翡翠の隣人

 エトワールは珍しく授業を聞かずに窓の外を眺めていた。この日は雨だった。片手に持ったペンは動けずに止まっている。ざあざあと降る雨と同じように大きく、ぼたん、とインクが垂れた。

 滑らかな表面を持つ真っ白な紙は黒い染みが出来てしまっていた。つう、とペン先を流れてじわりと広がったペンの涙は、紙を広げて唸る持ち主の悩みに起因していた。

 全く思い付かない。

 数週間前の約束を今になって、ああ、失敗したな、と思った。そもそもエトワールは手紙などほとんど書いたことがなかったので、何を書いたらいいのか検討もつかなかったのだ。

 やっぱり後先考えずに約束なんてするのではなかった。きっと冬季休業の中弛なかだるみで馬鹿になっていたんだ。しかし後悔してももう遅い。先には立たないそれをありありと実感してしまった。

 ぼんやりと雨を眺める。学園の近くでは普段、エトワールよりも幼い子供達が石畳で舗装された駆け回り、女性達が買い物帰りに集まっては話していたりするので授業中は意外と騒がしい。

 しかし今日は違った。誰も家から出たくなくなるような大雨だ。それに加え雨が一等好きなエトワールの髪は伸びやかに各々遊んでいた。

 きっと彼らは僕の気持ちなど知らない。エトワールはなんとなく遊ぶのを止めさせたくなって、手櫛てぐしで髪をいた。

 雨の日は静かで好きだ。夜明けの星を眺めるのも好きだったが、それよりもエトワールはうるさいのが苦手だった。

 インクが重力に負け四度落ちたとき、隣からの小さな声がエトワールをつついた。

「ハイゼンベルク、立って」

 立って?

 見渡せばエトワールだけが着席していたので、どうやら考えたまま授業が終わってしまっていたらしい。急いでペンのキャップをしめてから、エトワールは大きく音を立てて起立した。その勢いで、腹が程好く膨れた黒いペンは床に落ちた。

 ペンは痛みに泣くように、からん、と鳴いた。

 普段は静かに椅子を引くエトワールだから、他の学生はびっくりしてそれぞれ視線を交わした。中には笑い出す者も居た。

 あのエトワール・ハイゼンベルクが音を出したぞ!

 すぐにその意味を悟ったエトワールは恥ずかしくなった。なにしろこんなことは初めてだった。

 授業中に音も出さず、しっかりと耳を傾け、板書を写す。グループでの討論において一度も自分の意見を言わなかったことはない。先生のいうことをきちんと聞く。無遅刻無欠席。テストは高得点が当たり前の絵に描いたような優等生。それがエトワール・ハイゼンベルクだった。

 だからエトワールのことを同級生の皆が避けていた。反対に先生からは評価の良い子だ。しかし愛想は良いが物言いに少し棘がある。その上この教室の誰よりも頭が良いときては、同年代の子供なら話すのも億劫になる。むしろ恥をかいてしまえと思う者も勿論居た。

 解っている筈のことなのに、自分が一番恥ずかしいのに、ああ、やってしまった!

 エトワールは真っ白な肌の子供だったので、かっと頬が紅潮するのを隠せずにいた。

「今日の授業はおしまいです。さ、号令を」

 笑いを堪えるような震えた声の号令がかかる。呼応するエトワールの声はいつになく小さかった。


「ペン」

 休み時間、フィデリオは意気消沈のまま席に机に突っ伏すエトワールの斜め前でぽつりと呟いた。無表情のまま机の側に椅子を持ってきて、態度も大きく頬杖をつき、先程落ちた哀れなペンを見ながら。

 エトワールは拾ってくれればいいのに、と思った。フィデリオはエトワールを見た。

「なんで?」

 なんで、とは?

