サラリーマン潮崎さん
塩中 吉里
サラリーマン潮崎さん
社員食堂から戻ってすぐに声をかけられた。
潮崎さんちょっと。
先輩社員の今邨さんから呼ばれて、居室の横に併設されている会議室に向かう。
会議室の中に入ってすぐ、今邨さんは、顔をしかめて腰のケースから内線を抜いた。会社支給の旧式ピッチの青色LEDが点滅している。着信だ。
「はい、キサンの今邨……ええ。はい、いまから打ち合わせなので……はい。はい、折り返し報告します」
ほとんど相手の返事も待っていないような様子で通話が切られる。内線をケースに戻し終えて、今邨さんが腕を組む。口元は厳しい。わたしは、これからされる話が何なのか、もう分かっていた。
「不具合込みのメディアはもう製造工程に回ってるらしい」
氷でも放りこまれたみたいに胃が痛む。
「出てしまったものは仕方ないとして、工程が稼働を始めるのが月曜。いつまでに修正版を出せばいいか、分かる?」
「……今日が……金曜、ですから……」
考える時間を作るために当たり前の事実を口にしたところで、今邨さんの片眉が上がった。お前の時間稼ぎはみえみえなんだと言われた気がした。
「日曜までに作れば、なんとか、間に合うんじゃないでしょうか」
うつむいたまま急いで続きを答える。
これが正解のはず。
そう思っていたのに。
「あのさ……」今邨さんの声のトーンが下がる。「工場は群馬にある。ここは静岡。そりゃ日曜の夜に出しさえすれば、こっちの“日曜には出しました”っていうデッドラインは守れるけど、向こうはどうなるの。週頭からメディア到着の待ちぼうけか? 郵送の時間があるでしょ。工場の納品ってのはモノを受け取るまでだから」
たたみかけるような早口で言うのは、彼が苛ついているということなのだろう。そして、今邨さんからここまではっきりと苛立ちをぶつけられたのは、じつは初めてではない。今月でもう三回目だ。
馬鹿を見るような目で、今邨さんは、わたしを見ている。その顔を、できるだけ直視しないようにする。
「すみません」
本当は、言いたいこともあった。
設計者は設計書を作るのが役割だ。工場がどこにあるかなんて、今まで気にかけたこともなかった。製造は担当外のことだから、わたしが分かるわけない。……とは、とても言えるような空気ではなかったから、わたしは反論しなかった。
「では、土曜の夜まででしょうか。土曜の夜までに作って、日曜の朝イチで出せば」
「評価の工数は?」
あっ。
失念していた、という内心が、そのまま顔に出ていたのだろう。今邨さんの指摘は、けちのつけようがないくらいの正論だ。わたしが見落としていた事実の重大さを噛みしめるのを、冷静そのものの態度で、ただ待っている。緊急の場合なのだから、省いても良いのでは? という思考が全くなかったかといえば、嘘になる。それを見透かされていたのかもしれない。手のひらにいやな汗がにじんでくる。
「土曜の昼までにメディアを焼いて、午後から評価。動作確認が取れたら、日曜の朝に速達で出す。エビデンスは週明けに品証に声をかけて手分けして作る。それしかない。分かった?」
分かっていたが、わたしが答えるよりも、今邨さんの先回りのほうが早かった。答えるのが遅かったから、また馬鹿の上塗りをしたと思われているだろう。取り返すつもりで、わたしはすぐに返事をした。
「分かりました」
「分かったんだ」またなにかしくじってしまった。今邨さんの言葉は容赦がなかった。「じゃあ分かったとして、できるの?」
できるか?
