たとえ世界を敵にまわしても

きなこ軍曹/半透めい

たとえ世界を敵にまわしても


 魔王。

 残虐の限りを尽くす悪の親玉。

 それが世界共通の常識として知られるようになったのは、いつだっただろうか。

 幾多にも及ぶ魔族の侵略や略奪、それらは着実に人々の心に反撃の狼煙を植え付けていた。

 しかし魔族の力は強大。

 たった一人の下級魔族でさえ、騎士数人がかりでしか仕留めることが出来ない。

 上級魔族に至っては単身で都市を壊滅させるだけの力を持つと恐れられており、そんな魔族たちを束ねる悪の王————魔王に抗うということはすなわち最短での死を意味していた。


 だがそんな折に魔族でないものたちにとっての希望の光が現れた。

 勇者である。

 神託によって突如現れた勇者という名の希望は、絶対的な正義を以て、侵略を続ける魔族たちを次々に打ち滅ぼしていった。

 そして遂に魔族領以外にいる全ての魔族は完全に滅ぼされ、魔族の支配は終わったのである。


 しかし勇者の勢いは止まらなかった。

 後顧の憂いを絶つべく、勇者はその剣を魔族領へと向けたのだ。

 勇者を支持する者たちは剣を取り、勇者に続く。

 いつの間にか形勢は逆転し、今度は魔族たちがその領土を侵され始めたのである。


 彼らは気付かない。

 勇者という絶対的な正義を理由に、自らが憎んだ魔族と同じ行動をとっていることに。

 勇者も気付かない。

 自分という存在が、彼らの侵略的行動全てを肯定しているということに。

 次第に魔族領は侵略されていき、そして今、残るは魔王城のみとなっていた。


 ◆  ◆


「このままじゃ城が堕ちるのも時間の問題だぞ!!」

「おい、どうするつもりなんだ!!」


 怒号が部屋の中に響き渡る。

 暗がりを好む魔族たちの部屋を灯す蝋燭は今の空気を察してか怪しく揺らめいている。


「落ち着け、魔王様の御前だ」


 氷鉄を連想させる声の主はアラド。

 アラドは声を荒げる魔族たちを睨みながら、自らの主へと小さく頭を下げた。


「……ん、大丈夫」


 そう呟くのは世界から恐れられる魔王。

 しかし目の前の魔王は、魔王と称するにはあまりにも幼く、そして可憐だった。

 長寿である魔族ながら、齢は未だ十と五を数える程度。

 銀の長髪は腰にまで届き、その瞳は曇りなき深紅に染まっている。

 何者かによって整えられたのではないかと疑ってしまうほど均整な表情はほとんど動くことが無く、精巧な人形を思い出させた。


「アラド、そうは言っても今が危機的状況なのは変わらんのじゃぞ!?」


 部屋の中にいる魔族の男の一人がアラドに言う。

 他の魔族たちは声こそ荒げないものの、男の意見に同意するように頷いている。


 今部屋の中にいる魔族たちは上級魔族をも凌ぐ、最上級魔族たちだ。

 魔王軍の幹部といっても過言ではないだろう。

 そんな彼らが一斉に部屋に集まったのは、他でもない、目と鼻の先まで攻め込んできている勇者たちへの対策についてだ。

 といっても状況は危機的。

 今更何かをしたところで勢いづいた彼らを止められないことを彼らは分かっていた。


「て、撤退するのはどうだ!? この際それしか手段がないだろう!?」

「そ、そうだな! 我らには翼があるし、空を飛べば奴らも追ってはこれまい!」


