第一章 Garnet Blue
中庭の少年
花園のように美しい絵が掘られた天井に足音が響く。静かな廊下で奏でられるその音を他に聞く者はいなかった。ただ一人、それの奏者を除いては。
コツン、コツン、と一定の間隔を保ちながら床を鳴らす。亜麻色の輝く髪を揺らし、サファイアのように美しいブルーの目を携えた少年は、
背筋をピンと伸ばし、歩く姿さえ無駄の無い動き。流れるように美しく、それでいて凜とした雰囲気を纏う少年は、まさしく裕福な家の出身だった。
彼の名をクラルテと言う。このブランシャールの家の次期当主で、ブランシャール公の一人息子。勉学に秀でるがブランシャール特有の血統の素質はあまり無い子供である。それは彼の唯一という負い目であった。だからクラルテは父の言うことをよく聞いた。
父が食べなさいと言ったものは全て食べた。だからクラルテに嫌いなものは一つも無かった。父がもう寝なさいと言ったら寝た。だからクラルテは健康だった。もしも父が学年首席の成績を取れと言うなら、クラルテはそれを必ず成し遂げようと努力するだろう。それほどクラルテの中で父の言うことは絶対だった。
父に失望されるのが何よりも怖かったのだ。もしも見捨てられたらと思うと眠れないほど怖かった。父は優しく聡明で、家族への愛情も深い男だ。そんなことはしないと解っている。それでも自らの欠陥と父の存在はクラルテの中であまりにも深く結び付いていた。
父はいつもクラルテを撫で、微笑み、気にするなと諭した。するとクラルテは決まって泣いた。声をあげて泣くことは無くなったが、父を想えばどうにも泣くのをやめられない。父はそんなクラルテを力強く抱き締めるのだ。
クラルテはそれが好きだった。同時に父への罪悪感を感じざるを得ないのも、クラルテは解っていた。
優しい父になんてことをさせてしまっているんだろう。ぼくは……。
父の言うことは聞けても、父がおのれを受け入れてくれているのだとは考えにくいというのがクラルテだった。否、考えたくないらしかった。何故だか父の愛情をはね除けたいとどこかで思ってしまっている。
きっと父は受け入れてくれている。それだからああして抱き締めてくれるのだ。解っている。理解している。しかしどうにも駄目だ。
自分に芽吹いた劣等感と父への歪な想いは絡まり、やがて結び付き、共生し、愛する父も、クラルテ自身ですら摘み取れないほど幹を持つ一本の木になってしまっていた。
心底情けない。クラルテはこんな自分ではいけないのだと、もっと強くならなければと、常々思っていた。しかしその方法を見つけることは未だ出来ずにいた。どうしたらいいのか解らない。どうしたいのかも。
クラルテは立ち止まった。父の部屋へ行くのに、こんなことではいけない。クラルテは父の自室へ来るようにと言いつけられていた。
この廊下を真っ直ぐ進むとぐるりと円を描くような階段が見える。ゆっくり一段ずつ踏んで、十五段を過ぎると踊場に出る。そのまま上へ、それからこの角を曲がって……。
そうして丁度中庭に差し掛かったとき、クラルテは思わず身震いした。冬らしい風がクラルテの頬を撫でたからだ。陽射しは充分暖かかったが、風だけは冷たくクラルテを刺した。だからクラルテは冬が嫌いだった。
ゆっくりと歩きながら広い中庭に目をやった。手入れのされた
人だって!