言われてから気がついた。今まで話していた内容は、方針の、計画の話だ。「こうすれば良い」という話。じゃあ「誰がそうする」のか。修正版作成の実作業……設計を間違えたのはわたしだ。もちろん、わたしが修正するのが、一番早いだろう。自分の埋めた不具合だから、自分が一番よく分かっている。だが、そうすると、休日も会社に出なくてはならない。経費削減の一環で、入社年度の若い社員の時間外労働は、原則禁止だ。入社時から二年目の今まで、耳にタコができるくらいに聞かされ続けている。わたしは入社からここまで、大きなトラブルに見舞われることがなかった。だからいままで休日出勤した経験がない。
休日出勤。なにか手続きが必要だった気がする。勤怠の事務方と課長に許可を取らないといけないはずだ。そこで課長に、休日出勤の許可を出さないと言われたら、どうすればいいのか。代役を自分で探して立てなければならないのだろうかか。そんなこと、自分にできるのか……。
「できるの、できないの」
わたしが黙りこんでいるから、今邨さんは焦れたようだ。わたしが今まで休日出勤をしたことがあるかどうかなんて、今邨さんは知らないだろうし、気にしているはずがないのだ。
だけど、わたしは、したことがないのに。
ここが居室じゃなくて助かった、と思った。会議室で良かった。こんなふうに怒られているところを、同僚に見られたくなかった。いや、怒られているわけではないのだろう。手を打てと言われているだけだ。外部に流出してしまった、不具合が入った製品データが焼かれているDVDをどうにかしろと言われている。再来月には臨床試験が始まる新製品だ。そのために今月から工場で製造工程を通して、製品にデータをインストールして、チューニングを加えて、臨床で購入を確約している施設に向けた二十台を、売れる状態にもっていかなければならない。どこか他人事のように考える。
チッ、と対面で舌打ちが聞こえた。今邨さんだ。「できないなら他に……」
「できなくはないです」
またいやな言い方になってしまった。
「どういうこと」
「時間外労働禁止の措置がなければ、できます」
「つまり、できるの?」
「それは、課長に聞いてみないと、わからないです」
ため息をつかれた。
「そういうときは、課長には許可を求めに行くんじゃない。これこれこういう理由があるので、責任を持って休出しますと報告する。あの人はあれで融通がきくから」
融通がきく? そんなこと知らない。融通がきくなら、会社の規定は何のためにあるのだろう。残業禁止だとかいう徹底はなんのために? そう聞いてみたかった。聞いてみたかったが、同時に、また馬鹿にされるのだろうということも分かっていたので、瞬きをたくさんしていまの話を深く考えないようにした。そういうもの。そういうものなんだ。わたしが間違っていただけ。しょうがないことなんだ……。
「はい、分かりました、勤怠と課長に相談してみます」と言って、今邨さんが頷くのを確認して、わたしは会議室のドアを開けた。
今邨さんはドーモとだけ言って自席に戻って行った。
わたしは、三十秒間だけ、この会議室をわたし自身のために使うことに決めた。息を吸って吐く。しょうがない。そういうもの。瞬きをする。息をつく。ひとつ賢くなったんじゃない。よかったね。…………。
顔をあげて、会議室を出て、デスクに戻る。スクリーンセーバーがかかったディスプレイをにらみつけて、いつもより乱暴にマウスを動かす。
少し泣きそうだと思った。
本当は、日曜がダメだった時点でかなり苦しいことは分かっていた。土曜の昼がデッドライン? なぜ、できます、などと言ってしまったのだろう。
休出した土曜日、わたしは初めて終電を逃した。
修正した箇所の評価が終わろうかというタイミングで、別の不具合が見つかったのだ。同じく休出していた今邨さんに状況を報告すると、舌打ちが返ってきた。
「不具合が見つかったときに取る施策はいくつかある。直す、先送りにする、運用回避する……が、これは駄目だね。いままで見つからなかったのが不思議なレベルの不具合だ。直すしかない」
「誰が直すんですか」
今邨さんはわたしを指している。
今邨さんは……と言いかけてやめた。メディア出し直しの承認作業と各方面への合意取りは、さすがにわたしでは代行できない。今邨さんの仕事は今邨さんしかできなくて、わたしの仕事は誰だってできるのだ。
「三十分で修正方針の設計出してくれる。レビューは俺がするから」
わたしが設計した場所ではなかったが、ノーとは言えなかった。見ようと思えば見れなくもない箇所であったというのもあるが、なにより、とても逆らえる雰囲気ではなかった。わたしにできた抵抗は、せいぜい、ソースコードにふらっと現れた〈 * @date 20XX/XX/XX T.TOKINO 〉という文字列を睨むことくらいだった。
自分の席に戻りしな、居室の壁時計を確認すると、十八時を少し過ぎたところだった。もともと休日なのだから、居室内に人はほとんどいない。加えて、十七時を回った辺りから、面倒な最終退出手続きを避ける目的もあるのか、みなぽつぽつと帰りだす。
そうだ、誰だって休日に遅くまで会社にいたいはずがない。
少し離れた島のデスクに座っている今邨さんだって、今日は本当は出なくても良かったはずだとか、いなくなった設計リーダーの代役として余所の部署から引っ張られてきたばかりなのにトラブル続きだとか、それが誰のせいなのかとか、そういう余計なことは考えず、設計をしなければならない。
