目視あやかし二つ星

 しばらく眺めていたら、はゆらりと立ち上がるような動作を見せた。部屋の隅に溜まった暗闇から、ゆるゆると間合いを詰め、ぼくの前に立ち、それからひざまずくようにして姿勢を低くする。

 それはぎょろぎょろとした目をぐるりと一周させ、何かを探すように視線を泳がせ、目当てのものが無いと解ると安堵したように瞬いた。それから伺うようにこちらを見る。

 視線がばちりと合った……気がした。いや、合った。

 向こうは多分驚いたのだろう。しているかは解らない息を飲むように、緊張を表すように、ふわりとして一瞬形を失った。そうしてすぐ戻った。

 しっかりとそこにあるはずのそれが何であるかは理解している。ただしぼやけてしまってどういう形でそこにあるのかは判断できない。それはさっき、確かに揺れたし目も合った。そういうことは解るのに、形だけは定まらないのが彼らの特徴だ。

 未だこちらを捉えて離さないそれが、なにかを訴えるようにゆらゆらと揺れた。

「なぁに」

 すると向こうは蛙が踏み潰されたような声で返事をする。言うなれば、ぎぇえとか、ぎょえ、みたいな。当然全く理解できなかったが、とりあえず、そうなんだ、と答えておいた。


 今朝は早くに起きたので、フィデリオはなんとなくカーテンを閉めたまま座っていた。彼特有のふわふわの髪に寝癖が付いているのかは判断できなかった。

 金の睫毛は眠たそうに揺れて、未だ睡魔に溶かされている緑を覆う。綺麗で小さな口はぼうっとして、やっぱり眠いらしい。呼吸も安心しきって、規則通りの乱れ無しであった。

 ふる、とふらつく睫毛がとろとろの緑を二度目に覆い隠したとき、ゆるく結ばれた口が突然目覚めたように、がば、と大きく開いた。

 ふわぁ。

 フィデリオは大きく欠伸をした。それから、よいしょ、と腰をあげ、やっとカーテンを開ける。

 勢いよく開け放ったものだから、カーテンも大きく、ジャッ、と音を立てて左右にはけた。閉め出されていた光が大勢で押し掛けてくるように、まばゆいばかりの陽が射し込んで来たので、フィデリオは、ぎゅ、と目を瞑った。

 晴天かぁ!

 フィデリオは、おおっ、と声を上げた。それからゆっくり窓を開ける。

 寒い!

 突然外気に晒されたおのれの体が締まるように、きゅうっとする。フィデリオはそれにも負けずに大きく息を吸った。

「フィデリオ・ボルシュ、起床!」


 アデライードは、ふ、と笑った。愛息子であるフィデリオの大きな声が聞こえてきたからだ。

 いつも物静かで口数の少ないあの子が唯一大きな声で挨拶をする。それが朝、彼の起きたときだ。いつからか始まったそれはもう何年も彼の日課であった。

「朝から元気なんだから。可愛い子」

 ふう、と湯気を吹き飛ばすように冷まして、コーヒーを一口。香り立つこれのほんのりとした甘さがお気に入りだ。アデライードはいつも砂糖を二つ、ミルクはたっぷり入れて飲むので、コーヒーとしての味は若干失われているがそれがいいのだ。