クラルテは立ち止まり目を擦った。なにしろクラルテは生まれつき目が悪かったので、見間違いだと思ったのだ。けれどもその人はそこに確かに存在していたし、恐らくはベンチに座って俯いていた。
見るからに小さかったので、きっとまだ子供だ。あんな体勢であれば、寝ているか、本を読んでいるか、そのどちらかだろうとクラルテは思った。
◇
「父上。私です、クラルテです」
クラルテは、煌びやかな装飾を持つ扉の前に立ち、部屋の主へ呼び掛けた。彼の背丈の倍ほどもある大きな扉の向こうから笑い声が聞こえる。
なんとなく緊張する。クラルテは拳を強く握った。
扉がゆっくりと開く。入りなさい、と父は息子を優しく招き入れた。クラルテが言われるままに中へ入ると、あまりに美しい男が座っていたので、クラルテはあ、と思った。
多分、彼が父上の仰っていた「親友」だ。
大陸でも珍しい水色の髪と、忌むべきとされる魔族の象徴──赤い目を持っている。そして人形を疑うほどの端正な顔立ち。まさしく父上の仰る親友の特徴に合致する男であった。ラスペードの当主の噂はよく耳にしていたが、まさかここまでの美貌であったとは。
エトワールと視線がぶつかる。クラルテは急に恥ずかしくなって俯いた。彼を見ているうちに、彼にも見られていたらしかった。あんな顔の人間に見詰められては、同性だと解っていても顔が熱くなる。
「クラルテ。自己紹介を」
父に声を掛けられ、クラルテは心臓が止まるかと思った。エトワールは微笑みを湛えてこちらを見ていた。
「はじめまして、エトワール様。ぼくはクラルテといいます」
お辞儀をするのも、名前を言うのも、不思議と緊張しなかった。扉の前に立ったときはああだったのに。
クラルテがそっと顔をあげると、目の前の彼は至極人懐っこい笑顔でおのれを覚えているか、とクラルテに問うた。
クラルテは彼のような顔を見た記憶はなかった。最近出会ったのでは必ず思い起こせる容貌の彼だから、会っているとすれば少なくともここ最近ではないことは明白だった。
素直に記憶にないことを告白すれば、出方を伺うような顔が余程怯えたように見えたのか、エトワールは困ってしまったようだった。どうにか和らげてやろうと精一杯優しい声色でクラルテに謝る。
クラルテはなんとなく犬に似ているな、と感じて、少し微笑ましく思った。
「クラルテ、中庭のエトワール君にはもう挨拶したのか」
エトワール君。目の前の彼ではないもう一人のエトワールがいるらしかった。しかしクラルテはそのエトワール君にも心当たりがなかったので、首を捻った。中庭の人影のことなど、クラルテはとうに忘れてしまっていた。
「その様子ではまだしていないみたいだな」
突然抱き上げられ父の隣に体を下ろされる。クラルテは体勢を整えた。そうして父が挨拶をしてきなさい、と言うので部屋を出ようとしたとき、エトワールの落ち着いた声がクラルテの肩を掴んだ。
「エトワールは僕と同じ見た目をしているから、すぐに見つかると思うよ」
部屋を出たクラルテは父に言われた通り中庭を目指して歩いた。アルベリックの部屋から中庭まではそう遠くはない。なにしろ部屋の窓から見えるくらいなのだ。
クラルテは花々が彫刻された冷たい手すりを小さな手でなぞるようにして歩く。これはクラルテの好きなことの一つだ。
いつも輝くばかりに磨かれた装飾はクラルテの心を落ち着け、金属がひんやりとするのも心地好い。だから一人で歩くときはほとんどこうしていた。
目的の場所へゆったりと近付く。風が強い。おのれの一つに結わいた髪が踊る。寒い。冬に外へ出るのは好きではなかった。中庭で本を読むのは日課だが、冬の間は特別に自室で読んでいるくらいだった。しかしブランシャールは元々、酷寒の地であるオリアレンム出身の家だったので、クラルテが寒さに弱いのは彼にとっては解せない問題であった。
ブランシャールがオリアレンム出身の家柄であるのを何故クラルテが知っているのか、というのもクラルテは自らの家の伝承を読むのが好きだった。毎日といってもいいほど読んでいるので染み付いているようなものだ。
その内容を簡単に言えば、遠い昔、ある男がオリアレンムで富を得て、クロティアに越してきた。その男はクロティアでも素晴らしい成績を残す。そしてその男が最後にどうなったかと言うと──
クラルテははっとして足を止めた。ブランシャールの生い立ちを思い出す内に中庭を通りすぎようとしていたらしかった。クラルテは中庭に目をやった。
あ。
父の部屋へ行くときに見た存在を思い出した。なるほど、彼がエトワール君らしい。遠くからでは見えなかったが、こうして寄っていけば当主のほうのエトワールと同じ色の髪をしていた。俯いて本を読んでいるので顔を見ることは出来ないが赤い目をしているのだろう。
「エトワール……さん」
彼は答えなかった。真剣に本を読んでいるようだった。少し大きくゆったりとしたコートは黒く、薔薇の美しい刺繍が施されている。幼いクラルテが見ても素敵だと思える。クラルテは彼の隣に腰掛けた。
「エトワールさん」
クラルテはもう一度呼び掛けた。それでも返事は来なかった。クラルテが本を覗きこんでも、クラルテが何度呼んでも、彼は返事をしないでページを捲る。
次に彼が新しいページに目を通そうとしたとき、クラルテは段々と腹が立ってきて、ついには彼の本を取り上げてしまった。
ぼくの言うことに返事もしないなんて!
