Vanitate Rose

佐久間

叔父と甥

 エトワールは窓の外を眺めていた。空を眺めている、というのが正確だった。普通の子供であれば、起きるのをぐずるどころか落ち着いて空を眺めることもせず、もっと面白いものはないかと走り回り、同居人を叩き起こしてでも外へ行こうとするはずだ。

 しかしエトワールは違っていた。彼はただ空のみを見つめていた。ぼくにとって面白いものはそれだけだ、とでも言うように。


 起き抜けのエトワールは、髪もまともに整えずにいた。丁寧にいてもらわなければ絡まってしまう髪は、手櫛で整えただけだ。

 顔も洗わず、着替えもせずに空を眺める彼の窓枠に掛けられた手は同年代の子供よりも細い。ゆったりとした寝間着の袖から覗く白い肌は青い血管が目立つ。エトワールは病弱な印象を受ける少年だった。

 そのほっそりとした体つきは、お世辞にも健康的だとは言えない。しかし彼は整った端正な眉と、夜空の星々に負けないほど強い輝きを持つ目、そして花のように形の良い唇をしていたから、触れれば溶ける雪のような美しさも感じられる少年だった。

 容姿というのは、人間の三大欲求の次に重要であり、それほどの影響力があるものだとエトワールは思っていた。

 というのも、エトワールはおのれの容姿に執着はなかったが、それはしばしば登場し、様々な場面で役に立ったからだ。

 例えば、エトワールが物を買う時。店主に少し微笑めば、大きなおまけが付いてくることもあった。中でも女性は特にエトワールを可愛がり、焼きたてのふわふわなパンとか、良い匂いのする花とか、そういったものは勿論、娘を嫁にやるだとか、そういうことも多々あった。

 そんなわけで、エトワールから見ても、街の人々から見ても、エトワールに対しての待遇はどんな子供よりも格段に良かった。

 おまえは可愛いから、というのは何度も聞かされていた。誰かがものをくれる時には、必ずといっても過言ではないほどに付け足される言葉だからだ。しかし、別にこの顔が傷付こうと、エトワールは興味がなかった。

 それこそ、向かいの家の犬が主人に嫌気がさして逃げるよりも、庭の花壇に住む虫が死ぬよりも。


 エトワールは突然、あ、と声を漏らした。夜明けの時分に近くなったせいか、ほんのりと光が差し込んできたからだ。それはエトワールが空を眺め始めてから既に一時間ほど経っていることを意味していた。

 夜が明けてからは、今までのゆったりとした空と打って変わって目まぐるしく表情を変える空を楽しむことができる。しかし、大きく開かれた窓からはまだきらきらと輝く星が望めた。

 空を熱心に見つめるエトワールの瞳は、美しい夕陽を閉じ込めたように、また、燃え盛る炎のように赤い。時折吹き抜ける風は強く、身を刺すほど冷たかったが、それは彼にとって問題などではなかった。

 時間が過ぎれば過ぎるほど、空は色を増す。怒ったような赤を涙の色と混ぜてみたり、時には美味しそうなクリームを浮かべてみたり……。こうして時が進むにつれ、変わっていく空の色を楽しむのが今年で十になる彼の日課であった。


 ここ王国クロティアでも、冬になると朝方は特に冷える。それでも彼は、やめたいだとか、そういったことは思ったことがなかった。むしろ、冬の澄んだ空の色は、一層美しい宝石のようだとエトワールは思っていた。

 いや、宝石よりももっと希少で価値のあるものであって、世界にひとつだけだ。そう思ったのは、彼が、誰しもが、同じ色の空を一度たりとも見たことがなかったからだ。

「またやっているのか、エトワール」

 どうやら、寝ていたと思っていた同居人が目を覚ましたらしい。眠そうに目を擦りながら、なるべく邪魔をしないようそっと声をかけたようだった。

「兄さん。……うん、そうだよ」

「この時期は寒いから、上着を着てやってくれ。風邪を引かれちゃ堪らないから」

 ふっと目を細め笑う彼も、エトワールと同じ目尻の釣った赤い瞳を持つ。

 しかし、彼の瞳はおのれのそれよりもずっと優しい。特にエトワールを見るときは、それこそ溺愛している息子を慈しむような目付きだったから、エトワールは日課と等しくこの目が好きだった。