「アデライード」

 肩が跳ねた。

 どうやら気がつかないうちに夫がそこへ来ていたらしい。

「また甘ったるいコーヒーか。コーヒーは苦いからコーヒーなんだ」

「ギルバート、そんなことを言わないで。貴方はそうでも、私は──」

 アデライードへ送る視線が鋭い。ちくりと刺されてしまった妻は怯んで、言い切るのをやめてしまった。

「弁当の準備は出来たのか? もうフィデリオが起きているんだろう」

 コーヒーカップとポットを持った旦那の方は、立ち竦むアデライードを余所に、すっと椅子を引いて座る。それから真っ黒なコーヒーを、とくとくと注いだ。

「何を突っ立っているんだ」

「あ……、ええ。ごめんなさい、ギルバート……。すぐに準備をするわ」

「謝るならフィデリオに謝るといい」

 アデライードは口をつぐんだ。彼の言うとおりだ。それに、時計はもう六時を指している。そろそろ弁当の準備をしなければ……。

 もう傷を付けることは滅多にない綺麗な手で野菜を洗う。水気をきる。それからまな板の上へ乗せた。

 フィデリオのためだけに苦手な料理を練習したのだ。フィデリオが生まれる前、基本的に外食で済ませていた食事は彼の誕生から数年経ってやめた。すぐに彼が口にできる物が極端に少ないのを知ってしまったのだ。だからアデライードは日夜料理の練習に励んだ。

 少しでも美味しいものを食べてほしかった。息子のためならアデライードは何でも努力することが出来た。フィデリオの美味しいと笑う顔が、一等好きだった。


 中等部までは給食の出る学園でも、フィデリオは異色だった。なにしろ彼は異様なほど食べられるものが少なかったので、いつも手作りの弁当を持参していたからだ。

 フィデリオは元々食べることを好む。しかし生まれもっての虚弱体質はそれを良しとしなかった。あれはダメだ、これはダメだと制限し、彼の食事を邪魔する。他の子のように好きなものを好きなだけ食べる、ということすらも出来ない。

 あんまりだ、とアデライードは思った。

 息子が一体何をしたというのか。神がいるのなら問いただしたいくらいだった。栄養のあるものを食べ、好きなものだけ食べたいと偏食傾向になることも、皆と同じように給食を食べることも、何一つできはしない。

 フィデリオがクラスメートから受ける扱いも知っていた。そもそも彼らのような年頃は自分と違うことに対する不快感を抑えることが難しいのだ。集団として生活することに慣れ、自覚し、より良くまとまろうとする時期でもある。だから余計にフィデリオのそれは目立った。

 自分たちという集団から一つ外れた存在がいれば、極端に言ってしまうとそれは敵だ。クラスメートの中でも変な子供で、皆と同じものを食べず、ぼうっとしている。不思議、というよりも正体が解らないものへの恐怖を感じるのだろう。現にフィデリオは避けられていた。

 元来フィデリオはあまり理解されない子供だ。母親である自分ですら時に理解しきれない部分を持つ彼なのだから、そうなるのもおかしくはない。

 決して笑われるようなことではない。皆が食事をしなければ生きていけないように、フィデリオもそうだった。しかしそれを全員が理解しているかと言えばそうではない。そうではないから、フィデリオは異色だったのだ。

 給食を食べたい、と言った息子の切な声が忘れられない。クラスの中でたった一人だけの弁当に耐えられるほど彼は大人ではなかった。それでも彼に我慢してもらわなければ、彼の食事が無くなってしまう。それは最も避けなくてはならないことだ。

 彼の食事が無くなればもっと孤立する。クラスの中でたった一人が、学園内で唯一になってしまう。それはあまりにも酷だろうとアデイードは思った。


 学園に頼んでみたことはある。しかし答えは思っていたものではなかった。除去食を用意することは難しい、弁当を持参してくれ、と、そう言われてしまったのだ。

 フィデリオ一人のためにそれをしてほしいわけでも、特別扱いをしてほしいわけでもない。学園側の苦労も理解しているつもりだ。

 ただ、愛する息子が皆と同じように給食を食べることが出来たらと何度願ったか。

「痛っ」

 包丁で傷のついた指から、じんわりと真っ赤な血が滲んでいた。


 ◇


 給食の時間、エトワールは皿を乗せたトレーを持って席についた。今日のメニューはこんがり焼けた丸いパンと、ごろっとしたカボチャの入ったシチュー、茹でた卵を刻んだものが入ったサラダ。それとフラムも。