これでもおのれは人の子だ。何度声を掛けても返事をされないのでは寂しい。彼の楽しみを奪ったクラルテはしてやったりと勝ち誇った笑みを浮かべた。そして彼がやっとこちらを見たとき、クラルテは目を見開いて固まってしまった。
似ている。あまりにも。
彼の叔父をそのまま小さくしたようだった。髪の色も、目の色も、肌の色も……。
何もかもが全く同じ。クラルテはぞっとした。こんなことがあるのだろうか。この大陸を探しても、こんな事例はないはずだ。誰も感じていないのか。このあまりにも不可解なことを。いや、恐らくそうではない。ただ感じているのを──
先に動いたのはエトワールの方だった。彼はクラルテの盗んだものを取り返そうと手を伸ばした。クラルテは弾かれたようにそれを背に隠す。そしてさっと立ち上がり彼から距離を取った。
「返してください!」
彼は眉を寄せてクラルテに吼えた。当然だ。突然現れた人間に楽しみを取り上げられるなど、クラルテがされれば到底許容のできることではない。しかしクラルテも負けるわけにはいかなかった。
「嫌だ。ぼくの話を聞くまで、返してやらない!」
エトワールはますます不快そうに顔を
一方馬乗りになったエトワールはクラルテの腕を思いきり引っ張る。それでもクラルテは抱え込んだ本を決して離そうとはしない。
エトワールは本を取り返そうと躍起になっていた。クラルテの腕をもう一度ぐっと引っ張る。しかしエトワールの細い腕では出せる力に限界があった。攻める方向を変えなければ。エトワールはクラルテの脇腹に手を伸ばした。
勝負はあった。先程まで本を強く抱き締めていたクラルテは雪の中で撃沈していた。対戦者は本を取り返すことに成功したらしい。それから先に起き上がった彼は戦利品を大事そうに抱えてクラルテに手を差し出す。
「立てますか」
クラルテが手を取るとそっと引き上げられた。そんなに力はないようだったが、十分な手助けだった。雪の上で攻防を繰り広げていたので背中が冷たい。風に当たったクラルテは身震いした。
「それで、なんですか。僕の時間を邪魔するくらい大事なことですか」
今度はエトワールからクラルテに声を掛けた。クラルテはエトワールの顔を見て頷いた。するとエトワールは目線を外し、なんです、とだけ言った。
「父上がおまえに挨拶してくるようにと仰った」
「おまえですって。初対面なのに」
クラルテは細かいやつだな、と思った。エトワールにもそれが伝わったらしく溜め息を吐かれてしまう。失礼ですね、というような視線を寄越したエトワールは、クラルテに背を向けて歩きだしてしまった。
「おい、どこに行くんだ」
クラルテはエトワールに着いて行こうと走った。そうしてエトワールはこうはっきりと言ったのだ。あなたの父上のお部屋です、と。するとクラルテは驚いて、それからにんまりと笑った。
「父上の部屋は逆方向だよ。エトワール」
エトワールはゆっくりと振り返った。林檎よりも赤い目は大きく見開かれていた。そのとき風が吹いて、彼の晴天を溶かすように
そうして彼は今度こそ正しい方向へずんずんと大股で進んでいく。あまりにも恥ずかしかったようだった。
クラルテはそんなエトワールの元へ駆けて行く。隣に並び、そんなに焦るなよ、とクラルテが笑うと、エトワールはそっぽを向いてしまった。
それからは二人でゆっくりと歩いた。エトワールは終始素っ気なかったが、クラルテはそれでもエトワールに色々な話題を振った。その度彼は短く返事をするばかりで、全く心ここに在らずというようであった。しかし今度のクラルテは怒ることも本を取るようなこともしない。
クラルテが彼の最大の秘密を──弱点とも言えるそれを知ったからだった。クラルテはエトワールにも子供らしいところがあるのを理解したのだ。クラルテはそれだけで彼に対する親近感を覚えた。似ていると思った。なんとなくだったが……。
なによりクラルテには友達がいない。だからエトワールのような同年代の少年と話せるのが嬉しかった。だからクラルテはどんどん話した。専属の使用人にさえ言わないようなことも、母にも言ったことがないようなことも。