 フィデリオは相変わらず無表情だ。その質問はペンを拾わないことに対する何故なのだろうか。エトワールは彼を見つめ返した。

 おのれのルビーを溶かしたような深紅のと、彼のジェードをめ込んだように鮮やかな新緑とがぶつかる。

 こちらを一心に見つめる彼の大粒の翡翠はクロティアには珍しい宝石だった。グリーンの瞳はどの国にもあまり存在しない。おのれの水色の髪もそうであるのをエトワールは思い出した。

「しょうがないなぁ。今日だけね」

 一向に動かないエトワールを見て観念したようにフィデリオは手を伸ばした。ペンが軽やかに、す、と拾い上げられてエトワールの机に置かれる。エトワールは素直に感謝の意を述べた。


 フィデリオという少年は大層しなやかな体をしていた。

 彼が大きく足を広げればその体は一本に横たわる棒のようになる。それに、ぐ、と押さなくても彼の胴はぺたんと地面にくっついた。彼が一息に飛べば自分の背丈程もある壁を裕に越えることが出来た。背を後ろに倒してもバネのように跳ねて元に戻ることだって出来た。それだからフィデリオは体育では特に優秀だった。

 ネコのように柔軟な体を持つフィデリオは、仔猫のように髪もふわふわだった。

 毛先はくるんと上を向き、一房ずつが意思を持ったようにそれぞれの方向を司っていた。黄色ともオレンジとも違う独特な色で、陽に当たると金髪にも見える。まるで宝石のようにきらきらと輝く髪だ。彼はまさしく全身宝石で出来たような子供だった。

「ハイゼンベルク」

 フィデリオは長い睫毛まつげを瞬かせエトワールに声を掛けた。エトワールが、なんです、と返すとフィデリオは首をかしげた。

 なんなんだ、一体。

 エトワールは怪訝そうな顔で彼を見た。しかしそれを無視するかのようにこちらを見るだけで、彼は何も言わなかった。さっきから何が言いたいのだろう。

 しばらくして彼は、んー、とひとしきり唸り、きょろきょろと辺りを見回し、それから一息置いて、あ、と声を上げた。

「エディ」

「どうしてそれを」

「仲良くしよう」

「だから……」

 エトワールは彼が何故おのれの渾名あだなを知っているのかを問いただしたくて仕方がなかった。だってそれはクラルテと自分しか知らないはずで──

「それ」

 フィデリオはエトワールの握り締めた紙を、つん、とつついた。

 あ。

 これはクラルテからの手紙だ。宛名は……エディ。エトワールは吃驚びっくりしてフィデリオを見た。エトワールの目はこれでもかというほど見開かれていた。

 一方のフィデリオはそんなエトワールを不思議そうに眺めてはエトワールのペンを勝手に回して遊んでいた。相変わらず頬杖をついたままで。

 くるくる、くるくる、くるくる……からん。

 ペンが落ちた。どうやらペン回しに飽きたらしかった。他人の私物を勝手に回しておいて飽きるなど、とエトワールは頭を抱えた。

 フィデリオはぐぐっと伸びた。それからすぐにつまらなさそうな大きな欠伸あくびを一つして、窓に滴る雨を数え始めた。

 全く落ち着きがないな。

「あの」

 いつ自席に戻るんですか、と聞こうと思ったのだ。しかし聞く前に返事が来た。それも全く関連していない返事だ。

「フィデリオ・ボルシュ」

「知ってます」

「ありゃ」

 フィデリオはエトワールの言おうとしたことを先に当てようとしたらしかった。しかし彼が適当に推測した上での返しは綺麗に的を外れてしまったので、フィデリオは残念だ、と言うように肩を落とした。

 気を取り直してエトワールは、いつ自席に戻るのか、と聞いてみた。すると彼は、そのうちね、とずっと変わらない無表情で答えた。

 面倒くさいな……。

 エトワールは頭痛のするのを堪えて溜め息を吐いた。フィデリオが何もなかったかのようにこちらを眺める。彼のふわふわの髪が楽しそうに揺れた。


 それからしばらく、騒がしい教室の中の異質な二人は群れを作っていた。しかし誰も彼らを触れようとはしなかったし、もっとも彼らもそれを望んでいなかったので、別に良かった。