 どんなに腹が立っていても、この目でたしなめられてしまえば怒りが収まっていた。それほどエトワールの中では強い意味を持つ目だ。

 寝間着のままのエトワールの肩にそっと上着がかけられる。エトワールがこの時期に出掛けるとき、よく着ていくものだ。

 温かみのあるウールの生地で、その手触りの良い黒いキャンバスには薔薇がモチーフの上品な紫色の絹糸を使った繊細なステッチが施されている。

 それが薔薇なのは、彼の叔父の趣味だったからだ。エトワールと叔父は趣味が似ていたから、エトワールはそれをとても気に入っていた。


 エトワールには、同居人こと、容姿の似通った叔父がいる。兄弟でもないのに、彼らは双子だと言っても過言ではなかった。

 それほど酷似していたのだ。髪は晴天のように美しいブルーで、瞳は夕焼けのように赤い。大陸では大変珍しい髪色にも関わらず、血縁者で、それも二人もいるというのは非常に稀であった。

 クロティアは元々多民族国家であったため、多種多様な髪色や虹彩を持つ者が多いが、それでもエトワールのような晴天の色を持つ人間は極めて少なかった。否、未だ誰も見たことが無い。

 それだからエトワールはどこへ行っても目立つ。買い物へ行くときも、散歩をするときも、エトワールを見る者がいればどこでも、エトワールはとりわけ目立った。

 彼の持つ美しい容姿と珍しい髪色は、さながら誰にでもどこの子供なのか解ってしまう身分証明書のようなものであった。

 エトワールの家は、彼と、その叔父と、少しばかりの使用人しか住んではいなかったが、その家はそれでも充分すぎるほどに大きかった。

 貴族の邸宅のように豪華な装飾が施され、エトワールが大人になっても叔父と寝られるほどのベッドもあった。エトワールが毎日どれを着るか迷うほどの服も沢山あった。いくつあるとも解らない数の本が収納された部屋もあった。ここはこの国でも有数の豪華絢爛な屋敷だ。

 それだからエトワールは、大抵の貴族の息子にも引けを取らない裕福な子供だった。


 空が青みを帯び、陽が上り、街が目を覚ます。何時間も空を眺めていたエトワールが、いよいよ面白くなってきた、という風に目を輝かせたとき、それまで黙っていた同居人が口を開いた。

「エトワール、そろそろ支度をしよう。髪を鋤いてやるから、顔を洗ってきなさい」

 見れば、彼は既に支度が終わっているようだ。目が合うと、エトワールを優しく促すような視線を寄越す。それでいて、早くしなさいと急かす目付きだ。

 まだ眺めていたいのに……。

 エトワールは心底残念そうに、小さく返事をした。


 大邸宅から足を踏み出すと、まず目に入ったのは雪であった。それから、さく、とそれを踏んだ音も聞こえる。今朝は空を見上げていたので気付かなかったが、昨晩は大雪だったらしい。

 石畳に積もった白とおのれの足跡が改めて季節を感じさせ、エトワールは我知らず身震いした。

「お手洗いは済んでいるかな」

 叔父の問いに、エトワールは頷く。それから彼はエトワールの好きな笑みを浮かべ、エトワールに手を差しのべる。エトワールが近付くと、硝子で出来た人形でも扱うようにそっと抱き上げた。そして白い馬車の扉を開け、乗り込む。しばらくして馬車はゆっくりと進みだした。

 馬車の軌跡が白い絨毯に柄をつける。空は青く澄み渡り、雲一つない。蹄が踏んで溶けた雪は陽の光を受けきらきらと輝く。

 馬車に乗るのは初めてではなかったが、エトワールにとってはどれも新鮮な光景だった。

 なにしろエトワールが馬車に乗って移動することは数えるほどしかなかったのだ。エトワールの通う学校は徒歩で済む距離であったし、買い物へ行くにも少し歩くだけで良い。

 ラスペードの大邸宅は街から離れた場所にあるわけではなかったから、馬車に乗るのはこうして遠方赴く時のみであった。

「兄さん、ブランシャール公にお会いなさるのですか。それとも今回は別の用事があっての旅行ですか」

 外を眺めていたエトワールが突然口を開いた。エトワールの問いに、彼は少し間を置いてから返事をした。

「アルベリック──おまえが言うところの、公爵様に会いに行く」

 クロティア王国には、王室の他に特筆すべき二つの家柄がある。ラスペードとブランシャールだ。ラスペード家は貴族ではなかったが、対してブランシャール公爵家は大陸でも名門貴族として名高い由緒正しき家筋であった。