エトワールは興味無さそうに、はぁ、だとか、そうですか、と言うだけだが、クラルテはそれで良かった。楽しかった。自分の話を聞いてくれる人間が居るということは人を幸せにする。クラルテは今まさに、それを経験したのだ。
「よく喋りますね」
エトワールがふと立ち止まり、クラルテに言った。クラルテはきょとんとして、それからエトワールを見た。
「そうかな」
「ええ。うるさいくらい」
一々棘のある言い方をするな。
さっきまでの気持ちはどこへやら、クラルテはむっとした。対してエトワールは笑っていた。というよりも微笑んでいる、に近い表情をしていた。初めて出会った彼とは違って、穏やかな顔だ。
クラルテは奇妙な気分になって、どうしたのか、と問うと、彼はなんでもありません、と答えた。
中庭を抜け、肌寒さの残る廊下を歩く。さっきまで喋っていた子供達が急に黙ったので、そこは沈黙を取り戻していた。二人分の足音が天井に響いている。
クラルテのは突き抜けるように軽快な音だったが、エトワールのは少し重たい
歩き方はばらばらで、青い方が早足だ。対して亜麻色の方はゆったりと、かつ大股で歩く。クラルテの髪がさらりと流れて軌跡を作った。
クラルテの横顔はまだまだ遊び盛りの少年という風であったが、そんな幼さの中に芽生えた当主としての自覚のようなものが彼を大人びた印象に導いていた。しかしエトワールは元々叔父のように綺麗な顔立ちであるが故に子供離れした印象を持つ。そういうところでも二人は似ていて、まるで違った。
エトワールは少し疲れたのか速度を緩めた。それに伴ってクラルテも歩幅を縮める。ゆるゆると歩くのは好きだった。クラルテは手すりを撫でるように歩いた。
アルベリックの部屋への道が長く感じられる。あれから黙りこくったエトワールにクラルテは少し居心地悪さを覚えた。けれど話す気分にはならなかった。
話題を探すのは簡単だったが、きっと今話しかけるのは違う。
エトワールは少し俯いていた。それを見てクラルテも俯いた。この状況をクラルテにはどうすることもできず持て余していた。しかしとにかく歩くしかない。そうでなければエトワールはこのまま一人で行ってしまう。
それは嫌だ。一人でいるのはクラルテが嫌だった。そしてなにより、折角仲良くなれそうな彼を逃すのは惜しいと思ったのだ。
クラルテは彼に着いていく気分だった。隣にいるのにこれではまるで必死に親に着いていく子供だ。しかしクラルテはそれでも良かった。
ぼくが居るのに、一人で勝手に歩いて行くなよ。
◇
「おかえり、エトワール。クラルテ君は……随分と疲れてるな」
やっとこの部屋に帰ってくることができた。長かった。いつもよりも。
クラルテは疲れきった顔で彼を見た。それから、大丈夫です、と言った。一方小さい方のエトワールはそんなクラルテを他所に平気な顔で叔父の側まで歩いた。叔父は彼をそっと抱き上げ、隣に座らせた。同じようにクラルテも父に抱き上げられ、膝に乗せられた。
「エトワール君とは仲良くなれたのか、クラルテ?」
アルベリックはクラルテを撫でながら問うた。するとクラルテはぱっと明るい表情で元気よく言った。
「はい。エディとはもうよく話して──」
「あの」
エトワールはクラルテの言うことを遮って抗議した。エトワールの眉がぐっと寄せられ、目尻はくっと上がった。クラルテはそれを見て、彼の叔父もこんな風に怒るのかな、と思った。
「僕達はまだそんなに仲が良いわけではありません」
すると彼の叔父は微笑んでエトワールを撫でた。
「こら、エディ。折角の友達なのに、そんなに邪険にするな」
「エディって……。兄さんまで、そんな」
エトワールはぐっと言葉に詰まり、やがてそっぽを向いてしまった。エトワールのどこまでもつっけんどんな態度に叔父も思わず苦笑いだ。
一息置いて叔父は、少し照れてるんだ、あまり気の置けない友人がいないものでね、と彼を撫でた。それでもエトワールはむくれたままだ。
そんなに気に入らないのか、僕が?
クラルテはむっとした。というより、彼への何故が爆発していた。聞きたいことは山ほどある。趣味、好きなもの、それから……あの時の笑みの理由も。
あれから考えたのだが、彼も自分と同じようにあの会話を楽しんでいたのだと結論付けた。しかしこの態度では、まさか違うのだろうか。
だとしたら何故? もしかしたら彼のことを考えずに喋り続ける僕を馬鹿にして……。
「あなたを馬鹿にしていたわけではありません」
エトワールを見つめて固まっているクラルテを見て察したのかエトワールが呆れたように言った。それから、ただ、と一呼吸置いて続けた。
「お喋りが好きなのを知っただけです。だから……」
「解った。ぼくの好きなことを知れて嬉しかったんだろう」
「まだ何も言っていないじゃないですか!」
エトワールの白い頬がほんのりと赤くなって、髪が揺れて、大きな目がしっかりとこちらを向いた。クラルテは笑っていた。エトワールは案外照れ屋で遠回しで、それでいてつんとして、まるで薔薇だ。それも赤い──深紅の。
照れると薔薇を散らすように赤くなる彼だ。薔薇のようにデリケートで、扱うのが難しい。そうして上手く扱えたとき、ささやかな抵抗をするのだ。さっと赤くなって、ちくりと刺す。照れ隠しには少し痛いが、そうと解れば可愛いものだ。
また一つ彼を知った。クラルテは声が漏れるほど嬉しかった。
アルベリックは子供らしく笑ったクラルテを見て驚いたようだった。大人びていてあまり笑顔を見せない子だ。それが今はどうだ。親友の甥と話しただけでこんなにも明るくなれるものかとアルベリックは奇妙な気持ちになった。
もし──このまま彼とクラルテが一緒にいることができたなら、クラルテは子供らしく遊んで、笑い、おのれの劣等感を忘れ生きることが出来るのだろうか。
アルベリックはクラルテの長いさらさらの髪で手を遊ばせながら、膝に乗っている愛しい息子へ想いを馳せた。クラルテがどうしてもおのれへの劣等感を拭いされずいるのをアルベリックは重々承知していたが、どうにもそれを持て余していた。だから今回のことで、自分とクラルテの荷が下りるのでは、と考えざるおえなかったのだ。
いけないことだ。仮にも親友の甥だ。そんな彼を息子のためにと、息子への供物のように扱うのはあまりにも失礼だ。
理解している。それでも願わずにはいられなかった。アルベリックはエトワールと親友である以前にクラルテの父親だったからだ。息子を愛する気持ちは誰にも負けないと自負していた。だから……。
そんなアルベリックを察したのかエトワールはそうだ、と声をあげた。
「折角友達になったんだ。文通をしてみるのはどうかな。僕もアルベリックとは昔文通をしていてね。一週間に一度手紙が来るんだ。ここからラスペードは遠いからね。だけど丁度良い間隔だろう? 手紙が来たら、手紙を返す。それは週に一度の楽しみになる。どうかな」
甥と息子は文通という単語をよく咀嚼した。文通、文通……。手紙を、相手に?
甥は少し考えてから、兄さんが言うなら、それも良いかもしれません、と文通を承諾した。クラルテの方も二つ返事で了解したので、これでブランシャールとラスペードはもう一つ友情の輪が出来た。
アルベリックは顔にあまり出さなかったが、確かに嬉しそうだったから、エトワールも花が綻ぶように笑顔になった。
◇
「それじゃあ」
馬車に乗り込んだエトワールは見送りに来た親友と、その息子に手を振った。甥もぺこりと頭を下げた。
これからまた、およそ一週間の旅が始まる。今回の旅行の土産はエトワールに出来た友人の名前と、文通の約束だ。いつもよりも大きく有益なお土産だ、とエトワールはほくそ笑んだ。
程なくして馬車が走り出す。この日も晴天だった。ラスペードの邸宅を出たあの日と同じく澄んだ青空が広がっていた。今日は風もない。溶けきらず残った雪が太陽に照らされ宝石のように煌めいている。
甥は馬車の
形の良い耳をなぞるように、小さな額を隠すように、細い髪を
変わらないのだ。何も。
ゆるやかに駆ける馬車の揺れが酷く気になる。エトワールは甥を撫でる手を止めた。窓に映る自分の顔は、九年前のあの日から何一つ変わらない。エトワールはふと、自分の中の何かが冷えきっているのを感じた。
きっと冬のせいだ。
エトワールは笑った。さっきまで温かかったエトワールの手は冷えきっていた。馬の蹄が地面を蹴る音が、雪を踏んで進む音が、安らかに眠る甥の寝息が、エトワールの全身を包んでいた。
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