「魔王様をおいて、か?」


「————ッ」

 翼とは齢を重ねるごとに成長していくもので、空を自由に飛べれば一人前の魔族だと考えられている。 

 魔王は力こそ圧倒的なものの、まだ翼を完全に使いこなすには若すぎた。

 それを分かっているはずの彼らが自分たちだけでも逃げようという浅ましい考えを自分の主の前で発言したことに、アラドは憤りを隠せない。

 全身から冷たいオーラを出すアラドに他の魔族たちが息を呑む。


「大丈夫、だから」


 そんなアラドを片手で制する魔王。

 魔王はこの場において自分が足枷となっている状況を理解していた。


「皆、逃げられるなら今のうちに逃げなさい」


 そして魔王はその状況を良しとしなかった。

 これまで魔王と慕ってくれた者たちへのせめてもの情け。

 彼らをこんなところで死なせたくないという魔王の言葉だった。


「……申し訳ございません」


 そんな魔王の言葉に、一人の魔族が部屋から出ていく。

 そしてその一人を皮切りに他の者たちも魔王へ一礼し、部屋を出ていく。

 彼らはすぐにでも魔王城を飛び出していくのだろう。

 どうせ彼らが魔王城に残っていたところで何かが変わるわけではない。

 それならば自分くらいは……と思うのは、自己保身の本能が強い魔族らしい判断だった。


「…………」


 アラドは去っていく者たちを引き留めない。

 それが主である魔王の決断なのであれば、それに従う他ないと分かっているのだ。


「アラド、あなたも逃げていいのよ」


 結局、部屋の中に残ったのは魔王を残し、アラド一人だけになっていた。

 てっきり皆いなくなると思っていた魔王は無表情の中に苦笑いを浮かべながら、アラドに言う。

 しかしアラドは首を縦に振らない。

 主である魔王の言葉でも、それだけには従うわけにはいかなかった。


「俺は、魔王様の部下です」


 アラドは自分の胸の前に拳を持っていき、魔王への忠誠を誓う。

 それは死して尚、魔王の部下であることを望むアラドの行動だった。


「……そう」


 それを察した魔王はそれ以上何も言わない。

 ただこれから起こる悲劇を予想し、少し悲し気な表情を浮かべるだけだ。


「……どうして、こんなことになってしまったのかしら」


 魔王はぽつりと呟く。

 抑揚のないその声はアラドの耳にも確かに伝わり、アラドは拳を強く握りしめる。


「私はただ、皆が幸せな世界を見てみたかっただけなのに」


 侵略を繰り返していた魔族の長である魔王のその言葉に嘘はない。

 そもそも魔王は、これまで侵略を繰り返し、残虐の限りを尽くしていた魔族たちとは種族以外にろくな関係がない。

 むしろ敵対勢力だったと言っても過言ではないだろう。


 前魔王の娘である今の魔王が、魔王として就任してから数年。

 魔王は戦いを良しとしなかった。

 出来るならば魔族以外の種族と、平和に暮らせる世界を作りたいとさえ思っていた。

 だが元来戦うことを好む魔族たちは、府抜けたことを言う魔王に反発するようにして侵略を始めたのだ。

 もちろんそういったのは過激派と呼ばれる魔族の一部でしかなかったのだが、普段魔族と関わらない種族たちの者からしてみれば、侵略してくる魔族たちこそが本物の魔族である。