 クロティアの歴史を知ろうと思えば、ブランシャールという名は常に付いて回る存在だった。


 ブランシャール家はクロティアの首都、ストウィックがある南部に位置している。しかし、ラスペード家はストウィックから遠く離れた北部にあった。馬車でも一週間以上はかかる距離だ。

 北と南に分断され、相対する二つの家は遠く離れているにも関わらず極めて友好的な関係を築いていた。ブランシャールの当主と、ラスペードの当主の仲が大層良好であったためだ。両者は当主同士でありながら、他にはいない親友という関係だった。

 そして叔父はブランシャールの当主をいたく信頼している。エトワールもまた彼が尊敬に値する人間なのをよく知っていた。

 冷たい風が強く吹き込む。エトワールは細い腕を伸ばし窓を閉めた。陽射しは眠たくなる程の優しい温かさだが、風は冬らしく冷たい。エトワールはなんとなく隣に座って外を眺める叔父に寄り掛かった。

 そうすると叔父は決まってエトワールの形の良い頭を自らの膝に乗せ、少し冷たい手で撫でる。

 エトワールはうとうととして、ああ、もう寝そうだ、と思った。まぶたが重い。叔父が愛おしそうに微笑んだ。睡魔に誘われるまま、エトワールは視界を閉ざした。


 ◇


「本当に久しぶりだな、アルベリック。会いたかったよ」

 彼の邸宅からおよそ一週間の旅を経てブランシャールの城へ到着したエトワールはまず、彼を出迎えたアルベリックと抱擁を交わした。それからアルベリックはエトワールを自室へ行くようにと促す。行こうか、と甥に目をやると、エトワールの服を握る小さな手に力が増した。甥は至極興奮した様子で、そわそわと足元を見ては叔父を見上げ、目の前にそびえる大きな城をすごい、と評する。そんな彼を見てエトワールは可愛らしいところもきちんとあるんだな、と奇妙な感想を持った。なにせ少しばかり大人びた甥だ。子供らしいと言えば嘘になる。

 エトワールが甥を微笑ましく思っていると、なにやら神妙な面持ちでお前と話すのは少し遅れそうだ、と家主が言ったので、エトワールは了解した。アルベリックが合図をするとすぐに美しい彫刻が彫られた重く大きな扉を使用人たちが開ける。エトワールは一言ありがとう、と感謝を述べ、未だ興奮覚めやらぬ甥の手を引き邸宅へ足を踏み入れた。


 身の丈よりも大きな扉を抜けた甥は城に入るや否や感嘆の声を漏らした。甥をここに連れてきたのははじめてだった。なおかつラスペードの邸宅さえこれほどまでに美しい城ではない。一面に美しい絵が画かれた壁、階段の手すり、天井に吊るされたシャンデリア……。そのどれもが華やかで優雅であった。

 まさしく城と言っても過言ではないような大邸宅に住む装飾のどれにも、クロティア最有力の貴族たる風格がある。そういうわけで、甥の方のエトワールはぴかぴかに磨かれたそれらを眺めては目を輝かせた。

「エトワール、そんなに気になるなら、少し見てきなさい。もし迷ったらその場を動かないこと。それから、おまえは言わなくても解るだろうが、入っていいところと入ってはいけないところをきちんと考えるんだよ」

 それを聞いた甥は花開いたように笑顔になった。余程見物したかったのだろう甥は一際元気よく返事をし、様々な場所に目を奪われながらゆったりと進みだす。しばらくしてエトワールも煌めく装飾の施された廊下を歩きだした。アルベリックの部屋はここからすぐ近くだ。

 エトワールは廊下を進む。それから角を曲がり、大きな扉が見えたらそこがまさしくアルベリックの部屋だった。

 エトワールは過去の訪問でこの城の地図をしっかりと把握していたから、どこがどの部屋だとか、どこを進めばこの部屋に着くだとか、そういうのをすぐに理解することができた。甥に迷ったらその場を動くなと言ったのは探し出せる確かな自信があったからだ。

 何も知らない使用人に事情を説明し、誰もいない部屋にノックをする。それから扉を開け、エトワールは広い部屋を見渡した。

 何も変わっていないな。

 エトワールは適当な椅子に腰を下ろした。他人の部屋に一人きりというのはあまり気分が良くないが、待っていてくれとは当人の要望だったため、仕方がない。先程連れも送り出してしまったし、まさか使用人と一緒に待つのもいささか気まずい。エトワールは小さくため息を吐いた。