 エトワールの席は教室の隅に置かれていた。未だ教室の隅で沈黙を保ったまま、エトワールとフィデリオはそこに座っている。

 先に沈黙を破ったのは橙色のふわふわだ。気まずくなっているエトワールを他所に、呑気な声で、あのさ、と話し掛けた。

「手紙を書くのに困ってるんでしょ」

 驚いた。何がって、その話題に。

 エトワールが、はぁ、と気の抜けたような声を出す。するとフィデリオは、やっぱりね、と指を鳴らした。同時にフィデリオは笑った。

 それこそ眩しいくらいの笑顔だった。宝石があらゆる光を反射し、多様な色の花弁を散らし、その価値を大きく開花させるように。フィデリオはやっぱり宝石だった。


 何かを言いかけたフィデリオが突然声を上げた。それから彼はそそくさと自席へ戻っていく。彼がここで頬杖をつかなくなったので、エトワールの机は広くなった。授業が始まるらしい。

 フィデリオはエトワールに、帰りね、とだけ言って黒板を見た。いつものように、頬杖をついて。

 エトワールは前回の授業のような恥ずかしい思いをしないよう、気を引き締めて臨んだ。もちろん号令も。隣のフィデリオは間延びした声で挨拶をしていた。


 ◇


「ハイゼンベルク」

 授業を一通り終え、早速帰路にこうとしたエトワールをあの翡翠が射止めた。フィデリオはあの時確かに、帰りね、と言った。どうやら変人ではあれど彼は約束を守る男らしかった。

「手紙のことでしょう」

「正解!」

 彼は相変わらずの無表情で寄ってきて、おのれの導きだした答えの真偽を判定した。彼にしては弾んだ声だ。正解はやはり真であるようだった。エトワールは、ああ、やはりな、と思って彼を見た。

 こんな雨の日でも彼の翡翠は強い輝きを持っていた。それから、よく見るとあの翡翠の内包物インクルージョンはわずかでも喜びであるらしい。

 彼の目は作られたように美しくあまり感情を持たなかったが、それでも常に無感動というわけではなかった。

 エトワールはなんとなく、彼の不可思議な雰囲気の理由はこの誰にも理解できないごく微細な部分にあるのだろうな、と思った。現に彼は何を考えているのか理解しづらい子供だった。

 エトワールの綿雪のように白く綺麗な顔が宝石に映っている。フィデリオはそれを覆い隠すように瞬きをして、思いきったように言った。

「翡翠の隣人って、どう?」

「それ、あなたのことですね」

 エトワールが即答したので、フィデリオは悪戯っぽく笑った。彼のアーモンドのような目が、すう、と細められ、秋に色付いて咲いたような唇が笑う。

 フィデリオは、当たり、と嬉しそうに言った。それからもう一度、どう? と聞く。いつも通りの無表情に、ほんの少しの期待を織り交ぜて。

 使ってほしいのかな、と思った。エトワールも素敵な表現だとは思った。しかし使うとなると難しい。

 エトワールが悩んでいるうちにフィデリオはもう飽きてしまったようで、ぼんやりとどこかに意識を飛ばしていた。フィデリオの傘が踊るように動いている。

 彼はそれ以降何も言わなかった。使い所は自分で、ということだろうか。使ってもいいよと提案しただけで、どう使うかはお任せか。きっとそうだろうな、とエトワールは内心落胆した。

 彼のことは深く知らないが、多分そういうやつだ、とエトワールはフィデリオを勝手に決めつけていた。

「『ぼくの隣の席に、翡翠を丸くしたのを目に使っている者がいます』」

 エトワールは数回、瞬きをした。

「またね」

 フィデリオはそう言うとエトワールの視線をするりと避けるように背を向けた。エトワールは何も言えなかった。ただ、驚きと混乱と、フィデリオに対する塗り替えられた常識がおのれを支配されるのを感じていた。

