一分前。

久佐馬野景

 昔話をしましょう。

 こんな老人の昔話などというと、どうせつまらない世迷言だとお思いでしょうが、どうかお付き合いください。

 私が学生の時分でした。私には特に親しい二人の友人がおりまして、AとBとしましょうか――とかく、その二人と他愛なく遊ぶことが何より楽しかったのです。

 ある日、二人とグラウンドで野球ごっこをしていた時です。ごっこというのは、九人対九人で試合をするわけではなく、ピッチャーとバッター、外野が一人という三人構成で遊んでいたからです。

 私がバッターで、Aがピッチャーでした。私がさあ打ってやるぞと構えていると、Aは力加減を間違えたのかすっぽ抜けたのか、私の頭めがけて球を投げてきたのです。やってしまったという、大層慌てたAの表情が、今でも目に焼き付いています。

 私はわっと驚いて、思い切り目を瞑って伏せようとしました。

 身を強張らせていると、おーい早く構えろよ――と、呑気なAの声が聞こえます。

 なんという奴だと私は憤然としました。あんな危険球を放っておいて、何事もなかったかのように声をかけてくるとは。

 そこで漸く目を開けた私は、おやと首を傾げます。

 Aがグローブの中に球を持っているのです。

 先程申しました通り、この野球ごっこは三人でやっているので、キャッチャーはいないのです。バッターの後ろの壁にぶつけた球を、いちいち拾ってはまた投げるという面倒な手順が必要でありました。

 ところがAもBも、危険球を投げたあと、球を拾いにきた気配はありませんでした。私も目を瞑っていたので、Aに球を投げ返す暇などありません。

 もしやと思い、私は先程と同じように構えますと、やはりというべきか、Aは私の頭めがけて球を投げてきたのです。

 私はAが球を放る瞬間に大きくかわして、ことなきを得ました。

 Aが平謝りで駆け寄ってきます。危ないな、とBもAを咎めに走ってきます。

 とうの私は上の空で、気にせず続けようと言いました。

 Aが投げた球を見逃して、目を潰れそうなほど強く瞑ります。すると、Aが球を投げる前に、巻き戻っているのです。

 そうなればもうこっちのものです。Aが投げるコースもなにもかもわかっているのですから、狙い打ち放題です。終わる頃にはAはすっかり意気消沈して、私は上機嫌でした。

 色々なところで目を瞑れそうなほど強く瞑りまして、わかったことは、私は一分前に時間を戻せるということでした。

 好きな時間に行けるわけでもなく、ただその時点から一分前。それが決まりでした。そして一度時間を戻すと、一分経たなければ再び時間を戻すことができないのでした。

 AとBと私は、完全な友情で結ばれていると私は信じていました。ところがそれは大きな間違いだったのです。

 ある日の帰り道、私はたまたま何か雑事を押し付けられて、AとBと別々に帰ることになりました。

 真っ直ぐな道がありました。その先には踏み切りがあり、遮断機が下りています。その前に、AとBが立っていました。

 追い付いたと嬉しくなって、私は二人に駆け寄ろうとします。

 Bが、えいやっとばかりにAの背中を押しました。Aは大きく突き飛ばされ、線路の中に飛び込みます。ちょうど電車がきて、Aの身体を肉に変えていきます。

 私は呆然とその場に立ち尽くしました。そして気付いたのです。まだ間に合うかもしれないと。

 潰れそうなほど強く目を瞑ります。すると私は一分前に戻ることができるのです。

 私は絶叫しながら走り出しました。ところがこの真っ直ぐな道の一番端のほうにいた私が、全力で叫び全力で走っても、Aの許までたどり着くことはできませんでした。

 Aは再び電車に挽かれます。

 私はBを問い詰めることもせず、すぐに目を瞑ります。戻れ、戻れと叫びながら。それでも一分前に戻ることができるのは、一分間経ったあとなのです。気が狂いそうになるほど長く目を瞑り、やっと一分前に戻れた私は、今度はBにやめろと絶叫しながら駆け出します。ですがまた同じことが繰り返されました。恐らくBは何を言われようともやめる気がなかったのでしょう。

 何度も、何度も一分前に戻って、どうにかAを助けようとしました。走り、叫び、Aの携帯に電話をし、Bの携帯に電話をし、助けを呼び、そのまま一分、何か手はないかとその場で考えることさえありました。そしてそのどれもが無駄に終わりました。

 それでも私は諦めることができませんでした。繰り返す内、最初のあの時、何故もっと早く目を瞑らなかったのかと激しく自分を責めました。

 その内、私の人生の全てはその一分間になりました。もはや数えることすら忘れていた頃、髪も髭も爪も、伸び放題になっていることに気付きました。

 一分前に戻るのはその時の私であって、私自身が一分前の状態に戻るわけではなかったのです。

 そこであっと気付いたのです。Aが死ぬところを見ても、全く心が動かされなくなっていることに。

 何か助ける可能性があるはずだと信じ、何度も一分前に戻り続けた私は、もはや見る影もなくなっていました。

 Aを助けるために、文字通り自分の時間を無駄にし続けていたのです。

 そこまでして助けたいほどの相手だったのか? 私はもうそんな境地に達していました。

 私は再び一分前に戻ると、その場で立ち尽くし、一分間が経ったあとも、目を瞑ることなくことのなりゆきを遠目から見ていました。時間が正常に流れていくのを見て、未来を失っていたのだと気付きました。

 そのまま、目撃者もないまま逃げ出したBのあとを追いました。

 そうです。

 だから私はあなたの目の前にいるのです。

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一分前。 久佐馬野景 @nokagekusaba

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