 フラムはクロティアの特産物だ。モモを小さくしたような果物で、甘酸っぱく爽やかな味がする。しかしモモの美味しい時期とはずれて、フラムの旬は冬だった。

 温かくとろみのあるシチューをすくって、一口。ほくほくのカボチャは少し甘みがあって美味しい。ほかほかで美味しいホワイトシチューはカボチャの色が混ざっているのかほんのりと黄みがかっている。

 ふと、目の前の橙色が揺れる。

「ハイゼンベルク」

「なんですか」

「美味しそう」

 エトワールは弾かれたようにフィデリオを見た。

「食べたい」

 フィデリオがなんでもないような顔で言った。シチューもパンもアレルギーの多い彼には食べられないことは彼自身がよく解っているはずだ。だからエトワールはどう対応すべきか困ってしまった。

 掛ける言葉にきゅうしているのを察したのか、フィデリオが、それ、と指差した。指先を辿ると真っ赤な皮のころんとしたフラムに行き着く。エトワールは彼の翡翠で造られた目を見た。もしや、これなら……。

「無理」

 食べられるんですか、と聞こうとする前に返事が来た。いつもと同じだ。勝手に予想を立てて勝手に返事をする。しかもそれはだいたいが当たってしまうので、エトワールは奇妙な気持ちになるのだ。

 いつものフィデリオだった。

「無理なんですね」

「そう」

 そう言うとフィデリオがエトワールから、ふ、と視線を外したので、エトワールもパンを手に持った。ふかふかなパンを千切ってさっとシチューにつける。少し垂れるシチューもお構いなしに大きく口を開け、ぱくり。エトワールはいつものようにシチューを舐めとった。


「まだいる」

 午後の授業を終えたフィデリオはもう帰路に就いていた。この日はなんとなくすぐに帰りたかったのでそうしたのだ。

 隣人の髪のような晴天の下、橙の髪が揺れた。拍子に後ろを振り返る。未だ何なのか解らないは、どうやらずっと着いてきていたらしい。大きな翡翠を瞬かせたフィデリオは首をかしげた。

「どこから?」

 相手は答えなかった。ただ少し、くらりと揺れただけだ。フィデリオは考え込むような仕草で空を見た。

「そう」

 すぐに興味を失って歩きだしたフィデリオの影の隣にも、後ろにも、なにもない。


「ただいま!」

 フィデリオは大きく声をあげた。それから扉の方を向いて、肩が動くほど思いきり息を吸う。

「おかえり!」

 フィデリオは元気に自己問答をした。すると玄関を抜けた先から、おかえり、と弾んだ声が聞こえてくる。ぱたぱたぱた、と軽く、急いだ足音からフィデリオは母であると確信していたので、ぱっと腕を広げた。

 アデライードが駆け寄ってくる。そのまま彼女はフィデリオを抱き締めた。それから頬擦りをして、息子の柔い頬に軽くキスをする。

「おかえり、フィデリオ? 今日は何があった? お弁当は美味しかったかしら。ああ、はやく聞かせて! 楽しみだわ」

「フラム」

 フィデリオが短く言うと、アデライードは彼女だけ時間が止まってしまったように固まってしまった。

「食べた──」

「ごめんね。フィデリオ、ごめんなさい。この話はやめましょう」

 食べたかった。

 言い切る途中、アデライードがフィデリオを強く抱き締めたので、フィデリオの話は遮られてしまった。

「そう、貴方のためにクッキーを焼いたわ! こっちよ」

 家の前で香った甘い匂いは、なるほどこれだったか。

 フィデリオは嬉しそうに笑った。橙の髪が揺れて、翡翠が半月のように細められ、口元は緩やかなカーブを描く。宝石のように美しい笑顔だった。

 長いブロンドの髪を揺らして母が歩いている。フィデリオはその隣にいた。手を繋ぐことはしない。別にしようとは思わなかった。

 だって、隣にいるだけで良いのだ。存在の証明はそれだけで足りる。フィデリオはそう思っていた。だから母のブロンドの髪が揺れるのも、見るだけ。触ったことはほとんどない。フィデリオの世界では見えるものだけが全てだった。