 今は既に勇者に敗れ滅ぼされてしまった彼らだが、そんな彼らの飛び火として魔王が狙われているのだ。


 先ほどまで部屋にいた魔族たちも、侵略に参加したことは一切ない。

 若い魔王を補佐するためだけにいるような存在だった。

 だからこそ身に覚えのない罪で勇者たちに断罪されることに納得できるわけもなく、彼らは魔王城を飛び出したのだ。


 世界から”悪”として認識される魔王。

 そんな魔王が実は優しい心の持ち主で、戦いを好まず、平和を望んでいたなんて、一体誰が予想できただろうか。

 アラドは自分の無力さに唇を強く嚙んだ。

 そしてせめて自分くらいは、こんな悲しい運命を背負う彼女の傍にいてやりたいと思った。


「やっぱり魔王はどこまでいっても魔王なのね」


 アラドは何も言わない。

 魔王の言う通り、それが世界の常識だったからである。

 それに相反するように、勇者もまた絶対的な正義。

 そして悪は正義に滅ぼされる。

 それが世界の理であることを、アラドは確かに理解していた。

 だからあまりにも悲しい魔王の言葉に、何も言えなかった。




『————!!』


 二人だけの部屋に轟音が響く。

 恐らく魔王城の城門が破られたのだろう。

 だが魔王は部下たちの失態を責めることはない。

 むしろよくこれまで耐えてくれたと褒めるべきだろう。


「どうやらこれまでみたいね」

「…………」


 二人は遠くから聞こえてくる轟音に、部屋から出る。

 いつも歩く長いだけの廊下がアラドにはやけに暗く感じられた。


「最後くらいは魔王らしくしないと」


 そう言う魔王は、先ほどの小さな部屋から、いかにも魔王がいるような場所へと移っていた。

 部屋の中心には豪華に飾られた玉座があり、魔王はそこへ座る。

 そしてそのすぐ隣にはアラドが控えていた。


「どういう口調が魔王らしいのかしら」


 緊張感の抜ける魔王の言葉にアラドは苦笑いを浮かべる。

 そんなアラドを見て魔王がその口の端を少しだけ上げる。

 恐らくこれまでずっと硬い表情だったアラドを和ませるための冗談だったのだろう。

 それを察したアラドは、どうしてこんな優しい少女が滅ぼされなきゃいけないのか分からなかった。


『————!』

『————!!』

『————!!!』


 轟音が次第に近づいてくる。

 それはまるで二人の命のカウントダウンのように思える。


「…………」


 二人の間に会話はない。

 ただ無言で、ジッと扉を見つめている。

 しかしアラドは気付いていた。

 無表情の少女の指先が微かに震えていることに。


 魔王と言ってもまだ少女。

 いくら装っても死の恐怖が完全にないわけではない。

 ましてや無実の罪でありながらそんな状況になり、認めることなんて出来ないだろう。

 だがアラドがすぐ横にいる状況で、魔王という自分の役割を果たさなければいけないと必死に繕っていたのだ。


(俺がいなかったら、もしかして少しは魔王様も自分の気持ちを偽らずにいれたのだろうか)


 アラドは魔王の傍にいることを選んだ。

 しかしかえってそれが魔王に、魔王で居続けることを強要しているのではないだろうか。

 否、違う。

 アラドはすぐにその考えを捨てる。

 恐らくこの少女は変わらない。

 最後まで魔王でいることを装うのだ。

 勇者が現れて、その剣を胸に突き立てられても。

 最後の最後まで無表情なまま、不敵な笑みを浮かべるのだ。


(こんな少女に、俺は、俺は――――)


