとうに良かった……」

 彼は何かに対して安心したようにエトワールをぎゅうっと抱きしめて、頬にキスをした。するとこれまた珍しく叔父がこちらを気にせず強く抱くので、エトワールが苦しいと叔父の肩を叩く。叔父は、ごめん、と謝ってゆっくり離れる。

 エトワールが照れくさそうに笑った。

「兄さんが喜んでどうするの」

「ごめん。でも、本当に嬉しくて。エトワールがそんな風に笑うのも、喋るのも、今まで無かった。だから嬉しいんだ」


 ◇


 今日は休みだ。だから叔父と出かけることにした。というのも、久しぶりにお出かけしようと叔父が提案したのだ。

 天気は晴れ。風は時折吹くものが強く、寒い。今日のエトワールは昨日と違ってお気に入りのコートを着ていた。赤いチェックのマフラーも忘れずに巻かれて、見るからに温かそうな仕上がりだ。

 隣に立つ叔父も黒いロングコートをかっちりと着こんで、深緑色のシンプルなマフラーがよく似合っていた。そういうわけで、今日の叔父と甥はいつにもましてである。

 門まで送りに来たエコーがそれを見て朗らかに笑う。

「本当によくお似合いですわ。まるで双子のよう! どうかお気をつけて行ってらっしゃいまし。エトワール様に、坊ちゃま」

 叔父と甥が手を振って歩いていくのを、エコーも手を振って応えた。


 邸宅から歩いてしばらくすると、商店街が顔を出した。レストランは勿論、大抵の物は買えるだろうというほど沢山の店が道なりにずらっと立ち並んでいる。そのなかでも一際目を引くのがこの都市の一番大きな花屋。甥もその例外ではなかった。

 甥が目を輝かせておのれの服を引っ張るので、エトワールはそちらのほうを見た。店頭には白から黄色、黄色から赤、赤から紫まで幅広いカラーリングの花々が立っている。それぞれが胸を張っているものだから余計に魅力的だ。そしてその堂々とした姿たるや、ブランシャール邸の威厳ある家具たちを思い出すほどだった。

 気が付くと甥は吸い寄せられるように花を見ていた。小さな甥は赤い花の入った花瓶の前でしゃがんでいる。アクアマリンで出来たような髪がきらきらして、朝露のしずくを連想した。

「どれか気に入ったのはあったのかな。ひとつ買っていこうか」

 とはいっても、もう決まっているようなものだ。とりあえず聞いたが答えはこれしかない。赤いラナンキュラス。幾重にも重なった真っ赤な花弁と華やかな開花が甥の視線をひとり占めしていた。

 それを聞いた甥は俯いて、それから一輪を指さす。エトワールの予想通りだった。甥はきちんと赤いラナンキュラスを欲しがった。叔父は甥の好む笑みを浮かべた。

「これを一輪ください」

 店員が返事をして、甥の見つめていた一輪を取りあげる。彼は名残惜しそうに立ち上がって嬉しそうに笑った。

「ありがとう、兄さん」

 透明な包装紙の中に、真っ赤なラナンキュラスが咲いた。根本には銀紙が巻かれ、そのうえにはオレンジのリボンが掛かっている。店員は身をかがめて、甥に優しく手渡す。

 甥が綺麗にラッピングされた花を大事そうに抱えたのを確認してから、店員に一言感謝の意を述べる。それからゆっくり歩き出した。

 風が吹き抜けた。二つ星のかがやく夜には似合わない蒼天がなびく。大きな四粒のルビーが、それぞれ煌めいている。甥が寒がって手をしきりに擦りあわせた。

 エトワールは甥のちいさな掌をおのれの大きな手で包んで寄せた。甥がびっくりして叔父を見上げると、彼はただ微笑む。甥は目をぱちくりさせて首を傾げた。

「兄さん? 」

「寒そうだったから」

 叔父のごつごつした手はひんやりしていた。その奥の熱を感じて、エトワールは、あったかい、とだけ呟く。それからカエデの葉ほどの手には余るラナンキュラスを胸に寄せた。

 透明な包装紙が、かさ、と音を立ててエトワールの胸に身を任せる。エトワールは空を見上げて、温かな息で雲をつくった。叔父が手を引く。握っている彼の手が、すうっと冷めていくのに甥は気付かなかった。