 だから今後ろにいるこれも、見えるから真実で、見えるから存在が保証されているのだ。……。


 フィデリオは大きく欠伸をした。外に突き出した窓から見える星が、欠伸と同時に煌めいた。満月がゆらゆらと夜の海を揺蕩たゆたうようにしてフィデリオの眠気を増長させる。冬の澄んだ夜空はまるで揺り籠のように彼をあやした。

 もう一度、今度も同じくらい大きな欠伸をする。流石の彼でも眠気には抗えないらしく足取りもどこか覚束おぼつかず、ふわふわの雲を歩いているようだった。フィデリオはやっとベッドに腰掛けた。

「寝ないの?」

 フィデリオは問うた。何かを視認することはできない空間に対し、彼は確かに、寝ないのか、と聞いた。空間は静かだった。フィデリオは首をかしげた。

 しばらくそこを眺めていると、ふわ、と何かが揺れた。するとフィデリオは、ふうん、とだけ言った。

 月光に照らされた橙色の髪が煌めいた。たっぷりと潤ったジェードは一層輝きを増し、持ち主の眼孔にすっぽりと納まっている。白くなめらかな額、ちょこんとして可愛らしい鼻、ふっくらした頬、細い首。それらはなだらかな線で結ばれ、肌は月下ではより蒼白く光をたたえていた。

 彼の細長い睫毛まつげが震えて瞬いた。フィデリオはベッドに潜った。もぞもぞと動いて、止まる。それから一呼吸置いて、気だるげな声が聞こえてきた。

「おやすみ」

 部屋の端で何かが動いた気がした。


 ◇


「見える」

「はあ」

 エトワールは、なんのことだ、と言うように眉を潜めた。フィデリオは突拍子もないことをよく言う。今回もそうだ。脈略もなければ前置きもない。今だってエトワールはなんのことだかさっぱり解らずにいる。

 状況の把握が出来ていないエトワールに彼は笑った。

「変な顔」

「貴方はいつも突然すぎるんです」

 エトワールはあきれたように溜め息をつく。それを拾ったフィデリオは、幸せが逃げる、だなどと呑気に言った。


 結論から言うと、フィデリオはこの世のものではない何かを見ることが出来た。それがいつからであるかは彼自身も解らない。気が付けば見えていたのだ。ある日、気が付いたらそこに存在していた。

 はっきりと見えるのだ。ぼんやりと、それでいてくっきりと。ところがそれを認識し、理解することができない。自分の意思に反して思考をぼやかされてしまう。

 しかしそれで迷惑しているわけではない。フィデリオはそもそも、そんなことはどうでもよかった。ただ、見えるというだけだ。見えることだけが全ての彼にとってはどうでもいいことだった。

「なんです」

 じっと見つめられているエトワールが居心地悪そうに座り直した。フィデリオはじっとエトワールを──いや、エトワールの少し後ろ。何も見えない空中の、どこかを見つめている。

 昔、本で読んだことがある。人間のなかには所謂いわゆる、そういうものが見える人間がいるらしい。彼らによるとああいったたぐいの物は浮いていたり這いつくばっていたりと様々なんだそうだ。彼がもしもそうなのであれば、虚空を見つめて見えるなどとのたまうのも理解できる。

 見える、って、ああ。そういうことか、と合点がいった。しかしそうやってエトワールの結論付けた答えは中々に信憑性がない。なにせをエトワールは見ることが出来なかったのだ。見られないものを信じることは難しい。

 本に書いてあろうと、嘘ではないことの証明にならない。何故なら体験しているわけではないからだ。

 体験していないことは信じられない。これからの未来起こることを予言されても実感が湧かないように、人の気持ちを疑うことがあるように、体験していないことを受け入れるのはそれなりに骨が折れるのだ。