『————!!!!』


 その時、一際大きな轟音が部屋に響く。

 それは部屋の大きな扉が蹴り破られた音だった。


「悪逆非道を繰り返す魔王、お前を滅ぼしに来た」


 そう言って、魔王たちに剣を向けるのは金髪碧眼の男。

 その身に纏うオーラは男が強者であることを物語っている。

 恐らくこの男が世界から”勇者”と呼ばれ、魔王に相対するものなのだろう。


「お前の相手は、俺だ」

「アラド……っ!?」


 アラドは勇者と魔王を遮るように、魔王の前へ立つ。

 その時初めていつまでも無表情だった魔王が焦りを見せた。

 事前にこの状況を予想していた魔王は、もしその時が来たら、アラドは勇者と戦うなと告げておいたのだ。

 それは大事な部下が勇者にみすみす滅ぼされるのを拒んだ魔王の唯一叶いそうな望みだった。

 その時アラドは確かに魔王の言葉に頷いていた。

 それなのに今アラドは勇者と相対している。

 しかし魔王はそんなアラドを止めることが出来ない。

 これまでも、これからも魔王を装うことを決めた魔王に、部下を護ることなど出来るはずがないのだ。


「雑魚はすぐに潰す、その後はお前だ――魔王」

「……っ」


 魔王に睨みながら宣言する勇者に、魔王は思わず目を背けたくなった。

 これから行われるのは恐らく絶対的な正義による一方的な暴力だろうと理解していたからである。


「雑魚とは失礼だな。これでも最上級魔族なんだが」

「雑魚は雑魚だ。僕はこれまでも最上級魔族を相手にしている」


 アラドの軽口に勇者が反応する。

 確かに過激派の中にも最上級魔族はいただろうし、勇者が最上級魔族と戦う機会なんてたくさんあったのだろう。

 それでもここにいるということは、それら全ての最上級魔族を倒してきたことの証だ。


「……いくぞ」

「あぁ、来い」


 その瞬間、勇者の姿が消える。

 そして次の瞬間にはアラドのすぐ前まで距離を詰めており、その剣をアラドの喉へと突き立てようとする。


「——ッ!」


 そんな勇者にアラドは間一髪のところで避け、勇者に一撃だけ反撃するとすぐに距離を取る。

 その間も勇者はアラドに剣を振るっている。

 アラドの超感覚の中で何とか致命傷だけは避けているが、アラドの顔や身体には幾つもの切り傷が出来ている。


「案外やるな。まさかここまで避けられるとは思ってなかった。これまで戦った最上級魔族の中でも一番強いな」


 アラドの身の動かし方に勇者は感心する。

 これまで戦ってきた最上級魔族たちは、自分たちの圧倒的な実力を過信するあまり、その攻撃があまりにも単純だったのだ。

 しかし目の前の魔族の男は、自分の剣戟を何度も躱して見せた。

 それだけでこの男が相当な腕の持ち主であることを勇者へ分からせていた。


「前言撤回する。どうやらお前は雑魚じゃないらしい」

「そうか、それは良かった」


 アラドは大仰に肩を竦めながらまたも軽口を叩く。

 しかしアラドは内心、勇者の強さに舌を巻いていた。


(速すぎてほとんど剣先が見えない。今はどうにか感覚に頼ってやっているが、それもいつまで持つか……)


 事実、肩で息をしているアラドとは対照的に、勇者は汗すら流していない。

 実力差は明らかだった。


(こうなったらやるしかないか)