 それほど寒い一日だった。



 時刻は午前一時を指している。街が寝静まる頃、エトワールは一人空を眺めていた。彼は星が好きだった。

 いつかは燃え尽きてしまおうと、それまでを精一杯輝き続ける。なによりも生を謳歌する存在がエトワールの好むものだった。そして、出来るならより長く観察できて、より良く生を全うするものがいい。星はそれにぴったりだった。

 ゆったりした空の変化は突然だった。ぼうっとそれを見つめているのを邪魔するように、月のように輝く金ふたつとばっちり目があう。エトワールはむっとして、どいてくれ、というように溜め息をつく。黒い空に浮かぶまんまるの月はすぐに三日月になった。

 エトワールのあからさまな態度に彼は声をあげて笑う。その一本一本に血が通っているほど赤い髪を肩の震えと共に揺らす。彼の長い角も一緒にエトワールのことを嘲笑っていた。

「おやおや、お星さまの観察に随分と精が出ますこと! 今日のの仕事はもうおしまいか? エトワール」

 エトワールは眉をひそめた。

「君か。僕は今、休憩中でね。邪魔をしないでほしいんだけれど」

 すると彼は口角を上げて、エトワールの肩に身を寄せる。黒い尻尾が、つつ、とエトワールの背をなぞった。その瞬間、妙な感覚が呼び起こされる。これは嫌いだ。

 からかわれている。

 得体の知れないものが背を這う感覚に対してはっきり、不愉快だ、と言った。不愉快なのはそれだけではなかったのを彼も理解しているだろう。とはいえ彼はエトワールを弄ぶのが好きだったので、抗議の声を無かったことにしてしまった。

 エトワールは彼の望み通り苛立っていた。折角の趣味の時間をこうして潰されるのは非常に鬱陶しい。まさしく彼のような存在こそが真のだと断言できるだろう。

 しかしそれでも平静を装わなければ、彼の思う壺だ。それだけはなんとしてでも避けなければならないのだ。なんといっても彼は……しつこい。

「そんなしかめっ面じゃあ、折角の美貌が台無しだ!」

 にやついた顔でこちらを見てはよく笑う彼は、化けたキツネを何匹も見破れるほどめざとい。そのうえ頭がよく切れる。だから彼こそはエトワールの天敵だった。

 昔から一緒にいたせいで、エトワールの考えることをよく理解しているのが彼だ。面倒くさい、というのが正直なところだった。繕ったものは身ぐるみ剥がされて、エトワールの何もかもを台無しにする張本人。

 しかめっ面、の原因は彼──アッシュ自身なのを彼もよく承知していて、だからこそ面白がってエトワールをからかう。悪魔とは彼の代名詞だ。

「どうした。何も言い返さないのか。いつからそんな面白味のない大人になってしまったんだ?」

「面白味って、それは君の中での話だろう」

 アッシュはやっと返した、とばかりに手を叩いた。

「その通り! それ以外に何かあるなら、是非に見解を聞きたいところだ。お前自身がお前の世界の基準のように、俺の世界の基準も俺なのさ」

 黒い尻尾がエトワールの頬を撫でて、喉へ伝う。そのわだちがどうもむず痒く許容できない不快感を与えるので、エトワールは尻尾を払い除けた。

「ここは僕の世界だから、君にも僕の基準で動いてもらわないと困る」

 アッシュは笑った。夜空を流れる雲が何度か星を覆い隠して、エトワールの視界を遮断する。エトワールは腹を立てなかった。

「そういう理屈なら、俺の基準でお前も動いてくれないと。どうだ、俺の手中に収まるつもりはないのか?」

「あるわけがない。君こそ、僕の指一本であの本の中に閉じ込めてしまえるんだぞ」

 それを聞いたアッシュは、うっ、と詰まって、観念したように両手をあげて見せた。

「それだけは勘弁だ。あんな窮屈なのはもう御免だからな」


 エトワールはふと目を覚ましたので、隣を見た。いつもは居るはずの叔父はそこに居ない。あれ、と思った。

 時計は午前五時を指している。エトワールの起床するいつも通りの時間だった。叔父は普段この時間は活動を停止して寝息をたてているのに。今朝ばかりは何かが違うようだった。

 そのとき扉が開いて、月光がさっとそれを照らした。叔父だった。

「……エトワール? 起きていたんだね」

 叔父は弾かれたように驚いた。エトワールはいつもこの時間に起床していたのに、どうして驚くのだろう。

「兄さんはもう起きていたの」

 すると彼は首を振った。どうやら今までずっと起きていたらしい。珍しいな、と思った。なにしろ叔父は意外と寝ることが好きなのだ。

「これから一眠りしようと思っていたら、先に起きていたから驚いたよ。抱いて寝ようと思ったのに」

「僕は兄さんの抱き枕なの?」

「そうとも言うね。エトワールはちょうど良くあったかいから」

 叔父はエトワールを引き寄せた。それから抱き上げて、ベッドに運ぶ。そのまま就寝準備をはじめた。

「兄さん、僕も寝なくちゃいけないの」

「そう。僕の基準で、エトワールも動くんだ」

 エトワールはわけがわからない、というように眉を寄せた。叔父が普段はしない子供のような行動に戸惑っていた。自分の基準で、なんて幼稚な考えを叔父も持っているのを知る。けれど恐らくは冗談だろうな、と思った。

 叔父が寝巻きに着替えるのを見ていた。月明かりに輪郭をぼやかされて、彼はぼうっと白い肌を輝かせる。叔父はほっそりした体つきだった。

 その肌に波のように蒼白い光が当たる。影と光の境界線は酷く曖昧で、今にも波が呑み込むように、闇が侵食するようにさえも感じられた。波のようだ、と表現したせいか叔父は冷気を発するようだった。

 さざめく波は叔父が寝間着を着たことで、すうっと引いていった。なんとなく名残惜しいような、安心したような感情がエトワールに湧きあがる。

「さ、ベッドに入って。ずっと座ったままじゃ寒いだろう」

 彼はエトワールがベッドに入ったのを確認してから潜り込む。どちらもあまり体温は高くない方だが、こうして寄れば存外あたたかい。エトワールはすぐにうとうととして、日課のことを頭の片隅においやってしまう。どんなに大人びたエトワールでも眠気には勝てない。

 叔父もしばらくエトワールを撫でていたがぴたりと動くのをやめた。一定のリズムを保つ寝息が、抱き枕と化している甥の睡眠を助長する。叔父の心臓は脈打ってエトワールに安心感を寄越した。

 気が付くとエトワールも眠り込んでいた。穏やかな家族のワンシーンだ。アッシュは一人笑う。

「これではまるで親子だな」


 ◇


 目覚めは心地良かった。顔を洗い、歯を磨き、朝食を食べたエトワールは通学路を歩いていた。いつものように赤いマフラーを巻いて、髪を揺らしている。今日もエトワールの髪は絹糸みたいにつやつやだった。

 風のない朝。今日は快晴で、同じ色の髪が絵の具のように混ざってしまいそうだ。赤い瞳はいつにもましてきらきらだった。

 彼は嬉しそうにしていた。足取りも軽やかに、鼻歌交じりで。何が彼をそうさせるのか、と言えば、この間取り付けた約束のものだった。

 はじめはよく後悔したものだが、クラルテとの手紙はいつしかエトワールの楽しみになっていた。手紙のやりとりだけでも十分クラルテとエトワールは友人だと言える。なにしろエトワールもクラルテも、文の方が都合が良かったのだ。

 面と向かって言うには恥ずかしく、また、表現しにくいことでも文に書けば簡単に伝わる。真意を隠してものを伝えられる。彼らはどちらもはやくに実のついたブドウのようだったので、未熟なところはあれど他の者より早熟だ。

 クラルテはしきりに、エトワールが近くに住んでいれば良かったのに、と言う。その度にエトワールはこれくらいで丁度良いのだと伝えた。彼は納得したような、そうでないような曖昧な態度を見せて今も手紙を寄越す。

 恐らくは納得していないのだろうな。そうでなければ、こっちに来いなどとは言わない。

 彼は傲慢だ。絵に描いたようなお坊っちゃま。しかし自信過剰に見えてちっとも自己愛がない。その上エトワールよりも歳上のくせに、彼はどちらかと言えば子供らしく小心者だ。

 エトワールは立ち止まって手紙を開いた。クラルテの字は丁寧だが筆圧が高い。ガリガリ書いている、というのがぴったりだ。本人よりずっと芯のある字だった。

 今回の議題は彼の好きなクロティアの伝説についてらしい。


「へえ」

 手紙を読んでいたら、ふと影が出来たので視線をあげた。凛と通る声がした。

 ずっしりと重たく艶のある黒髪と、そこにまで血が通っているような暗褐色の虹彩。肌はエトワールに負けないほど白い。黒いシャツに似合う高潔な純白のコートを纏った青年がエトワールの手紙を覗きこんでいた。

 エトワールはびっくりして声をあげた。

 さっきまでは居なかったのに!