 なので試しに聞いてみよう、ということになった。エトワールの中で。そうして信じられるのかと聞かれれば首を捻るが、聞かないよりも聞いた方がましだ。

「見えるんですね」

「あ、動いた」

「それ、どんな人ですか?」

 彼は今度こそこちらを見た。翡翠で出来た目がこちらの目を捉える。

 フィデリオがあまりにもじっと見詰めるので、エトワールはなんとなく恥ずかしくなってしまった。吸い込まれそうな緑色の双眸そうぼうが明るく光っている。

 エトワールの星を飾り付けたようなきらきらのルビーがすっかり自信を無くしたように翡翠に呑まれてしまっていた。何もかもを見透かされるような瞳だ。小さくとも強い光を持った宝石がおのれを侵食していくようだった。

 慌てるエトワールを余所に相手は何も喋らずにいた。そもそもこちらを見るだけでフィデリオには一向に発言をする気配が見られない。エトワールは堪らず急かした。

「それで、あの──」

「解らない」

 フィデリオのジェードがエトワールのルビーを割ってしまいそうなほど一心に見詰める。刺すようでいて優しい光を享受きょうじゅするルビーがそれを反射してきらりと光った。

 解らない、とは?

 見えるのであればどういった人物かくらい判断できるかと思ったのだが、そうではないと否定されてしまった。それなら一体なんだと言うのか。

 エトワールが首をかしげていると、フィデリオが唐突に視線をはずして教卓に向きなおす。エトワールは黒板を見た。ちょうどそのとき先生が入ってきて、教卓に立つ。

 エトワールの黒板へ向いていた視線は先生へと対象を変えた。黒板を遮るように立った先生は、今は少し恨めしい。

 すごく重要な話だったのに!

「授業を始める。号令」


「先生へ熱視線のハイゼンベルク」

 授業が終わった昼、フィデリオは弁当のラッピングを解きながら声をかけてきた。この頃はもう、他の友人達のように彼と席をくっつけて食事を取るようになっていた。

 エトワールの先生へ送る恨めしい視線を、彼は熱視線だと言う。決してそうしたくてそうしたのでは無かったが、実際そうだった。

「なんです、その呼び方」

 エトワールの小さな口がへの字になってしまう。これは彼がよくやる仕草のひとつで、面白くないことがあったときのそれだ。フィデリオ以外は気付いていないようだが、彼は仕草ひとつ取っても存外子供らしい。

 フィデリオは笑った。

「好きなの」

「違います!」

 ほらね。今だって、こんなに幼く声をあげた。


 午後の授業が始まってから中頃になって、隣のフィデリオから手紙が来た。本人に似て不思議な形だった。

 エトワールの知らない折り方のそれは、ノートを丁寧に切って折ったものらしい。十四本の罫線が折り目に沿って曲がっている。フィデリオの意外と丁寧で律儀なところが表れているな、と思った。

 破らないように恐る恐る開く。未知の生命体に遭遇したような気分だ。例えば……そう、おばけとか。

 フィデリオの書く文字は、手紙の折り方のように丁寧だった。意外だ。エトワールはちょっと雑な位だろうと思い込んでいた。フィデリオに対する認識は、壊しても壊しても新しく作り替えられてしまう。それほどエトワールは彼を知らなかった。


 親愛なるハイゼンベルクへ

 さっき解らないと言ったのは、本当に解らないから。ああいうのは、ぼやけて判別できない。見るときだけ目が悪くなったみたいに、ぼやっとする。ハイゼンベルクも見たら解るよ。

 翡翠の隣人より


 教科書の印字ほど綺麗なそれで綴られた「解らないの理由」は、エトワールの想像していたものとは違う。エトワールはてっきり、人ではないのだと思っていた。

 まさかぼやけて認識できないだなんて!