「————ッ!」


 その瞬間、勇者は突然感じた巨大な力に思わず後方へ飛ぶ。

 それは今までろくに感じることがなかった、確かな恐怖だった。


「おい、勇者」

「な、なんだ」


 一度は雑魚と称した魔族に、勇者は冷や汗を流す。

 そんな勇者の様子に気付くことなく、アラドはゆっくり勇者との距離を詰めていく。


「魔王様はらせない――――俺がいる限り」


 アラドは自らの力をのせたオーラを全身に纏いながら、勇者へ襲いかかる。

 先ほどの勇者と同様に一瞬で距離を詰めたアラドはその拳を勇者へと叩きつける。

 何とか勇者も反応し剣の腹で受け止めるが、全てを受け流すことは出来ずに壁に叩きつけられてしまった。


「な、なんだその力は……っ!?」


 勇者はよろよろと立ち上がると目を見開きながらアラドに問う。

 勇者の疑問は無理はない。

 それほどまでにアラドの力は強大だったのだ。


「ちょっと無理して力を出しているだけだ」


 それに対しアラドはそれだけ答える。

 アラドは今、ただ目の前の敵を一刻も早く倒すことだけを考えていた。

 敵を睨み隙を窺うアラドはさながら獲物を狙っているようだ。


「ちょっと無理をしてるって、そんな馬鹿な話が」

「あるんだよ」


 アラドは勇者の言葉を遮ると、もう一度勇者へと襲いかかる。

 勇者は先ほどとは違い、防御に力を注ぎ何とかアラドの攻撃に耐えている。


 恐らく勇者はアラドの攻撃に耐えながら、先ほどのアラドの言葉は冗談か何かかと思っているのだろう。

 しかしあれはほとんどアラドの言った通りである。

 少し違うところがあるとすれば「ちょっと無理をしている」ではなく「かなり無理をしている」というくらいだろう。


 そもそもどうして勇者はこれまで数多くの魔族を滅ぼすことが出来たのか。

 魔族は強い。

 下級魔族でさえ騎士数人、上級魔族は単身で都市を壊滅させられるだけの力を持ち、最上級魔族は更にその上を行く。

 下級魔族や上級魔族はともかく、最上級魔族までもが勇者にやられるというのはいささか考えにくい。

 ではどうして勇者はここまでやってくることが出来たのか。

 それは魔族と勇者ではその考えに圧倒的な違いがあるからだ。


 魔族は第一に自分のことを考える。

 自分がいかに出世するか、活躍できるか、生き残れるか。

 それは魔族の根底にある自己保身の精神がそうさせるのだ。


 だが勇者は違う。

 どうすれば周りが苦しまずに済むか、死なせずに済むか。

 それは圧倒的なまでの自己犠牲精神とでも言えばいいだろうか。


 自己保身の魔族、自己犠牲の勇者。

 単純だがその決定的な違いがこれまでの勝敗を分けてきた。

 実力的にはかなりなはずの最上級魔族も、自らを剣として向かってくる勇者には勝てなかったのである。


 そして今、アラドの力の強さの秘密はそこにある。

 主である魔王への圧倒的な忠誠心が、絶対的な自己犠牲精神を生み出していた。

 今のアラドは言ってしまえば諸刃の剣。

 ただひたすらに勇者との闘いに集中している。

 その結果、これから先の未来でアラドに襲ってくる代償のことなど、アラドはどうでも良かった。

 今現在、主である魔王に降りかかる火の粉を払えるのであれば、アラドは自らの命でさえも差し出す気でいた。


 そして狂気とも思えるその忠誠心と自己犠牲の精神は、着実に勇者を追い詰めていった。

 アラドは、防戦一方の勇者へ容赦なく拳を振るう。

 既に防ぐことが出来なくなった攻撃の一部が勇者に傷を作り出している。


 そして遂に――。


「……はぁっ……はぁ」


 ————アラドの手が、勇者の胸を貫いた。


 勇者は貫かれた自分の身体を見て、諦めたように目を細める。

 弱弱しくなっていく勇者の身体にアラドもまた力を弱める。


「最後に、聞かせてくれ」

「……なんだ」


 掠れた声で懇願してくる勇者にアラドは静かに応える。

 勇者は数度声にならない声をひゅうひゅうと響かせる。


「どう、して……僕は、負けたんだ……?」


 何とか紡がれた勇者の疑問は、これまで幾度となく正義として戦いに勝利してきた彼だからこその疑問だったのだろう。

 アラドはその問いに対し、幾分か逡巡するような素振りを見せたかと思うと口を開く。


「お前は、お前の後ろについてくる奴らを振り返ったことがあるか?」


 アラドは今頃行われている魔王城での略奪や暴力を思い浮かべる。

 正義を盾にする彼らを止められるものは恐らく絶対的な正義である勇者しかいなかった。

 そして勇者はそれを怠った。


「それがお前の敗因だ」


 アラド自身、どうして今回、勇者が敗北したのかなんて分からない。

 しかし答えを求める勇者にアラドは言わずにはいられなかった。

 静かに告げられたアラドの言葉に勇者は苦笑いを浮かべたかと思うと、その目を閉じた。


「……はぁ、はぁ」


 勇者が倒れ、アラドはようやくその膝を地面に付けた。

 これまでは反撃の可能性を考え気を張っていたが、さすがに身体に負荷をかけすぎた。

 恐らく今後のアラドには何かしらの影響が出てくるだろう。

 その影響が寿命に対してなのか、力に対してなのかはアラドにも分からない。

 もしかしたら両方に影響が出てくるかもしれないのだ。

 だがそれでも今回、勇者を倒すことが出来たのは大きかった。

 それだけでもアラドにとっては御の字の結果だった。


「……アラド」

「ま、魔王様」


 気付けばアラドのすぐ近くに魔王がやってきていた。

 肩で息をしていたアラドは慌ててひざまずこうとするが、魔王はそんなアラドを止める。


「約束した。勇者とは戦わないって」

「……すみません」


 魔王はアラドが勇者との闘いで傷ついたことよりも、自分との約束を破ってまでアラドが無理をしたことに心を痛めていた。

 これまで勇者に自分の部下が何人滅ぼされたか分からない。

 そして今回もアラドが滅ぼされてしまうのではないかと、玉座に座りながら、気が気でなかった。

 勇者に勝つことが出来た、なんてものはただの結果でしかない。

 勝つまでにもアラドが無理をしながら戦っていることなど、魔王は見た瞬間から分かっていた。

 そしてそれが誰のためなのかということも分からないはずがなかった。


「二度と自分を犠牲にしないで」

「……分かりました」


 魔王は、自分のために誰かが傷ついてほしくなかった。

 そしてそれ以上に、アラドに傷ついてほしくなかった。

 アラドには自己犠牲の精神を捨て、自分のことだけを考えろと、これまでにも何度も口を酸っぱくして言っている。

 それが魔族というものだからと何度も説得したが、しかしアラドは今回もまた自分を犠牲にした。

 だから魔王はもうアラドに遠慮しない。

 二度と自分を犠牲にするなと、魔王として命令しているのだ。

 アラドは僅かな間の後、頷く。


「それと、守ってくれてありがと」


 何はともあれ、勇者を倒したのだ。

 ひとまずの危機は脱したのである。

 勇者が倒されたことは恐らくすぐに世界中へ広まるだろう。

 そうすれば魔族領を侵しにきた人々も魔王の恐怖を思い出し、自分の領地へと帰っていくはずだ。

 正義の象徴である勇者が死んだということはつまりそういうことなのだ。


「勿体なきお言葉です」


 アラドは相変わらず無表情な魔王の言葉にこうべを垂れた。


 数刻後、アラドの予想は的中する。

 勇者の死の情報が広がっていき、魔族領から撤退し始めたのである。

 数日後、勇者と共にやってきた彼らは完全に魔族領からいなくなった。





 魔族領が再びの平穏を手に入れ、数日が経った。

 今はとうに陽も沈み、月が空の頂に陣取る夜更け。

 魔王城から見える城下町も明かりは一切ない。


「こんな時間に一体どうしたのかしら」


 当たり前のように誰もいない廊下を、魔王は一人歩いていた。

 というのも魔王の私室にアラドからの呼び出しの手紙が置かれていたのだ。

 こんな時間に、しかも魔王を呼び出すとは何か大事な話なのだろうことは容易に想像できる。

 それでいて直接ではなく手紙を寄越すあたり、恐らく言い難い話なのかもしれない。


「ついにアラドが私の美貌にめろめろに……ないな」


 魔王は自分で言った冗談を自分で否定する。

 アラドにとって自分は主。

 それ以上でもなければそれ以下でもない。

 身を挺して勇者と戦ってくれたりはしているが、それは単にアラドに自己保身の精神がなく、自己犠牲の精神を持っているからである。

 別に魔王が魔王でなくともアラドには関係ないのだ。


「でも本当何の話だろ」


 魔王がそんなことを考えていると、アラドの私室についた。

 こんな時間に異性の部屋を訪れるというのはどうかとも思うが、魔王はアラドならば別に構わないと思っていたので、特に躊躇うことなく部屋の扉を叩く。

 すぐに部屋の中から「どうぞ」とアラドの声が聞こえ、魔王はアラドの部屋へ入った。


「す、すみません。こんな時間に」

「ん、大丈夫」


 アラドは部屋の中へ入ってきた魔王を見て、アラドは驚きを隠せない。

 魔王は先日の威厳ある魔王らしい恰好ではなく、年相応の可愛らしい部屋着に身を包んでいたのである。

 快眠性を重視してか、魔王の部屋着はところどころ露出が多い。

 これから部屋で二人きりというのに何とも不用心な、とアラドは思わずこめかみを押さえそうになるのを堪えた。


「それで話っていうのは?」


 魔王は早速、用件を尋ねる。

 無表情でアラドを急かす魔王は普段の魔王そのまま。

 そんな魔王を前に、アラドはこれからすることを考えて目の奥が熱くなるのを感じた。


「……魔王様」

「っ……?」