 ほどなくして扉がノックされる。呼び掛ける声はこの部屋の主そのものだ。自室なのだから勝手に入ってくればいいものを、全く律儀な男だと思った。

 本当に何も変わっていないな。アルベリック自身も。

 エトワールはその事実に安堵した。どうやらおのれの知らないところでアルベリックが変わっていやしないかと無意識に考えてしまっていたらしかった。自分はとんでもない馬鹿だな、と素直に感じた。

 扉を開けてアルベリックを招き入れる。アルベリックはエトワールの前に座った。そして扉の前にいる使用人を呼び、紅茶を持ってこさせた。アルベリックの愛飲する銘柄のそれは、春の訪れを感じさせる爽やかな香りがする。

 ふんわりと紅茶から立ち上る素晴らしい香りがアルベリックの広い部屋を優しく包みこむ。エトワールが紅茶に一口つけたとき、アルベリックが口を開いた。

「お前の甥が楽しそうに本を読んでいるのを中庭で見かけた。それにしても、お前にあんなによく似た甥が居たとは。双子を疑うよ」

 甥のことは既に伝えてあったが、ああも酷似しているとは思わなかったらしい。そしてあの中庭で、美しく剪定された灌木かんぼくの側にあるベンチに座って本を読む甥を想像したエトワールは声を上げて笑った。

 やわらかな光を享受きょうじゅする甥の晴天の髪が、雪と同じくきらきらと輝くのをまるで見てきたかのように容易に想像できてしまう。

「ううん、いや、アルベリック。それよりも、君の息子はどうだ。最近は夜泣きをしないのか」

「夜泣きだと。もう大分前にやめたらしいな」

 アルベリックはよく笑う男だった。というよりも感情表現が豊かな男であった。

 厳格な見た目や雰囲気からは想像も出来ないほどに懐が深く、それでいて子供らしいところもある。

 そういう男だから、昔から周りからの評判は大変良かった。実際にエトワールはアルベリックのそういった性格を好ましいと思っていたから、アルベリックが評価されることに大きく頷ける。アルベリックは評価されるべき人間なのだ。

「お前の甥は、もういくつになるんだ。息子と同じに見えたが」

 口元に微笑みをたたえたアルベリックがエトワールに問う。エトワールは一息ついて、それから答えた。

「今年で十になるんだ。大人びていて少し扱いづらいのが玉に傷だな」

 アルベリックは笑った。お前が大人びていると言うのだから、そうなんだろうな、と言って紅茶に口をつける。それからエトワールに最近はどうだ、と聞いた。エトワールはどうもしない、とだけ答えた。するとアルベリックは短く返事をして黙った。

 しばらくは沈黙が続いた。紅茶のかぐわしい香りがエトワールの筋の通った綺麗な鼻を刺激する。アルベリックも同じように紅茶を味わうものの、たまに足を組み替えては何か話題は無いかと思案しているらしかった。

 あ。アルベリックは突然声を上げた。そして思い出したよ、とエトワールに微笑む。

「忘れるところだった。お前に紹介すると言っていたな。クラルテを呼んでこさせるから、少し待っていてくれ」

 言い終わるや否やアルベリックは使用人を呼びつけ、息子を呼ぶようにと指示を出した。やけに楽しそうなアルベリックを見て、エトワールは自然と笑みが溢れた。

 親友の楽しそうな姿を見ればこちらまで楽しくなってしまう。エトワールはやっぱり自分は馬鹿だな、と思った。


 アルベリックの息子に会うのは初めてではない。だがそれも随分昔のことだ。

 初対面を果たしたのは彼が三歳を過ぎた頃で、その時はちょろちょろと動き回ってはアルベリックの足にじゃれつき、父親の方が動けないと困った顔をしていたのをよく覚えている。

 仔猫が親猫にじゃれつくようで、本当に家族とはいいものだ、などと思ったりした。だから今の歳のクラルテがどのような成長を遂げているのかエトワールには全く想像がつかなかった。

 クラルテは確か、アルベリックの銀色の髪よりも金に近い色の──亜麻色の髪を持っていた。そして海のように青い目。甥の髪よりももっと深い青だ。女のような顔をしているわけではなかったが、幼いながらに中性的な顔立ちをしていた。色白で少し視力が弱く、アルベリックがいつも手を引いていた。そうして父親を拙い単語で呼んで──

「エトワール」

 アルベリックの声に反応したエトワールがはっとして、どうしたのか、と問うと、呼んでも返事をしないから驚いたよ、と返された。記憶の中のクラルテを探るうち、呼び掛けが耳に入っていなかったようだ。