修正箇所の特定。状態遷移したときにフラグを立てる……フラグはこう引き継ぐ……引き継いだフラグはこのイベントで参照して、……本当に? ここで更新してここで初期化する。異常系のタイミングは? ああ、抜けてる。クロスは上でガードしているから、下はログを吐くだけで良い? でも万一が……デフォルトを突っ込んで動かす……やっぱり駄目だ。ユーザーに問題があるから、エラー関数を仕込んでフェータルに落とす。できた? 図に書いてもう一度……。
……大丈夫。
できた。
ディスプレイにかじりついていた姿勢から顔をあげる。この時点で既に十九時だった。すぐにレビューに入って、その修正で十九時半。製造からメディアを焼くまでで二十二時に。いざ評価を終えた時にはとうに二十四時を過ぎており、評価実験室から戻ってくると、居室にはもう今邨さんしかいなかった。
静かな居室内に、今邨さんがキーボードをぱちぱち打っている音だけが聞こえている。
「今邨さん」キーボードの音が止まる。疲れた顔がこっちを向いた。「評価終わりました」
「なんか出た?」
「出ませんでした」
「そう。まあ、そのためのレビューだからね。お疲れさま。週明けでいいから、評価結果シートにハンコ押して机に出しといて」
「はい」
「さすがに俺たちが最後か。居室閉めるから。あっちの空調切って、帰る準備して」
「はい」
「メディアは俺が明日の朝イチに送るから、潮崎さんは出なくていいよ」
「はい」
実際、このときはもはやハイかイイエかオウム返しで足るような受け答えしかできない状態だったので、今邨さんの矢継ぎ早の指示も気にならなかった。
最終退室の手続きをして、居室を施錠して、守衛さんに鍵を渡す。
言われるままに動いていただけだったので、帰りの足がないと気がついたのが、守衛さんに挨拶して会社の門を出たところだった。終電はもう一時間以上前に終ってしまっている。タクシーを呼ばなければ……と、考えたところで、財布の中身が気になった。今朝、出がけに昼食をコンビニで買ったとき、小銭しか入っていなかった気がする。この時間帯ならば、タクシーは当然、深夜料金だ。会社から家までの正確な距離を知っているわけではないが、私鉄の準急で三駅かかる距離が、千円二千円の額で済むものではないことくらいは、なんとなくの想像がついた。
お金、おろさないと。
最寄りのコンビニは、と反射的に考えたところで、今の時間が二十四時をとうに回っていることを、わたしはもう一度思い出すはめになった。今は深夜だ。週末の深夜。駅前にあるATMは取引停止の時間帯だ。
守衛門の街灯が頭上を照らしている。
小さな羽虫が電灯にたかっている。
五月の風が生ぬるい。
心がけいれんしているような気がした。麻痺のような、笑いのような、奇妙な感情が湧いてくる。そういうものなんだ、ともう一度言い聞かせる。なんでこんなことを何度も反芻しなくてはならないのだろう。でも、そういうものなんだ。
今日一日頑張ったことへの現実の返礼がこれなのだ。
歩いて帰ろう。
明日は……今日は休みなのだから、帰れないということはないだろうと決めて、わたしは人通りのない夜の道を眺めた。人もいなければ、車も通りがからない。会社が周囲の田畑ごと土地を買い上げているものだから、この会社の周りは、電灯と自販機と水田以外は、本当にしばらく何もない道ばかりが続いている。
「ちょっと、潮崎さん」
一歩を踏み出す前に、今邨さんの声がした。わたしが居室の戸締りをしている間に、今邨さんは評価実験室の戸締りをしていた。評価実験室のほうが守衛門から遠い場所にあるから、わたしのほうが先に帰り支度が済んだ。
今邨さんは、ちょうどいま鍵を返しにきたところなのだろう。作業着から私服に着替えているので、いつもと違う人に見える。
「潮崎さんの家ってこの近く?」
「近くではないです」
「今日は車?」
「車は持ってないです」
「実家暮らしだっけ」
「一人暮らしです」
「そう。潮崎さんって彼氏いるの」
突然の変調にぎょっとして、とっさに言葉を返すことができなかった。反応を、見越していたのかもしれない。街灯の下の今邨さんは平静なものだった。
「あー、勘違いしないでね。帰りは危ないから、誰かいるなら車で迎えにきてもらうようにってことだから」
わたしはというと、今邨さんの年齢が二十九で引き算をすると六だとかを考えていた。死んでしまいたい。
「ふーん、いないの。じゃあタクシーか。タクシーは領収書取っておくように」
こちらがなにかを答える前に、今邨さんは勝手に納得して、駐車場方向に去っていった。
歩いて帰っていると、途中から、腹の底が痛くなってきた。
家は遠かった。
歩いている間じゅう、腹の中で黒い炎が燃えているような心地がした。
今邨さんの車に乗せてくださいとなぜ言わなかったのか、考えながら、遠い道を歩いた。あの人は明日も……今日も出ると言っていた。そんなことはどうでもいい。せめて、お金を貸してくださいと言えばよかった。いや、言わなくて正解だった。正解だったって、なにが。わたしはわたしが正しい選択をしたことを証明しようと、うつむき加減で暗い道を速足で歩き続けた。
なにもかもがうまくいっていない気がする。でも、働くっていうのは、そういうものなんだ。わたしがしっかりしていれば、こんなに足が痛くなるまで歩かなくてすんだんだ。もう二度とこんなことにならないように、気を付けるしかないんだ……。
本当に?