 アラドは愛おしそうに目を細め、魔王の頬に手を伸ばす。

 アラドならば構わないと思っていた魔王だったが、現実にそんなことが起こるとは思ってもいなかったために身を固くしてしまう。

 確かに頬に感じるアラドの体温。

 自分の物とは違う大きな掌に、魔王は目を閉じた。


「…………」


 二人の間を支配する沈黙。

 しかし魔王は、アラドの気配が徐々に自分に近づいてきていることを確かに感じていた。

 そしてアラドの息が自分の顔で感じれるようになった時、聞こえてきた。


「……ごめん、ソフィア」


 これまで決して呼んでくれることのなかった自分の名を、苦しそうに呟くアラドの声が。

 そしてその直後、額に何か柔らかいものが触れた感触を最後に、魔王は意識を失った。




「…………また約束を破ってしまうな」


 部屋には魔王の部下であり最上級魔族のアラド、そしてソファーに横にされた魔王がいた。

 アラドは無表情に眠る自分の主を見ながら呟く。


『二度と自分を犠牲にしないで』


 抑揚のない声で言われた言葉を思い出す。

 その言葉にどんな感情が含まれているのかアラドには分からない。

 約束を破ったことへの怒りか、それとも部下が傷つくことへの心配か。 

 だがそんなこと関係なしに、こんな約束をさせる魔王が果たして過去にいただろうか。

 魔王ならもっと「自分を犠牲にしろ」とか言うのが普通じゃないのだろうか。

 もしアラドの主がそういう魔王であれば、アラドは迷わずに、勇者と戦う前に逃げていた。

 アラドが命を賭して戦ったのは、何としても目の前で眠る少女を護りたかったからだ。


(こんなに心の優しい少女を死なせていいわけがない)


 そう思ったからこその、正義への抵抗だったのだ。

 その結果、アラドは勇者を倒し、危機は去った。

 魔族領からも敵はいなくなり、これから復興が始まろうとしている。

 魔族は危機を脱したのだ。

 しかしアラドはそれが一時の平穏であることが分かっていた。


 勇者は死んだ。

 つまり正義が滅んだということに他ならない。

 だがアラドの目の前で眠る少女もまた魔王だ。

 魔王は悪。

 悪がいるということは正義もまた存在しているということと同義なのだ。

 つまり魔王が存在している限り、勇者も存在する。

 勇者が死んだのであればまた別の勇者が生まれるのだ。

 それが世界の理であることをアラドは理解していた。


 そして悪はいつか正義に滅ぼされる。

 アラドの目の前で眠る少女が魔王である限り、正義はいつだって彼女の命を狙うだろう。

 魔王が魔王であるという事実がある限り、それは絶対的な世界の理として作用するのだ。


 それならいっそ魔王を魔王でなくしてしまえばいいのではないだろうか。

 アラドは勇者を倒してからの数日、それだけをずっと考え続けていた。

 もし魔王が悪で、勇者という正義に滅ぼされるのなら、目の前の少女をいっそ正義にしてしまえばいい。


 そして今日、その計画の第一段階を決行したのだ。

 アラドは魔王を呼び出し、隙を見て、記憶を改竄した。

 魔王程の実力があれば普通に考えてもそんなことは出来ないのだが、アラドだからこその油断が魔王には確かにあった。


 アラドの目の前で眠る少女は人間たちの都市の近くで目を覚ます。

 もちろん魔族であることがバレぬように魔族の特徴を失くした状態で。

 そして目を覚ました少女は魔族への憎悪を抱くことだろう。

 魔族たちに村を襲われ、家族を殺されたと思い込んでいる彼女は復讐の鬼となるはずだ。

 本当は魔王なのだから実力は相当なもの。

 周囲の者たちから勇者と称されるのも時間の問題だろう。

 魔王の顔を知る最上級魔族たちは先の戦いで散り散りになっているので、魔王の身がバレる心配は限りなく小さくて済む。

 

(万が一は俺が対処すればそれでいい) 


 勇者になる魔王の代わりはアラドが担うほかない。

 これに関しては他に方法が思いつかなかったのだ。

 新しく魔王になるアラドは間違いなく世界の敵として認知される。

 だがそれでいい。

 自分の身一つで、心の優しい少女が一人助けられるのであれば、アラドはそれで十分だった。


 自己犠牲。

 少女はアラドの中にその精神が根付いていると言った。

 確かにそれは間違いではないのかもしれない。

 だがそれは決して誰に対してでも発動するわけじゃない。

 たった一人の少女が。

 たった一人の主が危機に晒された時にだけ、アラドは自分を捨て駒にするのだ。


 たとえ世界が敵に回っても、アラドは偽りの魔王として君臨し続ける。

 そしてそれは命を賭してまで守りたいと願った少女が、偽りの魔王に剣を突き立て、本物の勇者正義になるまで終わらない。


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