 エトワールは少し笑った。集中していると何も聞こえなくなる。エトワールは昔からそうだった。

「お前には時間の概念がないのか。何一つ変わらない」

 アルベリックはエトワールの顔をじっと見詰めた。両者は家庭を一つ築いていてもおかしくはない年齢だったが、エトワールは誰が見ても若いままだった。

 肌は透き通るように白く張りがあり、目は涙をたっぷりと含んで潤っている。唇は無論赤い。そしてなめらかな額に掛かるそれは未だ白髪の一本も無く、艶のある美しい髪だ。

 無表情のアルベリックに穴が開くほど見詰められている本人は居心地悪そうに身じろぐ。そうして、でも、と区切って続けた。

「アルベリック、君もそう変わっちゃいないと思うよ。九年前、僕がここに来た時も君はその席に座ったし、同じように僕に紅茶を出した。僕がここで待っていて、君が扉を三回ノックするのも同じだ」

 エトワールが言い切ると、アルベリックはまるで敵わない、というように肩をすくめた。それから残っていた紅茶を飲み干すと足を組み直した。

「エトワール、お前の記憶力にはいつも脱帽させられる。私の変なところまで全て記憶されていそうで少し怖くなるよ」

 そう言ってアルベリックは扉に視線をやった。息子が来るのを待っているのだろう。ブランシャールの邸宅は広く迷路のようだから、彼がここに来るにも恐らく時間がかかる。それでもあれから時間が経ったから、そろそろ来ても良い頃かもしれないな、と思った。


 コン、コン、コンと軽く扉を叩く音がする。それから扉の向こうのなにがしはおのれがクラルテであると言うことを主張した。アルベリックはそっと腰を上げ扉を開けた。

 入ってきたのは亜麻色の髪に青い目をした少年だ。エトワールは、ああ、クラルテだな、と瞬間的に感じた。

 色も白く──いや、幾らか健康的な肌色になっている。それから髪はさらさらとしていて一本ごとが細い。微かに輝いて見えるクラルテの髪は良く手入れされているのが解った。エトワールがあまりにも見るので、クラルテは少し俯いてしまった。

「クラルテ。自己紹介を」

 エトワールはドキッとした。彼に呼び掛けたアルベリックの声は柔らかくも芯があった。アルベリックはきちんと父親であった。

 エトワールが甥にするように、アルベリックもまたクラルテにそうしているんだ。

 どうやらエトワールはアルベリックが全く変わっていないものだと思い込んでいたらしかった。

「はじめまして、エトワール様。ぼくはクラルテといいます」

 クラルテは緊張を感じさせないごく美しいお辞儀をした。それから父に言われるまま膝に座った。どんな動作も一つ一つが優雅だ。これは良い当主になるな、とエトワールはなんとなく思った。

「クラルテ君、はじめまして。僕は──いや、いいか。君がさっき、僕の名前を言い当てたから。ううん、それで、君は僕に昔会ったことがあるんだけれど、覚えているかな」

 エトワールは誰もが彼を好いてしまうような人の良い笑みを浮かべた。それはエトワールの身分をより一層高く見せる。それほど優雅で様になる笑顔だ。

 クラルテはまるで人形でも見ているんじゃないか、と思った。エトワールはまさしく、造られたように美しかった。

「あ……。いえ、ええと。ごめんなさい。記憶になくって……」

 クラルテは伺うようにエトワールを見た。それを見たエトワールは困ったな、というように笑った。

「ああ、そんな、怯えた顔をしないでくれよ。怒るつもりは毛頭無いんだ。それに、昔っていうのも君が三歳の時だったから、覚えていなくても無理はない。怖がらせてしまって、ごめんね」

 クラルテは少し安堵したようだった。アルベリックは膝に乗った彼に声を掛けた。

「クラルテ、中庭のエトワール君にはもう挨拶したのか」

「エトワール君……」

「その様子ではまだしていないみたいだな」

 アルベリックはクラルテを軽々と抱き上げ、隣に座らせた。

「エトワール君に挨拶をしてきなさい」

 アルベリックはクラルテの小さな頭を撫で付けて言った。クラルテは、はい、と返事をした。礼儀正しく彼が立ち上がり部屋を出ようとしたとき、ああ、そうだ、とエトワールが呼び止めた。

「エトワールは僕と同じ見た目をしているから、すぐに見つかると思うよ」

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