アパートに帰り着いたとき、既に山の端は白みはじめていた。腕時計をちらっと確認すると、四時間半かけて歩いていたらしいことがわかった。
階段をのぼり、鍵を開けて、玄関に倒れこむように靴を脱ぎ、歩きながら脱衣して、とりあえずシャワーを浴びる。お腹の中を燃やしている炎を消火するつもりでザアザアと勢いよく洗い流す。途中でタオルも着替えも用意していないことに気が付いたけれど、投げやりな気分にはちょうどよかった。思いっきり部屋を汚してしまいたい気分だった。
湯上りの髪も乾かさず、そのまま泥のように眠り、目が覚めたのは正午過ぎだった。髪の毛がひどいことになっていたけれど、想定通りなので気にしない。気になるのは、もやもやしたいらだちのようなお腹の痛みがおさまっていないことだった。いよいよたった一日の休日を諦めて病院に行こうとしたが、わたしは結局、行き先を変更した。
水族館だ。
アパートの最寄り駅からずっと遠い駅にあるけれど、わたしはあの水族館が好きだった。そこよりももっとずっと遠い故郷の町にあったものと似ていたから。
水族館に着いたとき客はまばらだった。日曜日の昼下がりだから、だろうか。手をつないで生睦まじい様子のカップルと、親子連れが、ちらほらいる程度。彼らから離れて、わたしは腹に手をあてながら、水の中で息をする生き物たちをながめて回った。歩いている間じゅう、腹の中で黒い炎が燃えているような心地がした。
わたしは小さなシャチのキーホルダーを買って帰った。
火には水をと思っていた。
週明けから、職場での使われ方が変わっていることに気がついた。
休日出勤したときに、ついでに不具合を潰したことが、わたしの評価を上げているらしかった。いままでは自分の力量ではむりだとされていた仕事が、回ってくる。
だが実態として、たった一度の休日出勤をしたからといって、仕事のスキルが上がっているわけがない。わたしが使える人間になったという見方は表向きの建前だ。本音はというと、ようやく自分たちの仕事を押し付ける先が見つかったということなのだ。それくらいは分かるようになっていた。
いやな見方だ。
この会社は常に一〇〇%以上の仕事に追われている。
だが、経費削減という名目で、残業は減らせと言う。
だからわたしは課長に怒られる。
「潮崎さん。今月の残業時間、二十時間越えてるじゃない。原則ゼロって言ってるよね。どうしたの」
「十二時間は、先週の不具合対応のものです」
「あぁ、あれ。なるほど。あれはしょうがないけど、代休取ったら減るでしょ。なんで代休取ってないの?」椅子の上でくるくる回りながら課長が言う。「あと、他の残業はなに」
「あー、石尾さん、それ構造見直しの工数ですよ。キイチからおカネ貰ってやってるディスコン対応の」
いきなり今邨さんが割り込んできた。
課長がメガネを直して、傍を通りかかった体の今邨さんに椅子ごと向き直る。
「機器開発第一から? いくら?」
「一人月ぶんどってます」
「へえ? そりゃまたずいぶん……」
「ぼったくってません。あんなゴミみてーな母体預けてくるならこっちもそれなりに貰うモン貰わないと割に合わないですよ。ねえ潮崎さん」
はあ、と曖昧に頷いたが、今週に入ってから突然押しつけられた仕事の意味を知ったのは、そのときが初めてだった。よその部署が抱えきれなくなった仕事を引き取って、その分の代金をもらっていたらしい。
「ふーん。今邨くん、他にも内部発注のネタ持ってる?」
「まあ、いくつか。まだ確定じゃないですけどね。今期中に、三百くらいの案件と、細かい百くらいのが取れそうです」
「なるほど。それで潮崎さんを養えるわけね」
「そういうことですね。だから今月はだいたい四十時間まではセーフです」
それで話はまとまったらしかった。課長はデスクの書類に視線を落とす。もう戻っていいよという意味なのだろう。
「潮崎さん、ちょっといい」
自分の席に戻ろうとしたら、今邨さんに呼ばれた。あっち、と言われて会議室についていく。中に入ると、椅子を引かれて、対面に座るよう指示された。
「さっきの話、意味分かった? 俺と石尾さんが話してたやつ」
内部発注の話をしていることは、なんとなく分かった。