 エトワールは、やっぱり本の内容を過信してはいけないな、と思った。彼の言うことすべてを鵜呑みにしたわけではないが、友人がそう言うのなら信じないわけにもいかない。

 エトワールは最後の文を読み終えると、恥ずかしそうに視線を彷徨さまよわせた。見たら解るよ、という言葉はエトワールにとっての図星だったからだ。見たことがないのだから、解るわけがない。当然だった。

 だから、彼が解らないと言ったのをあれやこれやと湾曲して考えてしまった自分を恥じたのだ。フィデリオはいつでも素直だった。

 フィデリオは授業を聞いているようだった。いつものように頬杖をついて、ペンで遊んでいる。手元のノートは下敷きになっているものの、きちんと板書はしているらしい。

 彼は不思議だ。だからこそ彼のことをもっとよく知りたくなった。自分の知識を増やすことも、本の主題を看破するのも得意だったから、彼の全てを知りたくなった。花の蜜に誘われたミツバチのように、彼という花に強く惹かれたのだ。

 なにより元々、宝石も花も好きな方だった。


「僕の家に来ませんか」

 フィデリオは、おや、と思った。同年代にしては硬派な彼の信頼を勝ち得たらしい。

「いつ?」

「明後日はどうです。その日は休みですよね」

 彼はライトブルーのさらさらな髪を踊らせて微笑んだ。声色も、顔も、態度も、初対面のときよりずっと柔らかい。友人に対するそれであるとフィデリオは理解していた。

 だからフィデリオも友人に対する態度で接した。勿論エトワールはおのれにとって友人だったので、自然なことだ。

「待ち合わせをしましょう。案内しますから」

「方向音痴なのに」

「家にくらい帰れます!」

 エトワールが真っ白な肌をほんのりと染めてそっぽを向く。それから溜め息をついて、とにかく、と続けた。

「どうですか。来てくれるなら──」

「十時に学校の前」

 エトワールは言葉を詰まらせた。ぐ、と押し黙って、それから一呼吸置く。それでも嬉しそうに目を細めて、フィデリオの時間指定を承諾した。フィデリオの翡翠の内包物インクルージョンも嬉しそうに輝いた。


 ◇


 エトワールはいつものように空を眺めていた。早朝のピークを過ぎたのでゆったりとした空だ。雲も穏やかに流れていた。

「エトワール、今日はフィデリオ君を迎えに行くんだろう。折角だから特別綺麗にしていこうじゃないか。髪を整えてやるから、顔を洗っておいで」

「ありがとう。兄さん」

 叔父はにこにことして、甥を綺麗に着飾る準備をする。エトワールは部屋を出て、真っ直ぐ廊下を進んだ。

 叔父はおのれに甲斐甲斐しく世話を焼くことが好きだった。欲しいものは買い与えたし、行きたいところには連れていってくれる。毎朝髪をいて、冬にはマフラーを巻いてくれた。エトワールは叔父のそれが好きだった。

 蛇口を捻るとキンと冷たい水が出る。冬の洗面所は寒い。冷たいのは得意ではないから、すぐに済ませよう。

 両手に水をいっぱい溜めて、顔をつける。息を止めて、目を瞑る。それから冷水で顔を洗った。前髪は濡れて束を作る。冷たい水で気が引き締まって、ちょっとの眠気を吹き飛ばす。

 備え付けのタオルを手に取るといつものようにふかふかだった。


「これなんかいいんじゃないか。……うん、完璧だ。見てごらん」

 大きな姿見にエトワールが映る。髪もしっかり整って、服もばっちり決まっている。エトワールというより、叔父が選んだ服はエトワールによく似合っていた。青の混じったグリーンのトップスが、ダークグレーのズボンのアクセント。黒いベレー帽を被ったらこれで完成だ。

 今日は幸い暖かいので、上着が無くとも外に出られる。時間はそろそろ九時と半分。少し早いがもう出よう。

 待ち合わせには余裕があったほうがいいに決まってるんだ。だから……。

 エトワールは興奮していた。未だ一人も呼んだことのないここに、誰かを招き入れるのだから。

「ハンカチ、マフラー、鞄。大丈夫だね。よし、気を付けて行ってくるんだよ」

 エトワールは元気よく返事をすると、少し駆け足に飛び出していった。


 フィデリオは時間ぴったりにそこに来た。エトワールはそわそわとして、学校の正門前で立っていた。合流した二人は挨拶を交わし、ゆっくり歩きだす。

「楽しみ」

 フィデリオはマフラーで口元を隠した。陽光に輝く橙のジルコンは笑っていた。頬にほのかな赤を浮かべて、ふわふわの髪を揺らして歩く。美しい色を持った翡翠は今は見えない。長い睫毛がそれを覆い隠して、ふる、と揺れていた。

「僕もです」

 エトワールは、すうっと目を細めて、喜びの抑えきれない子供のようにほころんだ。まだ誰も見たことがないような、安心しきった笑顔だった。

 並んで歩く彼らは、お互いの歩幅は違えども速度は同じ。ゆったりとした速度で進み、ぽつぽつと話をする。くすくす笑う声が青空に消えていく。声を出すたび漏れる白い煙が、エトワールの晴天の髪に雲を作った。

 きらきら輝くジルコンと、真っ赤に咲き誇る薔薇のような二人が道行く人々の目を奪う。それに加えてどちらも人を連れて歩くような子供ではなかったので、特別皆の関心を得た。

「エトワールちゃん、お出掛けかい! だったらパンを持っておいきよ。二人で食べなさいな」

 パン屋のアマンダさんはよくパンをくれる。エトワールのことを気に入っているらしい。美味しい食べ物を作れる人に悪人はいないのだ、というのがエトワールだった。だからエトワールもアマンダさんのことが好きだった。

 エトワールがパンを受けとると、連れは不思議そうにそれを眺めた。


 エトワールの家というのは、どうやらラスペード邸のことだったらしい。予想を裏切られてしまったフィデリオは素直に驚くことにした。

「お帰り、エトワール。フィデリオ君も、はじめまして」

 だからこの、エトワールによく似た人間が出てきたのにも驚きを隠さなかった。兄弟というよりも双子で、双子というには年の差がありすぎる。髪の色も目の色もおなじだ。珍しいこともあるもんだ、という話ではない。

 酷似、というのがぴったりだった。父と息子でもこんなのは有り得ないのだから。造られたように二人は同じだ。どちらが造られたかといえば、それは小さいエトワールの方だろうな、とフィデリオは思った。

「フィデリオ君?」

 そのとき彼の後ろから何かが覗いているのを見てしまった。これ以上驚くことはなにもないのだと思い込んでいた。それなのに……。

 黒く天に向けて伸びるゴツゴツとした角が赤い髪を掻き分けて生えている。目玉は大きく釣りあがって、白目の部分は黒い。虹彩こうさいは金だ。闇に溶けそうな黒の翼と細長い尻尾もある。これは、まさか。

 驚き固まるフィデリオに、彼は語りかけてくる。お前に俺が見えるのか、と。

「フィデリオ君! さあ、こっちだよ。おいで」

 突然、大きいエトワールが遮るように声をあげた。フィデリオはびっくりして変な声を出してしまった。小さいエトワールが心配そうにこちらを見ていた。

 赤い髪をもてあそびながら、角の生えた彼は大きなエトワールの肩を肘掛けにしている。それからこちらをにやついた顔で眺めては笑う。くっと口角をあげ、目を細めて笑う彼は美しかった。

 フィデリオは大邸宅へ足を踏み入れた。しんとしたこの城には、驚くほど何もいない。フィデリオとエトワールたち、それから赤い髪の彼以外は。

 いつもは見えるものが見えなくなっていた。もともとそんな物が見えない子供のように、ここにいる何かを見ることも、感じることもできない。彼はさらさらで長い血の色の髪を靡かせてフィデリオに言った。

「ここには何もいないか? 当然だ。なにせ俺の築いた城だからな」

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