 またね、という言葉がエトワールの脳内に反響して、そのまま留まった。


 雨はもっと強くなっていた。

 フィデリオと話していたので気付かなかった。さっきまでの話し相手は既に帰ってしまったらしく薄暗い昇降口には誰もいない。

 こういう静寂は好きではなかった。静かにもエトワールの中では種類があって、これはその中でもだった。静かなのは好きでも一人は少し怖い。

 エトワールは恐怖を逃すように、朝に叔父が巻いてくれたチェックのマフラーを鞄から取り出した。赤いウールのそれは肌触りが良く、いつもエトワールを優しく包んでくれる。とはいえ叔父はエトワールが苦しくないようにしてくれるので当然と言えば当然かもしれない。

 マフラーを眺めるうちに、叔父の目を思い出した。心配そうにこちらを見るあの赤と、いつくしむような赤と……。マフラーの鮮やかな赤よりも深みがあって、おのれのそれと同じ赤。ルビーのような、ガーネットのような、美しい色だ。

 そういうわけでクロティアの悪の象徴である赤目は、エトワールにとっては美や愛のシンボルだった。

「早く帰ろう」

 雨が強く、外は暗い。このまま雨宿りをしても止む気配は無かった。それに、あまり遅くに帰れば叔父が心配するだろう。過保護なのだ。叔父は。

 僕を愛する叔父が待っている。寂しがっては……いないだろうか。


 ◇


「兄さん」

 いない。返事もない。一体どこに行ってしまったんだ。

「兄さん?」

 エトワールは叔父を探して邸宅を歩き回っていた。部屋の一つ一つを覗いて叔父がいないか確認した。

 こんなことは過去に無い。叔父はいつでもおのれの帰りを玄関で待っているような人だ。なによりこの時間帯は常にこの邸宅に居る。出掛けるのもエトワールの帰宅の前に済ましてしまうような叔父なのに。

「あら! 坊ちゃま、如何なされたのかしら?」

 エトワールの小さな心臓は一瞬機能を停止したようだった。振り向けばふくよかな女性の使用人だ。

「あ……。兄さんを探していて……」

「まあ、そうでしたの。エトワール様なら今頃地下の──あっ! 嫌だわ、口止めされていたのに……。今のは忘れてくださいまし、坊ちゃま。わたくし、何も言っていません!」

 エトワールは苦笑いした。そういえば彼女はおしゃべりで有名だったな。そんな彼女に付いた渾名は「エコー」である。目の前のコーヴァンさんと同じく、エコーはおしゃべりな妖精として知られていたためだ。

「コーヴァンさん、あの──」

「エトワール! 帰っていたんだね。それよりもどうしたんだ、こんなところで。いつもお部屋に居るじゃないか。また迷ったのか?」

 うわぁっ!

 エトワールの肩が跳ねる。それからエトワールはゆっくりと振り返った。びっくりした。いつの間に叔父が後ろに居たらしい。

 兄弟のような叔父と甥が合流したのを見届けて、コーヴァンさんは笑った。

「そろそろお食事の準備も整いますわ。あとでお部屋に持っていきます。そうそう、今夜は坊ちゃまの好きなお魚ですよ」

 それからコーヴァンさんはおのれと叔父に挨拶をして行ってしまった。聞きたいことがあったのに……。

「さ、エトワール。お部屋に行こう」

 叔父が手を差し出したので、しっかり握る。すると向こうからも優しく握り返された。彼はいつもおのれが帰ってくると出迎え、手を握り、隣を歩く。エトワールはこれも好きだ。

「もうクラルテ君に出す手紙は書けたのかな」

「うん。まだ書いていないけど……ボルシュさんがお手伝いしてくれたから、内容だけなら」

 叔父はこちらを見た。目は見開かれて、眉が上がり、なんとなくいつもより幼く感じる。

 彼はおのれが誰かと交流を持っていたことに驚いたらしかった。握られた手から驚きが伝わってくる。そしてそれは段々と喜びに変わっていく。エトワールをこよなく愛する叔父は上機嫌に目を細め、口元に笑みをたたえ、声を弾ませた。

「良かったじゃないか!」


 エトワールと叔父は向かいあって座っていた。叔父が両手を合わせる。続いてエトワールも小さな両手を合わせた。

 いただきます、の合図で食事が始まる。今晩のメニューはの言っていた魚料理に野菜のたっぷり入ったスープとパン、サラダ。ラスペード家は確かに邸宅だったが、出てくる料理は貴族のそれのように豪勢なわけではなかった。

 まずはサラダに手を伸ばした。シャキシャキとした食感が楽しい。このほんのりとした野菜の甘味とドレッシングの酸味がエトワールのお気に入りだった。

 サラダをぺろりと平らげたエトワールは、メインである魚のポワレを楽しげに眺める。これは一体どんな味がするんだろう?

 赤い皮の魚に白いソースがかかっている。ナイフで切って、ソースをたっぷりつけて口に運んだ。

 おいしい!

 皮はぱりっとして、身は柔くほぐれる。その白い魚肉はふかふかで、噛むとほろっと崩れて、ソースとは違う香ばしい風味がする。まろやかで少しとろみのあるソースはしょっぱさや甘さというよりも旨味があって、魚の出汁だしが使われているようだ。これだけでもおいしい。

 一口、二口、もうちょっと、あとちょっと……。後で食べようと思っても、手が止まらない。一切れも、ソースの一滴も残せない。おいしい。

 エトワールのほっそりした手がナイフで魚をカットして、押さえに使っていたフォークを口に運ぶ。そのまま小さな口を開いて、ぱくり。ふわっと香るソースの出汁とほくほくの身がエトワールをいっぱいにした。

 優しくて、温かくて、一度食べたら忘れられないような、そんな味がする。

 これも瞬き一つほどで綺麗に完食したエトワールはスープに口をつけた。エトワールはもう十分幸せな気分に浸っていた。

 スープは葉野菜や根菜、鶏肉を切って煮込んだものらしい。具がたくさん入っていて食べ応えがある。

 エトワールはこのスープが一等好きだった。

 野菜や肉の美味しい部分が染みだして幸せになれる味を作り出す。脂の玉がスープの水面に敷き詰められ、そこからなんとも言い難いすてきな匂いを乗せた湯気が立つのだ。スープを煮込む料理人の愛情や心遣いもスープの温かさに入っていて、この一杯だけで完成された物語のようだった。

 そんな一冊の小説のようなスープをこくりこくりと飲み干して、エトワールは一息ついた。

 しあわせの味。小さな美食家はほくほくとした気持ちでいた。こんなに美味しいものを食べられるなんて幸せだ。

 最後にほっこりと焼き上がったパン。片手で持てるように丁度よくスライスされている。備え付けのバターを塗れば未だ熱を持つパンにじゅわっと広がり染みがついた。

 さくっ、と心地好い音が鳴った。ぼろぼろと粉が落ちるのも気にせず、エトワールはパンを頬張る。焼きたてのパンにじわりととろけて、じゅん、と湿らせ一層美味しく飾るバターの風味が口いっぱいに広がった。

 口に入りきらなかったパンの端からとろんとバターが垂れるのをエトワールは舐めとる。いつもやることだったので、もう諦めたのか行儀が悪いと注意されなくなっている行為だ。

 小さなパンはエトワールの胃袋に綺麗に収まってしまった。エトワールは無心で、もう一つ、と手を伸ばす。もう手が止まらなくなってしまっていた。


 エトワールは甥が気に入っているスープを飲んだ。しっかりと熱の通った野菜は溶けたキャラメルのように柔らかかった。エトワールもこのスープが好きだったので、甥とは本当に好みが合うな、というのをエトワールはつくづく感じていた。

 エトワールと趣向の似た甥はどうしても食事の手が止められないようで、パンをさくさくと音を立てて食べている。そんな幸せそうな彼を見てエトワールは笑顔になった。

 甥が嬉しいと僕も嬉しい。甥が幸せなら、僕も幸せだ。

「エトワール、そんなに急いで食べなくてもいいじゃないか。スープも、サラダも、パンも、ポワレも、逃げたりしないよ」

 エトワールは冗談めかして笑った。甥はきょとんとして、それから首を振った。

「美味しいものは温かいうちに食べたい。折角作ってくれたんだから、出来たてがいいんだ」

 今度はエトワールがきょとんとした。甥の食への執着とも言えるそれは、料理に対する敬意や気遣いのようだったらしい。

 すごいな、と素直に思った。自分には想像もつかなかいことをエトワールは考えているんだ。自分よりもずっと幼いのに。

 パンをもぐもぐとよく噛んで食べている甥。ブルーテソースを流した魚やたっぷりの野菜が入ったサラダのようなスープを一気に平らげてしまう甥。パンから溢れた一滴でさえ惜しむように舐めとる甥。

 叔父はエトワールの幼い部分を見つけるのが大好きだった。勿論大人らしいエトワールも同様に好きだったが、そんないつもの彼とは違う子供らしさは格別だ。だから食事中の甥をエトワールは気に入っていた。


 エトワールは甥にを求めているのだろうな、と常々思っていた。

 おのれと同じ見た目で、おのれと同じような声で、近所の子供達よりずっと大人らしい。大人でも難しいのに、甥は理論的に話を進めることさえ出来る。しかし甥がそういう態度をとる度に、エトワールは自分が不安定になるのを感じていた。

 甥が子供らしくいれば、おのれは叔父であれるのだ。逆に言えば、おのれが叔父であるためには、エトワールが甥でいてくれなければならなかった。だから彼がおのれにより近い姿を持ったとき、どうすればいいのか解らなくなってしまう。

 それに、甥が彼自身の幼さを見せてくれている間は自分のようだという感情を隠すことができた。だからエトワールは甥がバターを舐めとる仕草が特別に好きなのだ。

 あの仕草一つで甥の存在の確定と自己承認の二つを同時に成せる。エトワールにとっては重大な意味を持つ動作だった。

「兄さん、ごちそうさまをしよう」

 気が付けば自身の食事も勝手に終わっていた。甥が美味しい美味しいと食べていた理由が解る。おのれも同じように無心で食べていたらしかった。

 甥が手を合わせたので、叔父も手を合わせる。ラスペードの家では食事の終わりはいつも甥が先だ。だからエトワールがいただきますの当番である代わりに、甥がごちそうさまの当番だった。

 ごちそうさまでした。

 甥が元気よく言った。ならってエトワールも元気よく挨拶した。まるで子供が二人いるみたいだ。エトワールは奇妙な気持ちになって、エトワールを見た。

「エトワール。片付けは僕がやっておくから、お手紙の続きをやっていていいよ」

「ありがとう。兄さん」

 甥は静かに椅子を引いて、自分の机に向かった。引き出しから紙を取り出し、ペンを持って、さらさらと書き始めた。


 エトワールは、そういえばおのれも子供のように挨拶をすることができるんだったな、と思った。こんな自分でも、甥のように……。

 失敗せずにやれるのだ。どんなことでさえ。一度聞けば、やれば、何もかも忘れない。子供のように遊ぶことはあの日からやめてしまった。普通の人のように情熱をもって何かと接することも。

 エトワールはずっと氷のままだ。内からでる熱はとっくの昔に消えてしまっていた。

 甥と僕は似ていない。大丈夫だ。甥の方が、まだ正常だ。


 ◇


 今朝は晴れだった。ふわふわの雲が空を飾るように浮いている。昨日の大雨では機能していなかった中庭の噴水も大きく水を広げていた。

「書けた?」

 エトワールが席についたとき、隣から声が飛んできた。いつも通り無表情で、なんとも言えず綺麗な緑の瞳を光らせたフィデリオがこちらを見ている。

「はい。それはもうすらすらと……。貴方のおかげです」

 エトワールがにこやかに答えると、彼は橙色のきらめく髪をふわりと揺らして笑った。そうしてエトワールの机に椅子を近付け、他人の机で頬杖をついて、そう、とだけ言った。

「それで、その内容とは」

 フィデリオのジェードがきらりと光った。彼の宝石の内包物インクルージョンがあっという間に期待に満ちてこちらを照らすようだった。例の文を使ったのかどうか、余程気になるらしい。

 エトワールは期待に応えるように笑って、勿論、と区切ってから一息置く。それからこう言った。

「『ぼくの隣の席に、翡翠を丸くしたのを目に使っている者がいます』」

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