 彼は本当に音もなく現れた。気配すら残さない。あれほどの存在感であればすぐに解りそうなものを、何一つエトワールには伝わらなかった。彼の圧倒的な存在感に怖じ気づく。

 一瞬にしてその場の統治者になった彼はさっと手紙を取り上げた。

「知らなかった。この国にそんな伝承があるなんて。お前の友達は物知りだな」

「あ……。あの、貴方はどなたですか」

 おずおずと声を掛ける。怖がるエトワールに彼は失笑した。

 混じりけのない黒の睫毛まつげが揺れ、目尻の上がった深紅の瞳がぎらつく。尋常ではない眼光にエトワールは後退りする。得体の知れない恐怖がエトワールの脳を支配した。

 こちらを品定めするような視線。下から上へ、氷の刃で真っ二つにされてしまうようだった。切り口からじわじわと凍傷になり、やがて全身へ回り死に至るような錯覚までする。

 彼は手を伸ばしてエトワールの頬をなぞるように指を這わせる。その軌跡はじんわり滲むエトワールの血からすぐに確認できた。彼の指は、本物の鋭い刃だった。

「また会ったら、その時こそ教えてあげるよ」

 エトワールが、あ、と思うときにはもう居なかった。その場の頂点に君臨していた絶対の王が消えたことで、エトワールは脱力してへたりこんでしまう。

 頬の傷がじくじくと痛む。血が流れ出て、エトワールの頬を涙のように伝う。体の震えが止まらない。気が付くと呼吸は乱れて、激しい動悸がする。彼の居た空間からはぴりぴりした痛みが襲ってくる。

 ふわ、と灰が舞い上がった。クラルテからの手紙はすっかり燃え尽きてしまっていた。


 蛇口を捻った。冷えきった水を手で掬う。頬につける。傷口が悲鳴をあげて痛がった。まずはすでに乾いた血を洗い流す。

 冷えた水で自分を奮い立たせなければ、どうにかなってしまいそうだった。あれからエトワールは怖くなって急いで駆けてきたのだ。無我夢中で走った。それほど彼が恐ろしかった。

 ひやりとした指先がエトワールの肉を切り裂いて熱い血を溢れさせる。ペーパーナイフで紙を切るほど簡単に、いとも容易く頬は開いた。彼の残した痕跡と焼けるような痛みがそれを現実だと示していた。

「なにしてるの」

「うわぁっ!」

 フィデリオだった。慌てて手拭いを頬に押しあて身構えたエトワールに彼は首を傾げる。ふたつの翡翠が光をたたえてエトワールのルビーを射抜く。いつものフィデリオだ。

 エトワールはやけに安心する自分に気がついた。彼のそういう変わらないところがエトワールを安心させる。

「なんでもありません」

 フィデリオは、そう、とだけ返した。スポンジを絞るように溢れてくる血はエトワールのハンカチをすぐに汚す。患部は熱を持っている。それでもエトワールの恐怖はもう掠れてしまっていた。

 フィデリオのおかげだった。

「保健室に行こう」


 ◇


「一体どうしたんだ、それは!」

 叔父は珍しく大声をあげた。エトワールの頬についた大きなガーゼに彼が想像以上の驚きを見せたのだ。なにせそれは転んだにしては不自然で、自分でやったにしてはどうにも説明がつかない位置にある。そのうえ真っ赤に染まっていた。叔父はエトワールを包むように抱き締める。

 彼は珍しく憤慨していた。自分のことのように腹を立てている。扉を開けたときまではあったはずのエトワールの好きな微笑みは、もうとっくに消え失せてしまっていた。

「エトワール、それは誰だ。言ってみなさい。お前は僕の宝だ。お前をいじめる悪いやつは、僕がやっつけてやる。僕に教えてくれ。そいつの名前は何というんだ」

 叔父の声は普段の彼のものではなかった。エトワールさえ脅迫するような、低く恐ろしい声だ。殺してやる、と彼の声色が叫んでいた。

 エトワールが素直に怯えの色を見せると、ボタンを切り替えたように普段の彼に戻った。叔父は時折驚くほど人が変わってしまう。エトワールは叔父のそういうところが少し怖いと思っていた。

 についてはエトワールにも何がなんだかさっぱり解らないので、そう説明するしかなかった。すると叔父は少し考え込むような仕草を見せる。エトワールは申し訳なさそうに彼を見た。

「名前も解らなくて……ただ……手紙を燃やされてしまったみたいで……。一瞬だったから、よく解らなかったけれど。魔法みたいに、僕が気が付いたときにはもう灰になっていたんだ」

 叔父は信じられない、というような顔でこちらを見た。

「手紙を燃やされただって?」

 彼は頭を抱えてしまった。エトワールはおろおろとするしかない。叔父はしばらくして、解った、とだけ言って部屋を出ていってしまう。

 一人残されたエトワールと、その場に漂う怒りや困惑が部屋を埋め尽くしていた。


「どうしたんだ、そんなに険しい顔で」

 エトワールは誰もいない地下室で、ひたすら何かを書いていた。アッシュはその長い髪をかきあげ、机に座る。

「君も見ただろう、あれを」

 エトワールが吐き捨てるように言ったので、アッシュはからかわず、丁寧に拾った。美しい髪が肩に流れる。彼は呆れたようにエトワールの肩に寄りかかる。エトワールはそれさえ構う暇がないというように無視した。

「それはとしての怒りなんだろう?」

 次の瞬間、嫌な音がした。ペンは綺麗に折られてしまっていた。エトワールが何かを振り払うように頭を振って、アッシュを睨みつける。アッシュはいつもとは打って変わり、突き刺すように冷たい視線を彼に送って、続ける。

「だってそうだろう。お前は誰からも好かれる。誰からも称賛される。それなのに誰のことでさえ、どうなってもいいと思っている。天使の外面のくせに、お前の中身はまるきり違う! 演技上手なだけの悪魔のくせに、まだ続けるのか。この期に及んでまで」

 彼は至極当然のように言ってのけた。この場にいる誰でもなく、エトワールだけが一人感情を剥き出しにしている。酷く惨めで馬鹿らしく、無様だった。

 アッシュは鼻で笑った。今度こそ本当に、この無様な男を嘲笑してのものだった。秀才と持てはやされるエトワール・ラスペードが、おのれの前でこんな醜態を晒すのだから。いや、彼は秀才などではない。正真正銘の天才だった。

 だからこうして彼が憐れな子羊になっているのを見て、失望にも似た感情を抱いたのだ。アッシュは彼が人間のようではないのを理解していたから、どうしてわざわざ甥のために腹を立てる演技などを今も続けているのだろうと思った。それに加えてこうして感情を爆発させるのも決して利口とは言えない選択だった。

「どうせ甥がどうなってもいいのだろう。ラスペードの当主としてのお前では」

 今まで沈黙していたエトワールが、疲れきった表情でアッシュに「お願い」した。

「少し疲れているんだ。一人にしてくれ」


 叔父は隣にいなかった。居間にもいない。どこにもいない。エトワールは不安になって彼を探し回った。

「あら! 坊ちゃま、一体どうなさったのかしら? またエトワール様を探してらっしゃるの?」

「あ……はい。そうです。朝にいなかったから……」

 エコーはエトワールの不安を吹き飛ばすように陽気に笑った。

「まあ! それでしたら、エトワール様は地下室に行ったっきりで──あ。いえ、今のは……口が滑ってしまったわ。ごめんなさい、坊ちゃま。忘れてくださいまし」

 思わず苦笑いした。それでもこのエコーの明るさが心の陰りを打ち払ったのだ。今回ばかりは彼女に感謝をした。

 ちょうどそのとき、見慣れた自分と同じ晴天の髪が目に入る。探していた彼だった。叔父はエトワールを見て、ぱっと笑顔になった。

「エトワール! ごめんね。寂しかっただろう。さ、おいで」

 昨日のことは嘘のように彼はだった。見事再会を果たした彼らにエコーも嬉しそうだ。

「本当に親子のようですわ。エトワール様と坊ちゃまは」

 叔父は笑った。まるで何かを悟ったような笑顔だった。

「ハハハ……。そうですね。ああ。本当に、そうだったら良かったのに……」

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