「よく分かりませんでした」
「そう。仕事振ったときも、さっきの話も、にこにこしながら聞いてるからてっきり理解しているのかと思ってたけど」
突然の通り魔にあったような気分だった。いまさらながら、わたしはこれが説教部屋なのだと気がついた。背中が緊張の汗で濡れた。
「まずね、」
と言われて、怒られる内容が一つでないと知った。
「基本中の基本なんだけど、残業時間の管理は、必ず上長と意識を合わせて。休出も含めて、俺が仕事を振ったとき、残業は石尾さんに確認するよう言ったよね?」
「休日出勤の件は、金曜日に伝えました……」
「それで、以降の残業もオッケーだと思ったわけだ」
頷くとため息が返ってきた。
「今後は気をつけて。本当は今日俺が言った内容は、潮崎さんが石尾さんに伝えるべきことだから」
「はい。すみません」
気分が悪くなってきた。早くこの会議室から出たい。
「別に叱ってるわけじゃないから」
今邨さんはそう言うが、とてもそうは思えない。
「それから、キイチから一人月稼いでるって意味が分かってないみたいだったけど」
「すみません」
先に謝ると、今邨さんが片眉を上げた。今邨さんはよくこれをする。外国人みたいな仕草だ。昔、留学でもしていたのかもしれないが、そんなことは今この場ではどうでもいい。たんなる思考の現実逃避だ。
「潮崎さん、顔色悪いよ。俺、叱ってないって言ったよね」
とてもそうは思えないが、そう言っていた。
「あれは機器開発第一から、潮崎さんが、潮崎さんの力で八十九万円分の仕事を請け負って、うちの機器開発第三の利益に貢献してるって意味だから」
つまりどういうことなのだろう。
「土曜日、潮崎さんの設計をレビューしたでしょ。あれを見て、潮崎さんならいまのプロジェクトをやりつつキイチのお荷物まで見れそうだと思ったんだよね」
仕事が増えたのは、今邨さんのせいらしい。
「二年目でもう自分の食いぶちを稼いでるってことだよ。すごいことだから、もっと自信をもっていい」
今邨さんが穏やかな声で言う。わたしは耳をふさいでしまいたかった。卑怯なやり方だと思った。だから他人事みたいに「そうですか」とだけ返した。
「潮崎さんはよく頑張ってるよ」
できれば自分が何の仕事をしているのか気にかけてくれたり、もう少し周りと積極的にコミュニケーションをとれるようになったりするともっと良いけど、そこまで求めるのはまだ早いかな。そう続けた今邨さんの話の後半は、独り言のようだった。
わざわざ聞こえるように言うから、いやな人だと思った。
ほんの少しでも嬉しいと思ってしまった自分を殴りつけたい。
その日の帰り道、寝過してしまった。
わたしが目を開けると、窓の向こうに、降りるべき駅名を掲げた看板が流れてゆくところだった。あっ。と思った時には、すでに電車は加速を始めていた。とりあえず立ち上がってみたが、もはやなんの意味もない。また元の座席に座りなおす。これが朝の通勤でなくて助かった、と思うことにする。
電車の振動をゆりかご代わりに眠る人はどれくらいの数いるのだろう。鋼鉄の駆動装置つきの巨大な箱を母親代わりに生きている人のことを、わたしは考えた。短いトンネルに入って、風がうなり声をあげる。
次の駅で降りて、反対側のホームへまわって、電車を待つ。
あーあ。
ばかなことをしたなあ。
あーあ。
時刻は十九時を回ろうとしていた。ここはまあまあの田舎だから、一本逃してしまうと、次の電車はなかなか来ない。一時間に多くて四本。待つ時間が長いと、どうしても考えこむ時間が増えてしまう。歩いて帰ろうかと一瞬だけ考える。
でも、わたしは、それがどんな徒労か既に分かっている身なのだ。
わざわざもう一度つらさを確かめる理由はない。それでも、ただ立って待つことは耐えがたかった。嫌なことばかりを考える。
体が勝手に小さく揺れはじめる。
鞄につけたシャチのキーホルダーも揺れる。
腹の中で黒い炎が燃えているような心地がした。
サラリーマン潮崎さん 塩中 吉里 @shionaka
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます